15.  ネフィリムIV(序1)

文字数 12,522文字

今回のこの稿は、前説であたったものの、その独立になります。
だから序としてのタイトルを付けておきます。
序3まで行きそうな加減です…。草々 
天村崇

自分の想念世界内にてネフィリムたる存在に対して結ばれてあったのは、蛭児(ヒルコ)としてのもの。あれらには独立した個としての界面、もしくは境界面たるものがない。つまりは自己としての場の形成ができない。なのでこの物質世界内においては彼らはただ霧散してゆくまでなのだ。

とりあえずの対処として土工としての器が、鎧が、与えられる。それをもって自己たるものはサステイン!…されることとなったのでしたっと…。あっそうそう、忘れない内にここに置いておこう。

行うことによってはだ、とある物質が、その個人の体内にては

アブルストドニスって名称がGによっては与えてられてある。*名付けだよ、名付け!。これは、なんのことはない、アストラル体と呼ばれるものと同義としてのものなのだ。これに対しての表現が、これがまたあのエメラルド・タブレットにおけるあの文章、「それは、大地より天界へと上昇し、そして再び、この大地へと下降して戻ってくる。そして、それは、優れたるものと、劣ったものとの力(の両方)を受けとるのだ」と関係してる。「フムフム…」。また、あの要約体としての「下位なるものが上位なるものと交わるとき、結果において、下位のものからすれば上位なるもの、上位なるものからすれば下位なるものである中間としてのものが、生まれる」とも。「フムフム…」。ならばだ!ネフィリムとしての存在体は、アスタラル体としてのその体の組成なのかもしれない。いや正確には、それをメインとして構成されてあるもの……。本物語上においては、下級/一般天使と、人間との間にて生まれた、創造された、罪深くして、

存在となる……。

その彼らを養うもの、その生存を延命させるものとして、[聖アスコキン]なるものが作者によって採用される〜!。

もたるなんだが〜!、これはだ、「溺れるものは藁を掴む」の喩えのそのまんまにて選ばれてもたるのものなのだが!、さて!そんなことよりもー!、このは本来の意味のままに、まったくの役立たず、勘違い、まったくのドエライエラーとしてのその選択だったのか?……、「大体はそれとしてのものとしてあるのが定理なんだが!」、それとも、奇跡としての、大まぐれの大大大、大当たりであったのか?これはは、これからのお楽しみ、その話しってことになる……。意外と、大正解としてのものであったその可能性もあるではないか……、イヤさ、それとしてのものへと、(つまりは、天を仰いで「サンクスゴッド!」と宣わしめる程までのっ!その大正解…)それへと、収斂/収束

、今度は「空より有を生み出す、捻り出す」の喩えのそのまんま、無理矢理にっ!、そうしてのそうやったってからの無理からにしてっ!、論述ホば、筆者としては、汗水鼻水流しながらに、喘ぎもってにしてからに!、我が身がいつの間にかどうしたもんなんか背負ってもたるの責任を、果たさざるを、得なくなってしまった、しまってるってのが本当のところ、その実情なんだ……。

さて、聖アスコキンに関しての自分としての理解を、今ここで、改めて話しておきたく思います!。安心してくれたまえ、通り一遍のどこにでもあるよな、見つけられるよな話しはしない。それは、手前勝手にして味噌カツなるこの自分においての独断、あくまでも独創的にして独善的なそれらとしての理解/考察をベースにしたものにはなる…なってる。まあいい、まあ出だしとしてはだ、オーソドックスな、それに関して与えられてる〜、Gの説明から始めるのがマナー、最も納得のいく段取りではあるだろう…。

this cosmic substance, the Sacred Askokin, exists in general in the Universe chiefly blended with the sacred substances ‘Abrustdonis’ and ‘Helkdonis,’ and hence that this sacred substance Askokin in order to become vivifying for such a maintenance must first be freed from the said sacred substances Abrustdonis and Helkdonis.

I learned that these sacred substances Abrustdonis and Helkdonis are just those substances by which the higher being-bodies of three-brained beings, namely, the body Kesdjan and the body of the Soul, are in general formed and perfected; and when I learned that the separation of the sacred Askokin from the said sacred substances proceeds in generalwhen the beings on whatever planet it might be transubstantiate the sacred substances Abrustdonis and Helkdonis in themselves for the forming and perfecting of their higher bodies, by means of conscious labors and intentional sufferings.

it appeared that the instinctive need for conscious labor and intentional suffering in order to be able to take in and transmute in themselves the sacred substances Abrustdonis and Helkdonis
and thereby to liberate the sacred Askokin for the maintenance of the Moon and Anulios had finally disappeared from the psyche of your favorites, then Great Nature Herself was constrained to adapt Herself to extract this sacred substance by other means, one of which is precisely that periodic terrifying process there of reciprocal destruction.

“The beings of the continent Atlantis had a definite notion that beings of the male sex are sources of active manifestation, and hence in their Agoorokhrostiny they gave themselves up to active and conscious contemplation the whole time, and in this state performed these corresponding sacred mysteries, so that there should be transubstantiated in them the sacred substances Abrustdonis and Helkdonis.

in the process of the blending of newly perceived impressions of every kind in the presences of three-brained beings, are there crystallized on the basis of the Sacred Triamazikamno data for one’s own cognizance and understanding proper to the being alone; and likewise exclusively only during such processes of the crystallization of the data for consciousness in the presences of three-brained beings does there proceed what is called ‘Zernofookalnian-friction’ thanks to which the sacred substances Abrustdonis and Helkdonis are chiefly formed in them for the coating and perfecting of their higher parts.

とりあえず考察するにおいての基礎データとなるべくしての、それとして相応しきものを、原本より抜粋してみた。これを翻訳することはやんない。Google翻訳においてを参考にしながらでも、各自が翻訳すればいい。自分としては、ことにおいての要点、もしくは、自分としての結論のみにてで特化する。説明の多くは割愛する。話せば長きになりすぎるがあまりに……。

まず、それは AbrustdonisHelkdonis なるものとの

としてのものなのだよと。この二つの物質は、男性性としてのもの(例えば精子)と、女性性(例えば卵子)としてのものの例えだろう。錬金術的な話しが前提となってる可能性がある。ならばだ、この二つは水銀と硫黄としてのものと同義である可能性がある。錬金術としての世界観を前提としてる。その要素部分が確実にある。いろんな物質の化合が為されるのが人体そのもの、それがコルベンもしくはフラスコとしてのものに当たる。



この正体不明の物質を体内に取り入れ、然るべく化合させるにおいては、あのパートクドルグ義務の履行が関わってくる。意識的な、つまりは、「敢えてもってして、大変な仕事を引き受ける、それとしてのものを志向する」と、「意図的に、苦しみとしてあるこを、その状況としてのものを、機嫌よく甘受する、受け入れる」ってやつがだ。するって〜とーだ、アストラル体として呼ばれてある新たなる物質が重合されて、その体が形成されて、この自分をコート(被覆)してくれることになるっと。[この体としてのものは肉体よりは高次としてのものではあるが、第三の身体であるところの魂、あるいは高次存在体(天使?)よりは低次としてのもの。その人間の肉体が消滅すると、地球としての惑星の大気圏内にて上昇してゆく。だが一定の時間が経つと、そこで、大気圏内において、解体してしまうことになる]。

これが果たされた人間は特別なる人間だってことになる。ある意味、一段進化した人間、スーパーマンとしてのものだってことが言える。個人としての統合性が一歩、いや、かなり進んだ人間だってことでもある。これとしての人間が活動するにおいて放出してある、ある種のバイブレーション、つまりは振動数ってやつが、[聖アスコキン]としてのものなのだよと…。

追記:最上段より一部抜粋

this sacred substance Askokin in order to become vivifying
for such a maintenance must first be freed from
the said sacred substances Abrustdonis and Helkdonis.

このvivifying は、何に対してなのか?。何を生き生きとさせる?、何に生気を、生存における活気を与えるのか?。こりゃ〜自分自身のこと、それにおいての話だとするのが妥当。

可能な限りそうであって欲しいのだが、その為には、この聖物質たるアブラストドニスとヘルクトトドニスからbe freed されなきゃならないんだと……。

アスコキンたるものがなんであるのかは、自分は、以下で言明してしまっているのだが、”愛”の放射、神からの神においての、自分に向けての対しての愛を、意識する、認識できることに依って、どこぞよりか、込み上げてくる同じくしての、今度は自分発の愛のことでしかないんだ。

愛を受け取る。そんでそれを生きるってことにおいてのみ人は生き生きとしてられる。

なんら大層な話なんかではなく、至極あったりまえのこと、それとしての話でしかない。

さて、ここにおいての特異なる限定的示唆は、男性性と女性性においての、それらが個別に持つ傾向性から、”Free”なる状態にあらねば、ならなければ、ならないってこと。

ここは何を言ってる?。

これもあったり前の表現を採用するならば、「博愛の精神」を持てってことでしかない。
すべての関わる人達に、「親切」に、そうして、ありなさいだ。

問題となるのは、性の、性においての、その関係性に人は支配されやすいってこと。それにおいての関係性のことを愛として思い込んでしまってるという事態にこそある。これがまた強力な呪縛なのだ…。それに無自覚にて、支配されてある限りにおいては、愛としてのその状態に、その発露、顕現としての状態に、至ることは、まず不可能…。よって、不活発、不活性としての生存にて限定されてしまってる……。

昨今は、性においての(交接)関係に、あらゆるすべてのものを染めようと、封じ込む、追い込むとしてのオペレーションが、スタートされてしまってる。要警戒だ!。

兎にも角にも、落ち着いて、ゆっくり、ここに、語られてある言葉を吟味してみるならば、
まったくもって、至極、あったりまえのことを、言ってるにしかない。

昨今は、あったりまえのことでさえ、見失われてしまってる、そんな、時代なのだ。」



この振動ってやつは実は大変重要で、月とアヌリオスを維持するためには必須なものらしい。
基本的に、地球上にて生存してある生物が、死ぬ時には、自動的に放出されるよう、自然によって、設定、プログラムされてある。そうなるよう、予め定められてある放出現象なのだ。

よく分からんねっ!。少し踏み込んでみる!!。振動ってのはなんだ?。どうしてこれとしての言葉が選択されてある?。この宇宙におけるあらゆるすべてのものは、振動へと還元することができる。ならばだ、これは放射されてあるなんらかの物質だってことでいいのだろう。この放射を受け取ることによって、月とアヌリオスは

される、それとしての生存が延命されるんだっと……。

このことは身近な現象、体験として置き換えて理解しとく必要がある。どんな体験がいいだろうか?。この自分が参加してあるテニスのクラスにおいては、ムードが一変してしまってる。自分はムードメイカーと呼ばれている。この自分たるものとしての蝋燭を、場中においては、可能な限り、燦然と輝かす、その努力をしているからさ…。いろいろと苦心惨憺、工夫をしてる。よく話す、よく笑ってる、危ない冗談を飛ばしてる、アクションと交えながらに、混ぜ込みながらにして…‥。クラスメートのそのすべては、どうしたものなのか、その毒気にて当てられてしまい、訳のまったく分からないまま、染め上げられてしまってるんだ。なんとなしに、どうしたものなのか、至極とても楽しいと…。まるで落語を聞いているみたいな思いにもなってしまってるらしい…。自分の発してある放射、その振動数が、伝搬していってしまってるまでなのだ。それにおいて日頃ありえない共振が、皆においては、起こってる。けったいな活性化が、場を支配してしまってるのだ……。こういったことは皆、なんらかの形で経験したことがあるはずです。

さて、改めて、最初の前提となるのは、男性性と女性性としてのもの。これもまた真実なるはアニマ、アニムスとして自己内にて備わっている原理体、これを構成してあるプログラム、物質だってことになる。ホルモンのことなんだろうさ。このホルモンを生み出している機構体(性センター)に関しては、触れずに、考えに、先に進もう。この二種の物質を化合させるその方法がパートクドルグ義務として括られているもののその履行になるらしんだ。

それらのエッセンスにおいても観ておこう。どうして、敢えてもってして、貴方は、そんなしんどい仕事を選ぶのか?、どうしてそれをやる、やっているのか?、それが、そのことが一体貴方にとって、何になる、何の利益になるというのだ?!。どうしてなのかっ?なんてことは当人にも分からんさ。それとしての道が、山があるからでしかない。それらとしてのものは当人にしか知り得ないものになる!。でも欄外、場外からその努力を観て察するに、天命としての覚えにてあんだろうさ。だから一種の奉仕活動、その営為なのかもしれない……。

もう片方の義務においてはどうだろう?。身近にて接する嫌なもの嫌なやつ/状況に対して、忍従としてのその心がけを持ち続ける…。引っかからずに、ただ心静かに、その眼の前の不愉快極まりない相手を、事態を、

、精神薄弱児としての人間を、受容したままであるまで…。基本これはできないよ…しない。「ではどうする?!」。怒る、批判する、取り除く、張り倒す、ぶっ倒す、蹴り倒す、●してしまう…。よくあること、あまりにありふれた出来事じゃないか…。これが基本だ、自然なのだ…。この自然反射において、忍従の構えを求めているわけ。真逆としてのその反応になる。ことにおいて確執葛藤としてのその思いに苛まれることになるのは必至だ。それはとても辛い、苦しい思いを味わうことになる。場合によっては我慢できなくなる、できるわけがないものとしてもありうるのであろう……。なにがそこには必要になる?。キリスト教者なら十字架上のイエスを思うことが可能になる。ではあそこ、十字架上にあったのはなんだ?。何を理由に、イエスはその苦しみを、あえてもってしてで選んであったのか?。もう答える、語る必要はあるまいて……。

両者ともに、それらとしての根は、その思いは、同じ。”愛”だ。
それの表し方が、そのベクトルが、その対象が、その内容としてのあり方が、違ってるまで。

男と女が真実の愛において結ばれてある。そこに奇跡としてのなにかが、

、立ち表れてくる。光輪としての表れをもってしてだ。これをもって。その二人としてあった一人は変革/改変されてしまう。その豊かにしてある光によって、それが持つ振動波によって、包まれて、被覆されたままにて在るようになる。増々それとしてのものへとなってゆく……。ことの結果それとしてのものの活動は、このことにおける加護において、その新たなるショックの付与によって、大本との振動との共振において、増々その放出度合いを大いにを高めてゆくことになる〜……。

愛たるものの増幅、その放射の、実際の行為をもってしての拡大ってことにつながってゆく。

これって、だから、高次元に、最高次元たるものに起源を持つ、それの、そのなにかの導入ってことなんだ。

本来的に、これこそが、命を活かすもの、生かしてあるもの。
それにおいて喜び感謝してある状態を達成することこそが真の幸せとしてのものの定義……。


最後に、これとしてのものは別途、寿命としてのものの、その源泉、それそのものだってことも言えるのかもしれない。つまりは命たるものの原資。だから、死がもう避けられなくなったその時点においては、放散されることとなってしまう。云わば、半ば強制的に、自動的に…。

本来のあるべくしての姿としては、それは補充をもって、より純粋なる高次からの贈与において活性化されて、放出と補充の循環をその人生において繰り返してゆくべきものなのかもしれない。愛を放つにおいて、より多くしての、純粋にして洗練されてある愛を、彼方より、高次元から受け取る。これが本来の奇跡と呼ばれる事態なのではないだろうか?。*これってある種の呼吸だね、ポンピングだ。これってもしかしたら永久機関である可能性がある。

それは、長生きすることを保証するものではないであろう。

、高次から与えられて提示されて指し示されてある愛を、受け取る視認する感じ取ること、そのの循環こそが、その体験こそが大事になる。なぜならば、なによりも、神たるものを知るにおいての、この世に生まれ落ちたその理由を知るにおいての、その唯一の手がかりになるのだから。より信仰深くなって、ゆ け る ....。

今生において、たくさんのヒトに、他人に、奉仕して、喜びの中で、
早くこの世から去れることこそが一番の幸せなのかもしれない……。

兎にも角にもだ、実際の現場においてはどうだったのかは知らないが、生まれて後には、両親からの愛には恵まれる。その程度はいろいろだろうけどね。であるならば、本源としてのこの宇宙の摂理において、命を全うするにおいてのその原資たるものは、振動は、最初から、ふんだんに、与えられてあるに違いないではないか。後のことはその個人の行いにおいてってやつに帰せられる……。

死に際して、使われることのなかった、もう使われることのないそのなにかとしてのものは、
他所、他者にまわされるまでなのだ。より今、切実に、それを必要としてあるものの為に。


おそらくは、嘆息をもって、それは、開放されるてしまうことになるんだろさ……。


序1終わり...



追加:

今日昼寝から覚めたらすぐに本内容に関して新たなる思考がなされてあった...


要はだ、人自身は、ある程度はアストラル体にてコートがなされてるんだろ。おそらくは分け御霊としての魂部分はだ。神ご自身が愛としての塊であるのだから、それはそれで、そうであることには納得がゆく。

さて、これとしてのものに恵まれなかった、恵まれてない生命においてでは、どうなるのだろうか?。たとえばあのネフィリムの様に...。体組織の分離、その霧散の要因は、この辺のことが原因してるのか?!そうなのであろう...。神の、祝福なくしてのその生存体だってことにおいて...。

もう少し...
それ(愛と等しくしてのアストラル体)としてのものは、非常に不安定なのだ。ほっとけば、これもまた徐々に霧散して失われてゆくばかり...。これの総量は、ある意味、その生存体の寿命を表すバロメーターとしてのものである。

神の祝福の元に生まれた生存体は、すべてが然るべく、ちゃんと整って構成されてある。
その後の生き方、対処においても、然るべくの変化が起こるよう環境においても
完成されてある。

例えば人間の場合なれば、愛を生きれば、それをもっての活動を行うのならば、ことはそのまま行動に依る呼吸の如くにして、出た分の倍量、幾倍量が、新たに

補充されることとなる。この不思議な現象のことを暗に指しながらにして、まるで「尽きざる泉の如く」(大蓄電池の正体は本当は何なのか?!)との表現があるのだ。結晶化はベースとしての核があればこそ、それがあってこそ、効率的に形成がなされるようなる。そしてまた

に、それとしての物質は、結晶化に際しては必要になるのだ。一種、飽和状態、サチュレーションとしてのその状態にまで、あらねばならない……。

体の奥深くにある第三の体としての魂が、それに対しての引力としての効果を果たす。電気メッキの原理。そして第二の体としてのアストラル体が第一の体だる肉体を覆う形にて形成されることになる。この辺をコート、被覆として表されているんだろう。

自己ととしての真の正体は本質だ。それにとっての魂であるところもの、それをそれとして成り立たせている、安定させているものが、神由来の愛と呼ばれてある物質。ある意味、界面を形成してるもの。そして、なんやかんあって、ことが上手く行きたれば、肉体をサンドイッチする形で同質のモノが、

完成することになる。するって〜とだ、この人間としてのものは魂そのものが本当〜に、好き勝手ができるようになるわけさ。それも凡人と比べれば遥かに優秀、ある種のスーパーマン、ヒーローみたいな加減としてのもの、なんだって……。

ところが、ネフィリムには、この可能性が一切ないんだ。全体のシステム下において、これとしての生存体をどうこうする要素が完璧に欠けてしまってる。だからこそ、アレラは「神に呪われてある子、その存在だ」ってことになるんだ...。

おそらくは、エノクは、彼らのその呪われた生存に引導を渡してやる、もしくは、
彼個人のとしての領域内、その内らっ側へと、取り込んでやるのではないだろうか?...。


もう一件述べさせといたってもらおう……。

全体システム内にて安定にして健全にて在る為には……。

人の目からすれば、すべては、移ろいやすくして、また儚い…。

人の心が、それにおいての状態がまさにそう……。

不安定なのだ。基本的には!。

経時的に、すべては霧散してゆく。

微分化されて、分解の憂き目に会って、バラバラの破片としてのものになってゆく〜。

勝手の有り姿など、どこへ行ったものなのか?!。

引っかかる、ぶつかる、からまる、そして面倒なことになる……。

こういったことに、馴染みは、ないだろうか?。

こ〜としてなること、なってしまうことがこの世の摂理、必然なのだ。

スーパー・ストリングス・セオリー!。

紐との関わり合いにおいては、ほんと〜に難儀させられてきた。

ダンボール紙のゴミ出し、猫の爪とぎ棒のメンテ、AV機器の配線……。

どういたものなのか、確実にコングラがってしまう。

これはこれで必要なんだろさ。物質同士が出会う、そして反応を引き起こす為には!。

それとしてものものが有るようにとのこの世の計らいの元、そうなってるまで……。

では、引っ掛かり、ぶつかり、こんぐらかる、確執葛藤がないとしての事態はどうなる?。

すべてが滑らかに、なんの問題もなく、落ち着いて、然るべく、流れていってる……。

自我が介入してないことが一つ。自分としての思惑は棚上げにしてすべては天命に預けてる。

これもまた大変に難しいことではあるのだが、一つ簡単な方法、その道筋がある。

すべては愛において動いてる、為されてるんだってことを、
得心しさえすれば、理解できさえすれば、いいだけの、話しなんだ。

ならば、自分も、それとしてのものと同調するをもって、同体化すればいい……。」







ついでに、Re: 恵比寿

自分としての勝手な理屈を述べさせてもらっとく。

蛭児と対をなす構造になってる。来歴に関してはまともな追跡は叶わない。

ならばと云うことで、想像してみた....。

蛭児自体が余りにも特異にしてまた特別なる存在だった。それがどうしたものなのか現世にて出現しまってた。それも命を宿した形にて。これは、忌みモノとして海へと流された。この海としてのものは、常世ではない他界としてのものになる。そこから万物一切の命が、生まれ、やってくる根源としてのもの。物質的形を取るその前段階としての世界…。其処へとお戻しをしたんだ、人としてのその手において。つまりは強引に、強制的に、恣意的にーーってな具合、訳で……。

この行為に対しての、その行為に対しての反作用としてのものが、帳尻合わせとしてのその反応が、つまりは

モノってのが、恵比寿様だってことになる……。

無理な、不自然な、越境的な行為は、一方通行って訳には基本いかない。
蛭児に釣り合う、それに見合うものとして、これはこの世へと摂理において、
立ち現れてきたるものなんだ……。

どうしてあれが商売繁盛の神様としての効能を発揮しているのか?できているのか?。

本来的に、あれにそんな力なんかあるわけない。

忌みモノとしての蛭児を堕胎(?)する、水子にしたことによって…この世からアレを抹消したことにおいての罪の意識が、その罪悪感が、これの背景イメージにおいてでは投影されている。(うごめ)いているんだ…。恵比寿様は、

、得体の知れない存在ではあるのだが、まだ人の意識、その感受性においてでは、許容範囲内にてはある。だから、も〜、それだけで、

のだ

と比べるならばーーーだ
!。だから「どうぞいてくださいませ」との思いにも至り

訳だった。そして皆して、心から、貴方なれば、貴方こそが、是非いてください、是非にここにてお留まりくださいとの、あらん限りの必死の思い願いもて、必死の絶対に欠かすことのないあれへの奉納ともなったてな訳。またその熱意の必死さ熱心さってのは異常なるものだったんだろう。あらん限りの世に向けての吹聴もて、キャンペーン宣伝の大大なるをもってのその人気集めによって、人繰り倒して、祭り上げることともなってた、なったってな次第……。

       ことにおける反動によって、形成/析出されたるのが恵比寿様








この恵比寿様は自分の所有物としてのもの。仏壇の左手を守って下さっている。右手は大黒様ね。この恵比寿様が背負ってる鯛は何を表しているのだろうか?。大物を釣り上げられているよね。これもまた勝手、忌モノとしてあった蛭児が置換されたものなのだ。大厄としてのものが転じて大益としてのものへと転じた、変わった…。

基本、両者は、同義同体としてものであるのが実態だ。それへの評価が、左へ右へと傾くのは、人の世なればの評価であればこそ。神聖力としてのものが導体を通してこの世に現れる時、それはドッチへ転ぶのかは分かりっこないんだ。人が小賢しくもその結果を操作しようとすることこそが大き間違い、勘違いがある。自分は、自分の作品が多くのヒトの目に留まるよう、この恵比寿を求めたんだ。これはこれでどうしたものなのか、良き御采配には、恵まれることができた…。

恵比寿も大黒も、非常に恐ろしい要素を力を、その背景にては持ってる、秘めている……。










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