第60話 クリスティアーネ(2) Christiane Vulpius

文字数 1,690文字

 例えば、恋愛だ。自分のことを好きな人が二人いるとしよう。その場合、自分たちの世界の常識では、片方と付き合うために、もう片方をフらなければならない。
 女性はよく、一人の人しか好きにならないという。だが、男性はどうだろう。綺麗事を言わなければ、ほとんどの人は、二人ともを好きになるのではないだろうか。けれども、二人ともと付き合うと宣言すると、両方から嫌われる。結果として、妥協案として、どちらか一人を選択しているのではないか。そして、選択するときの基準としては、二人を比較して、より良い方と思っているのだろう。
 だが、考えようによっては、これは失礼な話だ。それぞれに個性があり、それぞれが魅力的であるのにも関わらず、両者を比較して、より自分にとって都合がいい相手を選んでいるのだから。大事な相手を比較するなんて残酷だ。それでも、それがこの世界での美徳である。
 自分で選べないのなら、この美徳に従うのも良い。だが、美徳に従った人間は、全員、フった相手のことを、しっかりと考えているのだろうか。
 フられれば、相手はすごく悲しむだろう。胸が張り裂けもするだろう。その間にも、自分は違う相手と付き合い、幸せに生きている。それが大多数だ。つまり人間は、ほとんどが、他人の気持ちを踏み躙ることができる動物に他ならない。ということは、自分にも、その本能が眠っているのだろう。
 いくら大事な相手に対してでも、比較して、いらない片方を切り捨てる。それが人間だ。そうだ。心を殺すんだ。クリスティアーネを殺すんだ。死んでしまえば、クリスティアーネも悲しまずに済む。カミーラを選べば、きっと全てがうまくいく。それが人間の生き方だ。
 しかし、いくらそう思っても、心は一向に晴れようとはしない。決断の天秤は片方に揺れ動いたりはしない。頭の中が混乱しすぎているのだ。
 ニーチェは、恋愛の例えは、あまりに抽象的だったと反省した。今、自分がやろうとしている行動はどういうことなのか。もっと、現実に近い例えで考えてみることにした。
 心臓に病気を持った恋人がいる。彼女は意識不明で、このままでは死ぬ。移植手術をしたいが、どこを探しても、代わりになる心臓が見つからない。そんな時、自分の幼馴染の心臓が適合するということが分かった。手術の成功率は百%。その時、自分は、幼馴染の心臓を奪うことができるのか。
 現状を崩さずに、恋人が死ぬ。それが正常だ。幼馴染の将来を奪って、恋人を生かす。それは異常だ。頭の中では理解が済んだ。ニーチェは震える手つきで、カミーラが入っている培養カプセルに触れた。
 自分はもう、彼女のために、六人の錬金術師に手をかけている。後一人を手にかけたところで、もはや、何も変わらないのではないだろうか。カプセルの中にいるカミーラは、冷たく笑みを浮かべているように見える。
 いや。ニーチェは首を振った。彼らは全員、カミーラを攻撃してきた。あれは戦争だ。彼らは単に、戦争による被害者だ。クリスティアーネとは関係ない。
 それに、クリスティアーネは、自分に対して、ずっと、献身的で誠実に接してくれた。最高の友だちだった。うん。やはり、彼女を殺害することは、どう考えても異常だ。カミーラ……。申し訳ないが……。
 カプセルの中を覗くと、カミーラが悲しげな表情を浮かべているように見える。ニーチェは、胸を打たれた。
 いや。彼女の日記に書いてあったことを忘れたか? クリスティアーネは、カミーラ殺害に関連している。だったら、彼女も同罪だ。確かに、友のゲーテもカミーラ討伐に出た。だが、彼は、いつでもカミーラに危害を加えようとはしていなかった。一方、カミーラが毒で倒れているのは、クリスティアーネのFDのせいなのだ。その罪は大きく異なる。
 ニーチェはカミーラを見た。日本には、能面というお面があると本で読んだことがある。目に映る角度によって、悲しい表情を浮かべたり、嬉しい表情を浮かべたりするそうだ。カプセルに入っているカミーラの表情もまた、ニーチェの気持ちを反映するかのように、コロコロと、目まぐるしく変化をし続けていた。
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