4.ブレイク・スルー(pt13)  シミュラークル幻想

文字数 57,280文字

本稿はあくまでもラフスケッチとしてのものだと思って下さい。未完。
全体の三分の一程度なのですが、もうすでに四万文字を越えてきてる。
全く面白くなく、また拙すぎるばかりの表現と内容なので、
読むのは、今しばらくは、お控え頂くのが順当かと…。

敬具 

天村崇

*これ完成してから物語は再開いたします。ごめんなさいねっと…。


本作を続けるその前に、ここで少し構想において自分が思うところを、お話しさせていただきたく思います。内容的には次の三項に絞れれる。これらに関しては物語内で語りきるその自信がないので欄外にて…。*(直近の「ぼやき集」は本稿のスピンアウト、これの補足狙いとしてのものになります。)


       ・見えざる小人について、
       ・シュミレーションにおいてのその可能性について、
       ・そして、仮想現実においての、その憂慮すべき事柄/事実において。


では早速なんですが、チョコッとヘンテコな話をさせていただく思います〜。ことの前に、先ずはこの本に

語っておかなければならないんです。自分はこれを、この本を、

。でもこのタイトルにおける「シミュラークル」って言葉には、これまでにはさんざ付きまとわれてきたんだ。自分の心にてのその語の反響は著くして、それが鳴り止まずってな具合だったんだ。ある頃は、さんざ目にして、耳にもしてた…。ある方面において、この本はブームとなってたせいで、街に、メディアにて、風聞にてで、もうこの言葉が溢れ返ってたんだ…。



この語、「シミュラークル」ってやつの、その語感、表音的なるサウンドが、いたく馴染まない新規にしてまた奇っ怪なるものに思えた。でもそれがまったく聞き慣れない言葉でありながら、確かな浸透力ってやつがそれにはあった…。この自分においては、その知らん分からんはずのこの言葉ってやつが、どうもなにやらこころに引っかかる、記憶のヒダに刺さったままで歯痒いばかり、どうも消えないものであったのだ…。我流としてのその突っ込んだ連想努力の所為もかなりあったはず!。「シュミ」が「しゅみ」で、染みる/滲みる/沁みると来て〜、なって〜、「ラー」が「()」としての群体/集合/複数としての総称を、暗示している…とっ、受け取り〜の、「クル」が「来〜るー」の、また「(くる)」でもあり、また「タックル」としての「クル」となる、それにも繋がっていると思われてしまって〜でっ、総じての変換をもってしてのそれらの連想イメージの統合と合体においての結論ともなればー、かなりに垢抜けした、ハイセンスにしてなる、高度観念体系においてのその「ブロー」、まったくの人工的なる概念、その限りにして、また何か妖怪じみたもの、それによってのおひての啓示開示展開!、侵略的なるまでの、最早防御不能としての、その感染力において、ってことになるんだ…。「ゲラ」「アナタ・アタマ・タイジョブ?」。

多分、あの「ユビキタス」と同じくして、こころに留めておくべき言葉の伝達だったのだろう。

放っておいても、勝手に、自動的にて、届いてきてしまう、届けられてきてしまうものなのだ。どうしてもこころの琴線に触れてしまうようになっている。実際は、このターム自体が、一人歩きしてた、しだしてたまで。知ってた、関心をもってた人たちって云うのも、かなり〜に、限定されてたはずなのだ。*叢書・ウニベルシタス行書なんてもん、あんな高っかくて難解なる本、誰が好んで読むというのか?!。

Re: シミュラークルとシミュレーション (1984年) by ジャン・ボードリヤール

自分のこの創作において、どうしたものなのか、この「シミュラークル」と「シミュレーション」、この二つの概念が重要なテーマになってしまってる。(自分としてはすべて、単なる思いつきのままに、書いているまでで、なんの構想も持たずにやってるんだけどね。)こちら側においてのそれらのイメージは、「偽物/まがい物/反自然なるもの」と、「

人工現実」となっているのだが、そこにある、そこに秘めてある意味は、まったくもって同じなのだ。

この本に関する解説をネットから拝借してきた。先ずはこれらのご一読をさらっとでいいので願おう。…仏語で「虚像」「イメージ」「模造品」などを意味する。ピエール・クロソウスキー、ジル・ドゥルーズ、ジャン・ボードリヤールら20世紀フランスの哲学者たちが特別な含意を込めて用いたことで知られる。クロソウスキーとドゥルーズは、それぞれニーチェとプラトンを論じるさいに、「シミュラークル」を(いわゆる「実像」や「本質」に対する)「虚像」ないし「仮象」から区別し、

という

哲学的に問い直した。それに対してボードリヤールの議論は、むしろ消費社会文化現象

を主な目的としており、今日において仏語の「シミュラークル」という言葉が用いられる場合は、後者の用法が念頭に置かれていることが多い。

ボードリヤールは、(1)ルネサンスから産業革命、(2)産業革命以降、(3)現代の消費社会における「シミュラークル」を区別し、それぞれに「模造」「生産」「シミュレーション」という名を与えた(以上の三段階はしばしば「自然主義的シミュラークル」「生産主義的シミュラークル」「シミュレーションのシミュラークル」とも呼ばれる)。以上のようなボードリヤールの主張に従えば、今日の消費社会における諸事物は、プラトン的な「オリジナル」と「

」(「本物」と「

」)の対立において存在しているのではなく、ただその「模像(シミュラークル)

のみ

存在していることになる。『象徴交換と死』(1976)や『シミュラークルとシミュレーション』(1981)におけるこうした主張は、美術におけるシミュレーショニズムや、ウォシャウスキー兄弟の映画『マトリックス』シリーズ(1999-2003)をはじめとする同時代・後世の文化に大きな影響を与えた。

語源的には「

」を意味するラテン語シミュラークルムに由来し、歴史的には、主にキリスト教からみた「異教の偶像」を指して用いられた。そこに、この語に対して、まったく

を与えたのはフランスの社会学者ジャン・ボードリヤールであった。彼は『象徴交換と死』(1975)で、シミュラークルの展開を、(1)ルネサンスから産業革命までの「模造」(オリジナル

コピー)、(2)産業革命と機械制大工業時代の「大量生産」(機械によって大量をもって生産される

複製)、(3)

差異のコードによって

現段階の「シミュレーション」(差異の変調を指示するコードにしたがって生み出される

)に分類した。

ボードリヤールはさらに進んで、『シミュラークルとシミュレーション』(1981)では、現実とそのイメージの関係を、(1)現実の忠実な反映としてのイメージ、(2)

イメージ、(3)

イメージ、(4)

イメージに区別し、(4)をオリジナルとコピーの二項対立を

と呼んでいる。そして、現実と記号の等価性の原則から出発する表象(リプレゼンテーション)とは異なり、もはや

このシミュラークルの産出過程を、シミュレーションと名づけるのである。

このような思想の前提には、あらゆる財と、サービスが、情報メディアのネットワーク上で差異表示記号として機能する現代消費社会では、

記号化されてしまったという認識がある。ボードリヤールのシミュレーション論がスーパーリアリズム

リアリズム)など現代美術に大きな影響を与えたのはそのためである。

介入:
ここにあるハイパーリアリズムに関してはアニメ映画「君の名は。」をその実例として思い起こすのが一番いい。(自分はついこないだ初めて観た)。異常なるまでに細部に至っての描き込み、その緻密なる画面構成がすごかった。だがそれは、幻惑としての働きを目的としたものでしかありゃしない、それとしてのものにしかならない。あのお話しは、つじつまがほとんど合ってない。あちこちに齟齬がある。破綻ばかりとしてのその物語の構成また連続…。なにをそんなにも情熱をもって描こうとしていてたのかな?。男女間の切ない慕情?。それも異常なる緊急事態においての、極端にしてなるイレギュラー、その有り得ざる環境/境遇においてのみの、一種強制的なるをもってしての恋愛としての関係樹立となっていた。その閉じ込められた状態、閉じてある環境においてで発生した両者間における恋でありまた慕情なのだ。これは…ある種、勘違いとしての恋慕でしか実際はない。何を、どんなストーリーを、あの監督は描きたかったんだ?、なにを表現したかったのか?!。なにをそもそもの始めに動機としてだあったのか?。その対象は、あくまでもあの監督自身が

、”切な”としての恋慕その感情であり感傷だったのだ。それとしての、正に上澄みをもってしての感傷の植え付け、提供、供与でしかない。この人はあくまでも観念としてのイメージとしての恋愛しかしたことがないな…。実際のリアルなる恋愛はしたことがない。だから、イメージとしてのそれに、表現に流れるんだ。だから、いつまでたっても、青臭いままなのだ。ありえざる男女間の

恋慕、

切ななる慕情に、囚われたままなのだ。もしくはだ、単にあざといだけかだ。売名が、表現者としてのこの自分の成功こそが、それこそが秘められてある真の動機でしかなかった。そのその純情無垢なる心における、それにおいての、それに向けての切ななる恋慕こそが、一般視聴者たる若者たちには、いたく受けるってことを知ってた、分ってた、自分がまさにそうだから…。だから簡単に騙されてくれる、自分から騙されに行ってくれるってことが分ってたんだ…。可能性を予見しての、その天災の回避に向けての物語展開とすべきであったんんだ。ことが確定される

!回避としての、防衛としての、奮闘/行動/努力がなされてこその物語であったはず…。そうしなかったのはよりドラマチックな構成、悲劇的なるを前提にしたかっただけ。その方が

踏んであった、いたまで。(こういった面は完全にその脱色が隠蔽が為されてあったけどね)。あざとさ、幼さ、拙さ、脆さ、青さ満載の映画だった。追記:この手の”ドッカン”ものはもう既に余りにも多すぎるのだ。つまりはだ、核ミサイルの使用を、そによってのすべての破壊、刷新を、閉塞に囚われてあり旧来としてのものに凝り固まった現状を現実を破壊して欲しい、そことの実現を私達自らが心待ちにしてる、望んでいるんだってことのその証し、その思いの反映でしかありゃしない。なんにおいてであったって〜「求めよ!さらば…」の話しなのだ。*ことの解決は、実は簡単なことなのだ。だがそれは、個人単位においてでしか果たすことはできない。世界に向けて自己をまったく素なるままをもって、その形にて、開けば、開いたままであればいいだけの話しなのだ!。*もし、あなたが「シェルブーの雨傘」をご覧になっていなかったのなら、是非に、一度は視聴をされるべきかと…。これを観た後となれば、「君の名は」は、どんな評価を迎えることとなるのであろうか?。了

追加:
いらぬ内容に逸れてしまったのだが、重要なることは、スーパ/ハイパー・リアリズムとしてのものがこれから益々高度化していってしまう、進展していってしまうってことなのだ。それにおいての魅力たるものは人類にとってまったくもって新規なるものとしてある。どうしてものなのか、まったく斬新なる、未知なるものとしての魅力をふんだんに持っている。この自分は写真や映像の加工をよくやるじゃん。それは彩度やら露出、コントラスト、シャープネスをかなりにいじったものになるのだ。こういったことができてしまうってことが革新的なのだ。現実としてのものを、自然なる景色を、それらを人工的なる加工によって上回るチャームを備えさせることができるってことが問題になる。下手すれば、人工的な、その色付けにおいてオリジナルをも上回る

それらは獲得できる、してしまうのかも知れない。簡単な例をあげるのであれば、写真の方が、その景色を実際に観るよりも、美しく感じるってことがあり得るってことなんだ。おそらくはその舞台としてものはVRの世界になるのであろう。画素数の極限の拡大充実をもって、また色調の無限加工とも言えるその構成能力において、視覚情報としての人工物は現実を遥かに越えて魅力的なるものとしてありえる、ありえてしまうのではないだろうか。またさらに、もし、残りの四門に対しての入力がおなじく人としての現状をそのキャパを超えてのものが為される、可能となったその暁には、あとはその内容だけの話しになってゆく…。言葉足らずになってしまっているが、それらCPU、コンピューターによって適えられるその人工物は、人類にとって、まったく新規にして特別なる、

、どこから手に入れてきてるのかはわからんが、備えている、持ってるってことなんだ.。追記:ことはだあのブランドと同じ匂いがする。それはたんなる塩ビのバッグなのだ。確かにデザイン的に垢抜けてはいるが、数十万の価値があるものだとはどうしても思えない、だがだ、それが一旦シャネル等のエルメス等のブランド名がついた途端!、正体不明のチャームを身に付けてしまう。その値において買うことを、それの魔力に魅入られたものたちは、躊躇しなくなってしまうのだ…。

シミュラークルの実例は、コンピュータ・グラフィクスホログラム(三次元写真)などから

までじつに多様であり、20世紀末以降は、高度消費社会そのものが、シミュラークル化しつつある。

本書に「ディズニーランドは、錯綜したシミュラークルのあらゆる次元を表す完璧なモデルだ。」ディズニーランドはディズニーの映画群、そのキャラクター、音楽、アメリカ流の生き方、アメリカ文化、 他の 具体化されたある完結した

。小さなシミュラークルが錯綜し交叉する大きなシミュラークルであり、

(層)からなる総合体総合存在

現実の反映(ミッキーはネズミの反映)→

現実の不在(例:戦争、難民、差別、貧困がディズニーランドにはない)それの

(新しく自立した世界、宇宙の創造)へ=子供の世界であり、大人も童心にかえって空間と時間を楽しむ夢の世界



Team Labo などの Projection Mappingを、you tube などで見ていくと、Real Virtual 

のが感得され、これもリアルタイムで拡大するシミュラークルなのだと実感される。現実の反映→現実の隠蔽と変質→現実の不在の隠蔽→現実と無関係なあるもの。

Team Labo だけかと思っていたが、たくさんの企業が世界に近年群生しているらしい。銀座のリプトンでは 昔の影絵を立体化しつつ、Projection Mappinng をするという新しい試みをしている。三次元の凸凹の立体に焦点がボケることなく、立体映像を映し出す従来の手法の発展とともに、生物が生まれ、分化して、動き出す、人間と対話する動作など、まだまだシミュラークルの世界は発展していると瞠目している。

。その相互関係の形成。

介入:
ここでの一文は勘違いをされての、ミス表記となってしまってる。「物質からはなれたものとして物資化する錯綜した像」のとこ。…ここでの重要なることは、「完全に物質としてのものではないにも関わらず、まさにそれそのもの、いや、幻惑感/魅力においては、オリジナルとしてのものを遥かに上回ってあるとして感じてしまう、覚えている自分がいる。それらがあくまでも虚像としてのものであることを知りながら!」ってことになるんかもね。問題はだ、嘘だ、まがい物だ、幻影だと知りながら、知っていならが、それでもそれらを本物だと信じたいってな心情変化が、それとしてのものへのシフトが、問題になってくんのかもね。これにおいての皮肉なる面は/ことは、現実に切望が叶ったならばだ、確実に幻滅してしまうってことなんだ。だって、そもそもからして、それは錯覚としてのものでしかなかったのだから。だから自分としては、それをあくまでも夢としてのその存在に留めておきたいーーって。これもまた囚われとしての境遇に、自ら率先してハマリに逝くようなものではないだろうか…。了

アメリカにディズニーランドが必要なのは、
アメリカ全体がディズニーランドであることを隠すためである。

介入:
この最後の一文はとてつもない意味の重さを秘め、またインパクトが、破壊力がある。
アニメーションにおいてで、推し量るならばだ、みんな夢の中で、そこで一生懸命戦ってるまでなんだ。その物語内にてで、その主人公らに自らを託して…。
これでもまだ誠実な方になる。実際は殆どの人間は、叶わぬ夢や願いが容易く、おもしろいようにどんどんと叶ってゆく、そんな世界を求めてまでなんだ。その夢見の間、中だけでいいからと。そういった夢はどうしたものなのか人気がでんだ、でてしまう。視聴率アップに確実に繋がるんだとさっと。了


                 *ここまで*

ほとんどなにをおっしゃっているのか分からないのだが、解説において、悲鳴や絶望感がないのがこの自分においては不思議にして不可解だ…。もし、自分が重大なること、問題であると、最早異常なる事態と呼ぶべきことであると、人類存続の危機そのものの正に核心であると、思っているその内容が、同じものであるならばだ…誰かが警鐘を”大”をもって鳴らしてあるべきなのだが…。


コラム:

シミュラークルって言葉が自分の耳に聞こえだしたのは、80年代のこと。震源元となったこの本が日本にて出版されたのが1984年。ところで平成は、1989〜2019年の30年間。この期間は日本社会と経済にとって、特殊な時期だったと思う。

と呼ぶのが相応しい。昭和期において築かれた資産、それの回転においてのモメンタムのみに頼ってあった時代。それへの依存のみにてでありえた経済的繁栄としての時代だったってことになる。実体/現実からはかけ離れてしまった、なにやら訳の分からん世界としてのものへと、根無し草としてのその世界に向けての、離陸となってしまってた時代。ハッキリ言って、この自分からしたら、おぞましい限りの時代進行になっていた。

*平成においては何一つとして良いことはなかったのだ。悪いことばかりが起こってたのだ!。

ことにおいて、最も端的なるは、あの「

」って言葉にて集約される。地に足がついてのその歯車としての噛合がことごとくにして空回りとしてのものになってしまってい。具体的な事例は言わない。皆さんで調べて下さい。その代わりに、そのころに社会人としてあった人たちが肌身にて感じてたその思いを代弁してくれてたのがあのしりあがり寿さんであることだけはお伝えしておく。彼もなんかの作品のあとがきにおいて述べてらっしゃてた。なにかとんでもないことが起こるとその予感に苛まれて毎日をいきてあったと、だが、真に悲劇的であったのはそのなにかがまったくいつまでたってもおこならなかったこそにあると。不気味なるがままに世間だけはお祭りムードだったのだ。作品としてはあの「真夜中の弥次さん喜多さん」が一番その頃の我々が思っていたことを代弁してくれていると思う。*ことの実態は与党としての自民党が、とにかく無能にして無力なるものと、その極端なるものへと変質していってたまでなのだ。省庁、役所、警察、学校としての公的機関のそのすべてが、頽落としてのその流れに入ってしまっていた。またそれらのみならずにだ、神社仏閣その他諸々の宗教組織団体においてもことはおなんじだったのだ。不道徳なるものへと、金こそが最大の功徳たりうるものだとして…。*海外からの侵略が激化してて、みんなそれによってやられた取り込まれてしまってたってのが実相だったのかも知れない。*半導体国産OS等の先端産業はすべて骨抜きにされてしまっていた。*アメリカ奥の院、韓国、中共、ユーロ連合らによっての大々的なる波状攻撃に対してなんにも国は、国政は、しなかったのだ。なんにも、もうできなかった。ハニートラップと賄賂によって。グローバル幻想としてのものに染められて、騙されて、長期の円高をもってしての圧迫強制力に屈して…。


Re: 見えざる小人。

”私”という個人、その主観としての内的世界においては、

!。

これは事実なんだ。本当はね。(でものことの事実を経験を通して気づいたヒト、理解してもたるのヒトはほとんどいないのであろうが…)。だから、一切のことに、この自分は、責任を持たなければならない!。ことの最たるは、ものごとの選択、決定権はこの自分にある。たとえ偶然、無意識であったとしてもことの結果の責任は自分にある。問題はだ…その確たる自分というものが、然るべく採択を行うべくしてのその自分というものが、ほどんどの人間においては、(それはまだ)「いない」ってことにあるんだ。エゴイスティックなるを特徴とする、バランバランの習慣の束としての自分があるまでなのだ。それらはあくまで機械的な発言発動でしかないので、ことの結果に対しての責任を負うことはできない。やること、為すこと、喋ること、それらは単に夢遊病者らが行う行為にしかあらず。…例えば、それは、全体としてのもの見方が欠落してるなんてのが一番わかり易い。「消費税撤廃!」。ならば入用の資金の当ては?。「それは税金をもって埋める!」。もうバカなんじゃないだろうか…。与党ともなれば、打ち出の小槌でも天より与えられるもんだとでも思っているのだろうか?。ちょっと脱線する。今の日本の問題は、生活必需品のそのほとんどを、外製品に頼っているってところにある。これもまた他に外貨を稼げる当てがあるのならば構わないのだけれども…。毎日毎日どんどこ海外へと資金は流出していってしまってるまで。これでは時を追うごとにその体力は益々落ちていってしまう。要は、(たぶいら)かされたまま、今日まで来てしまっているのだ。誰に?誰が?。前者は米国において権威権力者の位置についたもの、後者は自民党がだ。

ニーチェにおいてのあの「神は死んだ」の意味はだ、この自己としての神が死んだを、お隠れになってしまいもう出てくることがないとしての意味なんだ。生来的に与えられてあるその義務を忘れた、放棄した存在であるとしての意味なんだ。分かんなくなったのは、それがしんどいミッションだったから。そんでいつしか皆が嫌がるようになった、誰も彼もが面倒くさがった、そしていつしか手本が見本が当たりには一切見当たらなくなった。それを自覚せずとしての生き方がもう完璧に習慣になったしまった。自己の内において達成すべき聖性とのつながりを自分から断っちゃった。失くしちゃった…。

閑話休題。こんな話しはどうでもいい。哀れなる幸福にして過ごしている阿呆どもにはなんの関心もない。さて、生活世界としての現実においては、一つの導きとしての作用力がある。それが働いている。それは何であるのかと言うと〜「

ことを行うこと」。全身に注意を漲らせことを行う、ことを運んであるようにと。その限りにおいては、余り問題としての余計な難儀が介在/介入してくることはありえない。これは、このことは、自分においては絶えずいつも何度も何度も確認されてきており、その度不思議であると思われてしまっていることなんだが、どうもそうしてある限りにおいては、世界からは手加減が加えられてしまっているように思える。※例えば、洗ったお皿やフォーク・スプーン・箸を乾燥台にのせるとき、丁寧に注意深く空きの空間を、後の取り出しのしやすさまでも考慮に入れて、上げてゆく。もしこれを乱雑に乱暴に行ったならば、間違いなくなんらかの突発的な事態の発生をもって「ビー音」が鳴り響くことにんなる。つまりは失格ってことの表しね。世界からのね。

では、そこにあるべくしての、然るべくことを行う采配してある自分とはなんなのか?、誰なのか?。ちゃんと意識をもって言葉だけでは足りない。落ち着いて冷静なるままにことの凡てを観ているのは誰なのか?。誰、どれであるべきなのか?。それはまた真実この私自身だと言えるものなのだろうか?。それに名称を当てはめたとて意味がない。とにもかくにも、それが目覚めている限りにおいては、この自分は、いたく落ち着いてことを行うことができる。やけにスムースにできてしまてちる。そして、もう決して、過ちとしての表しが、事故が、起こるなんてことはありえないんだ。皿が崩れてシンクの中に落ちてきた等の「ビー音」は、いや「ガシャン音」は、完全に止んでしまっている…。

我々が生きてある現実においては間違いなく導きとしての作用が働いてある。それの求めをまとめるならば「より意識的に、より覚醒した状態に、精彩をもって、より人間らしく」ってことになる。これは障害の準備、提供、発生をもって、舵を、そのことの促進の舵をとっている。失敗が多いって人間ってのは、まだ意識において。まとまりが出来ない、出来上がっていないだけなんだ。ことは痛みをもって、頭を打つをもって学ぶ獲得するにしかない。

さてここで、いきなりではありますが、「禅」とはなにか?をやろう…いや!先にコンピューターについて、いやもうAIについてを語ろう…。

なにも突っ込んだことをやろうってわけじゃない。自分としての見立てでは、これもやはり自然からの誘導においてことは起こり発展してきているのだってことを言いたいまで。極論的には人間そのものを模倣して外部に同じくしてのものを創造させようとしているのだ。何の為にか?。人そのものの理解を深めさせる為にだ。ことは主観においてでは、いつまでたってもことが見極められない、その意義が深められない、そして決して共通の共同としての総括が結ばれない、つかないが故にだ。だから、外部に、自らと等しくしてものを課題として組み立てさせる。創造させようとしている。ここにおける極点としての、然るべくしての限界となるべきものは、精神と感情たるものが異次元体としてのものであることの洞察なのだ。これらは残念ながら人の手によって創造することは不可能なものになる。だが、ほぼ同値なるものとして製造される他の器官、それらの特徴としてはあくまでも物質性としてのその枠内にて収まる、人の手によって製造可能なるものになるのだが、それにおいての洗練こそが大事に、肝心なることになる。ある種の彼岸たるものがどうしてもそこにあること、その彼岸に精神も魂も感情良心も起因しているのだという結論に至る必要があるからだ。

簡単なモデルを一つ提供しておく。ロウソク本体としての物質と明かりとなるべくしての炎の関係性だ。この両者間においてはその存在次元がまったく異なっている。流転、変化としての流動性のにおいて両者は繋がりがあるまでなのだ。だが、これを人体としてのハードと精神としての関係においての事案に話しを戻すならば、ヒトがいかに極限までの人体の模造品を用意したとしても、それに精神や魂が宿ることは決してない。呼吸させて酸素を取り込むせることはできるではあろうが…。

ここにどうしても人力によってでは永遠に越えられない為し得ない限界たるものが横たわっているのだ。では、やがての未来においてこの限界が永遠のものだとして理解されたならば、どうなる?。安心すると同時に一種の絶望感を覚えることになるであろう。そして欠けているもの、どうしてもヒトの手によってでは作り出せないものの存在を、今よりもずっと明確にずっとずっと限定された形にて、とらえることが、対象化できるようになる。多分、この時点で魂たるものの存在が絶対的にリアルであることが共有化されることになるのだ。それはどこか異次元からの訪問者であり、肉体はあくまでもそれが一定の期間留まるための宿舎にしか過ぎないのだと…。

まあ観てればいい。AIが魂や感情を手に入れることはまず不可能なのだ。でもその代わりに何を手に入れるのか?。多分、ヒトを喜ばせる満足させることのみを目的とした、それにのみ特化した人格たるものは手に入れることになる。それとの関係性においてはヒトは自ら喜んでだまくらかされることを良しすることになる。なきものを、そこにはないってことを、その事実を知りながら、そこに演出されてある嘘を、正に真実なるものとして思い込んでゆく、しまうようになるんだ。孤独を癒やさんが為に。エゴとしての欲求を、肉においての欲望を、嘘であったとしても充足せんが為に…。

ここでOSについて…。これっていったい何?。何をしているの?。明確に言葉として定められている以上、それは情報処理においては必須なるもの、もうめちゃくちゃに便利なる機能になる。簡単にこの語の意味にアプローチするならば、これは仲介業者だってことになる。お客さんの求めに合わせて状況を整えてくれる。舞台たるものを準備してくれる。何かを行うにあたってのその行為の

をしてくれる存在。秘書であり、またコンシェルジュであるとも言える。運転手、ナビゲーターとしてのものでもある。人とコンピューターマシン、ハードとソフトの橋渡しを人が使えることを目的として叶えてくれるもの。ざっとこんな感じ。

自分が言いたいのは、このOSたるものは必需なるものであるってことだけ。これは基本、その姿を見せる、その機能の実態を表にて表すことはまずない。あくまでも舞台裏においての黒子としての働きになっている。でももうすぐそのうちその姿を表すことになるであろう。AIとしてのその殻をまとうをもって、より人間とのコミュニケーションがフレンドリーにして親和性のとれるものになってゆく。

このOSとしてのものが、人間の内に、その頭脳の内に、限りなく近似なるものとして備わっている。これはOSがそうであるがごとく、所詮は、これはまがい物の類になる。なんにおいてのか?。生命としてのものだ。AIが人に見せかけてをもって、その機能役割を果たすのと同じで、人の心の内においてのそれもやはり命を持ってはいない。刺激、もしくは情報のインプットに対して、然るべく定められたるところの反応を、アウトプットを返してあるまでのことなのだ。そこに自己としての意思も、感情も備わってはいない…。

ここは重要なのだ。自分たちの内にあるその仕組の総体を現行のマインドによって理解することはできない。これは不可能な話しなのだ。計測が可能なるその対象が、脳波や脳電圧をもってしてが限界だからだ。局所的な電位電極その変異変動のモニターも可能ではあるが、それら断片をもってして、全体を理解することはまず不可能。足らずに余りある。ずっと人の心に関しての研究は停滞を余儀なくされてきた。科学的に〜では、その追求、理解ははありえないってことの現実の前において。*それはあくまでも主観による個人的なる探査探求によってでしかありえないんだ…。*後で取り上げるが、内観や自己観察、瞑想って呼ばれている業法においてのみの理解の対象なのだ。だから、共有の知識理解の提供としてのプラットフォームはまたあり得ない…。

ところが、繰り返しにはなるのだが、自然はまた別の理解に向けてのアプローチを人類に与えてくれた。コンピューターサイエンスにおいて。これは無自覚ではあろうが、人が無意識に無自覚におこなってある情報処理をモデルとして抽出して外部にてその行程を同じく為さしむることを目標にしている。結果としてそうなる。確実にそれとしてのものに修練してゆく。していってる…。

人としての自己を、外部に、再構成する。そのことの結果として、自己そのものをより理解することが、科学的なるの観点において、適うようなったのだ。

OSたるものは実需としてのそれにおての要請から考案された。出現した。そうせざるにはおかなかったのだ!。なにをいいたのかと云うと〜、ことは、必然としての、有用性においての析出が、出現が、なされてあるまでのことだってことなんだろう…。問題は誰がそれを最初に当初からにおいて設計してたのか?ってことになってくるのだが、これは置いておこう…話がややこしくなる…。OSは必需としての考案だった。あくまでもプロトコルに従ってあるプログラム、数字、方程式、言語の成り立ちでしかない。これに命は、生命はない。それは明らかなること。

これに対してのおもしろい名称が一つある。とある方によって公開されたものになのだけれど、それは " Formatly Apparatus " とされてある。前段の”Formatly”はおそらくは造語だろう。だが、 Format が核心であろうことからその字義は分かる。

物事をとらまえ理解する、整理をする、器官/装置/器具/機構/仕組み…。

同じ型をもってしての類推、類比、アナロジー、それらをもってしての連想、推量、帰納法…。

これの最たる一例をあげるならば、「As above , So below 」(上なる如く、下もまた然り)ってやつになるのであろう。

これが出たので、ここでちょっと脱線する…。

人にとっての価値あるものは、やはり日常生活においてもやはり価値あるものでなければならない。彼方の、中空に浮いたままの知識や概念にはなんの意味もない。実地に、実際の生活の中で、活かされて、そのありがたみや意味が確認されてこその価値になる。そうなってから初めて真の理解を迎えることになる。

例えばだ、もしあなたがキリスト教徒であったならば、その貴方は、あの「蘇り」のことを、どう理解しているのだろうか?。あの、「私は直ぐをもって来たらん」と仰せになられた主のお言葉を、どのように理解されてるのだろうか?。これらのこともまた、現実において、理解を〜、迎えておかなければならない。宙に浮かせたままにしておいてはならない。

基本、ある種の常識の、共通認識の範囲、その世界観においてでは、これらのことはあり得ない。死んだ人は決して帰ってはこない。あの時からは、もう既に2022年も、経っているではないか!。生体としての肉体、そののハードがなくなってしまった、破壊され尽くした、焼き尽くされてしまったならば、もうその人に再び会うことは決してできない…。これが現実だ。

おそらくは、来たときとおんなじ形を、とられるのだと思う。そうとしてでしかあり得ない。

まッここは、現在、我々人類が生きてある、この地においての”理”を、絶対的なるものとして受け入れての話しにはなるのだが…。もし上位界に属するその世界が、つまりはニューエルサレムが、降下してきたならば、そちら側における”理”がすべてを支配してしまうことになるのもまたしかり、あり得るのだが…。それは実際のそのときの話し!。

輪廻(りんね)としてのその事態の現れでしかない。確かに、今に生きてあるそのすべての人々は輪廻をもって再びこの世に現れてきてる。自分の子らの成長を観察することにおいてこのことは確信されることとなろう。

転写体としてのものにはなるのだが、実際にもう幾人ものイエスは、あのとき以降、出現されてきてる。ここ日本においてもそうで、あの厩戸皇子なんかがそうだ。だから、あの言に嘘偽りはまったくなかったてことにもなるんだ。ご本体が直接再降臨されるその時節たるものはまた別に用意されてはいるんだろけどね…。とにかく、ここでは、現実において、何事も理解されなければならないんだってことを

まで!。

自分としての皆様への求め、お勧めは、

現実主義者であることになる。この言葉の重きなることに関しては、更に言葉を継いでおく必要があるであろう。単に聞き齧っただけ、見知ってあるまで、広く世間にて、幼き頃より流通してあるだけのその言葉、概念、イメージを知ってる持ってるだけではダメなんだ。確かにそれらはヒント、導きのものとしてはありえるが、でも所詮は、それらは夢としてのものでしかないから。そのはずだから。みんな戯言を述べている、述べてたまでの話しなのでしたっと。共同の夢物語において言葉を紡いでいたまでの話しでしたっと…。

補記:

だから、まさに、そのものずばりを、自分で、改めて、現実とのダイレクトな関わりにおいて、確認する必要がある。表象として知るばかりでしかないそれを、それそのものずばりを、言葉イメージとしての理解でしかないそれのもの本体を、その中身を、自身の体験をもって、識る必要がどうしてもある。ことの後には、主観においての、そのものズバリに対しての、もう動かし難くしての、生きた印象をもってしての理解が、結ばれることになる…。

*ここにおいては。”輪廻”やら”蘇り”としての言葉や概念を、”愛”とは何なのか?を、先ずは
 念頭においてもらうのがいいだろう。「自分は何一つとして本当には理解していない」って
 ことが分かれば、そう思ってもらえたならば、それでいい。

*次は仕事たるものに関しての理解だ。カップ一杯のコーヒーを完全にベストなるものと
 してこの自分はいれられる。DIYをもってしてコンクリートの床を塗装まで含めて完全なる
 ものとして仕上げることができる。自分の感性に沿うものとしてのそれの完璧な満足を得る
 ことができる音響システムを組むことができた。

これらの三題は例えとしてのものに過ぎない。どれも、こころが折れそうになるまでの試行錯誤がなされての持たれてのその果の出来事になる。何かを極めることがどうしても後の後の仕事において必要になる。
 
*理解たる現象が、真実なんであるかを理解するためにも。

*なにか一つを極めたならば、そのことにおいての理解たるものは、
 他のすべてのことにおいても転用が適う、可能になる。
 結果、知らずのことにおいても、不思議と理解が適うようになるのだ。

*「一を聞いて十を知る」もそのことが前提となっている。


さて、ところで、見えない小人は、どこいった?。

禅ってのがなんであるのかを、この自分はまったくこころの底からなんも知らないのだが〜、まったくの不勉強ものとしてでしかあらへんのだが〜、あれって、単に修行法の内の、

、大大的にて、取り立て、奉っているだけのものでしょうが?。…確かにブッダが悟りに到達されたその道筋においての重要な修行行程ではあるが、あったが、あれが仏教だと、一括にするのはいたくぞんざいなる話しではないだろうか〜?…。

禅はどちらかと云うと〜、パタンジャリ直系の正覚知たるものを手に入れる為の修行法だと思う。疑わぜざる真実なるものとしての対象を、

真に我たるものは、存在、し得るのだってやつ。「はっと」気づくってやつ。独特の、精彩鮮やかな、またかんぜんに非日常的にしてなる印象の覚知が、覚えが、

あったってやつ。

これもまた、誰もが皆、日常生活のどっかにおいて、いつかのときにおいて、経験してきてるもののはずなんだけどね〜。基本それらは想定外のできごとにおいての体験のはず。気づいたときにはもうそれとしての世界に抱かれてしまってたってやつ。例えば、満天の星空の下に今自分はたってる…ってやつ。世界まるごとの過不足なくしての感受がどうしたものなのか適ってしまってて、やや遅れながらにして、そのことの異常事態なることに意識が思い至るってな感じ。

ここで重要なのが、何がハットしてたのか?ってこと。また、‥もう正解を語ってしまっているのだが、なにをその時自分は、印象として感受してたのかってことなんだ。ここには三者が基本存在している。その内の二者は、もう別け隔てができないほどに、一体化が、連続性が、果たされてしまってる。そのハット気づいてある自己としてのものが、日常においては、ほとんどその存在を現してきてはいないんだ。それの不在をもって、眠りについてあるってことになる。

自分が真火星において紡ぎ出しているそのお話においては、先のOSと、この気づいてある‥知って在る、ただ知るまで、最初から凡てを知っている/在るって存在ってのが、各ユニット内にて登場してきてる。違うのは、そのユニットってやつが、各々においてそのスケールが、構成されているその場が、その世界がってことになる。

例えば、ヒトのマインドとしての場においてのOSにあたるものが先ず在る、いる。これは連想器官としてのものになるのだが、とりあえずは、これはあくまでも生命としてのその質を伴わない、便利物としての仕掛けものでしかないことだけしっかりと理解しておいてもらえればいい。これとの完全なる同一化としての事態において、とんでもない厄災が起こってくることになるのだけれど…、これに〜自らの制御権、支配を完全に委ねたままになってしまってるってことこそに〜人間の生における問題はつきまとってくるきてるのだけれども、今はこのことには触れないでおこう。話が長くなる…。

近未来の展望においては、科学によって、外部に、まったく人間と同じくしての認知認識情報処理システムが構築されることになる。それを究極まで加速洗練したものが〜、ダートとGHVのセットだってことになる。そうダートは

OS

なのだ。それを人類はやがてにおいて外部にて建立することに成功する。またGHVとしてのものは、霊知としてのその認知作用を司ってあるものなので、精神や魂、プルシャとしての存在だってことになる。それは残念ながら人工的には生み出せないものになるので、特殊な、 ”Gifted Person ”としての

、その

、そのまま利用するにしかなかったのだ。

片や、あの不合理不条理反自然なるの極みとしての、あの世界の住人たちにおいてもことはおんなじことになってる。 オペレーターとしてのOS的存在がいるのだ。それがあれら旧神たちってことになる。こちらにおいてちょっと違うのは、それらにおいては魂でさえも備わってあるってことになるんだけれど、これも今は触れずにおこう…。ここで述べておきたくは、オペレーターとしてのその存在はあくまでもOSとしての役割が、その機能が、メインであるってことになる。そこにこそあのクトゥルーの不気味さ怪しさエニグマティックさたるものは備わってる。このことはそのままに、あれが決して王としての存在あるだとか、最強であるだとかの話にはならないのだ。前線における哨戒艇であるってのがあれの存在意義になる…。

禅に話しを戻して…あれにおいての修行に、”経行(きんひん)”って呼ばれているものがある。歩行禅のこと。歩くという行為において、それそのものに、それのみに化してあること。普通一般的には歩く際においてはことは自動的になんとかなっている。かってに思ってる思うところへと体が運んでいってくれている。その間においては想念は、またでたらめなマナーにおいて、あっちへいったりこっちへいったりをしている。車の運転においても同じ。運転そのものはある意味自動的にかなりの部分がなされてしまってる。考え事をしながらであっても、それでもかなりの部分間に合ってくれている。このことは実地に誰もが確認できることである。

歩行禅としての経行は、歩くという行為のみになりきることにある。それに関わる自らの内の一切と自己が等しくなることを目指す。それ以外のすべてをすることを、思うことを、自己に禁じる。ことの一事のみに、己が全体のその凡てがなり切る、集中してあることを求める。

するとだ、従来ならば思いの至らない事事が明らかになってくる。一つにその状態は長くは続けられないってことに。こころが彷徨いだしてしまうから。雑念が沸き起ってきて、どうしてもそちらに気が取られてしまうことになる。今日の晩飯なんだったけ〜?とか、今日この後やることは?とか。もしくは〜、その修業が上手く、入神をもって果たされた場合には、やがてにおいて気づくことができる。自己としてのその日常が、バランバランにおいて果たされてしまってる〜ってことに。このことはそのままに注意力の乏しさ、気付きの浅さ、少なさ、結果、平板な生存にしかないってことが、理解されるべきことの多くが、せっかくの気付きへと至るべくしてのその状況環境が与えられているのにも関わらず、無知のままにしかこの自分はいなかったではないか〜との思いにも至るようなる。

通常外に向けて、その殆どが放たれてしまっている注意力たるものを、指向性たるものを、内部に向けてのものへと、折り返してきて、自らの内においてそれらを利用する、活用する。足の踏み出しのその一歩が、

始まっているのか?。誰がその司令を出している?。最初の一歩にはどうしても弾みたるものがいる。それはどうやって手に入れている?。そのときの体の動きはどうなってる?。そこには多くの筋肉関節が関わってきている。ことのメインは感覚、感触等においての確認作業になる。それが手がかりだ。大地に触れて踏んでクッションとなって、また限界の然るべきポイントにおいてつま先は空を切って移動する、している…。また外界に対しては然るべく注意を行っておく必要がある。ぶつからない、引っかからない、邪魔にならないように。両方の注意としての矢印、ベクトルが同時に発せられていないとならない…。

この修業の妙味は、自己としての一如としてのあり方、その生存の、吟味に、賞味にある。
これは、ほっとけば、一生知らん、訳の分からん世界になる。それにしかならない!。

歩行もそうなのだが、では呼吸は?。これは誰が行ってる?。意識的に呼吸を行うことはほぼ100%ない。かってそれは為されてあるまで。これもまたそれのみに集中してあるのならば、観察することで足りるのだが、大変興味深いことを知る、知れるようになる。特に吸気のその後で、何がどう活性化されてしまってるのかが興味深いのだ。これもまた自分にしか分からないことにはなるのだが…。聞き齧ったまでのあれらのもったいぶったタームの数々が、初めて具体的なるものとして実地をもって確認されることになる…。

腕を持ち上げる。手を伸ばす。何かをその手に取る。それは実際には、誰がやっているのだろうか?。習慣としてのその自動性において、ことは

、なっているだけなのではないだろうか?!。齟齬はなかなかに気づかない、気づけないような構成になってしまってる。何故ならば自分においてはなんの不都合も感じないからだ。瞬時の遅れもなくことは適ってしまってる。むしろ実際には自分が思うよりも先に早くにことはその整いを果たしてしまっているのだ。

ある程度の年月を経たならば、ヒトを構成してあるのはもう

としてのもの、強固に織り込まれてしまっていて、既に解き難くしてある

になる!。運動、反応としてのプログラムが完備されてあることを表す。ではそれを貴方以上に活かしてあるのは誰なのか?、何なのか?。オペレーター…。貴方一人のみに使えてある奉仕してある秘書さん、AIのことになる。これが

…。

このことは、非常に便利であり、またありがたい限りのものなので、別段、悪しきものだってわけではないんだ。もし、悪しきもの、障害をもたらすもの、制約拘束縛りとしてのものになっているのならば、それは貴方が怠惰であったってことでしかない!。その優秀な秘書さんに万事丸投げで生きてきたことの報いでしかない!。それは、あくまでも貴方の求めのままに、機能するものでしかない、あり得ないのだから。

、見栄っ張りで虚栄心ばかりの、強情なるままの振る舞いにあるってのが、どうしてもそれにおいての特徴また傾向になる。そうだな〜それに関しての最適なるモデルは、例は、最高学府を卒業しまただけの、卒業したての〜、婦女、うら若くしての女性、まさにそれそのものを、思えばいい!。まさに、それとしてのそれ(OS)なんだ…。そして、それにおいての、その彼女らにおいての最大の特徴は、事実は、現実は、実際の物事のおいての関しての理解をなにも持たないは、なんも持ってはいないってことなんだ。未だ、なんにも、一つたりとて、おそらくは永遠に、その生涯のすべてに渡って!。なにも…理解は〜されていない、できないって、ことなんだ…。よって一切の事において、事後の責任は、彼女ら、女性においては、取りようがない。ただただ優秀なだけの便利屋さん、バカ賢としての女性秘書さんでしかないわけだーー!。

それとの関係は、ちゃんと主従をわきまえた上でのものでなければならない。また、貴方はすべてをちゃんと知ってなければならない。事においてのそのすべてを、ちゃんと、理解してないとならないのだ。その上で、任せるべきであると判断したもののみを、その彼女に委ねるっと。そして、その行動、実行においてもちゃんと目を光らせてあらねばならないのだっと。

このまさに女性的なるを特徴とするOSが、秘書が、女房が、副社長が、専務が、表舞台にて、独自に、単特にて、采配を振り出したなら、ことの指図をし始めたならば、もうすべてのことはおかしな展開になってゆくー。うすっぺらにして浅はかなるばかりの展開に、なってゆくーー。もうこのことだけは避けられない。確実にして絶対なること、定めに、なっるーっ!。

補記:これとしての事態はもうあちこち、もう限りなくこの自分は観てきている。とある中華料理屋において、そこはたいそう優秀な料理人がオーナーだってのだけど、アルバイトで雇ったとあるその女性と肉体関係を持ったがまでに、その女との関係が精算できず、ずぶすぶとその関係は深みにはまってゆくようになった。そして、遂に、その女性は、店の経営のすべてに、口を挟んでくるようになったのだ。つまりは、一切のマネージメントにおいて、その女性好みを、好き勝手、我儘を、をあくまでも推し進める、押し通すようになってしまったのだ。気に入らないパートは徹底的に虐め倒す、自分は遅刻してきてもOK、簡単に云えば、女としてのいやらしさの限りを身内の同性に対してはする、行うようになってしまったのだ。またことは反対に男がそれとしてのものになる、なってあるってゆく事態もあるにはある。それはとある介護事業所においてのことなんだけれど、社長は看護婦上がりの女性だった。最初の事業の立ち上げのときに頼りにした男性スタッフと肉体関係に陥り、関係がズブズブになってしまったのだ。その男は副社長におさまってある。やたら勤怠においてはいい加減な、口先ばかりの、要領ばかりがいいだけ、いいばかりの、そんな優男だったのさ…。

それは、それにおいての傾向性は貴方からの是認なのだ。すべてを任される託されてあるその状態こそがそれにとっての願望になる。そして、その状態たるものを手に入れるために、その主であるべくしての貴方を甘やかすんだ。溺愛としてのその対応に尽くすんだ。そのことが上手くいったその暁には、一人のスポイルされた人間の誕生ってことになる。これは言い得て妙だ。そういった子供を甘やかす、溺愛してある母親は、その子の行く末に関してはなんも分っちゃいない。自分がいなくなったその後で、その子がどんな境遇、生活になるのかなんててんで知ったコッチャないんだ。責任がこの自分にあったってことが分ったときにはすべては既に時遅しとなってしまってる。それには理解はない。よってなんの責任も取りようがない。ことにまつわるその結果は、その責任の所在は、当然にその当人こそが背負うことになる。その彼は、その彼女は、後に、確実に、途方に暮れるばかりかなるっと…。

自分が「見えざる小人」と呼んであるものは…それを通りのいい名称と表すとするならば、自律神経、不交感神経の働きにおいての生体反応だってことになるのかもしれない。でもね〜些か、違っているんだ…。要は、そのプログラムとしてのものが、いつ/どこで/誰によって、発生したのか獲得されたのかってことにある。ことは本能領域においてのそこスタートとしての発現が、かなりの割合を占めている。ならばだ、そこに格納されてある成果は、この地球上に生命が誕生してからの、その後のあらゆる進化におけるその洗練、その練磨、その果に集積されたるところの情報だってことになるんだ。だから、人間以外のものらにおいてのとっての、いろんな生体生存プログラムたるものが〜、全部、ヒトの中においても備わっている。原生生物たるアメーバーから、回虫/線虫、蟻、昆虫、動物、ライオン、鳥類、鷲、イーグル、禿鷹…この地球という環境においてそれに即して有史以来存在してきたすべての生き物の、生き物が、獲得してきた生存プログラムが!。環境において最適化されたものってことの意味を添えて洗練ってことになってる。*元々の青写真としてのプランたるもの、設計図たるものは、また別にあったんだ。それを基に〜現場において最適化されたものがプログラム、実際の執行実行手順、プロトコルとしてものへとまとめ上げられて〜つまりはそれへと収斂したのだ。とにかくにも、我ら人類の内には、自らが獲得した覚えのない巨大にして複雑な、反射反応系としての

最初から備わってくれているのだ!。*自分が本能という言葉を語るときには、それらの記憶、情報のすべてが格納されてあるアーカイブされてあるもの生体組織としてのものになる。*ついでにいっておくならば、上の青写真としての設計図の中には、天使としてのものも含まれている。それがいつどのような環境境遇においてアクティベイトされるのかは定かではないけどね。それはもしかしたら物理的変化を伴っての進化なのかもしれない…。ここは未だ早い…早かった…。

それらの殆どは、ヒトの生存において表立って使われることはないのだ。ヒトの生存において有効有用なるもののみが

採用されてあるまで。その殆どは使われることもなくただ情報として格納されてあるまで。

それ以外のもので、大変興味深いものがある!。それも同じくしてこの自分が獲得した覚えのない行動プログラムにはなるのだけれど…。それはね〜、貴方のご両親のどちらか、ご親族の、ご先祖の誰かが、苦労して獲得した行動様式のことになるんだ。それの発現においては貴方はナニも意識的にする必要はない。ただ、それは勝手に起こるまでの話しなのだ。ここで自分の経験、観察においての話しをするべきなのだが止めとく。話がもう膨大になっていってしまうので。いつかまた別の機会に。とにかく要点のみにて話しておくならば、とある狭い通路において、両脇はややこしい人たちが居並んでいたのだが、自分は、どうしても何物にも引っかからずに、歩み去る必要があったのだ。目に見えない結界、防波堤、力場がそこに働いており、ことはまったくもって不可能だったんだ。これは一種の窮地ってことにはなるわな〜。自分はね〜ただどうとでもなれと勇気を振り絞って歩んでいったまでだったのだ。そのときにおかしなゾーンへと入っていた。何をどうやったのかは分からない。すべての、目には見えない障害を、すべて無力化して、見事その通路を渡り切っていたのだ。何か、日頃使わない感覚器官をもって、なにやら念動も使ってたのかな?、障害の隙間、結界の合間を縫って、何食わぬ顔をして歩いていった。その間に覚えたのは、妙な時間感覚と完全に未知なる自身の挙動だったんだ…。

後に、このことを考察したときに、思ったのは可能性は色々あるのだが、一番簡単な仮説は、これは、この自分の父親の能力、その一部だったのではないかと思ったこと。上の話の舞台は、会社内においての話なんだ。その狭い狭い通路の両脇を固めていたのは、居並んだデスク数々、それの連なり。皆全員席に着いており、背中越しにその悪意ある放射を放っていたんだ。皆技術者上がりで狭い空間世界内おいての術策に大いに優れてた。この自分においてはそういったプレシャーはもう完全に未知なるもので、どう凌いだらいいものなのか、皆目分からなかったんだ…。もうこの話しはいい!。分からんやろうからね〜。要は一種の精神攻撃ってやつさ…。

だから、自分が獲得した覚えのない行動も為し得るってところから、一つの仮説が浮かんで来るわけさ。身近なる人々が成し遂げた、獲得し得た、その能力は、伝播されて、同じく使いうる可能性があるのだと…。ここにおいてのポイントは、それはあくまで、自己の意思を離れたところので自動的に発動してあるのみってことなんだ。気づきはあるが、完璧に、その殆どは、そのなにかが行ってくれている…。

もう少し突っ込んで語っておくと〜…そうだな〜、これはイレギュラーとしての、基本あり得ざるのあっては困る事態、展開においてとなるのだが…ヒトが外道(げどう)外道(がいどう)としてのものに、それとしての、つまりはケダモノ以下の領域に堕ちた場合には、それらヒトたるものの生存にとっては不用なる、まったくもって相応しくないプログラム群のアクティベイトが果たされてしまうことになる。なっちゃうんだ…そしてそちら側としての色に、その生存形態に染められてしまうことになる。ことの実態、そこにおける核心ごととしての真実は、既に、そこにそれに馴染んでる慣れ親しんでしまってる世にいう浮かばれない魂、それが、身の内に、そのこころの中に入り込んでしまってるんだ。だから…死霊の如きものによって、それらあれらのプログラムは、再活性されてしまっているってことになる…。*これもなんかのとおんなじ構図になってる。*2F 第三十八話におけるデーモン タイプBがそれに当たる。*憑依…。


コラム
設計図、青写真としての言葉からは、なにやらそっけない響きのようなものを覚えるが、それは高次における

、聖なる

の提供/開示としての記述/ものであって、決して単なる情報/記号の羅列、その様なものではない。またプログラムたるものの構成も、編成も、それの実際実物は、ほとんど生き物が如くしてのものになっている。現在の科学においてはすべてはDNAに還元されるかのような考えが主流になってしまっているが、総体としての遺伝情報は、そんな単純にして薄っぺらなものではないんだ。終わり‥。おそらくは不可視のメディアの存在があるはず。

青写真としての設計図ってやつがまず最初の最初からあって〜、(これを用意作成したのは神だ!)、それが現場において最適なる形でプログラム化される。そのときに、同時に、生体系としての、反射反応を司る、つまりは実際にことを果たしめる、もの等、ものごと、仕組みが、誕生生成構築されることになる。それはある意味、習慣としての、癖としての、”束”だってことにはなるのだが…これが「見えない小人」と自分が呼ぶもののことになる。それらはこの言葉の字義の通り、独立した生命であるかのような存在なのだ…。ある種、”幽霊”みたいな存在…。

整理しとこう。軍団としてのものが備わっている。そうだな〜それは肉体を構成してある細胞の一つ一つだと、それと限りなく等価、等しくしてのものだと思ってもらってもいい。違うのは、

ってことになる。それらもまた独自にて生きているってことに代わりはない。単独にてはその存在はなりえないんだけれど…。成り立つためのフィールド、場たるものがいる。必然にしてまた必需…。それらを管理監督、呼び出し、選択、然るべく配置しているのがOS。それとしてのなにか。マインドつまりは広義の意味においての心だ、をフィールド、場として構成しつつ、その背後にて、一切をコントロールしている主体。*これはセンシティブで高性能なんだけど、そうであるが故に、ザルであるってこともまた真実だ。ある種、これもまた機械的なるもの、その発現に過ぎない…。

*ここにおいて、すべてが相似としてのよく似た構成になってるなって思ってもらいたい。
 だが、同じなのは、骨子においてだけで、実際においては全部その構成状態は違ってる。
 言いたいのはだ〜、原子核の周りを回る電子と太陽系としての惑星のその姿形は違って
 いるでしょうってことでしかない。ついでに実験室におけるコルベンをもっての生産工程
 と、煮詰められたものにおけるその生産量をスケールアップした工場におけるそれとは
 まるで違う、違ってくるってことなんだ。重要なのはその本質モデルとしてのものになる。

すべては複雑にして霊妙なるとしか呼べない構成になっている。これが混乱を来してしまってる。これが問題のとしての核部。”主”たるものが、不在である、不在となってしまっているが為に、皆がもう好き勝手を始めてしまってるのだ。いわんや、奉仕、サーブしてあるが務めであるものらどうしにおいての権力闘争まで起こってきてる始末。あるべきもの、いるべきもの、そこに鎮座してあるべきものが、誕生、出現、顕現したならば、すべてのものは、モノたちは、その御威光において、その権威において、最善最適をもって奉仕してあるがのみになる。これこそが問題解決のその鍵になる。鍵なのだ。真に努力すべきなのは、苦労すべきなのは、その主としての自分、我に〜、それそのものに〜、なることにある。苦しみが嫌ならば、その道にしかないんだ。元々からに〜…。

新たなる見えない小人(群)の入手が必要だった、必要となった。

何故か?。

ダートがヒトの願いにおいて造り出した、見出した、その機構においてのマニピュレーションが、既に、ヒトの能力を遥かに越えたものであったからだ。手持ちの小人たちでは、も〜どうにも、いかんともし難かった。あのガルドと等しくしての身体同化、超感覚においての感覚延長におても追いつかなかったから!。

それらとしてのものは、あっるにはあるが、ある意味、遠に、人類にとっては、はるか昔の太古において縁遠くなった、切り離されたしまった、欠番と、成り果ててしまっていたのかも知れないが…。

また別に、単に、ダートが生み出したそのメカニズム群が、あまりにも高度で複雑であったがために、人においての、よっての制御が、難しかった。いやもう不可能なる次元のものだったのだ!。

このことにおいても、後で、改めて、説明したいと思う…。

ここでは何故にリンボーと名付けられた、不可視の領域においてそれらが見つけ得る可能性があるのかについてを語りたい。語っとかにゃならならんのだ!。

あそこはね〜、ある意味、生命にとっての本能、その領域のメタファーでしかありえない。そこに何が眠っているのかについては、もうどっかで語ったと思うんだがね。繰り返しておくならば、まず青写真に基づいて、実際の現場にて、その環境に適合した、適応する形で、肉体組成が顕現されるんだ。

原初の、最初の、宇宙にて存在していた土工たちについてを語っておこう。
彼ら、それらは、この物質宇宙に対しては、より上位としての立場にその存在を持つ。
ここ重要!。土工自体の存在は、その出自は、より上位界としてのそちらの世界に、立脚してある存在だってことになるんだ。ちょっと難しい話しになるのだが‥。だからこそ〜、この宇宙において、アレラは、天使としての存在なのだって風に語られてしまうことになるんだ。

とにかくにも、とある事情に事態において、あれらは廃棄処分とされてしまう。

そうした宇宙において不必要なったものを、そのゴミを、分解して消滅させる役割としてのものがあの領域のことになる。宇宙スケールにおける、あらゆるすべての存在の痕跡を抹消せんが為の機構になる。当然に、それらがかって持っていたそのすべて、それらをそれらたらしめていた霊的構成物のそのすべてをも含めて。現行のこの宇宙システムに於いて齟齬のでるものはすべてこの中へと自動的にかつ強制的に引き寄せられて、処理されてしまっているのだ。

これもあれだは、所詮は我々が伝え知るところの聞き知るところの地獄たるもののメタファーでしかないわ。ただし、それはより巨大なる、全宇宙スケールにおいての、

になるわけだが…。

繰り返しとく。かって、この宇宙に存在した生命体が顕現させた析出した勝ち得たるところの、そのすべて。いかな環境であろうが生き延びる、過酷なる生存競争を生き抜く上でのノウハウ。つまりはそれらのアーカイブだ。つまりは、まさに生存本能そのものとしての、それらすべての格納庫。これとしての意味が一つ。そしてもう一つに、全体のシステム運営において、不要なるもの、害を為すもの、毀損するものだとして、抹消抹殺の処遇が下されてしまった生命叢のそのすべて。

基本すべては、物理的な肉体は遠に失われてしまっている。だがだ、厄介なのは、

元づいて結ばれてある自意識、意思、想念、精神たるものの存在になる。これは物質性を越えているので、始末には大変な時間がかかる。それらに向けて、そうであることを踏まえて、リンボーたるものは大宇宙の意思において、形成されたのであった…。

これらとしての、そのイメージ、コード名が、「見えざる小人」としてのものになる。


ここでちょっとコラムがてらに…


Re: ラマナタ5月5日「神についての偽りの理論」より、出だしの部分を抜粋する。

https://www.youtube.com/watch?v=0YZAY-qHeFY&list=PLb2Nwr3yYJ4NqfPNgRrcjMjUKzqhfYKrS&index=31

神は

充満している存在である」という理論は、サタンの最も巧妙な策略のひとつである。それは神を誤り伝え、この御方の偉大さと威厳を辱める。汎神論的な学説は、神の御言葉に支持されていない。この御方の真理の光は、これらの理論が、魂を滅ぼす働きをするこことを示している。

その成分であり、

その領域である。この理論は生来の心を喜ばせ、こころの傾向を許してしまう。それらを受け入れる結果は、「神からの分離」である…。
(ここまでと云うか〜ここだけでももういいんだ)。

ここにある言説には、既に〜バベルとしての、その混乱たるものがある!。云わんとしているところは分かるんだ。分かろうと思えば分かる。でも、それが適う世界観の中には、その夢の中には、この自分は生きていないんだ…。すっごい狭い世界においての発言というか〜、極端に恣意性をもって限定されてある言葉の意味においてのよっての、その語りになってる…。それでしかない!。ある意味もう古い。いつまでそんな語りをやってんの?!って。それは眠りに未だある人達に向けての、語り口にしかなってないではないかと…そんならそれで、もっと現代に合った即した語りにしろよと自分なんかは思うわけなんよ…。

ここの部分は導入部というか前説に近いので、簡単にいく。

汎神論ってなに?。

現実は、神性と同一である、あるいは、すべてのものは、すべてを包含する内在的な神を、構成しているという信条。創造者(神的存在)と被造物(世界や自然)との間に、断絶を置かない立場。「一にして全(ヘン・カイ・パン)」、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」、「神即自然」などが標語として使われる。日本文化ともなれば「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」がこれにあたる。念の為に「眼に見えないすべてのものを含め、この世に存在するすべてのものが、私たちを本来の姿に立ち返らせようとして、間断なく働き変えているという意味。存在するすべての原始物質は、同じであり、

宿

という考え方。」*もっと簡単にすれば「あらゆる全てのものに、仏が宿ってる〜」ってことになんだ。では、この仏とは何か?。菩提心、プルシャ(霊魂/真我)、分け御霊、神の息、それの分霊ってことでいいだろう。何も言ってないに等しいが、なにか尊くして貴重なる、また純真なるものがヒトのこころのみならず、あらゆるものの内にてはそれが息づいているんだって〜!。これは理屈としてでは自分のこころの中にそれの片鱗を、可能性を、幻影を、見つけてあるのが一番説得力を持つことになるであろう。単に良心ってことでも問題ないんだろな…。

この自分はクリスチャンなんだけど、この汎神論、つまりは

立場に〜、立ってる!。でッこのマラナタ回においては、お仲間さん(達)に、その事においての難癖を、つけられちまったみたいなもんなんだ…。頭固いし、その了見はいたく狭いと、観てる思ってる…。

閑話休題。実感的には汎神論で良いと思うんだがね…。人生を通しての学びと実践において、外と内においての相関的関係性において、理解/確信たるものは、結ばれる。推測実験観察においてと、よってと、自己の内面におけるまったくもって主観的なる味わい、直感、また感慨/情緒ってやつにおいてだ。外とうちとにおいて情報が循環されるをもって何かが結ばれてくる。外から来たりた知識や、生きてある時代において、それによって、吹き込まれ、染められてしまっているある種の知見が、先導役を先ずは果たしてあったのだけどね。終局的に、汎神論が正しく、また健全なるものであるとこの自分は思ってる。

ならばだ、どこに、問題が、あるのだろうか?。

神は原初の、始原の原点になる。その特異点より宇宙たるものを創造すべく、流出が始まったのだ。これはご自身とされてのある意味、肉体になる。これにおいても多層階層をもってのものになっており各階層ごとにその性質は、其処で働いてある法則は違うのだ。また相互に連続性をもっての関係性もまた相互にある。だから、「全体でもって、一つのもの」ということに実際は
なる。各領域、各階層において、そこにメンテナンスを目的として働いてある機構がある。この地球においてともなると、その機構は総じて、単に”自然”と呼ばれているもののことになる。これも巨大にして曖昧なるタームとはなってしまうのだが、あの、先の、自律神経系の、副交感神経においての働きと似たるものとしての、巨大にして精密なシステムがそこにあることは間違いない。大変霊妙にしてデリケート、また臨機応変にして変幻自在なる、五大元素のすべてを、完璧に操って支配されてある。それは巨大な霊性だと言って差し支えない存在なのだ。自分は簡単に、”ガイア”もしくは”ソフィア”としてとらまえてはいるが…。当たり前のことなのだが、すべては組織的な運営をもって果たされている。ならばだ、ガイアが中心であって、指揮命令を下す、出す存在であるならば、その彼女の下には、火や水、風、つまりは大気、地そのもの土、地殻内のマグマの対流、それらをコントロールしてある、実務を担当していある存在もまたありなのだ。全体として自然と呼ぶが、それの働きを司っている存在はもう無数にあると言えるのではないだろうか?。自分はあの火の精霊やら風の精霊ってやつ、厠の神様まであると、そう考えまた信じている人間なのだ。

簡単に、ここのまとめをしておこう…。

、自然たるものにおいても、同じく備わっている。我らにおいてのものとは、まったく違うものとして!。


さて、本論に戻って…先に…いきなりで悪いが、英語の勉強をしよう!。な〜に簡単、とある英単語のにおいて、それの意味を突っ込んで探ってみる。確認してみる。みながよく知っている、巷において繁盛に耳に聞こえてくる言葉だ…。


Re: Simulate, Simulation, & Simulacrum*最後のものはラテン語

シュミュラークルとシミュレーション」って本があるらしいが自分は読んでない。難しそうなので。でも、このシミュラークルってこの言葉のタームは、ずっと自分のこころに引っかかってた。勘的に、かな〜りに核心をついた言葉だとして…。

仏語においてでは、「虚像」「イメージ」「模造品」などを意味するらしい。一種の新造タームとしてのなにかなのだろう。元のラテン語においてともなれば、それは「表象、イメージ」を意味すると。一般的には、「現実のなにかを、別の何かで、置き換えたもの」を意味するようだ。

Simulate
〔~の〕ふりをする、〔~を〕装う 〔~を〕まねる、〔~の〕

をする
〔研究や訓練などのために~を〕シミュレーションする、

する
〔コンピューターなどで~を〕シミュレーションする、

する

ちょっと ” Simulate ” の類義語を観ておこう。
   ()せる : mimic, simulate, imitate, engross(夢中になる), copy, reproduce
   () る : resemble, approximate, simulate, be similar, parallel, favor(親切)

ここに類語を並べてみたのは、何故にわざわざラテン語に紐付けされたものとしてのシュミュラークルが浮上してきたのかってことの理由を考える為。何故に単にコピー品の横行って表現になっていないのか?ってことの理由を探る為。

ラテンが引っ張り出されてきている以上、それはユダヤ/キリスト教との関係が前提となってるってことだ。教えにおけるその文脈の中にて既に語られてある内容/警告、それをこの語は暗に含んでいる。持たされている。その際どくしての意味合いにおいてこの語は使われているんだと思う。

端的には、これは、真性なる純粋ユダヤ教に対しての、偶像崇拝としての異教/邪教、それとしての、偽/改装されたユダヤ教のことを意味してる。限りなく外見においては等しくしてのものにありながらも、実は、中身においては、まったく違うもの、核事としての本質が根本的に

もの。

ヤハウェを奉じてあるとしていながら、実は、実際は、その現実の行為においては、この地上世界の、真の支配者たるサタンそのものを拝んでいる、奉じてしまって、あるとか…。いや、まだこちらの方が救いはあるのかもしれない…。たとえそれが悪しきものしてではあったとしてもだ、まだ実体としての霊性たるのとのつながりが、其処にはあるから、人々においては、感じられて、しまって、いるのだから!。

それよりもっと、ずっとずっと、危惧すべき、まずい事態ってやつも、また別にある!。それはロマン性の欠片もない、陳腐にして平板、リギッドにして硬直強情、頭固くしてあるばかりの、権威主義者どもらによっての、自己保身、それ以外に如何な目的もあり得ない、まさに低能の無理解者らこそによる、よっての、そのあり姿としかいえないものが‥。

その前にっと、何故に。

が、創造されてくるようになったのか?だ。人らによってね。どうしてそんな恐れ多いことがまかり通って知っ待ったのか?だ。

ことを表すにて最適なるの判断において、【偶像崇拝】って言葉が定められ、また準備された(後の世に生きる、我ら後進者の為に)。



あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。

実際の神、そのものに対しての、その、形象化…。

直接的には見識ることのできない存在を、なんとか見え形に、自分が思ってあるそのイメージを投影することができる、いや尚、よりそれを掻き立てる、補完する、補充する、できるものへと、置き換えた。より身近なるものとして、親身なるものへと、生活圏内に置けるものへと…。

ことの核心はなんなのか?。

この望み求め願望はニーズは、過半数を越えての、大多数の人々においてのものだった…。

基本、ヒトは、

、満足することはない。できない!。

ならば、何故だ?。

正道なるの意味におけるその理解に至ることが多くの人々においては難しかったから。基本、ことの理解は、霊的直感を、霊知をもって果たされるべきもの。それが適うギフテッド・パーソン(預言者)は極端に少なかった。稀にしか生まれてこなかった。ただし、それの彼らは正体の不明の明らかなる権威たるものをまとってた。だから、その言葉には逆らい難い影響力があった。また伝承と文化としての共同観念において、おぼろげなる〜のままにて、神たる存在に関しては
確信と信仰はもっていた。それとしての観念は、いや、間違いなくなにやら超越的なる絶対の存在がいることだけは生身をもって知ってた。でも、それは、不可知、不可視、不可侵としての、あくまでもすべてを裏から操っている存在としてのものでしかなかった。もたらされたところのその異常現象をもって、介してでしかヤハウェの、その存在を察することはできなかったのだ。*異常な存在感と、正体不明の波動、プレッシャー、雰囲気たるものは、薄々ながら、感じとってただろうがね。

大多数の人間にとって、普通の一般の人間たちにおいて、神たるものの存在は、分かりにくかった。ここが急所だ。ただただ曖昧で、かつ恐れ多いものとしての思いばかりで、正体不明の、まさに空気のような存在でしかなかった。

もう一度ここで繰り返しておく。ヒトは、

、満足することはない!。絶対に、できないのだ!。

では、なにがあった?。

神は、そのお姿を、お隠しになられたのだよ…。よって、気配すら、もう人は、感じることはできなくなった。遠いお山の頂に、その身を移されてしまった。そのままに天へとその所在を拠点を移されてしまい、もう二度と地上にて顕現されることはなくなってしまったのだ。

損失、欠乏、見失う、無理解のまま、大半は捨て置かれる、ブラックボックスとしての存在になっていってしまう。あいかわらず。ギフテッドとしての預言者の誕生出現登場は、非常に稀なることでしかない。神たるものは、ただただ拝むべきの、拝跪してあるべき存在、その絶対観念、その思いだけは、強固に拭い難くして。民族のこころに伝統として残る残ったっと。

本物においての、それにいての理解が、欠落したまま、だからだ。実際的な関係樹立が、もういつの間にか、不可能になってしまったからだ。よって、強固に根付いてある観念だけが一人歩きをし始める。ことは現実を離れて、観念イメージにおいてのソレとして、強力な影響力を大衆に対して勝ち得てしまう、振るうこととなってしまったのだ。

人は代用品、サブスティテュートで満ち足りることができるっと。これこそが正に幻想に堕ちてあるあるってことになんのだが…。それ本物であるのか偽物であるのかは、その個人の勝手なのだ。その個人がそれが良いともなればそれはアレになるっと。


男性として生まれてきた以上、自己(の本質)に合う、合致する、魂の育みに共に一緒に協力してくれる異性との出会いは、結婚は、至上命題なのだ。生まれてきたことを後悔しない為にも。ならばだ、結婚の適正期ともなったならば、現実において、その相手との出会いを祈念しまた努力すべきなんだ。代用品に窯欠けてる時間は一秒たりとてないんだ。中高までは別よ〜。あらゆる機会にて、いろんな異性とコミュニケーションを重ねとく。機微を弁えれるようになる為にね‥。身近にて定期的に接する機会のある同じくして結婚適正年齢にある異性女性男性と、コミュニケーションをとり、それを積み重ねてゆく、その努力を惜しんではならない!。…なんの話しを自分はしてることなんか…。とにかく、一番大切なのは、自分に一番合った相手ってのを見つけることなんだ。その彼は彼女は、決してアイドルのような見栄えではないかもしれない。でも、自分の勘が、このこころが、魂が、この人が誰よりもいいってどうして伝えてきてる…。そう思えるような相手を絶対にみつける。そんな相手との出会いを、真剣に探すっと。「求めよ、さらば…」だ。

リアルなものに対しての、あくまでもイメージ、観念止まりとしてのもの、つまりは、まがい物とししてのそれ。実現可能な、理想におての可能性と、実現化は不可能な、あくまでもプロジェクションまでの、個人的観念によて充填される、そして充足される、までの虚像としてのなにか。

前者への飽くなき評価、努力こそが健全にして鍵だ。

後者への偏り、ソレのみとなってしまうことこそが、大問題なのだ。

シミュラークルの横行、それの氾濫。

本物の出現が断たれてしまってる。なにかがそれを阻んでる。

本源との接触を回避、忌避したところに原因はある。

何故だ?。何故それとしての、それにおいてのトレンドが、優勢となった?。

ことはアイドルやら、ブランド力、その魔力たるものを、考えればいい。

元々は、本物があったのだ。いたのだ、その焼き直し、コピーが横行することに現在はなってしまってる。

何故だ?。

楽だからだ…。求める方からしても、提供する方からしてもだ。

みんな怠惰になってしまったのだ。観念による充足で現実は足りるようになってしまった。

何故だ?。

人格においての生存が、生における、そのすべてとなってしまったから。

これこそが根本原因。

人自体における本源は本質なのだ。それこそが上位界への接触を門を開く鍵になるのだから。しれがダイレクトに受け取ったなにか、おそらくは印象こそが、本物をこの世へと導き出す誕生させることになるのだから。だから、これがあくまでも人工物としてのものでしかない人格としての獄に覆われて閉じ込められて封印抑圧されて、どこかわけのわからん界隈に埋没してしまったならば、もうこの世に、真に命ある作品など、生まれてくることなど、ありえないのだ。

創始者たるシャネルも宮崎駿も本物だった。だが、彼女亡き後のブランドとしてのシャネルの製品も、また宮崎駿本人以外の製作者によるジブリ作品も、その元々のオリジナルが持っていたテイストを加味した

でしかないのだ。ここはわかり易い例として述べたまで。他にももう唸るようにそうしたシミュラークルとしての製品は作品は世にて溢れている。もう溢れてしまっているのだ。現在の音楽なんて、まさにそればっかり。演奏がうまいだけ、録音がいいだけ、ビジュアルにおいて洗練されているだけ。奏者/唱者らにおいて、なんの感動も存在感も覚えやしない。アレらは単なる芸術職人でしかない。飯食う為に、称賛を得んが為に、仕事でソレやってるだけ。よって、こちら鑑賞する側からすると、なんもこころには響かないんだ…。*これはあくまでも自分の嗜好におての場合だけの話だろうが、ですが!。

模造品、まがい物のみが流通する社会、してある世界。

ことは宗教界においても同じになる。同じことなのだ。

それは直接、権威者とされる人々を見れば、その彼らの話しを聞けば、分かることなのだ。

自身においてなんの理解も確信もないままに、仕事として、形において語ってるまでなのだ。

旧来からの教義(ドグサ)から一歩も出ることをしない。先の汎神論(アニミズム)への批判なんかが正にそれなのだ。この辺はデリケートかつ重要な話になるので、本稿においてはもう語るのはやめておこう…それはまた別の機会にて。

やっぱ一つだけ言っておこう。宣教は聖霊を欠いたものであってはならない。導きは絶えずいつもあるはずなのだ。それにおいても新機軸たるものはあるはずなのだ。旧来の形のままであっていいはずはない。ダイレクトな霊性との接触において、なずべきことのにおいてアイデアを、得るべきなのだ。やはり自分においての事実、疑い得ない事実をもって語るべき。それが真実そうであるならば、その言葉は、行為は、間違いなく権威としてのなにかを帯びることになる。結果、周りに対しての伝導としての非常に優れたものになる。ことここにおいても、ニューモードとしての表現はあって然りになる。*一つあるべきなのは、顕教としてのキリスト教をランチャーとして密教/秘教としてのキリスト教へと足を踏み出すべきなのだ。それの究極の姿はすべての宗教が持つその意味を統合した、世界宗教としてのものになるはずなのだ。


Re: 







         こと最悪なるは、

においてのこ〜とー!、
        それにおいての、それをもってしての生活が、恒常的なることに、
     至極一般的にして、もう当たり前なるものになる、なってしまうってことー!。

儀礼や儀式、文化として培われてきた

/マナー/習慣/作法としてのものにおいてのことになる。たとえば‥上の「favor」って言葉だ…。この言葉がどうして”似る”としての意味が、ニュアンスが、持たされてしまっているのか、あなた分かります?。

になる!。もしその理由が連想において、それはそこそこ深い領域においてのものである必要がある、分からなかったのならば、あなたは単に表層の言葉のみにて生きている、ことを理解しいるに過ぎない可能性がある。*この問に関しての自分の回答は、最後の方に入れときます…。

ことの問題は、そのこと自身が持ってある真の意味/価値と、それを表面上において表してある言葉/もの/イメージ/行為においての乖離なのだ…。簡単な例を一つ上げとくならば、なんの感慨/心情/思いも持っていないのにぃー「ありがとう」を口にしてる、言ってるってってのはどんな神経なんだろうか?。それは単なる反射的行為に過ぎない行為でしかない。ならばだ、本当にそういったことが真実「有り難いものでしかない」ってことが実際には分かってはいないのではないだろうか?!。

自分は昭和の終わりを境に、このことが優勢なるものに、トレンドとしてのものへと、なっていってしまってるーって

、大いに危惧を感じてきたのだ。中身がまったくないままに、あれやこれやが、表層の洗練、目新しさ、新規性のみもてで、流行り廃りを迎えてるってことに…。

他のも挙げとくならば音楽だ。これは前にどこかで既に言ったことなのだが、そこにはなんの音楽性もありはしないのだ。奏者唱者らには、なんの存在感も動機も感じない。感じられない!。何のために音楽をやってる?。それが職業としてあるから、仕事としてあるからな、だけー!。

話しはシミュラークルに戻して、ごの語に潜まされてある、秘められてあるその本当の意味合いは、

のことなのだ…。だからクリスチャンでない限り、この辺のニュアンスの受け止め方はできないのかもしれない。

これはヒトの主観性において、客観的なる真実が、捻じ曲げられて、好き勝手なものへとすり替えられる事態としてのものになる。衆愚って言葉がある。多くの人々において真実ってやつは、ある意味、しんどい、奥深すぎる、理解し難い、分かりにくい、抽象的に過ぎる、眩しすぎる、怖すぎる、畏れ多すぎる…。もっと分かりやすく、五感にてピンとくるものマッチするもの、親しみやすく、ご利益においての明確なるもの、確かなるものがいいと、そして一番重要なのは、誰もが皆が、広く世間が、それを価値として認めているものでなくてはならない。ここに偶像たるもののニーズがある…。

ことの本質的なる原因は、日本人としての根っこの部分が、それが結ばれてあるべき世界から、切り離されてしまったからなのだ。結果、根無し草としての民族と成り果ててしまった。

このことはワールドワイドな現象だってこともまた言える。大航海時代において起動された収奪のドライブが全世界を覆ってしまった。経済においての飽くなきその姿勢が、国家単位におけるそのトレンドとなってしまったからだ。ヒトの生のそのすべてが、その巨大な経済システムの中に組み込まれてしまったからなのだ。このことのいおいても先と同じことが言える。中身がない。中身を置き去りにして、ただただ

念頭に置いてのその営為だってこと。

このことの本質的なる原因は、ヒトが、おかしな幻想に、夢に、囚われてしまってるってことのその証になる。それはなにか?。自分がやがてにおいて死ぬってことがどこか非現実なるものになってしまってる。目の前で誰か身近な他人が死んだとしても、そのことの理解が消化があまりにも拙く、また乏しいんだ…。多分この自分においてはそれはありえないこと、まったくもって関係ないことだとでも思ってるんだろう‥いや、どうしてもそのことの、つまりはこの自分もやがてにおいて、老いさらばえて、一人孤独に醜くまた惨たらしく死ぬにしかないってことが、その避けがたくしての現実がまるで分っていない。覚えられていない。なんかおかしいんだ、誰も彼もが、今の世間の人々においては…いつもわけの分からんことに夢中になってる。どうでもいいことに騒がしくしてものを言い合ってる。誰も彼もが評論家。おえらいさんでいたい。ことは未来を見据えての営為努力しかないってのに〜。なんにも実行しない。なにをどうしたらいいのかわからないから。それも失敗したくないから。批判されたくないから。恥をかきたくない。だから、あることあったことにおいてとやかく云う、愚痴批判悪口を、評論を垂れる、理屈を垂れてあるまで…。

そういった人間はいいとこ取りにおいてその才覚を磨くのみ。他人が然るべくして手に入れたそれをいかに自分のものとすか、できるのかにおいて考えてあるばかり。ことそのことのチャンスがあったならば、目を見張らんばかりの実行力を見せてくれることになる。椅子取りゲームの名手、横取りの覇者、盗人のチャンピオンばかりだったよ、この自分の人生においてでは!。

閑話休題。あれもこれもそれも、従来人の道として説かれてきたその道徳としてのものが、それへの偏重が廃れてきたことに端を発している。確かに今の我々はカリユガとしての時代に生きているのは確かなことなんだろう。閑話休題その二。うすっぺらな存在としての人間が増えてくれば、そりゃ〜まがい物も本物も区別はつかないだろさ。そして、当然な話し、紛いモンの方が、作るのにゃ〜手やすいので、そっちばっかりが増えていっていってしまうことになる。要はだ‥いかにそれを見せるのか、印象づけるのに有効なのかに製作者製造者らの主眼は移っていってしまうものなのだ。有用性だとか中身だとか本質的な意味や意義は二の次三の次になっていってしまう。良いものである必要はない。とにかく売れるものである必要があるんだ。消費者はそんな賢くないって。みんな思い込みで良いだの悪いだの言ってるだけなのだから。とにかくスマートさが大事。最先端のトレンドだ、セレブに人気の商品だって思わせてりゃ〜もう勝手にバカスカ売れてゆくもんなんだって!。あと今なれば見栄えかな。インスタに上げて見る者らにキャッチーなるものとしての仕上がりならばもうなだって人気になるって…。閑話休題をもう一回だけアナウンスする!。どうも切り替わらないんでねー!。

そ〜だな〜カンブリア大爆発の話しをもってこようか?…。








ちょっとこっからは自分としての独善的な語りをもっていかせてもらおう。全部すべてあらゆる記述がそうなんだけどね…。不勉強なればこそ、一旦それにおいてを語りだせば、おもしろい側面が浮かび上がってくることになるかも知れないではないか。

それは”まがい物”としてのモノ、それにおいての製品/商品/表現物、それらとしてのものしか、この世、この現代においては、流通しなくなるってことなんだ。思想や宗教においてもだ!。

これは自分がかねがね確信してきた芸術はもう死んだ、死んでしまったのだとの思いに通じる。

先に原因を述べておくと、我らの生存は、もう本源からは、完全に遊離してしまっているからなのだ。それに関して、あからさまなる真実を語るのであれば、もう完璧に人工物としての人格にひととしての生存は支配されてしまった、それによってもう完璧に覆い尽くされてしまったからなのだ。自己における聖なるものとしての魂、本質、良心との接触が断たれた。それにおいての純粋なる自由なる発現ができなくなってしまったから。なんのこた〜ない!。世界がいたく平板なるものへ成り代わってしまったからなのだ。一つ得れば、一つ何かを失う。なにかが便利になれば、それに伴い、思わぬ不便さが、新規にて浮上してくる。国家単位としての、それにおける、いや最早それさへも越えての経済システムが、金融システムが、出来上がってしまったからだ。トドメとしての箍はインターネットになる。それら(二種あるから)においての目的がまた単純にして浅はかだ。あくまでも対前年度比売上アップ、利益アップ、市場におけるシェア率のア向上、世界市場における完全制覇だ。陣取りゲーム、オセロゲームに明け暮れてあるまで。みんなね〜気づいているかどうか知らないけど、経済ってゆう共同幻想に取り込まれて浸り込んでしまっているのだ。それはあくまでも夢のものとしてでしかない。中身を棚上げにして外装ばかり外見ばかりに走ってしまっている。ときは金なりで、加速度が益々あがっていってる。



コインの裏表が一番わかり易い。それらは一体を成して、構成してあるもの。片側だけではそれはそれとしてありえない。本質と人格のこと。でも、本質においての感受性において人格は洗練練磨されてあるのがまっとうだと思う。全体性から観たらどちらにも欠点間違いはある。両者におけるいい面が活かされ互いにバランスをとってあるのがいい。例えば、人格面がなければ社会とのつながりは持てない。役立ちとしてのなにもできなくなる。また、いろんな影響力に対してのシェルターとしての機能をも持っているのだから。本質の欠点は、悪しき霊性にも大いに感化されて魅せられてしまうってところ。

現時点における問題点は、本源との根が、切れてしまった、断たれてしまっているってことでいいと思う。コインの表面のみが意識されてあるばかり。それにおいての最たる特徴は、人工物だってことになる。物質性に基づいてある価値、システム。それらにおいての制約が絶対的なるものになっていってしまってる。そのことの結果として、コインの裏側は、各自個人において、その意識内においても、もう伏されたまんまなんだ。つまりは、無意識無自覚、闇の世界としての暗部、その状態へと追いやられて、封じ込まれてしまっている。

それは表の世界においては、裏表を逆にして、ひっくり返すことはできない。その世界は文明によって支えられている世界だし。ならばだ、あり得るのは限りなくパーソナルな個人においての内面世界においてのこととなる。個人世界においては裏側こそが主として表としてあるべきなんだ。ではそれは何をどう感じ何を思って願うのか?だ。個人としての表の面は、そのことの反映を現実において結びつける為に、動かなければ、働かなければならない。それをしない限りは、表はたんなる飾りにしかすぎない。社会が認め皆が信じているものらに価値は本当はない。それは共有の夢でしかないのだから。

人格はバッファーとしての機能を果たす。
ある意味遮断としての機能。
その役割を解除して現実にてあることを本質に感受させなければならない。
たったのこれだけ。
橋渡しこそがそれの役目なのだし。
情報統制のすのすべてをそれにさせてはならない。
感じして本質が何を願うのか求めるのか?
これが起点。
それを現実において果たしめるのが人格の本当の役目、役割。

そこに横たわってある断絶こそが、救い難くしての今の現状なのだ。





自分が抱え持っているテーマにおいては、世にて言われるところの”仮想現実”たるものが大いに関わってきてる。でも自分が思うそれとは違うんだ…。

コンピューターによるシミュレーション世界は、現在においてそれは一種類しかない。人によっての

、限定されている。オブジェクト、プログラム、構成、構造、手順、プロトコル、すべて人の頭の中から考え出されたるもの、もしくは、ヒトの文明においての各個におけるその模倣になる…。

ここで一度その語の意味を確認しておこう:
 シミュレーションは、対象となるシステムで働いている法則を


 それを真似るようにして組み込んだモデル、模型、コンピュータプログラムなどを用いて
 行われる。*Wikiより抜粋。

いまいちよく分からない…。なので〜自分なりに、この語の意味を再構築してみる:
 



現実のシステムを動かして、その挙動や結果を確かめることが困難、不可能、
または危険である場合にシミュレーションが用いられる。

このことにおいてはどうしても制限がかかってしまう。そうなることは避けがたい。ヒトとしての性が、その恣意性が、それとしての指向性において、ことの一切が、

こととなる。極端なことを云えば狭い了見においての世界しか作り出せないんだ。根本的に、そこに果たされてあ労力自体、金を稼がんとしての動機の元において果たされるものでしかないのだから、どうしても不純としての色合いは免れない。そこにはどうしても、人様の持ち物を密かに自動性をもって奪わんとしての企みが潜ませずにはおられない。だから、可能性において、まっこっと乏しきことの限りかなとしての浅はかにしてさもしき、応用利用転用しかできないんだ…。

このことは経済目的を指標としての、つまりは金儲けを目的としての推進、発達、達成、進化としてでしかその進展はありえないので、やはり、どうしても、チープにしてまた寸足らず、その可能性の本一部、ほん上澄みのわずかばかりのものとしてのものにしかならない。ヒトの頭脳内において閉じられてある世界としてのものにしかならない。このことの暗黒面としての事態を語るのであれば、獣、ケダモノとしてのその原始的にして単純な欲望を、強化することになるであろうってことなんだ。真の意味における人間においては狂気として判断されるべきことがだ…。ある種の悪しき習慣が、その方向性において洗練されたる内容において、より、益々、一層強化されていってしまうことになる。条件さえ整えば、ことは習慣としての自動性において、果たされいってしまうことになる…。

シミュレーションにおいて、もう一つ、あり得る利用法は、ヒトの意を介することなく、現実そのものをコンピューターにシミュレーションさせるだ。このことの枢要は、現実そのものから、真理を、抽出させることにこそある。物理的現象の背後にて一切をそうあらしてめている。ことをそう果たしめている力学法則を、言語、数字、数式をもって、記述させるってことでいい。

すべてには目的がある。確実にある!。誰か、何かにとって、それは、それらは、然るべく加工されて、その姿を変えてあらなければならないのだ。陽の光があってこそ植物は成長することが適う。土中の微生物らにとっては植物は枯れてその身を大地に横たえて貰わんことには出番が来ない!。これはものの見方、とらまえ方の根本フレーム、基本の前提条件の話し。あと、付け加えるのならば、ツールとしての概念になる。何かをもってして己が目標を、自分が欲するところの目的を果たすっと…。

人間にとっての身近なコミュニケーションの為のツール、言語、音楽、デザイン、設計、等は、そのあらゆるすべてが数字にて、方程式の内に、表すことが

。できないものにおいても、それはまだ人間サイドにおいて準備が適っていないでだけの話し…。要は、

変換、還元することが可能なのだ。そしてまた、もしそうするならば、その情報容量は極端に少なく軽くすることができる。信じられないほどまでにコンパクトになっちゃう。この宇宙とか物質なるもののと同じで、もし本質のみで考えるならば、完全体としてのその全体はスッカスッカのものでしかないのが事実なのだ。意外と、ことの核心、要項、本質は、シンプルなるもんなんだ。*その状態での、おいてのデメリットは、ヒトによってのその賞味が適わないってことにある。あまり本質核心そのものだと、それにおいての提示だと、理解ができなくなる。なんの役もなさんってことになってしまう。ことにおいおての全体総体としての復元が、される、なされる必要が、どうしても出てきてしまう。コインの裏表みたいな関係さね…。


はいここまでは導入部。前フリ。

おそらくは全体の三分の一程度。




本体としての内容は、「我々が生きてあるこの世界って、いったいどうなってんの?」
ってのがテーマなんだ。いたく大それた話しではないか…。

それを誰かによってのシミュレーションとしての世界だって意見には、やや程までなれども〜、同意できる部分は確かにある。でも決定的に、ことにおいては違うだろって思うところは、それは確実に、模擬なんかではなく、確実に切実なる現実としてのものであるってところなんだ。



ことの最初にマインドとしての場があった。これは究極的には巨大ロボットのコックピットみたいなもの。ジ・アースのマルチスクリーンをもってなるあの空間、あのフィールドのみたいなものだと、理解してもらっていい。そこに〜、あなたは操縦者としているわけだ…。

そのコックピットたるものは〜実によくできていて、殆どの必要ごとは〜貴方の補佐役としてのAI群が、通称「見えざる小人」と呼ばれる識閾下にて稼働してあるプログラム群のことなんだが、自動稼働にて、いつも、勝手に、既に、ことに際してはパンクチュアルなるの限りにて、またそれはものの見事なことにおいては気づかれずとしての作法にて、いろんなことを、さばいてくれていて、既に、いつも、ことの当事者出来上がりたるものは〜、この自分こそが自らやったのだと、やってたとよっと、覚えるほどまでに見事なのだ。そういった錯覚に陥るほどまに〜、完璧な隠密介入なのだ。操縦者たるあなたは、それら彼らに対しては超越しており、それら下部としてのAI群は、あなたにこそに従うことこそが、貴方の意思、思いに沿うことこそが、下部/下位としての我等のあるべき姿なのだと覚悟している。最初から鉄壁の作法としてそう定まっている。

当然にコックピットにはいろんな計器やハンドルが、レバーがついてる。また貴方の日常生活における本身近なニーズに答えるべしての秘書役、バトラーとしてのものが、より人間に近いAIってのも準備/装備されている…。

結局は、こういった構成/成立ちになってるんだなってことに気づけるようにならなければならない。そして、この環境としてのものを準備してくださったのが誰なのかにも思い当たらなければならない。そしてまた、自分としてのミッションにおいても…。

真善美

真実なることにのみ価値を置く。
善きことのみを我は欲っさん。
善きことのみを我は行わん。
我は善き思いに接してのその際には、それを全力にて活かさん、助けん!。
美を尊び、それとしてのモードになるよう、至れるよう、それとしてあれるよう、
我が行動のすべてにおいてで、それを意識する。
我が内より溢れ出たる愛を、それこそを、
外に向かって輝かせることにのみ、生きがいたるものを覚えん。
他はもういらん…。

何故ならば、もう自分には分っているから。
この自分を、創造せる方こそが、この同じ思いにてことを果たされたるのだから。
自らさえをも、分けて、我が魂の核と、活きるにおいての生きがいたるものを、
ガイダンスになるようにと、教えんと、知れるように、与えてくださっていたのだから。

すべての世界の現れ、変遷、変化は、この理解に、至らしめんとしての、
計らい、目的、誘導、としてのもの、その計画の元での采配であったのだ。

ことの背景には、大いなる、真に偉大な愛が、
父性のみが持ちうる、その愛たるものが、働いている………。

何も知らんままに生まれてきて、紆余曲折あって、こういった思いや考え感慨にたどり着けるのが一番いい。その為には、自練も試練も、確執葛藤も、学びも先人に直接インスパイアーされることも絶対に必要なんだけど。とにかく大変に時間も労力もかかることなんだけど、これとしてのものに収斂できたならもう最高だろうねっ!。

残念だが、これは申し訳ないが、ファンタジーとしての話しなんかではないんだ。
おそらくではあるが、あろうが、現実としての、

、話なんだ……。

無事にこの世としての大地に落ちて、うまいこと育ってくれた種ってことになる。
それがとうとう、ついに、大木にまで育って、花を咲かせて、実を、新たなる種を、
結ぶまでになったんだ。なんとその木は森の動物や虫たちまでもを
養ってしまってるじゃないか〜!。

でも、これは、稀なる例になる。ほぼ九分九厘これとしてのものになることは

……。

ことは曖昧模糊とした状況において、それにおいて、それからのスタートにて始まる。

外部と内部からの、強烈な突き上げ、影響力が吹き荒れる中で、ことのすべてを明らかにしなければならない。じゃないと、それらとしての高波に攫われてしまう。往くべきところではないところへと運ばれていってしまう。

また、これは大変に困った、自分としては大変に憂慮してある事態なのだが、
悪しき思惑、その意志をもって、その道からは、徹底的に絶対をもって逸らさんとしての
キャンペーンたるものが張られてあるのだ!。それも当事者たる人の子、自らの手をもって。

「世界は間違いなく、確実に、

である」。


これこそが、まさしくそのキャンペーンたるものとしての、その

である。

自分としての理解において…、これまでに自分は、いろいろと、いろんなもって回った言い方/表現をもって、何やらこれに近いような発言を、してきているのだが、これらあれらとは全く違うのだ!。

自分としての世界のとらまえかたにおいて、改めて説明しておくと、
それはリアルなものとしてまず確実にある。
この世界における特徴的なる面は、物質性たるものに支配されてある領域配分が極端に大きい。
これは相対的な話で、舞台を変えれば、ほんの少し多い大きいなどとしての感慨にも変わりうるのではあるが…。
すべての物質性としてのものの、その運動/変化の背後にては、
間違いなく、宇宙としての、なんらかの目的が存在しており、また働いている。
概述の、なんかの話とおなじくして、基本骨子は、自動稼働にて働いている。動いている。

でもね、物質性としてのこのタームは、それの構成最小単位は素粒子なんかでは終わらないんだ。検査装置、センサーとしてのものの限界ってのがあって、今はそこまで(素粒子まで)って話でしか、ことでしかないんだ。

おばけ、幽霊みたいな成分、それとしての特徴を持つ、構成要素ってのも実はあるかも知れないじゃないか…。振動数、波長がも〜おっそろしく高くって〜、もう人間の認知ではどうやったって〜追いつかない領域!。

最小単位って話しは、永遠にいたちごっことしてのものになるはずだ。

ことにおいての肝心なのは、グルーピングにおいての捉え方だけ。
また音階としての階層としての知性のみにおいて可能になる振動数としての理解。
*当然にここは三つの力としてのものを念頭に置いている

だから、自分が何を言いたいのかと云うと〜、

それは創造主にとっては大変都合のいい出来栄えになったる〜ってことなんだ。

一面においては、あくまでも機械的な、自動稼働としての成立ちになっている。

この面において物理法則ってやつが成り立つ、抽出されてくることになる。

だが、ことは、人の持つ魂レベル、本質そのもの、それに付随して密着に働いてある器官等に対しては、非常に臨機応変な、フレキシブルな、いたく柔軟なる対応を果たすこともまた出来るんだ。それもだ、その方法は、人や物自体を使って、利用してで!。

仮想現実たるものは人の心の内にのみ存在しうるものなんだ。
認知における、その世界観の構成においてとんでもない間違いを起こしてのことなのだ。
夢見であってさへ、それをリアルなるものとして覚えてしまう…錯覚してしまってる…。

このことは、よくあること、簡単にしてしまってることであるのは、
よくお分かりのことであろう。

PCゲーム機としてのものの登場以来、この夢見ることへの意識的没入を可能にする機械の登場をもって、悪しきトレンド、その作用、たくらみとしての攻撃は、一段そのステージをあげてしまったのだ。より強力な浸透力、暗示力、説得力、洗脳力たるものを手に入れて!。

そして更に輪をかけて、広報としての、あの間違ったイメージ、思い、考えを広く遍く吹き込まんとしてのキャンペーンがYou Tubeやその他メディアにおいてでそれらを通してで、打たれてしまってるっ!。

十万、百万超えのそのPV数を見るならば、もうことはもう、
恐ろしいまでの猛威を振るってる、振るってしまってる〜、ってことにしかならない。

ゆくべき道から逸らされて、目覚めの機会を奪われて、より深き夢へとのイザナイに、
皆があっているのだ……。

それしか手に入る楽しみが、もうないってことだけでーっ!。


今日はここまで...












以下はここ欄外へと移行されたるその内容。

あまりにも冗長になるんで、間引きした文章たち。

でも‥置いとこ。



この稿は、もうどこに入れてもいいのだが、ここに入れてしまおう。いや

絶対にー、入れる、入れてしまうべきものなんだ〜!…。ちょっと、いろいろと思うことを、考えてることを、

もらおう…。※ことはストーリの中にては、その詳細が語られるこはないんだ。既に最初から前提となってる。だ、もんなんで、別稿立てて、少しじっくりと、説明がてらに、あれらこれあについて、おいて、語らせおいて、もらホう…。敬具

脱線:木々は大地にその根を張って、日光と水に恵まれてたならもうそれで十分にして十全なんだ。あとは土中のバクテリアやら動物らが然るべくしての関係をもって、そこに起こるギブアンドテイクをもって足りない部分は埋めてくれる。現在としての問題はだ、木々が根無し草としての存在になってしまったって〜ことにある。このことに尽きる。困ったとに、その根を断って、夢うつつとしての現実に浮遊して生きるようなったその責任はそれら自身にあるってこと。ことはもしかしたらまったくの無自覚としての行為だったのかも知れない。とにかく、もう自分としての意識に目覚め過ぎちゃって、自然としてのその生存環境から抜け出したくなっちゃった〜。もっと自由を楽を幸せをってもとあった世界から抜け出しちゃって、徘徊しまくりの、駆け巡り周り〜の、そんで空まで飛ぶようになっちゃってから、そんでなんとこれからは宇宙にまで進出しようってことなんだ。このことも、実際は追い立てられて、幸せってやつに夢焦がれての、一種の強迫観念においてのことでしかないんだ。何やっても上手く行かない満足できない満ちたることがないから、なにかを探し求めて、もとあった場所から出てきたこと自体が間違いだったのだろう。最早、還るべき道を見失い、元あった場所さえ忘れて、来て、しまったのだ。注:これはたとえでとしてのもので、実際は人間として歩いて話して働いて家に帰れば眠ってる…。

自分においての

ともなれば、(その時代における音楽や文学等における作品に接してのことになるのだが)、六十年代ってのが一つの世界的な節目だったはず。この頃に若者であった人たちが、一番

ことにおいての
実相を肌身において感受してたはずなんだ。ことがもう全体的なる運びとなってしまい、しまってて、もう絶対に元へとは戻せないことを、二度と再び、唯一残されていた大地に根付いて生きるその共同体としてのあり方が取り返せないものになることを。ことは人類全体としての、それの総意としての行動となってしまってた。すでにそれとしての波浪は起こってはいたが、その進行を留めていた最後の防波堤が破られてしまった…。(この辺の実際に関してはだ、自分としては都市たるものを形成する鉄筋コンクリート構造の高層ビルの乱立としての事態をもってきてこう。あれらこそが今の現代たる時代を象徴するものに最適だと思う。)既にもう個人単体においての復旧しかあり得ず、小グループ、同士の群れをもってしてのかっての状態への帰還もありえないようになってしまった。最初にあった関税性以外に安定にして健全なる状態は有り得ず、後の後には、時間が過ぎれば過ぎるほど、なにがしらか大きなことをその努力をすればするほど、撓みとしての混乱は大きくなってゆくばかりとなる。それとしての破綻は全人類に対してのものであるが故に、遠大にして長大なる時間を要することになるのもこれまた事実。だが、繰り返しておく、いかな努力をしようとも、すべては混乱を増すばかりとしかならず、より不測としての事態を引き起こし、それとしてのものを巻き込んでゆくばかりとなる。頼りとなるのは、あくまでも、かっての元々の状態への帰還にしかない。それへの失われ見失われたア道筋を指し示してくださる、それへと続くアリアドネの糸を与えて下さるのがイエスなのだ。彼においてすべての救われるべくしてのものたちは、つながりを獲得することにもならん…。ちょっと妄想、妄言としての内容でしたっと…。

七十年代における表現の表出、その全般は、そのことのにおいての、対しての、哀歌、絶望、感傷としてのものでしかなかった。あおれらは、ある種、聖歌としてのものに限りなく近く、また等しきものであったのだ…。

サンプル二題:

森田童子「友への手紙」https://www.youtube.com/watch?v=8VOfOCjwQrQ&t=16s
Emmanuel「En Toi, ma confiance」https://www.youtube.com/watch?v=odURS55FEO8

今日改めてこの二つの世界は似てるな〜って思ったのさ、そんでここに加えてみた。敬具

追記:現在としてのその時代の特色を述べるのであれば、すべてが終わっていってしまってる。オワコン化…。そして個人としてのその趣味の世界への耽溺化/沈潜化。家族結婚としての制度が終わりを告げてしまってる。なぜにキャンプとしての生活がブームになってしまっているのだろうか?。「麦ときなこ 」MugiKinakoVlog は、現在自分がたいへん関心をもって観ているYou Tubeチャンネルになる。あと「にゃろめっこ」チャンネルも。

ことはだ、このまま終わりに向かっていってしまうのか。それともどこかで再隆盛へと向かう流れとしてのものに切り替わるのかの話し。自分は後者であって欲しいのだが、それにおいてもその前に、ドカンと一発大いなる災害災禍としてのものがあるでろうとの予測はある。むしろ、当たりを見渡して、あまりにもどこにも打開策としてのアイデアが浮かばないので、下手すればこのまま終焉へと至り付いてしまうのがおそろしい。余りにも希望がなさすぎる。後続者ら、まだ若くしてある、残されてある人々が、あまりにも可愛そうである…。


芸術とはなにか?


ことのつまりは、なにかを表現すべくしてある、その衝動は、何処から来るのか?何故にそれは起こりたるのか?、それは間違いなく個人の内奥において事態、ドラマなのだ。五門を通して感受された情報が、認識が、その印象が、核において、核にまで届いて、反応が起こってしまってたのだ。爆発的なるものにして、強烈この上ない、すんごく意味深くしてのものとして!。

そのままにてあれればいいのだが!、どうしたものなのか、ことは外部にての再構成を衝動としてもたらしてきてしまう。なんでなんだろうか?。他の者らにも知らさねばってな思いからなんだろうか?。これは客観的なその意義で、当人においては、余り意識はされてはいないだろう。かく言うこの自分もそうだ。当人らにいおいては留め置き難くしてのその衝動なのだ。アウトプットを果たさんことには気が狂うほどまでの強制としてのその地獄。それは単に排便、排泄行為となんら変わらない、そんな事態でしかない。

とにかく、自らの内に起こりたるの抱きたるの到来せしそのなにかを、表現せずにはおられないっと。ことはだ…なんの見返りも、報酬も、評価も前提にされてはいないってことんだ。

これは、このなにかとしてのそのエネルギーが、ことの運びよろしく、その当人の満足の行く形にて、改めての外形を得たるなら、無事に巧みにそれを表すものとして析出されたならば、ことはこれで一シークエンスとなる。

この、ここに出現した、創造されたものには、何故か、魔力、もしくは存在感たるものが宿ってしまってる。他者らにおいてでさえ、なんらかの情報伝達をもたらすものとして存在してしまってる…。


誤った芸術としてのものについても語っておかねばなるまい…。

先行する、既存の芸術の模倣でしかないのだ。それのそれらのアレンジとしてのもの。

一つ冒頭におけるあの映画と関係する形で写真の話しをやろう…。

しばし中断。

再開:

人間の五感における知覚の割合は、視覚83%、聴覚11%、嗅覚3.5%、触覚1.5%、味覚は1%といわれています。 人間が受け取る情報のうち、8割は視覚からの情報です

外界としてのその世界認識においては、視覚による部分が大きい。余りにも大きいのだ。

というわけで〜、ちょっと絵の話しをやろう……。

絵ってのはなんだ?。作家はどうして絵を描くのか?。
その作品として表されたその表象はなんだ?。
それは何処から来たのか?、来たものなのか?。

絵として出現すること、描かれることを、作家、芸術家に、求むるからだ。
これは一種の言葉の綾だ。
絵を見ることを愛する人ってのがいる。それには大変魅せられてしまう。
何故だ?

そこにはなにかがあるから。こと本質が、奇跡そのものが、どうしたものなのか、

描かれている、出現してる、結晶化されている。作家の人生において蓄積堆積してきたいろんな事に関する印象が、選別統合されて、選択されて、そのことの本質を如実にあらわすものとして、アウトプットされることを強制してくるのだ。これも言葉の綾だ。その心の内にて、数限りない検証練磨洗練としてのプロセスを繰り返されたことの結果として、なにかのイメージが結ばれてきてしまう。このイメージは、実は、ぶっちゃけでいうと〜、単なるイメージではないんだ。これの背後には、実体、実物としてのなにかが、ちゃんと存在している。この現実世界としての次元平面においてではないだろうが…。とにかくどっかにっは、それとしての本体が確実に存在してる。だからこそ、本物の絵の場合には力を持ってしまうのだ…。

真の芸術としての絵画ならば、それは背後に、向こう側としての世界においての、
彼方においての実体を、本体を構えている。

あの夏目漱石による夢十夜における、木の中に仏が眠っていて、彫師は単にそれを掘り出したに過ぎないとしての話しがあった。まさにこれこそが、芸術なのだ。

しばし中断。


次回の材料。前半は言うまでもない。後半は少し前の映画アヴァター。完全にCGのみによっての映画。これを見ての人々の感想ってやつには驚いたものだ。素晴らしく美しい世界だと。こういった世界にて生きたいと…。バカかお前らは!と思ったものだ。違和感しかないだろうと…。
おそらくはごますりとしての発信であったのだとは思うのだが、いや、もしかしたら中国とか香港のやつらなら本音としてそういったことも言うのかもと思ったものだ。それ以外の国であったしてもおかしくはない。日本が余りにも自然に恵まれすぎてるかなのかも知れない。いろいろとアジアの国々、アメリカ、ヨーロッパも見てきたが、どこもかしこも荒れ果てていたんだ。香港空港なんかドブの臭いに包まれてた。荒れ果て、すさみ、ゴツゴツとした大地ばかりが延々と続いている。自分は行ったのは、そういったところばかりであった…。







これではあれの映像の素晴らしさは、その観客を魅するその力、魔力は、伝わらないだろな〜。これもだね〜ストーリーがちゃんとしてたなら、問題は、なかったんだ。それはそれなりにいいさじ加減だったのだ……。主従が逆転してしまってる。絵において魅するが戦略に、結果、なってしまってた。商売だ、売名の為、それ優先の結果においてだ。あの「ホルスの冒険」は、大赤字だったらしいね。よって世間における評価は低いらしい。名品なのに……。








これらはもう完璧に偽者。真の芸術としてのその観点からすれば、閉じた人間としての自分勝手なだけの、嘘っぱちとしての人工世界になる。これが、これが、肯定される、そんなトレンドがいま主流となって、世界を覆わんとしてる。もうなっても〜てる。この事態に偶像崇拝としてのそのトレンドの拡大を自分は語りたいんだ。語っとかなきゃと思ってる……。


ちょっと写真の話しをする前に、この自分としての人間が、どういった絵画を好むのかを
見ておいてもらおう。論より証拠なんでね〜〜〜。


















見てお分かりの通り日本画が多い。やや抽象的なる加減においてのものだ。全部ヤフオクで手に入れた。写真では分からないだろうが、かなり傷んでる。だから、投げ売り状態だったんだ。だいたい高くで五千円。安いのになると千円。送料は別ね。手に入れてから、百均で買ってきた水彩絵の具をもって、自分の手にて修理修繕した。

自分はこういった絵が現在は好みなのだ。全部いい絵だと、素晴らしく名品だと思ってる。
だからこれが自分においてのスタンダードだってことになる。

これらの絵を漁っているときに、現在における絵に対しての世間の嗜好ってやつを確認することができた。入札件数の多きをもって。バトルのその熾烈さを見ることによって。皆がどんな絵を好むのか?。どんな絵なら、高額となることも、高価なる買い物になることも、意に介さなくなる。自制としての縛りが、見事に飛んでしまう。なんなく突破されてってしまう。簡単に解かれてしまう。所有欲を掻き立てられるのかを…。

         それらとしての絵はこんなん、こんなんだったんだ…。:












トレンドは一言で言い表される。「スーパーリアリズム」だ。まるで写真かと、そう思わせる程までの描写力、描き込みにおける筆の多さ、注力、努力、情熱、テクニック…。大したものだと、まさに確実に芸術品だと、おっそろしく価値あるものだと、思わざるを得ない、得なくなる…。そんで取り合いが勃発する、してた。バトルが好事家たちの間において始まる。そして、自分の金銭感覚したらとんでもない額で、最終的には、取引が成立する、終了して、しまってた…。

      ここにあるものらが、現代における絵画としてのものになってる。
       その名品、名作、所有するに足りる、真の芸術としてのもの。


自分はその内にこれらとしての絵は二束三文になると思う。いや、限りなく、これらの絵に近くしてのものが、百分の、千分の、万分の一で、買えるようになりうる。AI絵師さん達らの、手によって、なるものにおいてでは……。そうなんだ、現代の芸術家らってのは、

寄りなんだ。AIより。つまりはマインド偏重過多。魂がもうどっか行ってしまってる。芸術がまったくの職業に、商売に、金儲けを前提としたものに、なってしまって、いっ、るぅ〜〜……。

つまりは、向こう側とのコネクトがまったく存在してないんだ…。対象においてのその本質をそのアニマをイデアを感知してない。できてない。なのに〜なにかを表現したくてしょうがないんだ。それを現世に、この世に、この自分の手による努力において、その表現行為によって、顕現化、表出

としての動機が、そもそもからして存在してない、持ち得てはいないだ。なんとなく絵を描くのが好きだな〜から始めて、芸大入って、師匠について、画商とのつても出来て、そんで、精魂込めて、情熱を注いて、真剣に作品制作に取り組んできました〜っと…。

基本、芸術は、憑き物の如く、その状態に等しくしてのものになる。その成果結果だ。この世に自ら現れ、出たらんとするなにか…。芸術家は、彼方にて存在してある、その彼岸にてで、その真の所在を置くそのなにかを、

現出化させるにおいての、勤めを持つものになる。憚りなく云えば、憑かれて、それに、それらに、

使

までのもの…。向こうが選ぶ…。


ときに、これにおいては誰にでも起こりうる事態になるのだが、取り巻く世界と完全に同化して、一体化してしてしまってる。素直に、すべてを、明晰に、感受している。その状態、その環境下において、持たれる印象が根本なのだ。芸術としてのそのアートが存在してる理由は。それは別段、芸術家である必要はない。誰にでも起こりうる、あり得る事態なのだから。その体験において、なにかを、選り分けて、しっかりと認識、確認してしまってる。対象が誰かしらかの個人としての女性である場合もある。そんときにはその女性の魂としての本質を観てしまっていたのだ。これがアニマ。また、景観としての自然環境であった場合には、そこにある流動して、生きてある景色の向こう側に、あらゆるすべてを構成して動かしてるそのダイナミズムそのものを感知してるってことになる。カントの云う物自体、もしくはプラトンの使ったイデアでもいい。すべての構成を貫通して、本質自体にまで、その感受の対象は及んでしまっていたのだ。

これは突如起こる。そのときには、その当人は、確実に、もう完璧に覚醒してる。覚醒が然るべく起こってしまってる。きっかけは、ある種の気づきなんだろうけど、その対象においての、環境が然るべくその当人を捕まえるべく、整ってしまっていたってこととも言えるだろう。両者間におけるその幸運なる邂逅ってことなんかも知れないが…。

問題、難関になってくるのが、そこに、その体験において、識ったことを、再現することになる。基本、それは言語によってのものにはならない。詩が唯一言語によってなるものにはなるが、これではあまりに情報量が少なくになりすぎる。たとへ圧縮言語をもってしても、今度はあまりにも不親切なるものになってしまう。つまりは覚知は伝わるけれど、その意味があまりに曖昧る、味わいとしてのその片鱗にしかならないからだ。あとは楽曲と絵画その方法論になる。これにおいての課題は、作家が翻訳をやっては行けないってことなんだ。自らの魂において、その本質において、覚えられている、記憶されている、そのなにかにおいての本質を、それそものがーだ、自ら作品において立ち現れてくる、出現してくる、様、その作品を作り上げなければならない。自分がその自分の勝手な解釈で、作品を描いてはならない。失敗するし、でたらめなるものにしかならないから。自分が然と、受け取り、覚えられているそれを、それ自らが作品において顕現する、してくるものとして、作品は描かれなければならない。

ダビンチがモナリザを完成できなかったのはなぜだ?。あの作品はすでに奇跡と呼ぶに相応しくしてのものとしてあるのに。*あの絵は、かってに、あの作品そのものが動くんだ。表情が固定目線においても変化する…それも、コロコロと、かなりの速度において。それも〜だ、かってになんだ……。あれでもまだ彼個人が掴んである印象からすれば、程遠いものだ、あっての、あったの、だった、ものなのだ!。wwwなんかの影響が...。

その彼岸ってのも二極あるってことだけはここで言っておかなきゃ〜なるまいな…。上位としての、その天界側のものを降ろす、そこにあるものをしっかと覚知して、賜物として現出化する、顕現化できるってのも確かにあるにはある。ダビンチ

がそれだ…。これはとんでもなく大変なことになる。人間四番以降に以上に自己を向上させて、進化してなけりゃ〜まず無理なことになるな。ある意味、前世が、それこそが、関わってくるんだろうさ…。霊性への反応性、鋭敏なる感受性、そしてなによりも、選ぶべきを、間違いわないでおれる、その自らの空虚なること、素直なること、単純なること…。たんなる馬鹿でいる、あれるってことになる…。当然に社会不適合者だ。wwww。それでも、絵描きになりたいーって、なる〜ってひとはなるんだ。この自分は、太郎も志功も、全然、いらんねんやけどね!。すべては自分が、なにを覚知するのか、目の前の静物において、それを参入の窓口として、その向こう側に、なにを察知、取らまえることができるのか?ここにすべてが掛かってくる。ことは、自身としてのその感受性のキャパに、その幅に、関わってきて、制限されてってしまう。

改めて自分の考えを整理すると、芸術家としての人間は、なにかにおいて、ものごと、景色、景観、それらにおいての、真に真実なるを、それに関してを、感じ取って、直感されてて、識っていなければならない。真としての姿が、直感でてきなくてはならない。その体験は、驚異驚愕としての特別なる思い、その深くしての刻印、印象に、確実になる。彼は職業柄なのか、天分天与であったのか、そのことが可能としてあったのだ。

次に、彼はこれまた職業柄なのか、定めとしてのものであったのか、今度は、自分が察知したものへのチャンネルを、作品をもって作り出すことになる。その作品をもって、広く多くの人々が、その本質的なるものを、やや程までも、識る、感じ取る、認識することが、可能になるのだ。このチャンネルとしてのものを、この世に生み出すことにこそ、芸術家らにとっての苦しみが、難しさが、その課題がある。

ことは、難事であるが故に、評価が、対価が、称賛が、受け取られることになるのだ…。

ところが、職業としての芸術家が、生まれてくる、成り立つことになった。作品の多くは、お金を稼ぐ為のそのツール、製品、商品になった。単に、好事家としての人々の目に、耳に、新規なる魅力として、映る、聞こえる、感受されるもので、十分足りるよう、なってしまったのだ。

より広く、洗脳力のあるもの、暗示力の強いもの、理解の読解の分析の前に、その意識を彼方へと連れ去ってしまってあるもの…。意味など、本質など、どうでもいいのだ。マインドにおいて侵食著しくしてあるものなら、なんでもいい、なんでも、芸術になる。それに人々は大枚を払ってくれるのだ!。

芸術とはまったく呼べないが、大いに世間の人々の関心を集めた、引いたであろうもの、大いに稼いだであろう作品を、いくつか挙げておこう…。嫌んなるほどこれらそれらは沢山、大量にあるんだけどねっ!。













これらにおいては何が描かれているのかと云うと〜、その画家本人においての、とっての、あくまでも主観性。ある意味、病んであるところのその心、心情の吐露。ここにあるものの、最後の方のものは、よくある悪しくしての霊性に引っ張られて、魅せられての、その脆弱なる魂、感性において制作された作品。これってのが余りにも今日日は多いんだ。ギーガーなんて…。

自己顕示欲においての、その狂気の噴出ってのも、一応、定法としてのその作法、定番…‥。







太郎も酷い低劣だと思ったがこれは更に低俗低級にして●●。何故にこれらとしての作品が芸術として脚光を集めるのか?。神を見失ってしまって神聖なるものへの感性が失われてしまった、胡乱になってしまったからだ。それらとしてのものの代用品が今日においては狂気!。


         お口直しに、目養生として、真の芸術作品を三点、いや八点









             基本のモチーフは自然なのだと思う。
   また深くしての情動、また高度なる知性が、叡智が、これらの背景にはある……。


               一枚だけ加えておこう…



        自分の見立てによれば、これは教会としてのものではない。
          正確にはキリスト教においての教会ではない。
かっての、あの時代の、ゴシック様式のものと比べれば、頽落著しくしてのものとしてある。
自然寄りであることは確かだ。だがそれをも含み、超越してある存在なので、これじゃ駄目。
大きさに惑わされるが、これもまた、あくまでも個人のプライベートな情感においての創作。

かっての、あの時代と比べるならば、キリスト教に対しての理解が余りにもなさすぎる…。



本体中身への理解がないままに、

においての洗練、個性化が図られてしまってる......。


さってっと、やっと本論としての写真においての話しができるっと......。


写真は、カメラという機器/器械をもって、現実としての「一点」を記録したもの。
絶えず幕無しに変化してってる外界においての視覚情報それの固定、抜き出し。
カメラマンの技量として求められてくるのは、その奇跡としての一瞬を捉えられるか、
それとしての機会に、恵まれ得るのか。それだけ…。

この写真ってやつを、連続的に並べるならば、それは映画になる。そして絶えず幕無しで連続再生を、

のであれば、それは単なるテレビ、You Tube。うまく構成と要約を果たすのであれば、非常にありがたい、とても役に立つ、重宝するものになるっと…。

基本それは器械機器をもってしての視覚情報の再現、切り抜き。機械の目をもってしてのもの。

個人的に奇異に、おかしく感じるところは、それは場合によっては、とんでもなく魅力的なものになるってことなんだ。魂から、魅せられ、(とろ)けさせられてしまってる…。たとえば花や自然、景色としてのもの。カレンダーなんかで使われているやつ。本いっときの切り抜きとしての視覚映像が、これほどまでに素晴らしい、美しいと、感じる、思える、覚えるほどまでのものになるとは……。日常の生活において、これほどまでの印象が外界において持たれることはまずない。たま〜に、旅行等などで、日常としてのルーチンから抜け出してしまっているときにはあるが……。


このことの秘密はなんだ?。









人間の素の目、視覚では、これらとしてのものを感知することはできない。非常に近似としてのものがあったとしても、それは恵まれとしてのその機会においてでしかない。そんなこた〜滅多に起こることではないんだが…。いざそれに、それとしての状態に出くわしたなら、そこにて受け取る情報は計り知れない。情動のうねりを伴ってのその味わい、印象は、至福をもたらすことになる。目覚めて至福。それも調和した形でなので、すべては極自然、落ち着いたるのままになのだ…。そして人はことを記念して、詩を書く、歌を詠む、もしくは俳句を作る……。

これは連続では基本ない。無限の流れ、千変万化してってる現実を、現実の、本一瞬、本一部を切り抜いたまでのことなのだ。本事自体が異常。非日常的。でもそのことのメリットってやつがあって、日常生活においては見逃している、ほぼ気づくことのない、そんな奇跡としての有様がクローズアップをもってしっかりと認識することでできるようなる。世界が絶えず美において満ち溢れているってこともまた真実。だが、我々は視覚狭窄としての無神経なるに陥ってて、それらに気づくことはほぼ、まず、ないんだ。金儲け、お肌加減、昼何食うかの方に、こころの関心のそのほとんどは、ほぼすべて、占められて、奪われてしまってる。眠ってしまって、いる、その状態だってこと……。

ここにカンフル剤として機能する写真が、登場する。本微辺であるからこそ情報処理はたやすくなる。そして気づくこともまた改めてできるようなる。そんで、この蕩けるような、美しての視覚情報を保持したくなる。お金出しででも手元においておきたくなる。それのみにてで足りてしまうようなる。いらぬ支出を積み重ねてゆくようなるwww。

この写真としてのものの魔力に自覚的なるものがたくさん現れてきた。それが持つ可能性においての奥行きが無限であることに。テクノロジーの発達においてさ。これは強力な金儲けの為のツールになるゾッと。更には人々の心、そのマインドへの影響力が半端なくあるゾッと…。そんで更には人々のその心、その頭を馬鹿にする使い道ともなれば、最強、最高のツールであると。

ピクセル、VR、デジタル技術、4G5G、投影、プロジェクションマッピング、PCゲーム、アニメ、映画、この辺のキーワードにおいて、自分が何を言っているのかは察してほしい。そして何を嫌い厭い恐れているのかを……。

ことが上辺の精緻さ、本分から乖離した/遊離した形で、一切が進展発達して行っていることにだ。つまりは上辺は素晴らしく華美なんだけど、そこには実際はなにも、なんにもないってこと......。

あるべくしての本分、ほんもの、本体がないにも関わらず、テクノロジーの発達がことにおいて更に魅力を添えていってる。人の心を飽きさせない。どんどんと夢見としてのその深みへと誘い込んでゆく、また片や現実としての、それにおいての悲惨さが、人にそうさせるべく追い込んでいっている。

結婚ってことが最早我々には適わないってことで、持て余してある性欲において、セクサロイドに対しての需要は、とんでもない高まりとなってゆくことであろう。既になってる。エロゲーもこれにはいるからね。夢見としての機械、その環境が、ITテクノロジーの発達によっておいて準備される。金になるから。大金が動くから。自分から、そのまやかしとしての夢に、嬉々として飛び込んでゆく、溺れてゆく、歓喜をもって染まってゆくことになるであろう。
*「あんあんうんうん」パートが課題だったけど、AIがここと受け持つこととなり
  ここに新たなる地平が、切り開かれることになった、なるであろう……。

これは大勢においてのお話し。
あなたにおいての話ともなれば、良い伴侶を、現実に、実際に、みつけりゃいいだけの話し。









ここの「画像を元に」ってのは、本物、現実、実体から、それらを元に、イミテーションを作ると読み替えて欲しい。それは必ずしも悪いこと、間違ったことではないが、現在のトレンドとしては、金儲けと悪意を元に、涜神としての行為、もの、冒涜としての破壊が毀損がその衝動が、根底においては働いている。欲求不満におけるそのヒステリーの発現の性だ。ほんすぐそばにあるものを見失い、分からなくなって、それほどまでに眠りが深くなってて、狂気としてのその症状が、そこらかしこで現れるようなってしまってる。

ことは全体性、社会性においての話なのだ。本源から切り離された状態では、人はその正気を保つことはできない。信頼を安心を寄得る、なにかがなければ、気が狂うことは必然なのだ。

神なき世界にあって、神聖なるもの、尊き、尊ぶべきもの、つまりは道徳倫理、それを見失って、自分から思っきし離れ去って、しまったなら、あまり意識しなくなったのなら、今度はそれを憎む、毀損する、冒涜する方へと、傾くことになる。八つ当たりとして。筋違いの勘違いにおいて。

人がこのことを意識していようとしてまいと関係ない。結果として実際そうならば、
こうなることは、あったりまえとしての、あくまでも自然な、ダイナミズムでしかない。

誰かが探しに来てくれる。そんであるべき場所、状態へと、
連れ戻してくれたらいいんだけどね...。



最後に、ことは、ひとが

と思ったその瞬間に、幻としてのものは現実のものになるんだ。

嘘、偽物、ガラクタであったとしても、それは最早リアルとしてのその存在でしかない。

これは、元々から、神から与えられてある創造、その力に基づいて起こること。




つづかない。
















Would you do me a favor?

a favorを、Meに、してくれと…してくださいませんかっと…。

favor は好意なので、私への好意を示したって、証したってもらえませんか?っと。

この表現における背後にあるその真実の意味は、

汝は我なり、我は汝なり」。

その似たるの…同族同体たるものであるに等しきの前提において、その事実にて、

こち側、この自分において、今、貴方に頼らなければ叶わないニーズがあるんだっと…。





親切の切は一切の切。

すべての人々を我の分身として観て、まるで自分のことであるかのようにして、親しむ、

つまりは少しでも苦しみがなくせるように努力する。

それは、そのことはあくまでも、極普通のことなのだ…。












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