1. 囹伎苑

文字数 6,937文字

コヘレトの言葉より…

『死する蠅は膏の心良き薫りを損なう
 僅少なる束の間の愚行は知恵と栄誉を損ないてなお足らざることあり』(ヴァルガタ)

「死んだ蝿は調合した香油を臭くし発酵させる
 少しの愚かさは知恵や栄誉よりも重い」(口語訳)




広い敷地に平家といった按配で一人の男が生活をしていた。
歳はもうすぐ四十に届かんとする。家族は彼以外に誰もいない。
親は早くに亡くしていた。長く気楽な一人暮らしを送っている。
勤めには出ていたようだが遊びのようなものだったらしい。
別段金にあくせくする必要もない身分だったのだから。

高い塀に囲まれたその敷地には大層立派な庭があった。
全体的には巨大な升状の造作となっている。
高低は浅く、広くなだらかに穿たれていた所為でか、
おいそれとはこのことには気づきにくい。
中に立ちつくしても、おそらくなんの勾配も感じられないかも知れない…。

その庭の中心は池だった。

地面には玉砂利や白砂が厚く撒かれ、熊手で書いたであろう線描が波打っている。
丸や四角の石板がアプローチとして敷かれていた。すべて自然石である。
東洋風な造りにはなるのだろうがかなりアッサリしている。
モダーンにさえ感じられるのは取り囲む白壁と抜けた空間の所為かもしれない。
程々の高さの良木が池を中心として上手い配置で植えられていた。
樹々は大層値が張るものであろうことは、その幹の太さ枝振りの勢いから分かる。
みな(ひそ)やかにではあるが大層立派な風格を備えている。
すべて彼のみによる地道な造園、手入れによって出来上がったものだ。
長の年月がかかっていた。
積年の時の侵食も加わり侘び寂びの風情がそこには備わっていた。
下手に物量で凝らなかったのが良かった。
あれやこれやを詰め込んで、立派さを衒うような真似を彼はしなかった。

その庭の中心は池だった。

おいそれとは気づかれぬよう浅く広く穿たれた庭。すり鉢状の底にそれはあった。
広々とした銀盤の水鏡。深さはある。まあ、1メートルほどだが。
陽が昇ればその明度が異常に高いのに驚く。さしたる装置もないのにこの有様
なのだから不思議だ。水面を覗き込めば、揺蕩う豊かな水草を見ることができる。
ゆらゆらとまるで自身で動いているかのように思えてきてしまう。
これがはっきりと視認できてしまう。不思議と言えば不思議な話だ…。
水底には水苔が、遍く厚く拡がっている。蛍光色のグリーンが
鮮やかにオーラを放つが如くだ。このビロードが世界を神秘足らしめている。
水中は、人の存在などいささかも関与しない優しく満ち足りた世界なのだ…。



錦鯉がかなりの数、放たれていた。どれも彼のセンスに(かな)いえた粒選りのもの達だった。
一つとして似たようなものはない。水中の美しい生命の動きを見つめることが彼にとっての
至福だった。これが唯一の趣味だった。彼の生き甲斐だったと言ってもいい。



ほとりには東屋がある。六角堂として屋根だけは意匠を凝らされたが、四隅は無骨な丸太の
柱だけのもの。さほど大きいものではない。中には小作りの石のテーブルに木製のベンチが
備えられている。二人が収まるかどうかさえ厳しいものがあるかもしれない。
ここから彼は庭を眺めていた。

その庭の中心は池だった。

彼にとって自己の存在を証明する為の唯一の証。真実の…理想としての自身を映し出す為の
表現行為。「必要にして最低限」であること。これが彼の意思として日々貫徹されてきた
こと。すべては

活きるために考え出された。敷石を踏んで歩き、飛び石に乗っては
視点を変えて見栄えを吟味する。何より八角堂からの眺めからの印象を大切にした。
「素朴にして簡素」たらんとして全ての意匠は練られに練られて、少しづつ実行に移され
完成されてきた。彼にとってのまごうことなき楽園の創出だった。

だがいつの頃からだろうか、彼は…多分…少し、飽きがきてしまっていたのかも知れない。
庭が完成されてしまっていたが為に。もう何も変わらりはしない。変えようがなくない。
全てが彼のセンスに敵う美しいままではある。しかし彼は物足りなさを覚え始めてしまう。
これは彼が歳を食ってしまったことと何か関係があるのか?。
長く独り身であることが(こた)え始めた兆しなのか?。
否、単に変化への飢えが芽生えてしまっただけのことなのかも知れない。
無常ならざるものはないのだから…

〔暗転〕

そう言えば、最近、彼は新しいアクアリウム・ショップを見つけたのだっけ。
側道沿いの古びた小さなビルの一階にそれはあった。
まさかこんな所に?と思えたほどの辺鄙で歪な場所にだ。

高速沿いの側道で、その箇所だけがなぜかえらく高低差がある。
下りきった大きな坂のその底部、その側道に、ビルが一個だけぽつねんと立っていた。
その辺りは開発途上で長らく放置されてしまってたエリアで、裏方には空き地やら、
竹林がそこそそ覗いて見える。商売をやるにはあまり芳しくないところだと思うよ。

たまたま渋滞か何かで、車で側道を走ることになってしまい前を通りかかったのだ。
その時に、その熱帯魚屋があることに偶然気づいたまで。
そして、好奇心から車を側道に急遽停めて、急ぎ歩いて戻った。

期待せずに店を覗いてみれば、中がまあ広くって、奥行きはほんと鰻の寝床の如し。
延々と空間が奥まで続いていた。入り口の扉の陳腐さ小ささからは想像ができない程だ。
どこかに〔囹伎苑商会〕なる小さな表札が掛かっていた。

売られていた魚の種類は豊富だった。信じられない数の水槽が並んでいる。
小さいの大きいのが出鱈目にだがピッチリ際限もなく続く。
縦に二段あった。「こりゃすごいわ」と思いながら見てまわる。
知らない魚が多かったのだ。正体不明の水性生物もいた。
仄暗い室内ではあったが、アクアリウムには蛍光灯が灯されている。
色彩は水中では生々しく映える。どれを覗いても奇跡を纏ったかの如きの、
命ある存在を確認することができた。みな大きさも動きもそれぞれ違ってた。



やがて一つの水槽の前で動けなくなってしまっていた。
砂地の上にいるその小さな生き物は透明のシェルを被っていた。
魚ではない。足と思われるものが僅かに覗いて見えた。
柔らかいゼリーのような外殻が頭部と両翼をカバーしている。
頭部の先には二本の触覚。シェルの下にエメラルドの本体があった。
鈍く輝きを放つメタリック・グリーン。

丁寧に裏打ちしたかのように点紋が規則正しく並んでいた。
本体の下方には大きなU字の黒い隈取りがあった。
ツタンカーメンの所有したスカラベの宝玉を連想させた。
それはなんと生命をも宿しているのだ。
エメラルドの煌めきに魅せられた。

が、更にそれを縁取るかのような黒の差し色の存在感…。
「なんたる黒だ!」。
光など一切無縁の如きの暗黒。そこだけ別空間がのぞいているようだ。
磁力のようなものがそこから発せられている。
「なんたるマークだ!!」。

大きさは幼子のこぶしほどか。やがて、それは泳ぎをも披露した。
ゆっくりとスマートに、水槽内を滑走して見せる。とてもキレイだと思った。
ぐるりと回って宙返り。私に向けての八の字となった。愛らしことをするではないか。

「これにはなんらかの知性がある」との直感があった。
「この子を連れて帰りたい」との思いがいつしか募り始めていた。
きっと今までになかった要素を私の池に与えてくれることになるであろう。
それは一つのノイズには間違いないでが、逆に予想もできない見立てとしての
役割をしてくれることになるであろう。私はもうこのアイデアに夢中になってしまっていた。

店員を呼んで値段を聞き購入を伝えた。ついでに詳細を尋ねてみたがアルバイトであるらしく、あまり埒があかなかった。とにかく淡水でも海水でも大丈夫な生き物とのことだった。
餌は特にいらず水苔等で足りるらしかった。
そうして私はこの子を家に連れて帰り池へと放った。

〔暗転〕

思った通り、あの生き物は構成において重要な一片(ピース)となった。
恐らくは『核』とさえ呼ばなければならないほどのものに。美しき生きた宝玉。
それは後に彼自身の魂として意識されることになった。
確かにあそこには彼そのものが欠けていた。小さいけれど、これ一つで池は
一挙に神秘性をあげてしまった。触媒として機能し、池そのものが異次元へ
の通路にでもなったような気がする。これは彼の心象としての話ではある。

最初は楽しい日々が過ごされたそうだ。(ほと)りに(たたず)めばどこにいようがそれをいつも認めることができた。エメラルドの光輝には存在感があったからだ。
緩やかに流れるようにして移動する光の軌道。彼はチラりと眺めるだけでよかった。
それだけで安心した。錦鯉達の合間を潜り抜け、スルリと上手に舞っては愛嬌を示した。
白州の中に池がある。そこの中には彼の魂が微睡んでいた。

ある夜に呪文の詠唱が聞こえてきた。真夜中二時を過ぎたころの話だ。
声は塀の外からであった。「ぶぅううん………」。重低音の振動にしか聞こえない。
しかし間違いなく人の声帯より発せられてはいた。音は長く続いた。
何やら抑揚らしきものがつけられていることから歌のようにもとれる。
しかし言葉として聞き取れるようなものではなかった。

その唸りにも似た音の連続には本能に深く訴えるものがあった。
固く閉ざされ奥深く封印されている記憶。生まれるまえのとでも言うべき原初の記憶。
もし聞くものがだれかいたならば、即座に、脱兎の如く、
圏外へと死に物狂いに逃げ出していたことだろう。

その詠唱に呼応するが如くあの生き物が反応を開始する。
暗黒の縁取り部分から『ジージー』といった音が漏れだしてきた。
声が続くなか、悶えるようにしてその音は出鱈目に強弱がつけられて発せられ、
やがては重なるようになっていった。その共振は11分ほど続き、やがてぴたりと止んだ。
このことに気づいたものは誰もいなかった。

〔暗転〕

彼にとっての日常はつづがなく続いていた。その日も明るい日差しを浴びて東屋から庭を
眺めていた。気候は穏やかで風もない。池は完全なる円鏡と化している。辺りに立てば池の
中はクッキリと見通された。緩やかな錦鯉たちの動きもいつもの通りである。彼らに餌をやり、あの生き物の所在を目で探した。しかし、あのエメラルドの光点は見つからなかった。

もしや死んでしまったのかと彼は大いに慌てた。周辺をぐるぐる回り必死で探した。
しかしどこにもそれはいなかった。死骸さえ認められなかった。途方に暮れてボーとしていた
その時、水しぶきが上がった。鯉の一匹が激しく跳ね上がったのだ。驚き目線を変えた先に
異様なるものを見とめた。

落下する鯉の体に何かが取り付いていた。それは真っ黒な体をしていた。
鯉をその前肢でしっかりと取り押さえている。苦しみのたうち回る鯉を助けなければと思い、
彼は池へと踏み込んだ。水面は乱れてしまい彼らを見失ってしまった。焦れば焦るほど所在は
不確かになっていった。やがて見つけた時には、鯉は微かにピクピクと痙攣しているだけの
様子で、黒い物体に抱えられ、そのまま連れ去られようとしているではないか!。

慎重に歩を進め必死で後を追う。何としても助けたい思いで一杯だった。
池の中心へと底へと向かって行ってた。追いつくのは簡単なはずなのだがそうも行かない。
急げば彼らをまた見失う。じれる思いで進んでいけば、おかしなことに気づきだした。
中心に向かって歩を進めるとどんどん深さがましていくのだ。
僅かばかりで水嵩はもう胸を越している。そんな深い池ではないはずだ…。

そしてどこかで追うことを諦めていた。
彼をあざ笑うが如く緩々(ゆるゆる)と鯉を抱えたソレは深みへと潜り、
そしてやがて消えて見えなくなった…。

〔暗転〕

「なんてものを売りつけやがったのだ!」。あれはタガメかゲンゴロウの亜種に違いない。
大方南米の奥地で捕獲したものを商品にしたに違いない。

あの日の出来事の後、とりあえず残りの鯉たちを他の浴槽に全部移した。
そしてあの黒い生き物を探したがどこにも見つけることは出来なかった。
不思議なのは池はどこを歩いても深いところでも1メートルもなかったことだ。
しかし、あの時のことを気の動転のせいにする事もできなかった。
全身の衣類が濡れていたし、私はたったまま首まで水を感じていたからである。
決して転ぶようなことはしていなかった。

私はアイツを買った店へと飛んで行った。なんとしても責任を取らせたかったのだ。
だが、あのアクアリウム・ショップはもうなくなっていた。入り口の小さな扉には
貸し出しの張り紙がただ貼ってあるだけだった。そこに記されていた電話番号に
連絡を入れてみたが、前の借主に関しては一切教えてはもらえなかった。
事情があると粘ってみても個人情報が何たらかんたらで頑として相手は頑として
口を開くことはなかった…。

いく日も焦燥感に責め苛まれて過ごす。根本の問題であるあの生物が捕まらないからである。
池は変わらず明度は高い。隠れるようなところもないので見つからない訳がない。
これには困った。せっかくの庭が台無しである。これまでの人生でこんな苦しい思いを
したことはなかった。如何せん打つ手がなかった。

〔暗転〕

また、あの詠唱が聞こえてくる夜があった。全く光のない朔の夜のことである。
今度の声にははっきりとした韻が踏まれている。
『ふんぐるい むぐるうなふ るるいえう~なぐるふぐだん あっぱいんぐるくるーるふっふ』。
繰り返されるこの言葉がどこ起源のものなのかさっぱり分からない。

この詠唱の所為なのか庭では異変が起こっていた。
池を取り囲む白州に文様が同心円状に浮かび上がり、静かに回転を始めた。
やがて池が細かに波打ちをしだす。ゴボゴボと水音を立ててガスが噴き上がり始める。
何かの気配が水中に充満してくる。三体の生き物が池より上がってきた。
どれも甲殻類と軟体動物をミックスしたような存在である。
しかしみんな形状は違う。共通していたのは昆虫にも似た節足を持っていたこと。
そして口であろう部分からは幾本もの触手がおぞましい有様で出入りしていたことだ。
高さは三メートルはあるであろう。動きはただただ凶々しい限りであった。

この異変の所為であろうか、男は真夜中であるにもかかわらず珍しく起きてしまってた。
そして何故か庭が気になり外へと出てしまう。真っ暗な夜だったので懐中電灯を携えて
取り敢えず東屋へと向かう。仄かな明かりを頼りに敷石を辿り、飛び石を渡る。
やがて六角堂に着いた。そして石のベンチに腰掛け池の方角を窺った。
暗いが静かな夜でしかない。虫の音一つしなかった。
何も変わったことはないように思われたその瞬間、
辺りに動くものの気配を感じた。
闇の中、白州の玉石が彼方此方で爆ぜる。
何か大きなものが数体ここにはいる! 
今、ゆっくりと大きく動いているではないか!…。

ここにいてはダメだと思い飛び出した瞬間、何かに挟まれた。
続いて体のあちらこちらが締め付けられ始めた。
何がどうなっているのかまったく分からないままに。
「痛い!」 「苦しい!!」 「だれか助けてっ!!!」
闇の中、骨の砕ける音と同時に彼のむせび泣きががしばらくは聞こえていたが、
やがてには、それらは、静かになっていった・・・・・・。

〔暗転〕

「さてっと」あの男はどうなった?てかい。いや今も元気であの家で暮らしているよ。
 なんでも最近、仕事を変えたそうだ。今度の仕事は遊びじゃないようなんだ。
 何故って、かなり熱心に勤めているからさ。朝早くに出かけて夜遅くに帰ってくる。
 毎日のことなんで、そうでなきゃ〜続きゃぁしないよ。なんの仕事だってかい?。
 詳しいことは知らないな。なんでもカタカナ四文字で、なんやら商会だって言ってたかな。
 趣味がご縁になったそうだ。

〈了〉




あとがき:

正直言いますと、わたくしは残酷な部類は苦手なんです。
ダイブインして描いちゃうと後にとんでもない悪影響が残ってしまう。
めんごでしかありません。今回の最終部においては手抜きもいいとこ…。

謝ーーー





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