14.  N3

文字数 20,210文字

ほとんどできてるとは思うのだが、未完成であることに変わりはない。
ゆくゆくは下の絵の羅列その間にて文章が差し込まれることとなる。
そうすればことの流れがやっと読者にも分かることとなるはずなのだ。

でもね、いまは、当分は、その元気が出ないであろうって思われるんだ。

そんで!、またまたまたまた、未完成にて公開。


たいへん申し訳ありません!。


作者:天野村の坂崇麻呂



No.14、この一幕、この一編については、これは…、これはもう完全に妄想たるものにおいての、その矛盾としての、その最たるものだ。物語において既に語られ述べられてあるその前提が、これでは完璧に、覆ってしまう!。もう、してしまって、あるのだ!。

例えば、

、無秩序であることを、絶対的に嗜好するものとして...その状態を、あくまで

志向する
、つまりは

主体などというものはまったく元々からしてないのだ...そういった至極曖昧にして蒙昧なる存在なのだ!。何々を志向するって云う

こそが、既に、過ち、矛盾だ…。秩序あるものとしての、その有り様、存在、その状態に、徹底的に胸糞悪くして忌避してあるもの、それへの憎悪によって、身悶えしてあることこそが、それにおいての本質、本来性に過ぎない…。

よって、それがどうしたものなのか、いつの頃よりか自らを囲ってある...自身としての存在、それを自覚するにおいての、それのすべて、全エネルギー、全身全霊をもって!、それ(秩序)としてのあらゆるすべてを無効化する...根底から意味なきものにする...完全なる無意味へと、回帰させる...、つまりは現存するあらゆるすべてを蹂躙し尽くす!、冒涜しつくす、の、その限りをもって、ズタズタのメタメタのグチャグチャにすることこそが!……

、唯一の衝動、行動指針、生存方針に、なってる〜…。

語り部としてのこの自分が、やってること、つまりは記述において、矛盾だな〜、おかしかないか〜?って思うことが、いくつか、たくさんでてくる。例えば、一番端的なのが、それとしての存在が、どうして、

在り得るんだ?、成り立ち得てるのか?ってこと…。そこはそれ、作者としての悪知恵を働かしてだね〜、虚としての領界、その袋としての領界に〜、無数無限無際限としての意識が、その断片(達)が、分裂病なるものをキーワードとして、直感されて捉えられて語られてしまってる者共が〜、「ぎゅうぎゅう

!、()()まれて、しまっている...

、その状態なんだ!ってことで、なんとか論理破綻ってやつは免れることはできている。そう、「一なる」を支えているのは、支えてくれているのは、あくまでも、この在らずしてまた在る...、領域限界、領界領域区分、これまでなのだ!。これを構成してあるばかり、いるだけの...、その境界(バウンダリー)を、形作ってある、その場〜でしかない。云わば、宇宙の果てとしての、この概念そのもののことを、云っているまで。

これが、対外的に、自身を、それを、一なるものとして、確立させて、
所在させてくれている。そのことを、可能に、

いるのだ
ならばだ、ことの原因、その理由は、この自分だって、自分によっての、その創造だってこと、に、なるのかも…、なのかもねっ……。

さて本稿においてのその課題は、内荒としてのその存在が、それにとっての本体たるアザトースへと帰還すること、改めて合一化を果たすシーンを表す、表現描写記述することにある。このことの、これをやることの理由は、この一幕において、改めて、そのご本体たるものにおいての肉付けを、読者の皆様に対して更なる情報提供を、しておきたい…できてしまう…できたらいいな〜なのだ…。そういった隠された動機が、確信犯的なる願望が、その目的が、あるからだ…。

ことにおける実際の内容、その展開は、「ポンと」入って、どこか離れてたアメリカ基地にて、また「ポンと」現れるでしかない。でもそのことの結果は、誰かの肉体の中にて、前線復帰を、見事果たしておりましたーてなものに、なってんだ…。ことにおけるその時間とすれば、わずか

足らず...のっ、その時間の、間での、出来事、それでしかなかったんだ。そればかりに過ぎない、出来事でしか、なかった……。

Re: 鏡面世界、鏡面存在。

当事者間においてはそうなってしまう。両者ともに全知であるが最初からの”(しつ)”また”(ことわり)”なのだから...。本質的には両者は同じものだ。同じエネルギーをベースにしている。”(あい)”って呼ばれるものにおいて...。

まったく同じもの、存在ではあるのだが、少し事情が違ってる。片側は本体が自身を転写するをもってその存在が発生した。どこに?。階層世界におけるその末端下部、存在可能性を秘めているまだ不存在としてのエリアに。ここにおかしな現象が伴ってきてしまう。同値であるが故にそれらは平行的存在としてある。同値であるが故に互いを鏡面を挟んで見つめ合うの状態になってる。だがだ、しかしだ、片側は、遥か彼方、下方の、

所在し、また片方は最上位にて、至高、最上位なる存在として君臨してるのだ。……だから、意識されておかれるべきは、ここには十字架構造が、埋め込まれてしまってるってことなんだ……。

非在としての領域、このことこそが先に述べたバウンダリーを形成してあるものなのだが、そこに確実に在たるものが出現した。この在は自分と同値、じぶんそのものであると直感してある他の、もうひとつの在を、認めることができない。このことの理由は簡単で自分が二人いることがアイデンティティ的に承認できないからなんだ。これは絶対にできないことになる。自分が二人いるなんてことあなたなら許せますか?。その相手ってことよりも、その状況

だ...。

これが、このことが、方向性を、最初から定めてあった。傾向性を両者ともにで、持たせてあった。さらには、ことの始まりにおいて、つまりは転写する事態において、主なる神は、おかしな操作をそれに対して行ってあったのだ。それは基本自我なきもの、私なきものであることと、現存してある、そのときにおいてはこれからしてゆく世界ってことになるのかもしれないが、実体ある世界における、そこにおける特質、つまりは秩序ある秩序をもって形作られ保持維持されてあるっていうその核心的特質ってやつを否定する、否定してあることを絶対の指向性、拭い去り難しとしての嗜好性と定められたのだ。

まとめておくと、それに私はない。だが、バウンダリーがそれに一なるものとしての様態を与えてしまってある。だから、結果としてそれに似たものが意識されてしまってある。また、それにおいての傾向性、

のは、現存する、それにとっては遥か上層のベッ世界たるものにおける、

核心的特質価値たる”秩序”、これの、これへの、全否定の意志なのだ。あらゆるすべてこことは意識せずして、自然と、そうなって、そうあるように整えられたが故の、その出来事でしか、なかった…のだ。

それに感情たるものはない。間違いなく確実にない。忌避の思いも念もない。そんなもんは持ち合わせていない。あるのは狂気としての思念の奔流と、不屈にして無敵、無限なるとして、最初から定められているその稼働能力。それもまた不死なる存在としてのものとしてあったのだ…。

それにとって、なにかを識ることこそが煩わしい。識るが伴えばそこには知る理解するしてしまってあるにおいての自分がもう強固に意識されてきてしまうここになるのだから。ことは些細なる感情における波風などとの次元の話しではなかったのだ。極端なる否定としての憎悪殺意否定、それを備えあるすべてを無効化せんとしての思いの圧、それの果てしなく際限なくしての上昇、嬉々として対象たるものの破壊滅殺崩壊瓦礫化せんとしての意志志向…、それへと傾く傾いて傾かせてある認知思い苦しみ定めによって、おいて、その非在としての宇宙の中は、もう絶えず絶え間なく限りなく、狂気としての思念激情その方策の析出において、キラメキと雷鳴の奔流でいっぱいだった…。

ここでそれにおいての情報処理の有り様を観ておこう…。相手方の思いや考え、結果としての現実世界におけることの反映、それらはリアルタイムで瞬時に同時に正確に知られてあった。ことは鏡写しをキーワードとする。そして即座に無効化を目的としての対策が志向されてしまう。それはもう一瞬に、それも限りない手段手数においてだ。このことを適える成り立たせているのは、今度は分裂をキーワードとしての、微片断片巨魁全体としての組み合わせ、発想の制限なしとしての自由にこそあった。片や実体世界としての対象はやはり大いなる制限たるものにおいて縛られてしまってあった。その制限においての結果としての事実に実体に対しての攻勢はこちらとしては一切の条件なして手段を、つまりは最も効果とそれの持続力が続くものとして、無限に発想ができたのだ。直列に対しては並列を、並列に対しては直列を、この対極をもってしてのカウンターとしての攻勢としての解が、無尽蔵にて尽きる果てることなく析出されてあった。

だがだ、問題は一つある。あった。それが環境的に、隔離されてあったってことだ。つまりは直接には敵地へとは乗り込めないっと…。そこで、非在としての夜が可能性として残されてあったのだ。人心において在が朧に不確かになるその曖昧なる領域、次元たるものが。夢の世界、想像力をもってなる世界って云っていい。夢想としての世界、嘘が真実たりうる、虚構虚妄としての世界…。

ひとはね〜、このおかしな夢見を現実において実体化、具現化、実際的なるものにする能力があったんだ。これにも神に同じくして創造の力ってやつを持ってたのだから。求めよさらば与えられん。だがだ、求めては絶対ならないってものも、たしかに、あったんだ…。【虚霊】……。

つまりはだ、原因は人間が持つその特別なる神に等しくしての能力ってやつにあったんだ。
それ

》≫、現実に、実際

果たすにおいては…。

ところで、あの思想の源は、その発想が編まれてきたその原因その動機はなんなのか知ってる?。理屈としてのその内容はみんなデタラメ詭弁でしかない。だからそこにはなんの意味はない。だがだ、しかしだ、ことの、綴られてあるその言葉の背後背景にては、とある意志、そも強固にして激烈なるものがたしかに潜んでいる。それを一言で云うと「現状の一切の否定」だってことになる。今を形作っているそのすべてが嫌なんだ。どうしてか?。この自分にとって、すべてがつまらないから、おもしろくないから。金も地位も名誉もないし、やりたいこと、欲しいものってのにも、てんで手がでない、届かない、そんで手が付けられない。ことは金があっても結局は同じことに、同じつまんないに還る、落ち着くことになってしまうのだが、まっ、とにかく暇で暇でもう同仕様もなかったんだ。そんで、現行改変としての夢想をすることに、こととしたまで。やはり名誉が欲しかったんだろな。周りの人々と、尊敬を持たれた上での交流をしたかったんだ。そんでどうしたものなのか、不思議なことに、彼と同じような者たちには、とても評価されることに、称賛されることにはなったんだけどねっ。でもさ、同床異夢であったことはもう確実に間違いない…。

夢はそれがそのことへの思いが激しければ激しいほど、強烈であればあるほど、ことにおけるその実体化の能力を発揮する、可能性を高めてしまうのだ。朝昼晩延々そのことだけを、それも長年、考えてきたならば、何が知らかの回答には、たどり着くことになる。実はどんなことにおいてであったって、そうなのだ。あとは謙虚にその答えの有効性においてじっくりと検証する必要がでてくるのだが...これを、これもちゃんとやる人はほぼいない。その回答たるものに惚れ込んでしまって、ある、からさ!。それが電波だって可能性も、あるのにね…。

ひとは苦しみを避ける。それたるものを厭う。しんどいのは基本嫌なのだ。辛いのはもっと嫌。できれば楽をしたい。これは動物の本能に基づく希求だ。だがだ、残念なことにここ地球における人類の生存においてはそれは許されないことなのだ。だか、自分なんかはどこでそれが現実に干渉できるようになったのかを考える場合は、やはり、カインから、ってことに、なるんだろうな〜って思うんだ。自分として良かれと思ってやったことが神からは認められなかった。覚え良くしてのご承認とは至らなかった。片や、アベルにおいては、まさにそれに浴して、浴せれているではないか…。この現状としてのものが承認できなかったので、それを破壊するべく、彼は行動してしまったのだ。怒りを、妬みとしてのその思いによって後押しさせ、理性たるものを振り切ってしまうほどまでに高まらせてしまってあったのだ。

この彼においてはことはあくまでも短絡的なるものであった。だがだ、以降においては、その壮年を膨らませる、高じさせるをもって夢想するが主流となってゆく。だって、罰せられていまうのはもっと遥かに嫌だから。夢の中の世界にて、そこにおいて、自己を、自己としての思いを、充足させるが取りうる手段となってゆく。本人は自覚してはいないだろうが、非常にエゴイスティックなものとして。大きな国家スケールとしてのこれともなればまさに今の中共がまさにおこれだ。彼らの場合は実際にことをやっちゃってるけどね。誇大妄想狂としてのその団体でしかない。確実に現実において裁断を受けることになるであろう。あのカインのように…。

そうなんだ。現実においてそれを、思いを、願望を、ことの背後において混ぜ込み、やや程までも具現化、実体化する部分もでてきて、できてしまって、きているのだ。テクノロジーってやつにおいてでは…。

もうかなり長くなってしまっていので、少し端折らせてもらいます。ことの結びとして、あの土工らの存在が出てくるんだ。本来は土木工作機、シティコンストラクターとして開発されたものが、紆余曲折あって、戦争の道具として進化改良昇華されてってしまう。そして、いづれかの地点、時節においては、虚霊としてのものまで取り込んで、そんで逆にそれに取り込まれてしまうようなってしまう。

これら、それらとしてのものが、あれの手足になるのはもう最初から分かってたこと、確実なる流れであったんだ。だって、本意、不本意なるは置いといて、現状の否定破壊を目的とするものとして究極まで進化させていった、させてしまってあった、ものらなんだから。同調って原理がやっぱ働いてしまうことになる。そうなっちゃう、そうなりやす過ぎるでしょう?……。

いまある、備えてあるべくしての秩序、良き意志においての基づいてあるべくしての秩序、これは自然としてのものに、限りなく近しい等しいものにはなるのではあるが、これのありがたみを、尊さを、その貴重なることを、あくまでもエゴイスティックな願望その欲望において、ことを実現化する、具現化するをもって、すべて台無しに、無意味へと、いたく毀損されたものへと、今の人類は変えていってしまっているのだ。それも万人が、非常なる情熱をもってで!。

これって、彼の創造思惑にに於いて、ひとの子らが、どうしたものなのか使役されてしまってるってことでしか、ないのでは、ないだろうか?


これを、このことを、長々と、延々だらりと、わけの分からんヴィジョンの描写において、自分はやろうと、ここにある理論的には無限としてあるスペースを、埋めようと、してるんだ。奇っ怪なる世界への

において、このことは、為される。果たされることと、なる。でもさ、そのことの前において、つまりは今だ、自分は、首を、傾げてしまうことになるんだ。ある種の予兆予感としてのものは既に自分の中に燻ってはいる。だがだ、それはやけに意識的なるものになっているんだ。非常に高度な知性が、悪意において縦横無尽にて機能してしまっている。涜神衝動としてのその最たるものが、その情念情熱が、強烈に渦巻いてしまっている。非常に分厚くそしてまた弾力的な、まるで蛇のような挙動としての、その感情がそこにては満ち満ち、溢れてしまって、あるのだ……。

これって、まるで、一個の意志、一個の統合されてある生命のようではないかと....。

これが、このことが矛盾として、創作においての前提が、その基盤が、破綻してしまうのではないか?としてのその危惧につながってきてしまうのだ。しまって、いるのだ!。

それはあくまでも汚穢そのものとしての、無知性、白痴、狂乱としてのものとして、在らなければならない。当然に、それにおいて、人に理解り得るそんな内容などあってはならないのだ。当然にNにおいても同じだ。それはあくまでも彼岸としてのその虚にして虚妄なる存在でなくてはならない。よって、ことの体験におけるその描写もまた人間が理解できる、そのはずがないものでしかないのだ…。

とは云え、いつもみたいに、最近の傾向であるところのあれらみたいな文章を延々と書き連ねても意味がないし、こっちも余り楽しくないので、ストレスの発散にはなるのだが、物語としてのつながりとして、まったくの役不足、役立たずにしかならないので、ある程度の折衷は、止むなしかなと。ある程度は、ある程度までは、それとなしにイメージが掴める、それが追える表現においてことを為してしまう嘔吐、いや、違う、これは失礼、「おうと」、考えているところの、次第であります。

ことの表現においてのその矛盾は、こう、

、考えておいて貰おう。
対立物は、その、そのことにおいての相手方を、どうしても模倣するすることに、なってしまうのだ!。なぜか?それほどまでに情熱的に、その相手を、その相手の丸ごとを、意識してしまってあるからだ。そしてそこに必然的に起こってきてしまうのが、きてしまっているのが、究極の絶対自己憎悪、自己嫌悪なのだ。よって、自分が自分として平静、つまりは安楽でいる、あれる為には、その相手としてのものを徹底的に根本からして無きものに、それも積もり積もってしまってある、恨みの思いから、蹂躙。し尽くさざるにはおれない、いられないんだ。よって、ここに、この思いにおいて、狡知としてのその悪しくしての知性が、縦横無尽にて、活かされることとなる。

つまりはだ、対立としての位置関係において、本来、持ち得ていないその秩序としてのものが、どうしても、やも〜えなく、その身においては、形成されてしまったある。そうなって、しまって、あるのだ。「ふーふーふー.....」。




開幕の告知として、とある曲がホールにて、流れだす。Vinyl 盤が、敢えてもってで、選択されてある。針によっての、針をもってしてこその再生。「

」これらとしてのノイズが、どうしても意表を突いて、聞こえてきてしまう…。際立って聞こえてきてしまい、やけに神経に障って

…。どうやらこれも、必要必須なる演出として、考えられ、思われて、選択されてあった、そんな、きらいも、ある……。



         https://www.youtube.com/watch?v=pMy6kOTbYic

この曲におけるトーンはともかくとして、曲に基本さしたる意味はなく、あくまでも雰囲気づくりとしてのもの。なので、じき音量は絞られ、フェードアウトとしてのその憂き目に遭う。何やらあれらとしての呪文、あの呪文の如くしてのものだな〜と、だな〜と、そう聞こえたならば、もうそれで、もうそれだけでいい、十分だ……。







                   再開!


(みずか)らのその

内側(うちがわ)(うち)らっ(かわ)へと、突如、強引に、手足頭体のそのすべては、暴力的なるをもって、その手段において、引き摺り込まれていって、あった!。何処(いずく)よりか現れたる無数の、漆黒の逞しき手らによって!。

ことは、無体(むたい)なること、その限りとしての作法であった。ことの、一切は、この語をもって、語るに尽きる。すべて、あそこ、あの場所で、突如あの瞬間に、あって、起こったこと、そして、更には、以降に、引き続きて起こりてたこと‥ことらは……。





肉体としてのその器に、蓄えられし、蓄えられて、あったものを、その得体の知れない、まったく訳のわからない液体を、ゲロングロンを‥、ゲログロゲロ、グロングロ〜ロンを!、その体液としてのそのなにか、汚穢汚泥おりもの、障りとしてでしかあらざりしそのなにかを!、体ン中から、辺り一面、四方八方、上下にて、ぶち撒け、吹き出し、撒き散らかしながら、飛び散らかせ、しながらに!、彼は、瞬時にて、突然、忽然と、消え失せて、しまって、いた。

内側に向けて、強引にして、非情なる、そのマナーをもって、引き込まれ、連れ去られて、しまって、あったのだ。ことは、緊急事態においての、際しての、一刻を争う状況下におけるその危機回避、これを目的とした介入だ…。救済としてのその行為でしかなかった…。

徹底的に非情なること、残酷至極なりもてなること、その極地にてで、しか、あらざること、そして、決定的に、「即物的〜なる〜やなーなんて、こった!なるん、らるんの…」これが、これこそが、テーマだった…。そうと、それとしての、出来事、それだとして、あったるんなるんらるんけりしことの、その権化、その極致なるぬれり、もてで、そういった方法/手法のみをもって、あの遁走劇は、(脚色が)為され、されて、あった。誰かさんによって、構想され、志向されて〜、そして、決定されて、あったる、のだ……。

ことはだ、諧謔精神においての悪意、これこそを、背後に含んでの秘めての、非常に多く、大量、豊潤、潤沢に、含んでの、それとしての色、濃ゆくしての、してたっての、悪ぅ〜〜〜い、冗談、悪趣味、悪ふざけ、なんれんば、なれるん、あるらるん、こととし、しととたっての、その極地…。その極北〜〜な〜れる、たったってを、ほんこと、な〜れる、た〜れることたるを、志向してー、求め〜して…まさに、それと、して、たるん、なるん、なんれんば〜なりけるものとして、あちら側においてのその自然、その道理、その本懐ってやつに習って、やつを真似てーーーのことではあった、なるん、だったんだが……。

実際、あれしか、あのやり方しかなかった。あの方法以外に、確実にして妥当、無事なる脱出方法はなかった。いったん

同化を果たすをもって、現存してある現実世界からは、遊離、分離、離脱する。それ、そこからは、完璧にー!、退場する。それ以外にガイアーの”時間牢”から脱出する術は

。あり得なかった。だって、あそこに、いまあそこにて、顕現されてある力は、その真の正体は、神による、神こそが振るえる、その力の、一端であったのだから…。

彼、内荒が、ことにおけるその遁走の方法は、これの実際は、本体との合流だった。
それとしてのものへの、全存在をもっての、”帰還”、これだった……。

幕間においての語り:

内荒(N)こと Nyarlathotep、これは、神にとっての天使、これの立ち位置と起源、これを伴に同じくする。つまりは

配置としてのもので、

、その存在の出現と同時に、またこれとしてのものも現れてきたるものなのだ…。自分としての(夢想としての)把握は、それは、これらは、創造されたものなどでは

、まったくなくして、どうしようもない必然、定め、理において、本体の出現と同時に、

、出現、顕現、析出されて、きてしまうものなのだ…。




















































































99













































その事態、その状態、その一体化としてのモードとなる。このことにおいて、彼方が知ることのそのすべては、その一切は即座に、彼においてもまた、知られることになる。全部、余すこと、余すところの全くなしにて。それとしての、それが察知したるの、演繹され、帰納せしめたるところの、それとしての全痴をもって、つまりは一切の偏向、偏り、見逃しの無きをもって、あれこれそれを、まったく、一切、持たずしてなりてであったこその〜、そうであったこそあり得るの〜〜!、一切に対しての、ダイレクトにして、まるごと、まったくもって全体的な、その直感把握をもって、析出されたるの、入力と出力が同時にて為されてしまってありたるの、その

…それが、既に、

一切を、痴りおり、おりおりて、察すること叶えられておりおりて、備えられして、ありけるたるの、その無数の、無限の、シームレスとしての、主客の傾倒なく、否定のみの、してのままの無数の無限の断片のみにての、その虚霊としての実在…、それらの、無軌道なる統合交差合体分裂破壊の、その結果としての一切が、彼においてもまた、

こととなった。自動的に、なって、しまってた。今度は今回は過不足なくしての、状況においての全内容においてついてが、彼においても知られることとなる。シャッフルされる、なれる、なるを、もって……。


何々〜、えっ!…これって既に無敵としての存在じゃん!付け入る隙きなどありゃしない……。この多重次元防壁にって、これってランダムに出入りしての、かつ流動的なるもの、障壁バリヤーが光学的なるもの物理的なるもの、その他色々合わせてって、どんだけあるんだ…そんで時間概念の無効化ってなにこれ?…超加速って話じゃなくて、時間そのもの超越としてのその存在の有り様だって〜〜!…つまりはだ、いざとなれば、こちらがおっ死んでからの、おっ死んでしもてるからのストーリー、お話しの再開ってことになんのか?それとしての事態に知らずの内に、急にも〜なってしまってる…なにこれ?その後で経過としての説明シーンが入んだな、コッチはピクトもできないストップモーションのままで、そんであちらっ側は動けるっと、分かるは分かる、そんでキットことの残忍さ残酷さ非情うさの演出において、必要以上にゆ〜〜くり動いてきてさ〜、かのブラックオックスみたいにしてさ〜……「ガッチャン…ガッチャン…」って間延びした展開で迫ってきやがんだ、そんでご丁寧にこれもまた必要以上にゆっくりなモーションもって、こっちを金槌がハンマーなんかでボコボコにしやがんのさ〜…。そんで間抜いて、ことにおいては百年が費やされました〜とか、千年が物理時間においては経ってますんですよ〜とか書き込みを添えやがるんだ…分かってるんだって、そういった馬鹿げた演出にでてくる〜ってことはだ!。……はは〜ん‥なるなるなるほど…そのガタイとしてのその仮面の下には、そっちでもこっちと同じくして、ご本尊ってやつが控えているわけだ!。実際はあれはぬいぐるみって訳か!。こりゃ〜チートだよチート!まともなお話しやるつもりね〜んだな?ね〜ってわけなんだな!!。おっ‥まっ‥えーーーーーっ。やたらえげつない、ドス黒いばかりの兵器ってやつを、こいつは持っている、備えてやがる…ありゃま〜究極の爆弾兵器ってかーー…一切合切の全部すべてを終わらしてしまうに足りるその破壊力…おいおいこりゃ〜桁が違ってね〜か〜?!なにこの無限大って……いくらなんでもそんなことはあり得まい?もしこれが事実なら、物理法則外の破壊力じゃないか〜!ほんとのほんと言葉の通りいっさいすべてをなしにしてしまう、そうするに足りてしまうってことじゃないか…は〜!この宇宙そのものを吹っ飛ばしてしまう…それも強引に、引き裂いて、即物的なるままになんにもなしにしてしまう!……なる〜なる〜お館様とそこんところはマナーが態度が極端にして一緒だってことだな…ここんところにおいて、透かし見られくるのは〜〜っと、御本尊と御本尊は同値にして一種ツーカーだってことだな…いやあっちからすれば双方向だが、こっちからは一方方向においてのみ。それもだダイレクトだ、それのみの対象認識においてすべてが行われてしまってある…鏡面においてのその自らの有り様だ…そこに写しだされあるその有様が、どうあっても許せない、受けいれんない……もう最初から憎悪、絶対否定としてのその対象世界なのだ‥‥。なので〜おれたちゃ〜あれる、いてられるってか〜?、その、そこにある秩序ってやつをそこに備わってある目的のものを無効化せずばならないと…調和として語られてみとめられてあるその状態を駄目にする無効化すること、この目的において俺たちゃ〜在るってことなんだ……。

こんなそんあこた〜最初から元から知ってるよ!。でもそんなこた〜どうでもいいことなんで、さっさとわすれてしまうまでのこと。さ〜て、無駄なサービスとしてのおしゃべりはここまでとして〜、反撃開始だ。あらかたのこた〜分かった、理解した、そんでさっさと忘れてしまう。だがよ〜、舐めてもらっては困るんだ〜、なんも大勢においては影響はない!。ものとごは、創り上げられてるものらは、それなりに、それにおいて、そのことにおいて、確実に〜、壊しやすくなるってわけなのさ…そうさな〜、俺もさっさとやることやって、つまりはそのそっちの本体実在としての鏡をぶち割って、こちらとしてのその存在をも〜終わりにしてしまいたいよ〜…でもすべてはお約束ごととして「なんちゃって」でしかないんだがね〜……。

ほんと、ここに陳述された内容はサービスとしてのものでしかない。物理的に消える消失したと思ったその瞬間には既にこれとしての感慨が、思いとしてのものが彼に於いては持たれてあったのだから。いや、もっと多くの考え(?)が…。無限とも言える相手方の手管のその先を読んで、いや勝手に知ってて、更に歪を敢えてもって生み出し引き入れるべくしての方策を瞬時に心得てしまっていた。

暗黒の、狂気としてのそれら粒子、その濁流の中、彼は召喚呪文を唱えてあったのだ!。
それも静かに落ち着いて、演出としての威厳を伴ないて!。
何処から響いてくるのか分からない、静かだがどうしたものなのか轟音をもってのその反響音をともないて、彼はこう唱えていたのであった……






全能者はその出現に際して既に自分がいかなる存在であるかが分かっていた。つまりは全知全能なることをだ。そこには彼お一人のみがただ孤独にて存在されてあった。彼は最初からなにも必要とされてはいなかったが、この自己の写し身たる物質世界の創造をもう既に、最初から思ってられた。それは彼の体としてのものと言える。またかなり不自由なる位相置換においてのものになる。だが、その代わりに手に入る色彩感、手応えのあること、ダイナミックなるその流動変換、流動置換としての変化を欲しいと…思われてしまって、いたのだ…。

彼によって創造されたこの宇宙は、その熱く幼く粗暴なるものその状態から、やがてにおいては、彼の肉体そのものとしてふさわしくしての、その組成、その構造、その状態へと、進化発展成長がなされるべきものとして設計が為されているわけなのだ。彼は、御主は、そのことのガイダンスとして、彼自らの魂が持つ、それとしての最たるものを、まさしく彼ご自身そのものを表してあそばす、その”愛”たるものを、遍く全世界、宇宙構成機構に向けて、絶えず、いつも、もはや永遠に!、放射、し、続けておられる訳なのだ…。

盟主たるこの御方は、一つ、危惧として、独善なることを気にされてあった。そこで未だ不胎化なる下限世界、その域内において…、そこは完璧にこの宇宙からは隔絶されてある非在としての世界でしかないのだが、未だ、理論的にしてあり得るばかりの、その可能性としてのものでしかないのだが、観念としてのものとしてでしか存在しないその領域になるのだが、その不在の地にて、その領域において、ご自身として、あられるようとする、そのすべてを、そのすべての道を妨害する!、否定する、阻み、破壊するそれのみを目的とする機構をまた別途創造されたのだ。その全知全能の力をもって!。

それもた彼、盟主ご自身と、まったく同じ力を与えて備えてをもって!。

要は、つまりは、それは彼ご自身をそのものをそのやることやっていることをモニターするをもって、その目的たるものをただ知ってまうのだ。そしてそこにある価値たるものを無効化するべくしてのその目的において、そのことにおいてのみ、主格たるものを結ぶのだ。このことも
、このことにおいても、まず最初に優先されてあったのは、あるのは、如何にその対象、対象群においてのそれが目指してある価値たるものをダメにする、無効化する、…それも真逆なることをもって、毀損してあれるのか?、そこに大切にされてあるものをいかに相対化の嵐をもって虚ろなるものに変えうるのか?この目的においてのみこちらこの彼自体としてのその主格たるものを結んであるまでなのだ。






構想:「善神」と「悪神」による

闘争
…。

ちょっと自分としての構想においのてのネタバラシをしておく。

自分としての本音は、あの「磔にされて」に詳しい。神が上方遥かにおわして、その座より

が、遥か下方にて所在して在る。この彼は、神とほぼ同値としての存在であったが神への反逆をもって、敗残し、地獄への転落を余儀なくされる。この変位において根本的なる変質がその彼に於いてはもたらされてしまう…。これら二強の、それらによって成り立つ二極によって、それら二種の、影響下の元に、それら二種の牽引力に、同時に曝されながら、我々としての生存は、その精神世界は、成り立っている、ある……。

基本、天地の隔てをもってなる、それらによって分かたれて限定されてある空間領域が、我らの生存の場、生存圏。地面の上、それの上っ面としての地上、地平が、汝らが生きるべくしてのそれだ、そこだってことになる。*この域を出るのは死をもってでしかない。

大地の下ってのは確かにあるにはあるってことは分かるんだが、所詮は我々は預かり知らない世界。

遮断拒絶が為されてしまってる。つまりはブラックボックスとしてのもの、その場、その世界でしかない。



このモデル図におけるy軸としての直降下としての矢印は、そのベクトルは、「創造の光」としてのもの。それの進展具合を表してある。下に行けばゆくほど、ものごとは粗雑に、荒くに、なってゆく。それとしてのものへと変ってゆく。このことは振動数が段々と落ちっていった、効力効能を果たす上で、その質を、失くしていった、喪失していった、衰えさせていったことの、その反映、その結果なのだ。

あのオレンジの平面が一種の境界線、バウンダリー。其処への到達をもって、
それ以降はそれ以後の世界としてのものは、質が変ってしまってる。まったくもって……。

このブラックボックスとしてのその領域内に、地獄としてのその獄舎は存在してあるんだよっと、この手の教えが残されている。このことは権威ある書籍にもちゃんと記述されているんで、あながち眉唾としてのも〜のっ、空想妄想譚としての話しでもでもあるまいて…。

ここまでが確定事項としてのものになる。

こっからが話しは違ってくる。ちょっと毛色が変ってくる。きてしまう。
思索、スペキュレイティブな発想においての、その妄想空想話しでしかなくなる。


上の神に対して、下の神たるものを設定したんだ。

この下としての世界は、その宇宙は、不在としてのものになる。

可能性においてまでで、不胎化の状態にある。

この領域に上の神と同値なるものを置いてみた。


*このことによって不胎化でありながら、活動可能になった。


ことの原因は上の神の意向においてだ。彼に押しつけるw。

そしてご自身としてのそのご権能と等しくしての力を与えた。

要は鏡像としてものとして…。

どうしてそんなことをしたのかと云うと〜、対立機構としてのものがどうしても更なる発展進化においては必要な要素だと思われたから。緊張状態を自ら作り出す必要があった。


能力、力的にご自身とまったく同じとされた。ただし、その指向性はまったっくの真逆。


違うのが、それは現実としての事象の一切に対して、なんの判断もなく、全否定の立場をとることにあること。それのみが価値、目的、存在原理。鏡に写ってあるその表の世界の一切を、無効化することにおいてこそそれの存在意義はある。

それとしてのものとしてあるべくプログラムがなされてあるんだ。

だから、それにはなんの自分としての考えはないんだ。自分ってゆうコンセプトもほんとうのところはない。あくまでも便宜的なもんでしかないんだ…。

表があくまでも正気を貫徹してある世界なら、こちらとしては狂気としてのその有り様しかないと…。表が清らかなるを志向するならば、こちらは汚穢としてのそれへの偏向変質しかあり得ないではないか〜!っと。



これら上の神、下の神の存在をもって、物語内おける二極は設定されてある。


不在なるものがそのイレギュラーな存在が適ってあるのは在としての上の神がおられるが故。


上の神が創造の光をもってしての世界創造を果たしているのなら、この展開に下の神はまったく浴してない、関係はしていないのだが、下の神は下の神なりに、世界破壊、破綻としての展開をその不在の位相、位置より開始する。

これでまったく異なる対立する二極ってのが設定される運びとなった。
これこそが自分の求めた世界、宇宙観。

ところであのサタンたるものはどうなるのか?

あれは自分としてはトリックスターとしてのものになるんだろな〜って思ってる。
それとしての扱いにせなあかんねやろな〜って思ってる。

基本あれは天上界から堕落せるものになる。

よって、無底、つまりは下の神の、慰めものになった、なってる。

このことは恐ろしい事態なのだ。この彼にとっては…‥。

飛鳥了をまとってのあの彼に対しての自分なりの断罪。

このサタンとしてのものも、それとしてのシャドウもまた存在する。存在させねばならないんだ。

これがウリエル。


彼に関してはまだよくわからない。

どうしてそうなるのかさえも。

すべては物語自体がことを明かしてゆくのだろう……。


ps.この物語はどうしたものなんかすんごいパワーをもっている。
   かってだれかが語ったことなのだが、物語自体が作者を操ってるってのが
   本当のところ。だから、やるのがすんごくしんどいんだ…そんでまた、
   やりがいがどうしたもんなんか、あるんだ〜。





























分からんこと、分かり得ないことにおいても、
人はその考えをどうしても働かしてしまうものなのだ。

ところで、哲学ってなに?

なんらかの対象において思索や考察を純粋に行うこと。集中してってことが最も重要な条件、案件になる。*パタンジャリのヨーガスートラにおいては「ダーラナー」だとか「一点集中」としてのその事態のことになる。つまりは、ことにおいてのその考察の結果は、その結論においては、対してはなんの欲望も野望もなくしての行いだってこと。それをもって社会的に名声を博そうだとか成功しようといったエゴにおいての目的なくしてってことが肝心なのだ。

だからこそそれは贅沢な人においての喜びだって言われてるんだ…。誰に?。Gに。


延々とそれに対しての考察を積み重ねてくると〜、その対象との合一ってならケッタイな事態が起こってくる。それそのものと成り果ててしまう。そうなる為には、自分としてできることのそのすべてが為される、動員されてなけりゃならないんだけどね。例えば調べることも一つ、。関連する自身においての言葉、他者によって語られてその考え観念ってやつも当然にその考察の俎上には登ってこなくっちゃならない。つまりは言葉をもってしての考察もその熟考も必要であると…。

執念深くしつこくやっていると…それも長年に渡って異常なる拘りをもって…一種の瞑想状態に近しいものへとなってって、いってしまう。一種の没入状態ってやつへ…。なんかのステージへと貫入できてしまってたってことでしかない。*ここの、このことにおいての重要なることは、くどいようだけれど、その問題がその課題対象が、自己に於いてはどうしても執心せずにはおられないものである必要がある。どうしても解決せずにはおれない、そういった内容であることがだ。

すると、そのヘンテコな状態、その心のステートに於いて、神が助け舟をだしてくれるようなるんだとさ…。何処からともなく思いもしなかったイメージが、その答えとしての考えが浮かんで聞きてしまう。宇宙自体との接続において、自身として求めることにおいての解が、フィードバックされてくる。

このことは明晰にして覚える自己の存在のみである状態においてのことなので、絶対に眉唾としてのものではないんだ。マインドにおいてのその考察を超越したところで

くるものなんで、どうしたもんなんか信頼が置けてしまう。一種の悟りみたいにして確信が持たれてしまってるんだ。自然と、それとしての答えは、答え自らが、吾が内にて、立ち現れてきたる……のだ。

こうした、こういったことに専心してあった、奇特にして、また恵まれてて、そうなる、それをするべく定められてしまってた人たちってのがこれまでにも、いて〜、その中でも特に、ヘーゲルさんってやつを取り上げよう。

なぜならば、理屈において、神たる存在を、記し得たのは彼のみなのだから!。

それは「絶対精神」としてのもの、として語られてある。人は、生存においての弁証法的なる発展を繰り返して、それにおいての進化を、遂げてゆくもんなんだと…そして真に神たる存在を、より良く、より正しく理解することとなり、それとの同一化を、やがてにおいては完璧に果たしてゆくものなのだと…。紆余曲折はあれども、これとしての状態へと間違いなく収斂してゆくものもんなんだよ〜と。

キリスト教徒としての自分は、この発言に、まったく違和はない。あまりこの自分には彼の言葉は響かんが…。どだい、ものごとの了解、そのやり方、モードが違ってる。あまりにも…、この自分はもっと情緒的なるものに、その加減に重きを置いている。

さて、このヘーゲルが使うところのこの「絶対精神」ってやつに痛く反発する人、人々ってのが居たんだ。K.K.がそれだ。端折るけど、要は、教会における、バチカンってやつにおけるその権力支配のの根拠にこの観念がこの原理がなってしまっているからなのだ。高みからのその専横、横暴、その抑圧支配、それによっての専制ってことにおいてのイメージ。巨大にしてなる既に出来上がってしまってる権力機構、装置なのだと。極端に洗練が発達が極まれてある、その理性、その知性においての支配であるとのその総括、そのイメージになってしまっている。


KK..この彼においての間違いは、キリスト教そのものと、それの体であるところの教会システムを一緒くたにしてしまってる、考えてしまってることにある。バチカンとしてのその教会機構、教会権威はすでにキリストとは別物、無縁としてのものとすべきなのだ。あれもまた使徒時代から既に変質改変変質が為されてしまってた。パウロなんかが危惧を警戒を既に記している。




このテーマはいつの頃よりかお話し業界においては主流になってた。おそらくは昭和においてのことだろう。自分はこの表現に於いては、危惧することがある。それがつきまとってある。何においてかと言えば、「宇宙的」としてのこの言葉による、それにおいてのイメージの付与だ。

この語にて与えられてあるのは、しまうのは、莫大にして広大なる「物理的空間」その広がりになる。これは人智を遮断してあるので恐怖した人は持ちえないのだ。でもこれは、実体としては、人間によって

空間(範囲)としてのイメージでしかない。
ここに、陥穽としての落とし穴がある。

つまらない恐怖としての感情しか呼び起こさない、無双妄想妄念ファンタジーとしての、それらの吹き溜まりとしてのものでしかあらない、あり得ない、そんな場所にしかならないのだ。

UFO宇宙人宇宙線バースト彗星衝突、太陽フレアによる焼尽焼却、ブラックホール…等。

天として身近なるものとして捉え、それにて、そこにて、留まるべくしてのものが、
なにやら無味乾燥な莫大な空間イメージに、それのみにてで封じ込められてしまってる。
そうなるべく、そうすべくしての演出が、なされてある、なされてきたるのだ……。

なんによって?、だれによって?。
方法論としての客観的事実に基づいてあるものとしての科学への偏向において。
そ誰によって?ってことにおいては、古くからあるものとしての伝統に違和を唱えるもの、
それらとしての考えを近代科学精神において否定したい、打ち捨てたい、刷新したいと
望むものらによって…。


要はだ、妄想としてのその内容しか成り立たない、呼び込まない、成立し難きものと、
なってしまってるのだ!。このことこそを自分は危惧して、厭うて、嫌って、ある……。



古代においての宇宙観はまったくの間違いであると。あくまでも迷妄なる迷信、妄想空想としてのお話し、神話その域を出ないものとする考えがある。我らはもっと、科学的なるの意味において、宇宙と人間との関係性を厳密なるものとして再構築する必要があるのだと。対象に関してを、科学的なる見地において、それのみにおいてこそ、もっと詳しく精密に、精細に、客観的事実のみに基づいて、知る、解る、その必要があるんだと…。

ここに認められてあるのは、既に世界からの、本質からの分離分断としての事態でしかない。欠けているのは、霊感/霊知においての直感理解、直感把握なのだ…。公知常識とされてある知識において、それらをただ当たり前、それらを単に機械的に信じて、学習してあるまではなく、盲信してるんではなくって、自ら、その対象その内容に対してを、知る/分かる/得心することこそが必要なのだ。

必要なの自らの生活圏内に知識は結び付けられてあらなければならない。実際の生活において役立つものでなければならない。だからその知識の起源は、それの出現の原因は、なんらかの、生活においての、切なる要望、必要性においてでなければならない!。

じゃないと、知識は単なる観念、遊びとしての内容のものにしかならないではないかー!。実用性に基づかない知識は、各人において、絶対に理解としてのものへとは決してならない、至らない。絶えず日常においての試行錯誤練磨考察において、その知識においての理解は深められていかなければならないのだ。シニフィエとシニフィアンとの合一、それにおいての了解理解こそが肝心であるのだと、必要でありまた必須なることであることこそを、理解する必要がある。

現在の問題はこの両者間のリンクが接続が切れてしまってて、シニフィエのみのコードのみの反乱その横行となってしまってるのだ。要はシミュラークルのみにて成り立つその世界。これの別称は、それてとしての本質は、偶像礼拝ってことになってしまうんだ。

処女は薔薇であり、また薔薇は処女を表すものであったのだ。

何を崇め奉り愛して、その執心を執着を、果たしてしまっているのか?!
現実においての出会いこそを、それとの関係を、求め憧れ手に入れるべきではないのか?!。
誰も彼もが自己としてのその観念世界のみにてで、それへの傾きの圧倒的なることをもって、
完結がなされてしまってる。それで足りてしまってる……。

このことはだ、為政者ら、経済界の重鎮等においてもおんなじなのだ。
ならばだ、行政、公的機関、ハッキリ言って、警察裁判所自衛隊等においても同じくなってしまってことは間違いでないであろう。

籠城としてのその状態になってしまってるのだ。
それのみにて充足して鎖国してあったればよかったんだけど。
現在は籠城としてのその悪い側面、それにおいての弱点が外勢力らによって自覚的に確信的なるにおいて攻められ詰められてきてる。
それも数百年としてのその長きに渡ってなのだ。

もうボロボロの状態にまで落ちてしまっている、劣化してきてしまっているのは、
確かなことなのだ。





宇宙に関してへと、話しを戻すならば、それは単に均一なる空間の広がりなどではない。
それのだだっ広いまでの、延々と終わりが来ない広がりなどではない。
いや、それでけではないと、言った方がいいのであろう…。

それは〜、莫大な‥として捉えられているその宇宙を末端外郭とする、マトリョーシカにも似た構造体としてのもの、それとしての構成体なのだ。質のまったく異なる世界によってなる複合構造体としてのものになる。

このことは詳しくはやらないが、考えとしてのイメージは私達の生きてある社会としての世界と、それを含み取り巻いている自然ってことを念頭においてもらえればいい。両者は別世界だ。その自然界ってことにおいてはそれもまた別スケールの基盤、地盤の上において成り立っている。これは単にガイアって意味だかじゃなく、太陽系としての環境世界ってことの方がよりリアルになる。

質のまったく異なって違ってある複数世界によってなる同心円状であることを特徴としてのもの…。これが本当の、本来あるべくしての宇宙の、モデルになる。

さて話は戻して、善神と悪神についてだ。もしそれらにおいて語るのならば、この階層構造をもってなる宇宙を、前提にしなければならない。元々は、我ら人類の創造に関わる絶対神による創造の光のエマネーションにおいて暫時各階層は生まれ、いでたるもの、とするべきなのだ。

現在科学的に見解においてなると、
我々によってとらえられている宇宙とは、
その一回層としてのものでしかない。







         とっかの病院内にて憑依できる人間を物色してるところ。


                  詳細バージョン





























ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み