15.  ネフィリムIV(序2)

文字数 37,267文字

超未完!

この稿も、現在の数倍の容量になるんだ。

だから、ちょっと休む。そんでから完成させる。そうさせて!。

だいたいね〜、すべてが同じくしての課題を、現在この自分に対して突きつけてきてる。

それを上辺だけにおいて言葉にすれば、涜神衝動たるものの、その正体ってことになる。

これを自身の経験を踏まえて、明らかに、赤裸々なるをもって語れだ。

もう一つの、あっちの偶像崇拝の方も、まだ未完なのに……。

こそが真の問題の核心なのだ。

罪たるものにおいての、それらが収斂されるべくしての、その最終、究極の形態……。

草 々

天村崇



本稿は三部構成。

今回はその二回目。

まずは恒例の前説としてのものを…。

いろいろ書いたものを、

、ご破産にしての再チャレンジ……。

結局、

たるものはだ、””の波動、

伝達なのだと考えるのが正しいのではないだろうか?。

たとえばだ、人が喜ぶにおいての、その実際は、どんなだ?:

褒められる、認められる、評価される、称賛される、尊敬される、大切にされる、求められる、喜びをもって輪の中に迎え入れられる、一緒にいて楽しいと、面白いと、なにか奥深くしてあったこちらの飢えや欠乏感が満たされた、満たされてある、等々。

実際、自分とは違う、他存在からの本当のそれとしての思いに

、人は喜びを、満足を、生き甲斐たるものを覚える。それも心の深きから、存在の全幅に至るまでをもって。

実際に想像をしてもらおう…。貴方は他者他人から「立派ですね「大人ですね「賢い人だ「優しい「手早いね「義理堅い「真面目だ「発想がユニーク「心が広い」等の言葉をもらったとする。それもまったくの素の言葉、ほぼ無意識の発語としてのものとして!。

そこに声量は関係しない。ほんの、もしかしたら、つぶやき程度の、それの如くしての意趣の伝達でしかないかも知れない。だけど、あなたのこころには大きな変化が生まれてきてしまってる。喜び、満足、満ちたりとしてのものが、思いが…。

補足。ことは、既に、言葉とされるそれ以前ってともある。態度だ。例えば、その相手への愛の思いもて、見逃す、叱らない、糾弾しない、見て見ぬふりをする。こいったことは後においてはそうだってことが判る。分かってしまうときが来る。そしてその存在においての容赦に思いやりに、いたく感謝するときがくる。

ここで面白いのが、言葉そのものには余り意味はない。それはなんだっていいんだ。字義、字面には、あまり意味がない。問題となるのは、その言葉そのものがなんにおいて発せられているのかなのだ。それは核心においては愛を宿している。貴方たる人間に対してのこちらっ側においての愛をだ。

嬉しい、大切だ、貴重にして重要な人だと思う、そうだと、どうしたものなのか、こちらは覚えてしまってる。その思いを言葉にして相手に伝えたくて、何らかの表現が採択されているまでなのだ。…だから、言葉的には真逆の表現にする、なることもある。その相手を愛するがあまりに。「こいつは人間としては最低のヤツなんだぜ!」とか「こいつの食い意地のはってることといったら前世は間違いなく乞食だったにちがいない!」だとか「こいつの顔見るたんびに俺はこいつとして生まれてこなくって良かったて神に感謝するのさ!」等。

ことは可愛さ余って憎さ百倍としての感情表現でしかないってことを理解してもらいたい。仲が良すぎて、そいつの真ん前で、こうとでも宣ってやらんことには自分としての立つ瀬がない。その相手に対しての感情(◯の思い)が、その持ち様が、バランスが、取れないんだろさ…。なかなかに長年において培われてきた人間関係ってにおいては、一瞥、一聴だけをもってでは、測りきれない、難きものがある。

さて、話しは戻って、この「嬉しい」としての思いが、その感情が、生きるにおいての糧なんだとするのはどうだろうか?。その他者他人から伝えられてくる”愛”を核心に抱いての思いが、人を”

”生かしてあるものだってのは?。今回強く着目してみたのは、実は、このことなんだ……。

もうちょっと深く踏み込んでみよう。

自分の体験に照らし合わせてみるならば、ことは、絶大なるその効果を、その反映/影響を、心に対しては及ぼしてくる…。ほんつぶやきにしかないその一言であったとしても!。なにがどうなってこうなる?。心の内にて起こるこの莫大なる感情反応は、どこからやって来た、来たるのだろうか?。エネルギ等の伝搬、供給としての現象では確実にないと思う。あり得るのは、バイブレーションとのタームを尊重して考えるのであるならば、ことは共振においての、その

なのではないだろうか?。

触れて触発されて反応が起こるのだろうが、ここにポンピングとしての、摩訶不思議なる現象がおこっているのではないだろうか?。ここは純粋に化学反応としてのその神秘があるのではないだろうか?。ここにおいては単に物理としてのものの考え方は通用しない。端折ると、共鳴としてのその連続性が背後にては働いている。一つ始まれば、それがいかな小さきものであったとしても、見えざる背後のものまでもが同じくしてのその反映を返す、返してくるのだ。それ本体、それの塊としてのものとの接触が、無線にて、適ってしまってる…。このことにおいて、強大なる動力としてのものを、ものが、充当されてしまってる……。

ことにおいてのその核心が共鳴であるって話においては、今一度、他者においての何を観て、何に触れて、称賛としての思いが込み上げてくるのかを確認しといたほうがいい。それは端的には、そこにある本質、核心においては、愛が主導権を握っている。じゃないとあそこまでのことはできない…。あれほどまでのものが、ことが、果たされるはずがないのだ!。

ならばだ、最初に受け取ったのが愛たるものの顕現だってことになる。これに触れて、これを確認したが為に、自分としての感動が、思いの強さが、出現してきたことになる。ならばだ、これもまた共鳴だってことになるのではないだろうか?。

おかしいのが当人らにおいてはそのことに関しての認識、自覚はない。ことの本質においての理解はないんだ。だからこそ、相手に対してのその称賛としての表現、発言は、千変万化してしまっているのだ。本当は「I love you so much 」だけで足りてしまうんだけどね。

でも、「このハゲー!」ってのがあっても構わない、いやむしろその方が面白いっと。
こないだのテニスで大先輩に向かって試合中に言ったった。尊敬してる敬愛してればこそ!。
だから、あまり上辺のみにて物事を判断してはいけないっと。本質を観ないと…。
これもまた深くしての全景に、関与してないと、できないっと……。

実はこの私めは、一部においては大変に評判の悪い面がある。家族からも評判は悪いんです。このことの原因は、ことにおいての常識、世間体ってやつを欠いているが為だ。世間の多くは、あくまでも外見、見栄え、字義において、判断ってやつを行っているまでなのだ。



おそらくは、この体験こそが、生の実感なのだと、その正体、本質なんだと思う…。

ことの体験において、自分が奇異なることだと思うのは、それは、しごく何気ない、ほんの一言二言によっての、それの伝達によっての効果だってことなんだ。ことは察されるをもって、完結せられている。

この事態において、どこに波動やらバイブレーションなんて、大層なものが関係してるというのであろうか?。

ここに在る、起こってしまっている現象は、”共鳴”としての事態ではないのか?。

上辺にて発せられてある言葉、もしくは態度に意味はない。基本的には。字義をそのまんまに追う必要はまったくない。要は其処に、その相手によって、発せられてある言葉が、自分に対してのどんな思いにおいての、よっての、ものなのか?が問題なのだ。

ここは例えば、ひどい悪口をもって、自分のことを、吹聴しまくっている、(仲間内での食事の席なんかで)、ケースを想像してもらいたい。ズバリは「こいツァ〜いっつも、腹すかした野良犬みたいに、ガッツイて、食っていやがるんだ〜!」なんてのがいいのかも知れない。非常にリスキーな物言いではあるが、要は、その仲の良い仲間内で、俺はこいつのことが、メッチャクチャ好きなんだってことをアピールしてるにしかない。

だからさっき言ったんだ、字義通り、上辺にての判断に意味はないんだって…。

まず重要なのは、その伝達によっての効果はとんでもなく絶大なんだってことなんだ。
些細なことなれど、絶大なる効果を発揮してる。その相手のこころの内にては、おいては…。

そこに湧き起こってくる/いる、喜び、これの反応は、そのベースは、なんだ?、どんなだ?。

自分が見る限りにおいては、それは我が心の内より

現れてくる、何処か彼方より顕在して来るなにか、そのエネルギーなのだ。簡単には感情反応なのだが、その効果が余りにも大きすぎる。何を言いたいのかと云うと〜、もらった、受け取ったものと比して、自分の中に出現しているそのものが余りにも大きすぎている。だから、簡単な物理法則をここに当てはめることはできない。仮説としては触れることをもって異次元よりそれとしての同質のものが供給されて来てしまっているのだ。

空、無、真空ってやつの向こう側にっ!、もしくは、それとしての状態を、そう、あらしめている、成立させている場たるものがある、領界の断絶だっとことにもなるのだが、そちらっ側にも、どうしたものなのか無限連続としての構造が構成がある。最大公約数としてのキーワードはおそらくは◯だ。脱線するならば、これは創造性の塊であるってことが特質になる。さて、無限に各階層が連続してあることにおいて、共鳴は、やや程までもすべてにおいて起こってきてしまってる。だって、それこそがすべての根源性におけるその核なのだから。連続共鳴において賦活化としての現象が観測される。衰えて、その所在を隠してしまってたものが、鮮度を改めて、その出自を明らかにしてくる。これは雲としての場としての現象なのだと考えるのが良い。すると、連続性としてのその特性が開花して、どこか、根源としてのものから、エネルギーが伝達伝搬されてきてしまうんだ。電線を伝う電気エネルギー、使った水は、水道管内の水圧によって自然と元の容積に戻ってしまうが如くして……。

これはあくまでも仮説だ。◯に゙触れての、そこの心の反応においての機構を、説明してみたまで。それはあくまでも触発なのだ、それでしかないのだ。なんらなにかの贈与を供与を受けたわけではない。なのに〜、この心の、こちらの感情の反応でかさはなんだ?!。こちらもまるで天啓を受けたかのようではないか?!。同じくしての質であろうなにかの”充填”が、完了してしまってる……。

共振、共鳴をもって、賦活化が、活性化が、瞬時に、一切の時を要することもなく、即座に完了してしまってる。この原理は、電気自動車の個体電池、その充電においても、利用されるべきことなのではないだろうか?!!。

さて、ここで比較対照においてことのその様態の違いを見る考えることによって、更に理解を深めてみたいと思う。これにおいての題材は、地球から、どうやって、どのような姿にて、アスコキンが、あの二つの月に対して行われているのか?。そしてまた、本件においてでは、◯などとの情緒的なお話が、関与が、実際にあるなどと、当事者間においてでは想像できないので、実際はなにがどうなっているのか?について。

同じく、共鳴/共振において、アスコキンの伝達は、果たされているのだろうか?。

おそらくはこんな感じで、大気圏みたいなメディア/媒介層が構成されていて、一種、袋詰(ふくろづめ)とされてあるとしての構成。ここんとこにおいて、母たる地球が月を抱擁してるんだってな表現もあり得るだろさ…w。そんで月が必要とする

、自動的に地球からこの媒介を伝って、流れて、送られてゆくようになっている。問題となるのは、地球圏内におけるその必要物質たるものの、

なのだ…。

システムたるものにおいては、それが人外によってのその超越者らにおいて創られたものである以上、抜かり抜け、不足は、欠陥は一切ない!。すべては、それそのものにおいて、然るべく果たされてあるまで。月はまだ胎児にも等しくしての、超未熟児なる存在としてあるまでで、いまだ正体のない赤ちゃんみたいなものさ。生存における本能のみおいて活動してるまで。だから、◯もへったくれもない。飢えて、お腹が空けば、喚き、散らしてくるまで…。この大声において、よって、地球上の人類は気が狂ってきてしまうんだ……。

別注:
この自分が用いる超越者なるタームは、より上位としての存在者って意味でしかない。そのイメージは、あえてもってで表現するならば、例えば、太陽系そのものの管理者として、そのモデルの

、ことの支配を行っているものだってことになる。だから、はっきり言って不可視。自分ならば太陽系そのものを採用する。これが天使の、かなり上位のお一人だって。例えばこれ...。全体をもって、この盤というかシステムの全体、その統制管理を担ってられる存在。

より上位ともなれば、天の川銀河をもっての天使、ってことになる。マトリューシカ人形は、
その内にまた別項にて、再登場することになる。自分は

、また

からwww。


表現としてのその内容は、色々と諸説諸々ありうるのだが、これらにおけることの核心は〜、そのことの本質的なるを、要約するならば〜、「自分はどうやら、愛されている、愛されて、しまっているようだ」になる。実際そうなので、このことが嬉しく、大変に喜ばしくに、思われてしまってる〜……。

自分に対しての愛の表しに接して、こちらっ側にて起こる反応も、また同じくして愛なのだ。その誰かに対しての、いい意味での意趣返し、我がこころの内より込み上げてくる、もう、どうしようもない程までの喜び、その言葉へのお返しとしての思い!、同じくしてのこれもまた愛の表出、表現、伝達でしかないのだ……。

先行して某らかの行動態度努力がある。これが為されてあるのも確実に◯故になのであろう。このことに誰かが大いに心を動かされてしまう。その人にには見る目があったのであろう。そして某らかの行為において、自分としての愛の思いを、その人間に伝えるべく、行動が選択される。

違う?。自分はここあったりまえの、至極原始的な事実を述べているまでなのだが……。

その相手を愛するにおいての実際は、決してお上品にして丁寧なるるもの、礼儀をつくしてのものである必要はない。むしろ荒々しくしての、思いとは逆の、顕れ表しになることもあるであろう。つまりは嬉しさの余りに「コンチクショーめ〜〜!」だ。




人が生きるにおいて、人にとっての生存たるものが成り立つ上においての、基礎/基本動力としてのものとしてまずある。根源から供給されてある◯、このエネルギーを、然るべく活かすにおいて、結果、増幅が為されて、またその個体内においての再生産が、再放出が為されたものなんだと…

*ここは当たり前過ぎて、一読後に、なにも残らないだろうから、詳細もやっとく。

、これが何であるのかについては各人の魂においてのみ知り得ることが適うのだが、よってヒトが平時なるときにおいて使用するそれに対しての名称は、マインド単体においてでは単なる記号としかならないのだが…まったくの不理解のままで用いられてしまっているまでなのだが、◯、これの超高密度としてのエネルギー体たるものの顕現、まさしくそれそのものの塊だとしか言いようのないそのナニカが、自らを、その正体を、開示し、その存在を証し、表明すべく、また被造物ら各位/各自において、知り/識られ、大いなる感謝をもって、崇め、奉らるることを願って、創造されたるこの宇宙…この世界……。

…、

…、(まずのそもそもからして、このことの理解が…、人知だけでは、このことが真実なるこがだ、決して、分からない、分かり得ない。これが真実になることに考えが及ぶ、そとしての思いに至ることが、そもそもからして適わない…個我がそのことを最初から阻んでしまってるのだ)、副次的なるの意味における、より低次なる、より末端としての階層世界内にて所属し、生存してある生命が、同じくして、

、自身が所属してある、所属させられてある世界、そのシステム内にて、新たに、そこで、そこの環境に適合された形にて、「供給され/受給して」、改めて、

、そこにおいての、おける、然るべくしての己が役目を果たす…。

自身が所属する世界内にて、同じくしての創造行為を、つまりは他の生き物らに対して、己ではない他者との関係性において、愛としての行為を、それによっての創造行為を行う。そのこともって、ことの最初から受け取られてある、供給される力は、(アスコキンを特徴とするその物質は)、より増幅され、無尽蔵なるものとしてあることの、その正体を、その実体を、現すこととなる。ここにあるポンピング機関、このことをもってしてのエネルギー循環は、永久機関としてのものなのだー!……。これとしての隠された機能を発見し、自覚的に引き出し、より実り豊かなるものとして行ってゆくのが、生命たるものの、生存にける本質的にして最重要なる課題!。この神秘としての事実は、どうしたものなのか、隠されて、しまって、あるんだ。

先の序1でやりたかったことは、やっときたかったのは、既に世にては使い古されたありふれた用語としてではな〜く、それではまったく面白くないので、愛を正体とする思いにおいて、それを起点としての奮闘努力によって、至高の彼方、異次元より、秘密にして特別なる経路、それを(とお)って、(とお)して、ポンピングの働きをもって、供給される、供給されて、補充されてしまってるところの、摩訶不思議にして不可思議なる、ある種のメタ物質、特異なる

を、放ってある

なんだってことを…、説明すると同時に、また渾身の思いもて、強調、し、
ときたかったんだ〜……。

生を生たらしむるにおける、その真の力、それの源泉、その物質、その為の機構配置、
例えるならば、それはっ!、伝動ベルトとしてのも〜のっ、

たるものの付〜与っ…。生命にとっての基本の基本としての動作ダイナミズム、生命活動においてのその

、これを適え、支え、そして保証/補完/補充しているものの、核心だってことになる……。

さて本稿序2においての課題は二つだ。

ネフリム以外にもこれとしてのものを、アスコキンとして名付けられてある振動波を、いかなる手段を用いても、手に入れんと、入れたる

と、是が非でも手に入れなきゃ〜、入れんにゃ〜ならない、それを欲して止まない輩ってのがいるにはいるんだ。フ〜…。この彼らについての話しを理由付けをもってしておきたいんだ。おかなきゃならないんだ。それもなにやら説得力ってやつを伴っての、携えての、…正直、無理からにでも捻り出したりましてをもってながら!、それこそを真打ちとして添えながらにし〜てーー…。

これ、これら、彼らとしての存在は、決して、眉唾な、夢現としての存在なんかではないんだ。此等としての、大変に

、禍々しく、たいへん困った存在ってのは、たしかに、現実に、存在しているんだ……。

先に一つ、種明かしをしておくと、

、存在を

人間サイド自身なのだ。まだ生きてある人間たち。あくまでも虚ろなるままに刻まれてあるまでのその刻印に対して、人間が持つ想像力ってやつが

しまう……。存在としての形を与えてしまってる……。この

としてのものは実際には現実において、何処に、つまりはなんの媒体(メデイア)に、どのように、

、刻まれてあるのは分からない。空間ってやつに対してなのか?、大気そのものになるのか?、はたまた、人が活きるにおいて絶対に必要とする…、皆がどうしようもなく洗脳されてしまってる、そして、その夢を、常識だとしての囲ってある、あの、社会性ってやつにおいての、その共同観念ってやつにおいてになるのか?!。

とにかくにも、コレに対しての、それに接したならば、人の意識ってやつは敏感に、どうしようもなく反応せざる得ないようなってしまっているんだ。だから、まったく、現実において、あり得ざるものでありながら、目鼻形、フォルムを、それが持つことにもなる訳さ。これも、とてもおもしろい、大変興味深いのは、具現化されたそのイメージってやつには偏りがないってことなんだ。いたく特徴となる部分に関しては、誰に於いてであったって、あったとしても、大差がないんだ…。妖怪ってやつが同じになる。つまりはコレもまたおんなじ仕組みでなりたってる、出現してたってことなんだ…。

そして、もう一つの課題は、止も〜っ得なく、これとしての物質を、その振動波ってやつを、生存において必要とせざるを得ないネフィリム達について、その彼らにおいての話になる…。

(どちらかと言えば前者の方の語りが今回はメインになるな)。

このアスコキンってやつに対しての()え、(かつ)え、その必需なることにおける、その二種類を並べ、並列列挙することによって、結果、ネフィリムたるものが…、そのモノ等が、その生存が、いかに憐れなるものであるかが、その救い難さの実態、根拠が、その生存が真に呪われてあるものだってことの事実がっ!真実が!、現実がっ!際立ってくれば、説得力を読者に対して持って、くれればいいな〜との思いにて、本稿は構想されたるのだ……。

そうだな、ちょっとここで脱線してみようと思う…とても参考になる話しがあるんだ……。

京極夏彦作「魍魎の匣」から逸話をもってこよう。久保竣公によって、少女らから切り取られた手足が、あちこちに放置された猟奇事件のその後では、子どもたちの間で、妙な”噂”が広がっていってた〜って……。

これは作中、中禅寺敦子 取材覚書としてまとめられている。

子どもたちは、親たち、大人が、顔をしかめながら、決して子どもたちには聞こえぬように、していた、その「ひそひそ話し」を、その断片を、単に拾い、盗み聞いたに、すぎなかった。なのに、肝心なる部分、特徴となる全体の部分に関しては、やけに正確に、まとめ上げていたんだ。

この根も葉もない、子どもたちによっての噂、怪談としてのものが、どうして生まれてくるのか?、来てしまうのか?。ここが大事…肝心…。あの部分だけ、作中においても、どうしたものなのか、”ポン”と、脈絡説明なく、差し込まれてあっただけなのだ。何故だ?。なんに、ホーカス、焦点を、作者は当てたかったのだ?。なんの、どんな効果を期待してのことだったのか?!。

その噂話、怪談話の内容に於いて、どうしてなのか、子どもたちには知れるはずのない踏み込んだ描写、情報が、的確に、盛られて、とらまえられてあったのだ!。確実に、直接に現場を見た、話しを聞いたことによって知り得た訳ではあるまい…。でも、自分の生活圏内にて不穏にしてまた異常、禍々しくしての雰囲気たるものが充満しまくりて、あったってことは、大人たちのその振る舞いのみならず、確信すること、察知することはできてたんだ。そこに、あくまでも微細なる、断片としてでしかない情報が、どうしても耳に入ってきてしまう。これが”核”となり、あたり一面、その大気中に漂ってある異質にして異常なるムードが、それに、体としての目鼻顔立ちを、然るべく、与えてしまうことと、なってたんだ…。

わらべうたの多くにおいて、これと似た起源を持つものがある。基本、以心伝心、同じ共同体内においては、隠し事はできない、痕跡、

、その稲妻の如くしての閃きは、伝搬して行っていまうことは避けられない。特に、感受性の強い者たちの間においてでは……。

そして前にも何処かで言った通り、トラウマは、再現を求めてくることになるのだ。
役者を換えて、同じ条件が構造において揃ったならば、改めて、同じことが起こってしまう。
これが法則によるその発動、端的には”業”、憑き物として語られたるもののその正体。
二度あることは三度あり、四度五度となったれば、あとは、もう、これは当たり前!。」

ps.:
あの札幌ススキノにおける生首切断事件もまた怪談話として、子どもたちの間にて、残ってゆくことになるのであろう。生首に頬ずりする女、お手玉みたいにして遊ぶ女がいて、その側、その傍らには、ことの異常なることに、まったく頓着せず、関せぬままに、その娘を温かい眼差しで見つめている男がいる、娘の父親がそこには庇護者として同席している……。ときを置きたれば、またこの手の、この手合としての事件が、改めて、役者当事者たるものを換えて、発生することとなる。それも二人揃って、ペアとしてあるのが、お決まり、お定まりなのだとして…。

Mouryou no Hako Special
https://aniwave.to/watch/mouryou-no-hako-special.9o28/ep-1

単品でアニメ化されてます。約15分長。もしご関心がありますればどうぞ。

原作は超弩級の名作なので、こっちをお読みになるのが一番いいのですが……。

これのアニメ化は、なにを、どうしようとも、すべて、ぶっ壊し、台無しにしかならない。

原作は、あのままで、既に、完全完璧なるアートです。

「鉄鼠の檻」も同じく…




その二)
さて、ところでだ、「俯瞰」としての立場を、その状態についてを、皆さんはどこまで理解されているのだろうか?。実際のところ、それは何なのだろうか?。どういった状態のことを言っているのか?。「鳥瞰図的視野」ってな言葉もあるにはあるな…。

メモ:
これは、このことは、端的には、

世界を眺めていなさいとしての意味でしかない。狭量な見方、その自己の見解としての世界内のみにて囚われてあってはいけないとしての意味。たとえば、身近な人々が、現在いかに金銭面において窮地に立たされているのか等のことに、あなたは気づけているか?。だからといって何かを特別する必要もない。

、動けるようにあれるようにしておくまで。


そのときに、果たして自己としての自分は、世界に対して、IN(イン)なのかOUT(アウト)なのか?。これとしての眼差しになったいるときには、世界に対してのダイブインは、

状態であるはずだ。だから確固ったる自分としてのものは、一旦そこで

出ていることになる。つまりはアウトとしての状態だ…。だが視線としての、まったくもって抽象的なる視線としての自己は、それのみが、()きている。世界に対してはまったく完璧に隔たったものとして、隔絶されたその状態において、自己は、世界に対して、[追認/識別/思考]を、

、行っている、行い、続けている……。

ではどうやって?どうやったそれとしてのものを、そこにある変化を識るのだろうか?。世界そのものとの連動において識るべきこと、気づくべきことは自動的に感知されてある。されてしまう、しまってるっ!。*例えば、誰かが、いつもと違う出で立ちであること。帽子と眼鏡と靴において赤が統一感として採用されてある。遠目においてであっても性別において奇異感がどうしても持たれてしまう。トランスジェンダッタちゃんであることに間違いはない。雨が急に降り出したのだが、あることを切っ掛けとしてこの雨は間違いなく止む。そのことを起所としてすぐ止む。テニス周りの事柄として挙げてみた。

実は、この State にて、自分を確立させてある、あれるってのは、非常に稀な、とても珍しいことになるんだ。簡単にはできない、叶わない。思う通りにはできない。それに二重化においての切り替えが、必要にして必須になってくる!。ある種の、絶えず幕無しにての自己の

どうしても必要になってくる。幅広い視野において現状を把握する、連続的理解を維持し続けようとする自分と〜、実際に渦中にて行動している自分とに〜!。大体が〜だ、その俯瞰ってやつを行ってるその主体としての自分てのはいったい何だ?いったい誰なんだ?!。…日常生活においてあまり顔を出すことのない、使わることなど先ずない、そういった機能/能力としてのものになる。そのものに確固たる明確なる名は実はない。でも実際において、覚醒状態としてのものが、そこ、その現象に際しては、関わってきてるってことは、これは確かななのだ。ある程度、目覚めてなきゃ〜できないこと…。だから、この彼は、ある意味、とても優秀なのだ……。

追記:

絶えず、いつも全景に注意を払ってある、気にしてあれる。手元のみに拘らず、自分の事のみに縛られず、開いてあれる。これは一種の努力がいる。だがだ、そうであったとしても、なぜに

?。これはある意味、「気付かされている」んだってことになる。その気付きとしての主体が自分としてのその本体であったとしても、それだけ、それ単独のみにてで、対象を見つけてきてる訳であるはずがないんだ。ならばだ、どうなってる?。仮説を語るをもってここをお仕舞いにしよう。

それは世界とリンクしてあるのだ。ならばだ、そのリンク、接続、一体化において、世界そのものが気づけよとばかりに知らせてきてるんだ。縁において然るべく知らされてきてる。では何に気づくべく

?。これもまた自覚においては、そこにさしたる意味はない。連想を働かせるにおいてのやけに情報量の多い、変化たるものとしての機縁、結束、機会としてのものとしてのそのなにか…。例えば、

エナガが木の枝にとまって、こちらを見据えているではないか…。例えば、今なにか嫌な予感が走った。なにかの事故がこの全体フィールドにおいて結実してしまう。例えば、避け難くしてのあの人間ととの接近が適ってしまう。こればっかりは逃げれない、避けられない。ことの一秒前。気配の対流、交差においてそれ(邂逅)を察知したのだ…。例えば、あらゆるすべてのコンテンツがオワコンとなっており、今度二度とかってのように、あなたの心を満たすようなコンテンツが生まれてくる、登場してくることはないのだ。世界との

どうしたものなのか起こってしまってる。それも全世界規模で……。このことの結果は、その影響は、今後速やかに現れ来るのだが、絶対に改善はしやしない。悪化としてのその道行は、あまりにも長いものになってゆく…。それでも人の世は終わりはしない、その終わりは延々来ない……。

この気付きは絶えずいつものことではない。知るべきことが識らされてきてしまってるってことでしかなのだ。みなが広く深く高く、全景を観てあれるといいね。つまりは鳥瞰図的に。そしたらば、知るべきことの数が、その報告が、とりあえずは、多くなってゆくんで。来年以降、酸素の供給、大丈夫なんかね?。」


注記:
ゆくゆくにおいて、語られるべくしてのその人間は、そのハスナムは、決してバカ/低能/精神異常者などとしては決して片付けることのできないような人間なのだ。知能/知性/精神力においてでは、一般を、世のアベレージを、遥かに超えている。ことの伏線としてここは書かれた。

俯瞰としてのその世界、それの吟味…、これがオン・ゴーイング、つまりは世界とのリンクが張られた上で、この場合においては、問題は一切起こってこない。その彼はキット、確実に、優秀なプレイヤーたれる。ことにおいて問題となってくるのは、事後に、一人っきりになってから、改めて、世界に関しての、対しての、吟味を、考察やら思考を行う場合になる…。

個室/密室下において世界を内面化する、内界において自分の俯瞰を投影するケースってこと。
これってある種の神化に他ならない!。

家に持ち帰ってからの、その孤独な行為/営為ってことになる。この場合はもう完璧に世界に対してはアウトとしての状態になる。リンクはまったく張られてはいない。これはこれで決して悪いってこことではない。でも、良からぬ想念や妄念が、いらぬ雑念が、割り込んでくる、水を差してくることがもう避けられないんだ。それがことの他多くなってしまう。自分ひとりだけの世界だってことで、

ので、他の

ってことで、好き放題が、やれてしまうからなのかも知れない…。

本当はリアルタイムでなきゃ〜ちゃんとした俯瞰はやれないんだ。ことがまさにリアルにして、現実だってことが、ことを為す上でのガイド、骨組み、骨子になってくる、いるんだと思う。
ところがだ、自宅に帰ってからの、一人のみにての場合には、それは至極あやふやなるものに、いたく精彩感を欠いたもの、それとしてのものになりやすい。それとしての再構成としてのものにしかならない。かなりに主観的チックなものになっちゃう。そういったものに、とにかく、

〜〜……。

イメージをもって頂く為に基本としてのモデルを提出しておこう。
一番いいのは水槽の中の世界だ。





箱庭化されたその世界だってことでもいい。







自分はこれを、冷徹なる眼差しにおいて、外部から、一切の感情を交えず、ただ観てるだけ。
しかし、どうしたものなのか、この自分は、観ることにおいて、引き込まれてしまう…
どうしようもなく、中の、内部の構成においてでは、魅せられてしまってる……。
いや、自分の好みを徹底するにおいて、レイアウトやら内容を、変える、変更することが、
できはする、当然、これはやるべきこととになるのかも知れない…。
これが現実に対しての夢、夢想、計画の青写真、憧れ羨望として抱かれることとなるものの
そのそれらの、温床になるのだ。

注記:
個人的にただ思ってる夢見てるってだけならばまだいいのだ。ことにおいて、育まれた願望が欲望が羨望が、とんでもなく強力に、なってゆくっ、なっていってしまったってのが、問題としての核心ごとなのだ。基本、人が持つ、その強い願望やら欲望に対しては、世界は確実に応答を返すってことになる。これもまた法則としての、それにおいての反映なのだ。ことは、その内容ににも依るのであろうが、場合よっては、扉を開くことにもな〜る〜〜〜……。


ここは一種の魔術としてのその原理の説明でもある。個人的に内面化された世界、その世界内において祈願が祈念が果たされる。すると〜、彼方、異次元としての、同じくしての虚構にして不完全なる世界とのリンクが形成されてしまうことになる。ありもしない世界と通じてしまうことにもなるわけさ……。すると、これまた同じくして、

としてのナニカが、召喚される、招聘されてしまうことにもなるわけさ……。これが、その当人に憑くことにおいて、よって、本来、在り得ざる事件としてのものが、その犯罪が、実際に現実においてでは果たされることとなる、そんな展開にもなってしまうよう、

訳さ……。

基本、ことのすべては、”(ことわり)”たるものに関わってくる!。あらゆるすべてのものの背後、その背景には、これが、

、働いてある。明確なる区分にて、確立されてある世界や領界領域、その場たるものが確定されたのならば、その途端、当然!、

〜、ふさわしくしての然るべきしての法則としてものものもまた、其処に、立ち現れてくる、くることになってる〜……。

簡単な例を一つ挙げとく。私達が生きてあるこの世界においてともなれば、物理法則として把握、理解されてあるものが、まさしくそれとしてのものになる。重きは、重量あるものは、表面にとどまりてあるばかり。もし落ちたれば、底に、留まりてあるのみ。決して、自力で飛んだり、天に登ったり、其処へと至ることはない、できない……。

この”(ことわり)”としてのものは、その場、そのフィールドにのみ、固有なるもとしてあらわれてくる。その世界においては、自然と備わってあるもの。それとしてある上においては欠くこと能わざるもののことになる。これにおいても例を挙げておくならば、原子核と電子との間で仲介業務を果たしているところの電磁力、神ご自身に仕えるべくしての七大天使としてのもの、ラジャスとタマスとしての質塊、それらに対しての調停仲介/バランサー役として機能するべくしてのサットヴァ、これらとしてのものを、思い浮かべてもらえればいい。要はだ、それらとしてのものは、その所在、その根拠は、人智を完全に越えている。人が、人類が作り出したるものなどでは完璧にない。自然発生的に、本然なるものとして、其処に、最初から、自然と、備わってしまっているものになる。摂理、そうとしか捉えようのないもの。あらゆる場、フィールドとしてのものには、それ固有の法則が、セットで、備わっている。

禁断の樹の実を食したことにことによって、我々人類、人の子等においては、対象から隔たった、分断された、分離した、そうされた形で、なんらかの対象を、認識することが可能になる。まったくの抽象的な存在となって、その対象や、その世界に対しての吟味や考察が、できるようなったのである。現実の生活感において考えるのであるならば、まったく関係のない、捉えることのできないミクロ、もしくはマクロの世界においても、対象化においての認識が、可能になったってことでいい。基本、大多数の、多くの殆どの人々にとっては、生きゆく上においてでは、まったくいらん、邪魔になるばかりの、不要なる知識理解、お題目であるはずなんだがねっ!。まっこれは今はいい。

対象化する、これを行うにおいての、その対象としての有り様は、大なり小なりとしてのその振れ幅は、

。無限なるものとして、ことは、つまりは対象の持ち方、選出は、あり得てしまうのだってことでいい。細分化、専門化としてのその流れその機運のことだとして思って、考えてもらえればそれでいい。そんで、どうなるか?というと〜、錯綜とした、カオスとしてのもの、実生活への応用がまったく効かない、単なる科学的データの山積み、その巨大なる蓄積にしかなんない。なにか不測としてのことが起こってから、あれやこれやを語りだすだけの批評家、専門家しか生み出せないでいるってのが現実なのだ。

統一見解たるものがいるのだ。対象と、それが十全なる機能において存在しているところの場そのもの、フィールド、世界、そしてまた、その世界内においてのみ顕現しているところの法則関係。これらのが三つがセットとしてある。相互にてそれらは補完関係にある。この三つ組としてのあれやこれやの対象を総合的に評価して直感を働かせるならば、そこに浮かび上がってくるのは「調和」としてのキーワードになる。あらゆるすべては調和をもって成り立っているってことになる。更にもう数歩踏み込むならば、この世界のそのすべては、ミクロもマクロもひっくるめて、相互に連続性をもって関係連結がなされてある。その関係性は間違いなく動的なるを特徴としており、間違いなくなんらかの目的に奉じるべくしての機構、そのシステムとして、自己創発的にて構成されてある。ではそのすべてが奉じてあるその目的とはなんなのか?。この宇宙とししてのその本当の、本来の目的とはなんなのか?!。これを突き止めることこそが、研究においての本当の課題とならなければならない…。あったりまえのことではあろうが、ことは人間の為にこの宇宙があるわけではない。人間も人類もまたその大いなる目的において奉じるべくしての歯車に過ぎないはずなのだから…。もしそれとしての解答が手に入ったなら、我らもその目的においてより意識的なるをもって、協力することが、できるようなるであろう……。

ことの大正解を、知る知らぬ、分かる分かり得ぬに関係せずして、適宜適当適切なる調和を志向する、それとしての調和を志向してあることだけは間違いのないことであろう。人類も薄々なれども、ことの重大性重要性を理解はしている。そこに生まれてきたるのが、道徳たるもの、良識としての考え方、その概念観念になるのであろう。そしてまた、より現実的な調停を目的としての律法、法律としてのものになる。なにが騒動/対立/諍い/イザコザとしての事態があったなら、それらがおこったなら、これこれこうゆう手順にて手続きにおいて、是々非々を明確にしなさいだ。裁判のことを言ってる。

ちょっと道徳に関しても私見を述べておくと〜、これには「人の道」としての抽象的な概念がそこには埋まってる。これを外れるような行為は「絶対にーー!」してはならないって。では人の道っていったいなんなのか?。二律をもってある。一つに理性、もう一つが良心、それらに基づいて行動選択しなさいって。でもね、これは簡単にはならないんだ。どちらにおいても。健全にして十全なる理性、そして良心ってのはどっちも獲得物でしかないのだから。知性としてのその領域においての覚醒体としてのものが、それにおいて備わっている、しまってるのが理性。同じくして良心は感情としてのその領域そのセンターにおいての覚醒体としてのもの。つまりは主。ともに困難となってくるのがその目覚め、覚醒してあるとしての事態のことになる。これらは両輪としてのその成り立ちである、そうした成り立ちでなければならない。最終決定権は、知性にあるべきだが。理性にもとづいての行動指針決定である必要があるのだが…。非常に難しいことでしょう?。大概は、否定的な感情、不合理なる感情に支配されての行動、それになっちゃてるでしょう?。浅はかにして、あさましくばかりしての我が思い、また実際のその行動かな!。

道徳に関しての別のアプローチもやっとく。それはタオに至らんとする、それに至ることを是とする生き方のことだ。このタオってのは

としてのもののことになる。生まれてくる前に居た、一体となっていた、含まれてしまってた

魂、霊魂レベルでの話しね。それはいつもどこにおいてであろうとも健在してあるんだ……。ヒンダスタンの文脈で行くと〜、それはブラフマン、OMとしての例えられてある

のことさ。自分の見識においてともなれば、暗黒の領界領域にて、燃え上がる、燃え盛ってある巨大な壁を外見とするなにか…。来た方の

ではあるが、生きて再び合一できる、死して後に合流できるのかは定かではない。生きている間に、それとしてのものの神聖さを識る分かる、そしてこれこそに奉じて準じてその身を預けて同調して生きるを選択してあるのがタオの道、アートマンとしてのその生き方ってことになる……。

さて、こっからは、少し…いやかなり際どい、危ない、罪深くしての内容、それに関してを、やる。どうしてもクルーガーに関してをやっておきたいんだ……。

自分においてどうしても究明せずばならないことは、「どうして

伴ってきてしまうのか?」なんだ。ちょっと書くにおいて考察をさせてもらう。

ことの発端は、

ストレスであるはずなんだがね…。ストレスは、ことが自分の思うようにはいかないときに発生してきてしまう。でもね、何がどうなって欲しいのかが、この自分自身にも

ってな場合もあるはずなんだ…。人生経験の浅い、他社との関係性としてのデータが、乏しい人間においてともなればこれがこのことが見通される。故になにをどうしたらこの苦しみ、

としてあるこの状況から脱せられるのかがまったく分からないだ。信頼の置ける全体性としてのなにかから分離、欠落してある状態にあるってことが先ず言える。つまりは、よき家族としてのものがこの彼には欠けていた。ネグレクトと呼ぶに相応しい環境下、その状況下に、この彼はあったってことになる。これが絶対条件。健全なる生を送るにおいての、その充実感から、阻害されてある状態。まったく面白くない、楽しくない、つまらない……。元々からして、そういったことであった、そういったことになったことがない。あったとしてもかなり昔の幼年期の頃のことで、もう遠に、忘れ果ててしまってる…。

なにか大いなるもの、無意識においてであったとしても信頼の置ける置けている全体性としてのなにか。それは家庭、学校クラス、仲間、地域社会、ご近所さん、国家としてであっても構わないのだが、それのそれらの一員、一部としてあったなら、それなりに、自動性をもって、健全なる自己は保たれる、保ちうるのだ。だがだ、これに浴せぬ状態ならば、間違いなく、確実に、分裂病と呼ばれるその不健全なる状態へと移行、転がり落ちて行ってしまう。自己としての統合性が失われて行ってしまう。思慮配慮としての機能がいたたまれぬほどまでに毀損劣化されていったしまう。そうなると何が起こる?。自己の内にてのあれやこれやとしての、小さくして、また浅ましくしてあるばかりの、神経質で、癇癪持ちとしてのものらが、幅を、利かしだして、いってしまう…。

ことの根本の救済方法は、本質に対してのアプローチにしかない。それも外部からの愛をもっての干渉において、それによって。まだ、人格面は整っていないのであろうから、理をもって諭しても意味がない。必要なのは本質においての実感でしかない。これが与えられたならすべてはあるべき姿へと自動的に復帰、回復することになる。とりあえずは……。


ここでチョッと寄り道がてら、「業」について、それにおいてを、やっとく……。

題材としては交通事故の多発地点、その現場ってやつを最初にもってきたい。
どうしてもあそこでは事故が起こってきてしまう…。重傷者、死人が出やすいんだ……。

もう一つ比較対照化の意味も込めて、テニスの試合において。これもまたさっきとおんなじ展開がまた繰り返されてる!ってのがあるんだ。つまりはおんなじパターンに落ちてしまってて、そこからの脱出ができないんだ…。これはちと専門性が絡んでるんで、簡単には、生活においてどうしてもおんなじ轍を踏んでしまってて、ある種の苦痛から、その嫌なパターンから抜け出せないってことでいい。

この現象の核心部分は、なにかが、その空間にか、自分のマインドのスクリーン上に、焼き付いてしまってるんだ。何をもってなのかはハッキリしてて、焦り、恐怖、パニックにおいての感情放射によるものだ。これが彫りも深くに転写されてしまってる。その感情波があまりに強烈であったが為に、焼き付いてしまってるのさ、写真みたくに!。

先に轍としての漢字をつかったのだが、まさにそれの様に、以降、ことが刻まれたそのときの主要なる、重要なる要点、項目が揃ったならば、あとはどうしても自動的にことは再現されていってしまうのだ。かったあったそのオリジナルとしてのそのままに。被害者となるその対象者を換えて。人の心に、そのスクリーン上に刻まれたものはどうなるのか?。そのキチガイとしてのものがいなくなったそのあとには?。これは、これが不思議にして奇妙、また奇天烈、救い難いのは、その人間のこころのスクリンに転写、照射されてそのイメージは、万人おいて、

のだ。一人の気狂いが生まれたならば、それと同じくしてのものが、以降、自動的にで、出現してきしまうことになるんだ。たった一人が犯した罪が故に、他の全員も同じくして、それの共有者なる。全体としてのその記憶の、情報の保管庫が、汚されてしまうことになる。この共有の傷としてのものが…フレ..........。

魔の交差点、魔のカーブ、魔のとき、逢魔がとき…

そこには間違いなくかって刻まれた刻印としての轍が潜んでいる。

再開。

ちょっと気分転換に天空の星々からの影響について考えてみたい。

どうして、空の遥か彼方の星星からの、それれが、あれらが、どっかの恒星の光を受けて、
反射する光をもって、地球上における我々人類、その生存、その生活様式に対して、
作用、支配、影響することができるのか?!。

ことは、単に反射光ってことだけではあるまい。光は、その星星の存在を意識、確認、知らしめてくれているまで。ところであなたは占星術を信じているだろうか?。天空の星星からの影響ってやつを?。月によってのものならば未だ理解るが、そんな遥か遠くからの影響なんてもん、本当にあり得るのだろうか?。それらは、あれらは、あまりにも遠い……。

観測できたってことでそれはそれらは知られただ。そして名付けもを行ってしまってる…‥。
このことよって、もうあれらは我らの世界領域の中に、組み込まれてしまってる。もう忘れないし、見逃さないし、ホローもちゃんと抜かりなくできる。そして、すべては、かってからのそのまんまで滞在、存在し続けている…。

Re: “speak of the devil and he will appear
言葉の表現に「なになにの影が差す」てのがある。この影って表現がまさにあれらからの影響を現すにおいては最適なものだと思う。「誰々さんの噂をしていると。まさにその人物が目の前に現れた!」ってやつ。「噂をすれば影が差す」。すばりこの表現を題材にするのが良いかもしれない。どうして、その彼の人は現れてきたのだ?。噂話をすると、その人の行動とには、なんらかのリンクが、相互関係があるのか?。どうやら統計学上においては、関係があるみたい。

おそらくは太古の人々においては、それは自明の理であったんだろう。そこころの人々は自然とのリンクが如実に身体感覚において感じられていたから。また、知るは般若においての直感把握が主流でもあったんだろう。

そんなことはどうでもいい!。

ここにおいては、その、それらの影としての影響が、どのようにして、どうして、我らにおいての働いているのか?においてだ。既に与えられているヒントとしてのものは、我々は生まれ落ちたその瞬間に、自身の魂の表面を感光版として、その瞬間における天体からの放射によって、被爆してしまうのだ。そのときの天空の星星の配置にアンカーしてしまう。その色に染め上げられてしまう。被爆ったって、それは生存、健康になんら影響するものではない。その魂の傾向性として以降、やがてにおいて、働いていってしまうってことまでなんだ。

天空としての宇宙はどれもこれもあれもそれもみんな運動し続けている。機構は回り続けているってことなんだ。この運動の中に取り込む、そして調和するよう、外圧として、ありがたくも刻印が

ってことでしかない。

追加:
本体が動きに沿って、影もまた動く。本体はいいとして、影そのものには実体はない。この実体なきものとの関係において、どうしたものなのか、そこに反映がきたされてしまっているのだ。ことの実際は、実は惑わしなのだろうか?。今気づいたんだけど、惑星の惑は、この惑わし、惑わされてあるの惑ではないか?。本体の動きにおいての反映をもって、末端は動かされている。それも、なんの物理的な力の関与、働きもなく…。ことははやはりアレだ。本体起源の寄せくる波動の、その挙動の投影にの元、自然と、一種、騙されて、勝手に現場が動いているまでなのだ。だが、ことはそれでいい、そうでなくちゃならないんだ。少しでも本体との関係を保つ上でも…。末端に行けばゆくほど、機械的な物となってる。そして荒くしてのその仕上がり、出来上がりなのだ。これもまた一種、逆説的ではある。天空より投げ落とされる、投影されてある影の、その動きに合わせて、それに沿って、巨大にして尽く粗くしての、物質性においてのその仕上がり具合の世界は、つまりは我々が生きてあるこの物質世界は、動いて、動かされている?。一種、単に、盲目的なまままの、いたく単純にして粗暴なる機械性において、その姿、その挙動において…。詩になってもふたw。

補記:
影に踊らされる。こんな表現もあるね。また、思い込み、勘違いにおいて、例えば:単車を運転してて、後ろに後続車がある、いると勘違いして、緊張してしまってる。焦ってしまってる。バックミラーで確認すればいいだけなんだけどねw。また影に染められるってことものもあるにはある。まっここは実体なきものにおいて動かされることもあるってことの、その実例として。

このことがアンカーとなって、各人固有の星星、それらの運動において、沿って、どうしたもんなんか影響を受けてしまってるみたい。このことにおいては誠に不思議だ。不思議な機縁だ。本両者間においては、あの量子もつれとしての関わりは、”

”と、言わざるを得ないだろう。だから…ある意味、霊妙にして微妙なる支配なんだってことにはなるな。それも何においてその影響力がどう反映するのか?しているのか?ってのが重要にして核心で、それはあくまでも本質においての、それの無垢なる感受性、それにおいての察知が為されているときのみの話なのだ。云わば、曖昧至極。なにがどうなってるのかさっぱり分からんとしての事態が殆なのだ。なぜならば本質が主導権を握ってる人間なんて、子どもを除けて、ほとんどいないからだ。操舵を担うその主体、人格は、至極鈍感にして頑固なんだ……。

どうも最近は、イライラして落ち着かない。偏執的なまでにくっだらないことに没入し、細かなことに拘ってしまってるではないか!。こないだ到頭、衝動的に、80万損切った。まっ数年我慢したんだからもう限界だったんかも知れないネっと。ことの操作の扱いが、粗暴至極になってしまってる…。それは台風の接近による、気圧の乱高下のせいです!。まっ原因としての要素は、色々、諸々、複合的にして重層的に存在してはいるな…。

ここは見えざる力の例として語ってみたまで。

さて本題に戻って、事故多発の現場においての話しをしようじゃないか……。例えばあの魔のカーブだとか、魔の交差点、魔の四辻、三叉路ってやつにおいて。何事にもイニシャルってのがある。最初の最初ってやつ。ことの初っ端としてのオリジン、ことの原因

形成してしまった事件、事故。これについて…。

ことがどうしたものなのか、当事者としての被害者を変えて、再発していることからも、そのポイントしての空間、その領域に原因があるってことになる。ことは単に、空間における構造/構成的に、ミスを、錯覚を、イレギュラーを、引き起こしやすいってことでしかないのかも知れない。変に不規則な、高低の変化を構えたロングのカーブであるとか…。直進でガンガン飛ばしてくる車が多い道に、直交する形で、道が接続されているT字路。片側は交通量が多い割に、これに交差する路は、やけに車が、来る車の量が不規則な十字路。ワザとかいな?と思わせる程までに、出口間際にて止められてあるダンプ、これが多い交差点、それへの合流路。等々色々まだある。

実際の事故のその九割は、こういったポイントでの発生になる。だから、事故としてのことは、あくまでも起こるべくしてのものでしかない。原因は単に不注意であったってことでしかない。
運転中、こころにおいて、何らかの”(うろ)”が入ってしまってて、つまりは運転に関しての無意識無自覚状態ってのに陥ってしまってた瞬間があって、これとしての事態が起こってしまってて、それで、そこに魔が刺した、作動してきてしまってた。イレギュラーなることを含んでの、自動運転では間に合わない、そんな局面に、不幸なることに、可哀想なることに、遭遇してしまった…。

このケースが大部ではあろうとは思うのだが、これに関しては触れるつもりはない!。そんなことじゃないんだ……。いや、これにおいても一つだけ、言っておかなければならない。既に上で使ってしまった表現に関係するのだが、魔としてのそれの関与を許してしまうといった事態にかんして。生活においてのなにか不安があった場合に、運転中に、それに関してが、どうしたものなのか

、懸案事項となってしまった場合に、悪しくしてのシステムがきれいに作動開始してしまっているのだ。これは同乗者との関係においての某らかの危機が、予感想定想起されてしまうといった契機が車内にてあったはず。関係という基盤において、それにヒビが入った。そんで、あって当たり前としての日常が、これからとしての未来が、音を立てて崩れてゆく…そんな予感を、”確信を”持ってしまった。そんで、意識が運転どころではなくなって、そこに”虚”が発生して、魔が関与してきた。きれいにいろんなことが然るべく整い、いろいろと残念なことが避け難くして起こってしまう…。例えば、その虚としてあった瞬間に、道路を走り渡る猫を、どうしたものなのか、どうしてなのか、その瞬間の真っ只中にて、轢き殺してしまってたとか…。ことが真夜中のことであるならば、それが起こることはもう絶対に避けることはできない。悪意は悪意で演出には数限りなくしての手札を持っている。

追記:最後のところは自分の実体験になるのだが、そのときに思ったのさ、悪意は悪意なりに世界の構成、その成り行きの実権を握ってるって。目的は精神に意識にダメージを与える為に。これとしてのシステムが作動するには、いくつかの条件もまたあるのだろう。その当人たちにとっての関係の基盤が揺らいでいること。そこに関係性を損なうにおいての最も避けるべくしての猜疑心、邪推ってやつが幅を効かせているその瞬間。ここに魔が関与する、刺すべくしての隙ってやつが生まれてくる。当人たちは、いやこのターゲットなっていた自分は、一旦現実を踏み出す、そこから遊離してしまってた。確固なる関係、それを念頭に置いての当たり前としてもたれていた確固なる世界ってやつにおいての、揺ぎがもたらされる。そんでことの実際としては遊離って状態に至るだ。ことは心の隙ってことで十分なんだろう…。ここの魔としての関与が突如果たされてることになる。それらは決してことの事実を見逃さない。ありとあらゆる環境の利用において、悪意としての展開を用意してくる。つまりは、それもまたプラクリティーの操作において権限をもってるってことになる……。」 

さて特異例においての話し。滅多に、これはない、おこならいんだが。これは、ことのあったポイントしての空間に、その事故の当事者においての、とっての情報が、焼き付けられてしまっているからだ。事故においてのインパクトが殊の外、大きかったんだろう。事へと至ったすべての情報をその経緯経過を引き連れて、その空間としてのポイントには焼き付けられてしまってる。なんによって?。絶望としての、その恐怖においての、それに際しての感情放射によってだ!。

これは空間に対しての

、そのポイントとしての空間そのものに

。するって〜と〜、いろいろある要因の、個人として持つ要因のいくつかが、この先行者と合致してしまうと、ことの”轍”を、再び、三度、何度でも、だれであろうとも、

ってな現象が起こってしまうのだ。これにおいては、なにが本当の要因、原因になっているのかは分からない。空間に刻まれてあるそのレールを、そのパターンを、つまりはこれが轍としてのものになるのだが、それを自動的になぞらされるってことになる…。要は、”癖”ってやつが、その空間そのものには、付いてしまって、いるのだ……。

ちょっと、ここで脱線:
人が凶事に凶行に走るのは「怒り」による。この怒りってやつにおいても幾種類かあって、そのなかでも一番普遍的で面白くないものを挙げとく。ヒステリーだ…。今回のトラウマとヒステリーってやつにおいては、別項で独立したものを既にやっている。これらとしての病理が、人類にとってのとりあえずのメインとして解決するべくしての課題なのだ。言い方を変えれば、誰も彼もにとっての個人的な課題だってこと。ヒステリーに関してここでおさらいしておくと、あくまでも個人的な見解においてになるのだが、ことは人格と、それ以外においてとの関係性の問題なのだ。つまりは人格としての対社会の顔と、本来性/生来性としての自分との、その関係性における齟齬が、不一致が、仲の悪さが、対立が、原因なのだ。自分の中に自然と湧き起こってくる欲望願望衝動ってのがある。いろいろある。知性においてのもの、感情においてのもの、精髄反射系におけるそれ、本能におけるそれ、性衝動としてのまさにこれ。また自分として在りたい成りたいってや奇特な求め、欲求ってのもある。希望って呼ぶべきか?。これらとしての願望を欲望を堰き止めるべくしての制約ってのある。社会常識、もしくは持つ

良識、貞節、美徳ってやつのことでもいい。単にお金がないってゆう現実でもいい。ここに、求めに対してこれらが阻まれることをもって、怒りが、欲求不満が生まれてくる。どうしても自然と、持たれてしまうことになる。だから、自分としてのその内面は、いつも地獄としての状態なんだと!。

どうしてこの自分は社会から認められない?チヤホヤされたいのに…。どうして自分は金持ちの親の元に生まれてこなかった?。欲しい物がいっぱいあるのに…。どうして自分は女に恵まれない?モテナイ?。ヤりたくてヤりたくしょうがないのに!。どうして自分は応募したならば、そのすべて会社から不採用の通知が届けられてくのか?。もうどうしても働かなきゃ〜ならないのに…。社会はどうしてこの自分にチャンスを与えてくれないのだ?!。ずっと、今まで、どこでも、ここでも、自分は評価されることはなかった!。誰も彼もがダメ出ししかしやがらない!。

どっかで、この彼は、自制心を失ってしまうことになる。延々、決着つかずの自己内における相克が続いていってしまうからなのだ。追記:基本ジレンマに対してのその解決法は合理化機制にしかない。理屈をつけて自分を納得させる。もしくは欲望の方を合理的に処理するとか…。でもこれでは、これだけでは終わらないそんな事態がやがてくる。そしたなら、もう無軌道なる噴出しかなくなるではないか…。そして、ある日に

、圧倒的になって、その思いの方に完全に振り切ってしまい、それとの

果たしてしまってる。そんで、トチ狂って、とんでもないことをしでかすことになる。ことは今ある現実を爆破、焼却してしまいたいといった、そのイメージに囚われてしまうことになるからだ。彼は単に今ある状況を変えたかった。それが力づくであろうがなかろうが関係ない。もうそうするしかこの自分には退路はないんだと。現実からの遊離、乖離としてのその精神状態になって、暴発してしまう……。

補記:
自身としてのその拙い限りの合理化では基本足らない、間に合わない。つまらん理屈なんてのが間に合うはずがないのだ。ここにおいても信仰においてのその我慢ってのがいかに有効に働くことになることか…。イエスを手本にして我が身の、我がこころのうちの苦しみにいかに耐えることができるのかが。背景にリアルなる原理を含んでいるので、背後にてはナニカが合成され、構成されて、それが、やがてにおいて魂を育てることに、それにとっての糧となる。このことの実感が我慢においてのその対価として、やがてに於いては、確信されることとなる。ここは世間体や、社会常識において自分を制するのとはわけが、その次元が違う。

更に補記:
快/不快たるものにおいての振幅、それ/それらの味わいをもって、その回転において、人間は生きている。いや、

いる、

いる。「禍福は糾える縄の如し」。つまりは、片っぽううだけで、はもう片方も成り立たない。成り立たなくなる…。事自体の正体を看破して仏陀は「一切皆苦」を悟りとして持ったんだ。そんで両輪伴に成り立たなくなるそれらにおいて影響されなくなる車軸としてのポイントにて留まりなさいとして中道としてのそのあり方を勧められたんだ。だがこれはこれで難しい。よっぽど酷い目にあってきた人じゃないと、これとしてのあり方を自主的に選択することは難しいことであろう…。それになによりも実際に座ってきている人じゃないと勘所が掴めやしない!。…これはこれで正解であるし、無難にして妥当な方向性ではあるのだが、お勧めはやっぱり世界観たるものの変更、それの再確認をもって生きるってのいいと思う。つまりは、この世界おけるその真の支配者、そのトップは、神様としての存在なのだとして。この彼としての存在との関係性の元、自分は生きている、生かされてれているとしてしまうこと。基本それは全知全能であり、また自分としては良くは分からんが、”愛”としてのエネルギー、それの巨大な塊なのだ。ならば、もう一切を、お任せ

しまう。委ねてしまう。これとしての世界観を構えることの利点は、「禍福は、共に、この超越者からの贈与である」として、ことの実際を、到来を、顕現を、捉えられることにある。これも一種の合理化機制ではあるのだが、自分の頭だけに基づくその説得、言い包めなんかではなく、彼そのもののお考えに基づく、きっと必要、きっと良いこととしてあるんだろな〜との収め方になる。その態度なのだ。自己撞着、自己欺瞞、理屈によっての言い包めなんかではなく、しっかりとした、実体ある存在においてのその采配、配慮なのだと捉えることが、考えることが、思うことが、適ってる!、適ってしまって、いーーる!!。

これにおいての不思議なることは、どうしたものなのが、精神の健全性は、この自分の考えにおいて

比べるならば、遥かに勝ってる。暴発へと至るアウト・オブ・コントロールとしての事態には絶対ならない…。試みとしての期間、すさみとしてのその道行、工程においては、退行としての意識レベルの低下は基本、避けられはしないが…。それでも激情をもってしての、突発的な狂気、それによっての凶行に至るなんてことは、まず

あり得ないっと。終わり」

問題は、この彼としての人間を、どうしても生み出さざるを得ない、今ある状況、社会現実なのだ。今後ますます増えてゆくからね。コロナと、社会情勢、財政の問題、支出の増大傾向が拍車をかける。根付くべくとしての健全なる土壌がもう何処にもないんだ……。」脱線も終わり。www。

アハハじゃないわな〜、主の守りの元に、その庇護の下にあることによってでしか対処のしようはない。その分、自分を捨てて、与えられてあるその仕事に、粉骨砕身せねばならなくは、なるでしょうが。これが一番いい。これしかないんだ…。


さて、お話はトラウマたるものに戻って、これは人のこころ、そのマインドのスクリーンのみならず、物理的な空間そのものにも、刻印され得るんだってことを、自分としての言葉をもって、再確認させてもらった。どうだろう?そんなことは果たしてあり得るのか?。その場に於けるなにか目には見えない、人によってでは検知され得ない、そんな力の作用において、果たして健全なる人が、我知らずに、どうこう

、そんな事態ってのがあり得るのだろうか?。それも悲惨なる大事故において…。いい問いだと思う。これは検討するに価値がある。とりあえず、自分としては、それはそれとして、あるんだって立場で、話しを進めるまで……。

自分が言う、ここに想定してある件は、空間としてのものに、そこに刻印があるが為に、改めて同種の事故が、連続的に、被害者となる当事者を変えて、引き起こされてしまうってことになる。そのポイントに、その箇所に、事故を引き起こす原因がある。残されてしまっている…。

これを単にトラウマと同列のものとして考える、扱うわけなのだが、では、なにをもってこれは形成されたのであろうか?。人間が絶体絶命の恐怖に際して発せられた悲鳴、これとしての感情放射によってだと思う。写真を想うのが一番いい。フラッシュが焚かれて、フィルムには、レンズが向けられてあったそのすべてが焼き付けられることになる。何一つとして逃さない。すべてをそこに、セットして、ただ機械的に、焼き付けるんだ。

それとしての写真の背景には、事故を引き起こした当事者が、どんな思いの元に運転していたのか、なにをどう考えていた、思い悩んでいたかとかの内容も、紐づけの形で、記録されてしまってる。もし相手方がいた条件ならば、その加害者に対しての怒り、その叫び、怒号も当然に焼き付けられてしまってる。ことにおいての、際しての、その感情放射が極端に大きく、またそれが非常にネガティブな色を備えていた場合に、後に祟りなす悪しくしての刻印がその現場には残される、生まれてきてしまうことになる。

トラウマなるものの特性は、リフレインがそのこころにおいてはなされるってところにある。時をおいて、それを隔てて、あるときにどうしようもなく、自動的に想起されてきてしまう…。つまりは、ことの体験の繰り返し、再帰を、それは求めてくるもんだってことになる。

ならばそのての交通事故の現場で、また時を経て、改めて似たような事故が起こってきてしまうってことに合点がいく。ことはその刻印が個人としてのマインドのスクリーン上においてのことだったのか、物理的三次元の空間においてのことだったのか違いでしかない。

*先に結論を言ってしまえば記憶だ。正確言えば、記憶としてのその記録。
 固着をもって、固着する、してあるをもって、それは汚れとしてのものになってしまう…。
 これが人間を縛り、知らずの内に動かしてしまってる。
*癖、習慣、業としてのものだって、言ってもいい。
*目に見えない轍。これに沿わされての無限反復運動…。
 呪いだって言っても、構わない、いいんだろう…。聖痕としてのもの、その轍もある。
*良い癖ならばいいのだが、人は人類は、とてつもなく邪悪なるもの、
 それとしての観念において、悪い習慣ってやつを身に着けてしまってる。
 これをちゃんと各人が血みどろの戦いをもって解いてこなかったので、
 広く伝播してしまうことになってる。そして、その業としての癖は、血を伝って、
 子々孫々後代にまで、伝わって行ってしまうものなのだ……。

*コンピューターのプログラムにおけるBUGとして考えるのが正解かも。
 その上で、解決としてのアプローチをそのまま現実においても当てはめる。
*外傷としてのとらまえならば、それは痛みにおいての悲鳴を、発している。
 治癒されるべくしてのコールサイン。声は聞こえんのだが、それとしての何かを発している。
*お祓いの効能はなんだ?。その当人の完全なる成仏をもって、BUGは消し去ることが
 できるのかも知れない。目には見えないその根源のナニカを消し去ることによってでしか、
 ことは解決できない。

*自浄作用が完全に潰えたときに、もうどうにもできない程までにその分岐点を越えたなら、
 怒りの日としての、そのリセットが、選択、執行、実行されることになるんだろさ……。



つづく、つづける

ちょっとティーブレイク……



これは死者より蘇ったイエスなんだけど、自分のイメージにおいては、このイエスは以前とはその肉体の構成は違っている。アストラル体ベースにおいての、その肉体の再構成になっている。これにおいて、生前に受けた傷がしっかりと再現されてしまってる。それだけ十字架上にて受けたショック、ダメージが、彼にとって大きかったってことの証でもあるのだが、それは確かに残るんだってことが重要なんだ。ならばベースはその個人の心ってことになる。いや、魂か?。
経験したことは、すべて記録される。死後においても、それらは影響を及ぼしてくるのだ。

ps.
イエスは

、ことの証として、自分は確かに一度死んで蘇ったのだってことを信徒等に納得させる為に、べく、これを敢えてもってで、利用してた。







人はだ、そうやすやすとダークサイドへと堕ちることはない。もし本人が、そう望んだとしても、そう易易とは、そう簡単には至れやしないんだ。なぜならば、

、その生存環境においてでは、既に最初から備わってしまってあるからだ。本人が、そのことに、この抵抗について、気づくことはまずまったくないであろうが……。*その人が持つ徳力の量に関係してる。前世においての獲得である場合もあるし、もしくは先祖や自身の親らが持つ、その徳力に原因している場合もある……。

だがそれでも、やっぱり、これもまた、やがてにおいては、無効化されてしまうことともなりうる。少〜しずつ、存在のレベルが、下降していってしまうならば、守り庇護としてのサステインとしての抵抗力が、破られていってしまうことにもなる…。そしてとうとう、あるボーダーラインを越えたなら、最低なるものとしての限界ライン、それとしての生存レベル、これへと至ってしまったんならば、もしこれとしてのものへと陥ってしまったならば、もうどうしようもなくなる。もう完璧、絶対に、あちらっ側の手に渡る。その手へと、落ち込んでいってしまう。ことの結果は、あちらっ側としての人間、それとしての存在へと成り代わってしまうのだ。つまりは、

としてのものへと。もうこうなると、この人間は、もう実際には

。そしてまた、人間では、根本的なる始末が、彼においてではつかない!。つけられなくなってしまう。つまりは、救い難くしての人間だってことになる……。*彼自身がそうなることを望んであったからなのだ!。これが真実でありまた事実。当人において、それが、そのことが、志向されたならば、神としても、もうどうしようもない……。

これとしての人間が、もし、現実において、なにかことを、犯罪、凶行を、つまりは人殺しを、行ったなら、その行為としての事実は、刻印となってしまう。それとしての効能発現を見せることになってしまう。ことにまったく関わることのなかった多く人々、特に若くしてある人々の心の内にて、何故なのか、どういったこと、仕組みなのかは分からないが、その狂気としての事実が、実行の事実は、知られてしまってあることになる……。そして何よりも恐ろしいのは、刻印たるものが持つその影響、呪縛、ことの再帰にこそある。その、彼によってなされた凶事は、彼がいなくなったその後も、つまりは警察に捕まったり、社会的制裁において抹殺されたその後も、

、そのかっての凶事は、再現が、再犯が、ことの再帰が、

、為されてしまうことになる……。


                    〈騙り〉

まず最初に、瀕死としての状態にあるネフィリムが、今しばらく、その命が永らえんようにと、放り込まれてた原子炉において、その役割についてを、お話しておきたい……。



ところで今回、なぜ私はこのコスチュームにて、この出で立ちにおいてで、語りをさせていただいているのか?。なぜコレなのか?どうしてコレにしたのか?と云うと〜…

としてのその構造が大きく関わってきてしまっているからなのだ…。物語全体としても、実際は、そうなのだが……。



夢としてのものではあるが夢を見てるその当人らにとって、これを破る術は、実はないんだ…。そして夢は、眠っている間にだけ見るものとも限らない。日中、目覚めている間、その時間帯においても、人は夢見としてのその世界にて生活している…。知らず知らずの内に……。

彼ら、ネフィリムの生存その延命において、原子炉がなんの役に立つのか?についてだったな。この語りを先ずはせねばなるまい…。ことは、どういった原理、理屈においてなのか?。

元々の話としては、あそこ、あの場所はだ、あの島は〜と言うべきか、戦艦や潜水艦の動力としての利用を念頭に置いての小型原子炉、それの研究開発拠点だったわ〜けー。大戦中の話にはなるんだがね……。だけんどもー、結局、その成果は。実戦投入にまでは至らなかった、至り得なかった…。基礎実験止まりにて終了となりました〜だ。だがだ、現在は、あのときとはまったく違う目的で〜、別の用途にて〜、機材装置のそのすべては、使用されてある。一種の生育タンクとしてだな。それとしての役割として…。

ここでちょっと過去の話しを振り返る、引っ張り出してこなくばなるまい。ことの詳細は、みな、とうの昔に、きれいサッパリ、忘れて、しまいよりよってにて、おりよるであろうから…。そう、なってもたるにて、おりまするんで、あろうからなっ!。



閑話休題、さて、では、ネフィリムが、その命を、いや正確には、その正気としての精神状態を保つ、永らえられる為には、いったい何が必要であったのか?!。それは、最初、偶然に発見されたことにはなるのだが、そこに、そのことにおいて、

、使われてあったの術、方法は、人身の供犠だった。ここにおいて、重要だったのは、人の命や血としてのものなんかでは、なかったーーってことなんだ。そんなもんじゃ実際にはなんの役にも立たない…。核心ごととして、そこに必要とされてしまって、あったのは、有効にして有益なるものとして、偶然確認されたのは、人間が死の間際に発する、開放してしまうところの「聖アスコキン」と呼ばれる

だった……。物や液体、物質としてのものではないってところが味噌だ。バイブレーション……。

そもそも、土工に、土工としての器に、収まってある〜いる〜、それと一体化してある限りにおいては!、ネフィリムは不死にして不死身だ。生存の為、活動の為に、なにかを必要とすることはないんだ。食物を摂取する必要はなにも、どこにもない。あれの動力は、惑星の周回運動において働く相互作用こそが源であるからだ。太陽系としてのその運動が途絶えぬ限り、あれは、あれらは、永遠に存在し続けることが可能になる。

ことの問題は、正気が保てなくなる、その状態に陥ることになることにあった。これは何が原因だ?。それが本来持つ

に合致する、ふさわしくしての印象、その〜それらの〜摂取が、適わないことにこそ、原因はある。簡単な例としては、もしも、あなたにとって、世界が白黒としてのものとしか映らなかったならどうであろう?。あなたは既に、色に満ち溢れた世界たるものを知っている。彼らにとって、土工としてのモノ、それの機能をもってしての世界感受、そのインターフェースは、余りにも雑なるものでしかなかった。ことは視覚としてのものの話だけではない。あらゆるアレとしての感受が、つまりは入力が、また動作、出力が、あれとしての本来性からすれば、あまりにも低劣にして、粗悪なものばかりでしかなかったのだ……。

ここに常時、絶え間なくしての欲求不満が、彼らの生存においては伴ってくる。ことはそのあまりにもその複雑性繊細性において、意識的な我慢が、制御が、まったく通用しない、できない、根深くしてある、正体不明の変動が、内部にては高まって来てしまうものなのだ!。

だから、彼らにおいての狂気たるものは、その原因は、ヒステリーとしてのものでしかない。これは状況の、自分をも含めた状況の環境の一切を、破壊する、そうしてしまうことにしか直結しない。苦しむが余りだ。云わば、自己の存在そのものに対しての呪詛、怒り、絶望のみに突き動かされてしまうにしかならない。その状況環境としてのものを構成してある一切を、そのすべてを、無きものにするにしか、その脱出の解消の方法はない……。

さて、ここで、改めて「聖アスコキン」と呼ばれる

が、なぜに、あの彼らにとって、有効なる効き目としての効果があったのか?、正気を回復させるにおいて、どういった作用が効能があったのか?、バランスとしてのそのトレードオフについてを考えてみよう……。

あの最初のときのことを思い出してみよう。あなたはあの少女と同じ気持ちにならなければならない…。眼前に迫りくるはモンスターだ。とてつもなく巨大で、しかも荒れ狂ってる、つまりは怒り狂ってるやつ。しかしだ、どうしたものなのか、あなたはそれに神聖さとしての印象をも抱いてしまってる。既にあなたにどうこうする余裕はない。つまりは逃げ道はまったくない状態。喰われて殺されてしまうことはもう避けられない…。そんであの少女は自らそのモンスターの顎門へとその身を投げてしまったのだ。それも恍惚としてその様子、その表情にて……。

そこにあったのはサレンダーとしての生存の自主的なる放棄になる。そしてそこに起こってあったのはネフィリムが正気を取り戻したってことになる。ここにはシンプルにして厳正なるトレードオフとしての関係、そのフォーマットがある。一番肝心なことになるのは、自主的にして喜びをともなっての自己の生存の放棄ってところになる。これが一番大事なおころ、動かし難くして、また絶対の条件。[I am yours.]

土工の中に収まっていようともネフィリムは、人間が生きて暮らしているその

等しく存在している。人間からすれば、彼らは間違いなく上位としての存在ではある。これに、身を託することは

合理性があるっちゃ〜ある。ある意味、魅力としての色合いがどうしてもそこには

伴ってきてしまう。我が身を喜んで捧げたくなる、そんな衝動を喚起するに足りる魔力たるものがどうしてもあれらにはあるのだ……。

もう少し言葉を詳細において紡いでおきたい…。

ことにおいては微妙にしてなる条件がある。先ずの前提となるのは、己が眼前において立ち塞がっておるその相手が圧倒的なる強者であること。そうとしてのものであるとの過ちなくしての確信なのだ。そして自分に抵抗する余地はなく、既に、一切の逃げ道が絶たれてしまっていることのその事実確認。不思議でへんてこな話にはなるのだが、こういった状況においてこそ、なってこそ、人は初めて理性たるものが結ばれる、それが顔を出すことができるってもんなんだ。常日頃においてはだ、感情においての良心の様に、それの如くして、曖昧にして鈍重、朧なままなのだが、斯様な切羽詰まった局面、最早後なしとなったその途端、あらゆるすべての日常における連想、煩悩、雑念妄想が退去して、止んでおり、そうなってしまったその後に、この理性たるものの活動ができるようなってしまう…。もう少し詳しくやっておくと、つまりはだ、これまでに培ってきた溜め込んできた実戦データのそのすべてがまったく役にも立たないそういった状況に置かれてこそ、知性領域においての覚醒としての理性たるものは、人生においての操舵を握ることができるようなる。だから、……ことの核心としては理性において自己放棄としての選択が緊急にして火急の有り様となるわけなのだ。そして、これも又不思議なことなのだが、この認識においてあらゆる殆どの生存本能としての呪縛が解かれてしまうことになる。これらは人の意志やらなんやらを越えて〜最強の生存プログラムにはなるのだが、これがどうしたものなのか無効化されてしまってる……。これは一種の開放としてのカタルシス的な作用を当人においては発動させることにもなる。つまりはどうしたものなのか

気分としてのものが我がこころの内にては今、味合われれしまってるではないか……。私はそれに魅了されてしまってる…。ことは、事後の展開が察せられていることにも関連している。自らを明け渡してあることの次には、その相手方からの侵食が待ち構えている。●されてしまうというその結実がハッキリと明瞭に理解され察知されてしまってる。自分ではないその相手の色に染められてしまって自分としての自我領界線は悉くにうしなわれていってしまうのだ。ことは、自己喪失としての事態に他ならない。ここは、先の生存本能とは

領域においての絶対禁止コードにて支配されてある。それによる明確なる区分、防壁によってなりたっている意識なのだ。ならばだ、ここには、見過ごすことのできない重要な条件がまたあることにある。それが自分よりも大きく、また偉大なる存在であること!。このことの自己の本質、自身の魂本体においての感受、確信!!。それがなにを根拠にしているのかは分からない、が、それの権威がなんの上に立ったものであるのかは、まったくもって定かではないが、カリズマティックな魅力を確実に持ってる。自分は、どうしても、どうしたものなのか、それに抗えない…。このチャームとしての魅力に逆らうことができない……。

世に云うタナトス(死への欲望)としてのものは存在してないが、自分ではないより大きな存在と相見えるにあって、その、より偉大なるものに取り込まれて、それと同一化する、それに、そっちサイドに染められるをもって、自己の存在を明け渡す、明け渡してしまいたいとしての衝動はあり得る……。

だがだ、それは欺瞞としての妄想、あくまでも身勝手な期待としてのものでしかないのが事実だ。ことの後においての実際は、自身としての存在、その丸ごと全部をもってしての消失としての事態でしかない。そうなんもかんも根こそぎ、なくなってしまうばかり、つまりは一方通行としてのものでしかないのだ……。


そういったことを

許さない。許しなどするものか!。延々と終わりなくしてこその悪夢なのだから…。夜間におけるその夢の中であろうが、日中日中におけるその白昼夢の中であろうが、延々と、ただひたすらにお前らを切り裂き続けてやるのさ。終わること尽きること絶えることのなき悲鳴たるものを上げさせ続けてやる。そうだ、簡単には死なせてやりはしない。できるだけ長く狂気としてのその淵をあるき続けてやる。なく暇もなく、苦痛においての絶叫を叫ばせ続けてやるよ。

これも、俺も又、お前たち自身が、招き寄せ、結像させたその存在ではあるのだから。

この理性が自らを明け渡す、それも積極的に、なんら抵抗することなく、そうすることを選択し、それを命じてくるのだ。




だがだ、しかしだ、狂気としてのものに陥ることなく、その意識を保っていられる為には、どうしても、これとしてのものがいるんだ、これが必要とされてしまってある。これこそが、唯一にしてまた有効なる助けなんだ……。

これは…もし彼らがエンジンとするならば、最高品質のハイオクだって思ってもらえればいいかもしれない。いや、もっと簡単に云えばだ、高品質としての一種の覚醒剤……。正にそれだった。







はある意味、物質が顕在化する前の、間際の、純粋このうえない活性化の極致としての元素だってことでいい。

の意味におけるその根拠。ものがそれとして形成される、存在してある為に、ことに伴って、充填されて、付与されてある、摩訶不思議な贈与としてのなにか…。それは人の寿命を測る上ので

ボルテージとしてのものだって思ってもらってかまわない。死たる事態が最早避けられないといった場合には、それとしての事態が確定となった暁には、

、大気中に放出、放散されてしまうことになる…。それは非常に純度の高い、命にとっての、生存そのものにおいての、燃料だってことでいい…。*ロボコンにおけるロボパーが窮地に陥った折に、パニクリの余りに自分から自爆してしまうあの「ショックでパー」を思ってもらえればいいかも…。



たいへん霊妙にして超微細な、振動数をもってでしかそのものの存在は予測できない。もし、そんなものがあったとしても、ひとが、ひとの手によって、つまりは人工的に、それのみを、収集することは、まず不可能。幽霊を捕まえるような話でしかないから。だがだ、知ってるものならば話しは別になる。それは、それを、ある媒体を介して、手に入れることは可能は可能だからだ。全体のほんの僅かでしかないが、それのみを、高濃度で、集中的に、手に入れることは、できる。大事なことは、ことのいてのその要点は、華々しく殺して、その血を吹き出させればいいんだ。完璧な絶望感の元にっての大事な条件にはなるのだろう。決定的な自死の予感の前に、自分の命、自分の一切を、潔く、自ら投げ出す、明け渡してしまう……。それも、その脅威としてある存在、それもの、その相手に対してだ。血そのものに価値はない。流れ出す、こぼれ落ちてある血そのものが経路になるんだ。あれを、純粋なるままに、取り出す、集めるに際しては……。



もう一つ、これは現代においてであってこそ、見つけられてある、発見されたるの方法にはなるんだが、別の方法、別の化学物質反応において、ことが間に合うっていうのも、事実、あるにはあるんだ。ある種の核分裂反応において引き起こされるその折に発生する放射振動ってやつによってで。これにおいての要点も伝えておくならば、それは基本、人工的に作り出された原子核であってはならないんだ。でも必要とされてあるのは超重核としてのものになる。どやって見つけてこれるんだか?…。それと、ことは

核分裂反応においてで、それでなきゃ〜ならないんだ。急激なものであればあるほど

らしい。そして、こいつはついでの説明になるんだが、

〜お話しおける生血が果たしていた効果、役割、つまりは安定化においては、とりあえずの短期のみとしての限定付きの話にはなるのだが、ことを果たしてくれる媒体が、今回の、この方法の場合においては、超純水だってことになるんだ…。河は、人間が長生きしたかったら、汚しちゃ〜なんねーって、ことなんだろう〜……。




生血と、純度が高いったってたかが水との違いは、そのままに、彼らが、生存において、必要とする物質として、足りる、足りないとしての、その満足としての実情に、直結してくる。簡単に言えば、後者は、人間が人工のデンプン粉だけ舐めて生きているその状態。いろんな必要必須とされる栄養素が欠けてしまってる。だから、ことは、緊急にして応急処置的な、その対応、その対処であったんだろうさ……。



そうそう…今回急にこの俺様が呼び出しをくってるのかについて、話しておかねばなるまい。
俺が誰だかはみんな知ってるよなっ?!。フレディ様だ……。

皆が、眠りの中でみる夢ってやつは、誰がいったい紡いでいる?。自身でないのは確実だ。それだと夢としての有効性が失われてしまう。どっぷりと、その世界には浸かって、溺れていてもらわないと困るんだ…。当人さん自身には……。夢としての自覚を持たれてしまうようではそれにおいての意義が失われてしまう。

では、誰がーっなのか?誰が、それとしての流れを、お膳立てしてるのか?。演出家としてのコントローラーとしてのものがいる。間違いなく存在してる。基本、主さんの要望において、沿ってことは組み立てられているんだ。それもリアルタイムで、オンゴーイングの様態にて、それは組み立てられていってる。だから、目覚めないのであれば、ことを夢だと認知しないできないのなら、基本夢に終わりはこない。それは、たいへん、主さんに対しては、忠実なる下僕、では、あるんだ……。










              正直、ここまでで、三部のでき……





忘備録

涜神は別段信仰深きことを前提していない。聖書を読んでる理解してることにまったく関係してない。自分の思いの、その心において、尊きもの、大切だと、清きものだと思うその対象を台無しにしたい、汚したいとしてのその欲望、その衝動なのだ。これをあえてもって冷静なる知性において行うことが最悪の災難、災事。そのことにおいての快楽、快感、これが起こる機構が、どうしたものなのか人の中には元来から埋め込まれている。このこと事態が考察対象。だから、どうしてもあの蛇を、蛸を、それらの体内における所在を、明らかにする、前提しなけりゃならないんだ……。

























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