4. ブレイク・スルー(★) 蛸拉箱

文字数 40,404文字

         其が弁説たるや

なるか?。
   (いな)将又(はたまた)、もしや!その(おり)たるものに「()()まん」として開陳(かいちぃん)なるぞや?!。
       この問の答えを知ぬるは(みずか)らがその「檻」の中にておれるを、
             (しか)と、(にん)じて、おるら…、のみ…




                    〈暗転〉



        「 やあ〜皆さんおひさしぶり。ボクの別宅へとようこそ」。

あっちの方の話しは、もう(ほとん)どあらかた決着ってやつはついてしまってる。だけど、その間における経緯を文書に起こすとなると、もう少し時間がかかってしまうみたいなんだ…。あれらの詳細をその筋道を語る/説明するともなると、モー途端に難しくなってしまうらしい…。

でだ、今回は私の方で少し露払いたるものを…それを、筋を離れた形で、やらせてもらおうと思うんだ。物語としては時系列的に少しテレコにはなってしまうんだが…。まあそれはそれで構わんだろう…。

について、

にまつわるその内容、真実、それらの公開ってやつにおける”彼”の負担を、少しでも軽減すべく…、伝えられるべきこと、もしくは情報に関しての、その交通整理ってやつを、この私にやらせてもらいたいと思うんだ…。ことはあくまで

の、ことになる。それに関し

の話し…。だから安心していててくれたまえ…また、これから語るその内容に関しては、集中して、しっかりと聞いていってくれたまへよ…。

今回のその情報公開ってやつにおいては、幾枚かの図象を、デザインやらデッサンを、皆さんに鑑賞してもらいながら、それに私が言葉を付け加えるやり方によってなされる。それらスライドは、然るべく考えられた上で集められ、また並べられたものになっている。皆さんがやるべきこと、すべきことは、それらの図象/象徴/譬えには「

?」これを私と一緒に読み解いていってもらうってやり方になる。つまりはだ事におけるその成否の成果の行く末その行方は、皆さんにおける、その積極的にして勇猛果敢なる、そして

主体的にして能動的なるその思考の冴えたるものが、それの奮闘努力、フル回転フル活動ってやつにこそーっ、かかってくくる!。それがその様に機能すること、それこそ、期待されている。それも、も〜とんでもなく、とんでもないほどまでに〜、

…、待望切望期待されまくってるーってな次第…。

先ず、最初に、皆さんに語っておきたきことは、表現たるものの一切は、(はか)らずしも「某らかの

、語ってしまってる
」ってことなんだ。そのことの実際は、製作者らの思惑を超えたところで、も〜どうしたものなのか…、も〜どうしようもなくして、起こりまた果たされてしまっているのだ…。たしかに、そこには、巧拙たるものがあるにはある。またその出来においての”良い”や”悪い”ってやつもどうしたってあるにはあるさ。でてきてしまう…。また、ソレが、単なる模造品、何か誰かの写し、誰かの”猿真似”でしかないってことも大いにありうることだろう…。いや、大いに頻発に繁盛にそれはあるのだ!。だが、たとえそうであっても、そうであったものだとしてもだ!その表現されたるものにおける、それのオリジナルたるもの、その創作に関わったであろうその”源泉”そのもの、それ自体は、それ以前となんら変わることなく、しかと健在している…。存在してきたるの

に…はっきりと、確実に、未だ、今もって尚、存在している…。”し”続けている…。人間様には関わりのないところに、ところで、その存在における根拠ってやつは、あるのだから…。

云わば、表現されたるものとはあくまで「ゲート」でしかないんだ。それを「」って呼んだって構いやしないんだがね。それらはあくまでも、”契機”を与えてくれるものでしかない。もし、それらをあくまでも手がかりでしかないとした上で、そうであると看破して、それらを通して、その向う側にあるものの意味、その源泉たるそのものに、”直接”、その思索思弁の手を触手を伸ばす、直感たるものを働かすことができたなら、その鋭敏なる触手触覚感受としての自身を、そのモノ自体に伸ばすこと出来たなら、通常には非ざる適わざるのその直感の冴えもて、ことの深奥に在る潜む核心たるものに迫り得たうえで、ソレとの

をも果たしたれば!、それ自体の意味たるものを、真に、理解することも、できるやも、叶うことになるのかも…知れない…。

ことは、洞察のことを言ってるにしかない。純粋なる眼もて、虚心坦懐に、すべてを観るならば、一切は、然るべく、明らかなるのままに、そうされてあるんだよってことでしかないんだ…。そうだ。あの矢吹駆だって言ってたではないか!。「冥福を祈らん、堕ちたるの天使たちよ!」って犯罪小説の中で「いつだって真実は見る人の前にある」ってね…。

だから、ヒトは、いつもことがおおっぴらに公開されてから、物語のその終局終盤になってから、初めてだ思うんだろね…。「わたしはこのことを

知ってた」って…。「ちゃんともう最初から

のにー」って…。「それについての知らせも警告もみんなちゃんと既に然るべく受け取っていたワーっ!」って…。でも事前の、その日常生活においては、そのことはみな意識から無理からに、強制をもってして、外されてしまってただけなんだと…。意識外へと、

追いやってしまってただけなんだと…。も〜その事の全部を、それに関してのすべてを、自分から、敢えてをもってして、忘れ去ってしまっていただけなのだと…。


ここに、興味深くして面白いその事に関しての事例がある。それを最初にご紹介させていただこう。日常の生活における我々の意識ってやつにおいては、悪趣味にしてグロテスク、悪意としか取れないような内容でしかないにも関わらず、それが一旦、譬え/暗喩/象徴をもって他のものとして描かれたり、すり替えられた途端!、人々は、その作品に対しての賞賛を、それも驚くばかりに美術的に価値あるものだとする絶賛を、送るようなことになってしまう…。これは美術界におけるそこの重鎮たちが、こぞって拍手を、称賛絶賛を、長きに渡り送ってきている作品になるのだが…。これは確か世間では「バベルの塔」って呼ばれるている作品になるな…。

                    「カシャ」


           この絵は、コレの偽装をもってしての表現でしかない。

                    「カシャ」


あの画家が描こうとしていたものは...、おそらくだが、こういった建造物を作ろうとする動機衝動、その実行実現を支えてある社会は、やがてにおいては、まるでその自身の「醜い内蔵(はらわた)をぶちまける」かのようにして、(もろ)くも(くず)()ることになるであろうっていう風刺糾弾予言だったのだろうさ…。この絵の大きさ、その出来栄えから、画家がどんだけこれの制作において情熱を傾けていたのかが判る。おそらく彼は、たいそう呪っていたのだろう…この社会を、いや人間そのものをか?…。そういった、大変シニカルにしてなる、強烈な悪意の込められたるの作品なのだよ…。よって、これは、この作品は、 ”Stunning” たりえても、
              決して、絶対に、 ”Wonderful” な作品とはたりえない!。
 

         (ついで)にもう一枚、現代におけるそれに類似該当する表現を....。

                   「カシャ」


             ご存知「羊たちの沈黙」における一シーンだ。
       これになるともう

もなにもあったもんじゃない。
    ただ単なる”

”でしかない。観客へのショックだけを目的としたものだ。

犯罪者たるものの心情(つまりはこの場合は激情になるのだが)、その心の闇を、その行動を、直接的に、なんの喩えも介在物も交えずに、置かず使わず表現することにその表現手法はとられてある。なにを隠す?!なにを誤魔化すこともなく、ダイレクトな表現としてでもうOKなんだろね…。流石アメリカさん。流石は、大淫婦たるを体現してあるあのハリウッド様だ!。こういった表現におけるメセージともなれば、「もう手遅れなるヒト達が、世にては、も〜た〜くさん、放たれてしまってますよ〜」ってなことのメッセージなのかもね。だ〜か〜らー、自分でその自分の身は守らなきゃいけませんよって。真っ当な人だと思ってても、そう観えてても、観えたとしてもだ、そのヒトの心の内のことなんてこた〜、実際は、天で分かりゃしないんだから…。だから精一杯、気をつけていなさいよーってことか?…。怖い、怖い、もう怖い…。

なんかさ〜この映画ってやつにおける表現ってものにもなれば、自分から先に、率先して

てな感じをボクなんかは受け取ってしまうんだがね…。現代人ってやつは、も〜直截的にして、即物的、浅はかなるがままの表現ってやつでなければ「も〜」その表現やつ自体がやれないのかもしれない…。バカな観客に対して、とにかく分かりやすくって、なにやら(おもぶ)き深い(神秘的なるを演出してりゃいいだけのはなし)”ショック”ってやつを、与える事自体が、その表現たるものにおける手段や目的になってしまっているのだからねっ…。集客においては、それが一番、功を奏するんだってのが、その理由の大方でもあるわけだが…。


さて、閑話休題。今回の私の担当となっているのはそれはスバリ言って、ひとらの内に寄生してある、ある種の

についてのことになる。それはずばりその寄生する人間を支配しようと、またある方向へとその生存を向かわせしめようと、そりゃも〜絶えず休む間もなく、いつも、熱心に、励んで努力してくれているんだ。それもだ!ただ単に無闇矢鱈やたらめったら力づくでといった愚かなやり方なんかではなくして、も〜最大限の効果と効率、合理性を徹底したやり方においてのその努力なんだ。故に、まったく無駄なし、しくじりなしの干渉となっている。また、それは細心の注意をもってしての、深慮配慮をももってしての介在/在住となっているんだ。その当事者には絶対知られないよう悟られないよう、ことにおいては誠に粉骨砕身にての驚異的な慎重さをもっての暗躍を行っているのだ。その介入たるものは、そうしたが形にて行われているんだ。それには本当驚くよ!。賢くまた狡猾なるがそれのマナーであることに!。その頭脳は、たぶん人のものなんかより間違いなく、遥かに、超えて、優れたるのものであるはずだ…。

でもだ、…それの管轄範囲、考慮領域ってのは非常に制限されたものでしかなんだ。も〜めちゃくちゃ狭いいんだ…。だ〜か〜らー、つまるところ、つまりはだ、もしこちらが然るべくしての態度もて立ち振る舞うことができたなら、それからの支配を免れることは実は至極簡単なことでしかなんだ。も〜、ほんと、簡単な話しでしかなくなる…。


                  〈暗転〉


  Re: 

…。



         先ずは、手始めに〜「この絵」から見てもらおうか…。
                   「カシャ!」

         なんかどっかで、いつぞやのなんかの映画で見たことあるぞ〜って、
                思われたんではないだろうか?。

                  次は”これ”だ…。
                   「カシャ!」

     構図的にはあの有名な作品に似てなくもない。でも、そのことは悪質なる冗談、
       ただのお遊びとしてのものでしかない。争点はそんなところにはない。

           「

あろうか?!」
       「どっからこんな気色悪い出で立ちの着想を得たのであろうか?!」。

         (ホラッ)(考えて)(考えて)(考えて)(考えて…)

        「とにもかくにもこの絵はいったい

表しているのだろか?」。

         (しっかり頭ん中を、一旦”

”にして考えてー!

その答えを先に言ってしまうと、これは「

」についての表象になる。そのことが基本のモチーフとして、この絵は描かれまたデザインされたのだ。あの頭の帽子なんか

堪らんことなってしまっているよ!(vagina)。では、この「

」ってものは、いったい何なのか?。誰によってそれは

されたるのか?
。そして、また

そんなことになってしまったのか?
…。

ところであのシリーズの二作目たるこの作品は、その制作に臨んでは、もう相当の、信じられないほどまでのプレッシャーの元、その下準備たるものはなされていたであろうことは想像に難くない…。あの渾身の本気も本気の大勝負であった第一作目を絶対に、越えなければならないといったミッションが、そこにはあったはずであろうからね…。じゃないとその後の後の、本当の目たるあの夢の王国におけるアトラクションの成功が危うくなってしまうではないか!。

だからことの最初の始まりである第一作目から第三作までの制作は遠の昔に決定しており、各作品におけるシナリオ、メインキャラクター達のキャスティングにブッキングにもまた、各ストーリにおける

ともなるべきそのアイデアは、時間を、も〜たっぷり、十分にかけて(少なく見積もって三年以上)練りに練られたものとして、最初の最初から完成してていたはずなのだ!。

      ♪「お〜もこー、お〜もこー、たっぷ〜りっ、お〜もこー…」♪
       その昔、この歌は、絶えず幕無しで、四六時中テレビから流れてよな〜…
           (頭上遥かを、遠い目をもって見上げながら語る)。

ことは最終的には、あの夢の仮想現実として咲き乱れたるところのDの楽園における、新規のアトラクションとされるよう計画がなされていた。そこへと、誰も彼をも、皆全部、引き入れる、引き込む為のプロモーションとしてその役割があのシリーズには持たされていたのだ!。先もってしての洗脳こそがあれら映画における真の目的だった。あの映画には、いったいいくらの、どれだけのお金が費やされたのかを知ってるかね?。

  その始まりの「呪われた海賊たち」におけるその制作費は    ☆約266億円。
   で世界における、その興行収益は、                 約920億。 
  二番目の今回の案件たる「デッドマンズ・チェスト」の制作費は ☆約260億円。 
   で世界からの怒涛の還流とくしてのその額は、          約1,233億円。
  そして第三作  「ワールド・エンド」におけるその制作費は  ☆約346億円。
   もう惰性で観に行かされただけであろう人々からのそのお布施は、 約1,11億円。

終わっていることに、そのこと事態に呆れてしまう...。どんだけ世の人々はバカなのか?、そして暇なのか?金持ちなのか?と...。自分がこの数字を、この途方もない金銭金額を持ち出してきたことのその理由は、あのらの先品はそれはもうとんでもないほどまでの思い、異常なる情熱において制作されていたのかってことを、具体的なる金額をもって、皆さんに実感してもらいたかったがまでだ。これは破格も破格、破格中の破格の制作費になる。時間も金も十分にタンマリ、もう湯水の如くにして費やして、かけまくったりとしての作品になる。更には、制作のフタッフにおいては、さぞかしその分野における最高の者らが、精鋭たる者たちが、集められていたはずなのだ。そうだったのであるならば、それはも〜それなりの、物量をもっての、それをもってしての、究極たるものが、”そこ”に、結ばれて当然のはなしになるー!。

愚かな方法論でしかない。キチガイじみた行為だとは思う。だがこれが、今の現代の、その時代における最先端、ビジネスたるもののやり方なのだ。だからもうしょうがない。結果が、収益が、収支こそが、評価におけるそのすべてである以上、これもまた「妥当なるやり方」なのだと、悲しいかな、言わざるを、認めざるを、得ない…。

つまらん話しはここまでとして、ここに結ばれてある究極としての、つまりは、「それ以外には、もう正解たるものはありえないであろう?!」ってものにおいての、その表象ってやつにおいて、これらが指し示す真意、真実たるものについてを、皆さんに、自身にて、読み解いてやってはもらおうと思うんだ…。

先にこの設問においての、皆さんがそれに関しての考察を行うに当たってのガイドラインたるものをお伝えしておこう…。まずはあの「呪われた男」の方から..。この「

」の意味は、然るべくしてあるその生の循環からは「

」ところに、その存在はあるってこと。その意味になる….。

では何の?何における循環なのか?

ことは、あくまで、ヒント止まりになるのだが、それとしてでしかありえないのだが!、それは「

」だとでも言っておこう。そこにあるべくしての、身を寄せるべくしての、その循環の輪の中に、彼は

んだ。

ならばどうなる?。どうなってしまうのか?!。

生者でもなければ死者でもないってなステータスの存在になる。なっちまう。これを違う表現をもってするならば「天国へも地獄へもいけない存在」ってことになる。いやいや、ことは、これだけを語り切るならば、余りにも生易しい話しでしかなくなる。一つ、このステータスにおける特異にして特殊なる事態たるものを教えておこう。この彼たるものには時間の観念がもうないのだ!。

このことは当人にしか自覚されないのだが、内在する個人的、内的時間において、それがもう完璧に失われてしまっている。外的環境において変化があったとしても、あるとしてもだ。その彼においては彼岸の出来事としか映らない。感じられない。…そう、まるで、「テレビを見てることをしっかりと自覚しながらその放送を見ている」みたいだってのがわかり易いかもしれない。「架空の」とか「仮想の」ってのともまた違う。没入感ってのが、どうしたことか、どうなちゃったことなのか、もうありえない、もう持てなくくなってしまっているのだ。相互交流が絶たれたところに展開する、その世界転変ってのが正しい事態なのかも知れない。とにかく、その様に然と覚えられてしまっていることに彼は気付くのだ。

この彼のある”特殊な状態”は、「

」(こういった表現もできるんだが)ってものに相当する。「サスペンドされて、そのままにて、世界からは忘れ去られてしまってる」ってのにも当てはまるのかも知れない。この「

」ってのが、また当人にとっては辛いこと、(こた)えることになるんだ。彼は、もう「時の輪」からさえも、その存在は外れてしまってるってことになるのだから…。

死にたくても死ねない。何をもってしても、絶対に、この自分の身の上を、如何なることをもってしても、変えることはもうできないんだ。だが、その彼たるものの意識は、かってのまんま、人間のままなんだ…。「 living dead 」としてありながらも、未だ、元のヒトのまんま。そうして彼は、ただ「哀哭慟哭を伴ってしてのその怒りと憎しみにて歯噛みするにしかない」ってなことに、も〜そうとでしか、居られないってことになるわけさ…。もうその主観においては永遠に…もう未来永劫に…。

当然なはなしなんだが、その彼たる存在は、天使でもなければ、悪魔としての存在でもない。
このことは富に重要だからね、考察においてはこの前提も絶対に忘れないでいてもらいたい。

さて、先の問いかけの一つ「誰によって?」に関しては、…特段その彼ってのに、”呪い”をかけたやつってのは、その該当者ってものはいないんだ…。ことの実際は、その現実は、彼自身の、彼自身によりての自業自得、そりによりての結果ってことにしかならない…。

                    「カシャ」


         補記:「ではその彼の存在は、永遠のものなのか?」。
  あることを原因として、理由として、その魂はとても重いのだ。そしてこの地球には、
  その大地の底には、特殊な場が形成されてしまっている。特別にして特殊なる獄たるを
  形成するべく、かってアヌリアオスの霊体そのまるごとがそのままにコピーされてその
  地下深くの

収められたのだ。そしてその獄たるものには超弩級の
  霊的存在が封印されてある。元々この彼を投獄監禁するべくその獄たるものは造られた。
  それは間違いなく地表におけるあらゆる霊的存在に対して引力その他諸々の影響力と作用
  の力を及ぼしている。軽ければ月の引力にてあちらの世界に渡れるものもその魂の余りに
  重きが故に、こちらの作用力に捕らえられてしまうをもって、未だこの世を彷徨わざる得
  ないようなってしまっているのだ…。
  
  その彼個人としての”主観”や”意識”、これを結ぶ”場”たるものは、本来は、その彼自身の
  肉体に置ける生体エネルギーフィールドであり、そこにおいてこそなされるべきものでは
  あるのだが、その彼ともなれば、もはや彼自身の肉体においてではなくして、世界からの
  断絶、この事態、現実こそがことを為さしめてしまっているのだ。またそういった境遇と
  もなれば、そこに残された彼自身を構成する元素たるものにおけるその変移変遷は、ほぼ
  無機物、つまりは鉱物としてのものと同じ加減となるのだろう。永劫不変とまでは言えな
  いがほぼ不死としての存在であると言えるはするのだろう。この辺が、時間感覚の著しい
  損失としての実状が、関係しているのかも知れない。了

少し邪魔が入ったが、続いてはあの顔からぶらさがっている触手みたいなものにおいてだ。これには大変に重要なメッセージが、つまりは意味たるものが秘めてている。実は、蛸たる生物は、基本話しには関係ない。全くもって関係してない…。もし無理してでも、それとの関係を付けるならば〜”絶縁”としての嘆息もしくは罵倒のその意味としての「

」になることだろう。理解不能、お前とはもう金輪際、断絶、絶好、無関係!ってのが、そのことの証としての、その表現…そのニュアンスになる…。


だけどね…基本まったく関係のないその蛸が、そのイメージとしてどうして定着してしまっているのか?。変な言い方かもしれないけれど、これはも〜しょうがないっていっちゃ〜しょうがないって部分も確かにある。それはね〜形からの連想においてどうしても”蛸”としてのものでしか、ありえなくなってしまうんだ…。このことにおいては、もう少し後になってから語ろう…。でも折角すこし触れてしまった以上は、これにおいてもヒントを出しておこう。

あの蛸のイメージは、あの蛸の頭が、そのままに、ヒトの頭部を、頭蓋を、連想させるものになってしまっているからなんだ。だが、とにかくその主役は、あくまであの、あれら触腕触手の方にこそある。それにて表されているものこそが、真の主題になる…なっている…。

                    「カシャ」



ここで一旦、ティーブレイクがてらに考察におけるその対象を変えてみよう…。


Re: 人生とは舟をもって海を渡る、その行為にも似て…。



これのどこが人生を表していると言えるのだろうか?。ことは簡単「板子一枚下は地獄」ってことが、そこんところが、正に、

語るにおいては真実なるが故に他ならない…。そして、更には、実際のところは、「他力にて」としてでしかない”風”たる動力において、前進している、動かされている、それが適っていることも、ここにはしっかり表されている!。自分としては、この船をもってしての表現には、とても感心するわけさ〜。「まさにまさにまさに!、真実において、現実とは、そこにおける生存とは、まさにその通りだ!」ってな具合にね。しっくりくる。きてしまう…。これは正しく、ひとのその生き様、その人生ってもんを例えるにおいては、最高にして最適なる表現としてのものではないだろうか?!。

ここに並べられたるの、あれら舟におけるスケール差ってのは、ことにおける運命共同体としての集団集合ユニット、それにおける大中小を表しているに過ぎない。当然な話し、この”船”としての表しをもってするならば、人の集まってなるグループ単位のそのすべて、組織としてまとまりあるもののすべて、もう場合よっちゃ〜”一国”そのものが、一艘の舟だって、考えることも捉えることも可能は可能だろう…。

そうであるならばだ、では「海賊船たるものは何を?、それはどんな人々の集団としての集まりなのか?、そのヒトの”つるみ”たるものが何に基づいてのものなるか?」を具体的なる事例記録をもって、その意味たるもの真実を、考察せねばなるまい!。これは、かってのその植民地政策たるものにおいてを、その当事者たる欧米における強国たるが、この言葉の元に、実際には何を行っていたのかを考えてみれば、調べてみれば、ことはすぐに明らかなるがままになるまで…。

ところで、この表現における”海”たるもの、こいつが厄介だ。それの解釈は、外界としての構成のそのすべて、またヒトの心たるものが根付き、また”我”たるものを結ぶにおける構成要素、その結びが為される果たされる為の条件である”フィールドの形成”をも意味しまた表しているからだ。両者共に、”カオス”であることがことの実相にしてその現実になる。つまりは、神仏が坐すれば、片やそこにはまた対極たる存在もまた居ましませりとなるなっているのが、同じくして事実/現実であり、また実相なのだ…。(←勿体つけての表現だが言いたいことは、ヒトの内外取り混ぜての取り巻いているところの環境は、”カオス”としてでしかありえないってこと。そう捉えることしかできゃしない…。それらあれらなんやら”が”渾然一体となったところのものなのだ!。←もう語らなけりゃ言わなきゃやらなきゃ良かった…。)

ことにおける、その考察において、欠かすことのできないのがこれら”二極”になる。それらにおいてのことになるんだ…。それらは言わば、究極にして終局たるこの宇宙の実体そのもの、つまりは「メタ存在」もしくは「超越者」たるものになるのだが、それらが、この宇宙における一切を支配しまたコントロールしている。このことも、その考慮においては、前提として外すことのできないものになる…。ことは、生存してあるその個人としての

、どちらの方に、その関心を持つのか?、どちらからの影響に好んで反応しているのか?、また最終的には、意志的なる無意識的なる両者を含んで、どちらを選択するのか?しているのか?、どちらの極を志向するのか?しているのか?にあるんだ…。その個人としての意識たるものが、結ばれてある、それを、そのことを、為さしめ果たしている”場”そのものを形成している頭脳、そこにおける、その決断にーーー、すべてはかかっている!。このことも皆さんなりに、その意味意義をよく噛み締めて、よく消化した上で、以降の考察においての参考、その材料としてくれたまへよ…。


さて、ちょっと振り返りをもって、あそこにおける、あの「蛸」みたいななにかが、それが象徴として、どんな意味を持っているのかについてを、改めて語らせておいてもらおう…。「それは粘着縛着するもの」であることに尽きる!。ここで、危うく見逃しそうになってしまうのが「する」の表現としての部分だ。このことは何を表す?何を言っている?。つまりは、それは、あたかも動物のように生き物かのようにして振る舞うってことなのだ!。あと、それに加えて、それの動きたるものは、その運動能力から見て、それの特徴は「弾性的にして重厚なる筋力による剛力を備えたるものもの」であるってことなんだ。強圧的にして圧迫的なるが、それとしての持ち味か?…。また、それの動きたるものは驚くほどまでに俊敏にして、また高速ときてる。かつ、

みたいにして、滑らかにし動きにまったくの無駄がないときた〜!。とどのつまり、それは、その圧倒的な制圧力たるもって、捕らえたるの獲物を、羽交い締めにして、抑え込んで、更には押さえ込んで入り込んでってしまうのだ…。そんなやり方を戦略として持っている。つまりはだ、取り込んで、侵入して、籠絡して、特別なる快楽をもって、痺れさせて、その上でその宿主を支配しようとしてるんだ…。そして、そのことにおいては、そうすることにおいては、”それ”にとっての、たぶん、取り分メリット、何らかの分前(えけまえ)旨味、目的の遂行たるものが、あるに違いない…。

                   「カシャ!」


なんのこっちゃか、何を私が言っているのか、皆さんにはサッパリ分からんだろうが、今は我慢して、ただ聞いといてくれ給え…。とにかく、

、今挙げたような特徴を持っているんだ。それは疑いようもない事実なんだ。このことは、このことだけは、私自身が真実であると保証しよう…。後で、時間をおいて、たっぷり時間をとって、長期においてを視野に入れて、皆さんが皆さんなりに、考察をしてくれればいい。もうじっくりと過ちのない判断ができるようになる為に…。
                  「カシャ!」

それは、やがてにおいては、まるで「薔薇」の如くにして、花弁みたいなものをその体内に形成してくるようなる。その自身の一部を生やして伸ばして、脳をメイン領域として、それを覆って、囲んで、隙間に入り込むってな行動を顕してくるんだ。もしそうなったならば、そんな事態にまでも至ったならば、その当事者の”おつむ”ん中は、もう其処はあたり一面、満開の「お花畑」ってなことになってしまってんだろうね…。

図象にされてるってことは、その中には、

が込められ、また含まされている。その作者が、意識的に無意識的にを取り混ぜて、自覚的に無自覚であるも取り混ぜて、特別なる目的をもって、制作されたるのはずなんだから…。もし、その作品が、観るものにおいて、それもその人の如何を選ばずして、もう誰の目からしてもインパクトのある絵であった場合には、そこには確実に、某らかの事実が、真実が、描き出されてしまっていることになる。要は、そのことに成功してしまっているのだ…。そのことは、結果として、「そうなってしまってる」までなのかも知れないが…。

場合によっては、その内容は、通常の生を送る普通一般の人達が知りうるわけのないものにまで及んでしまっている場合もあるのさ。創ったその当人にもそれがなんであるのかが分からないこともありうる…。でも、これは不思議なことなんだが、知らないことにおいてであったとしても、その作品におけるインパクトたるものは有効なんだ。それはなぜだか知ってるかい?。直感インスピレーション(霊感)たるものの閃きにおいて基づいてその作品が制作されていたからだ!。もしくは、本能の中にてはそれに関する情報ってのがも〜完璧な形で収納されていて直感に霊感に、更にはあちらからのフィードバックたるサポートによる的を得た参照が、どうしたものか、制作においては即時即応にて果たされているからなのだ!。…とにかく、それは、得体のしれない深い、深みよりの、深みにおける、”ショック”、情報の提供たるものを、観るものにもたらす、果すことになってしまっているのだ…。先に進もう…。

              次はこれ…「カシャ!」


こんどはコンピだ。構成としては少し要素が増えて、船と骸骨とタコの触腕の三つってことになる…。これに関してはもういきなり回答を言ってしまってもいいのだろうが、これもまたあくまでヒント止まりとしての解説としておこう…。これはある種の人間についてを、その状態状況についてを、表している。少しそこに表されてある意味ってやつを紐解いてみようか…。

ところで、この入れ墨のデザインはよく出来てる。今なれば、皆さんも、なにか感じる勘づくこともできるのではないだろうか?。これのデザイナーは、その意味を、なにも理解しないまま描いたのだとは思われはするが…。いまいちセンスに欠けているんでね…。でもここには必要なる要素のすべてが然るべくして揃ってる…。改めて、これはヒトのその生き様、その有り様、特別なものとしてにはなるのだけれどね、それを表したるものに如かずだ。だから、この入れ墨をしているってことは〜、そのことを大々的に

知らしめてる、宣言してるってことにもなるんだ。

ほんと、ものごとってのは、知るべきシト、識り得るヒトにとっちゃ〜、一切が、も〜最初から、あからさまに、それにて、そのようにで、彼の眼前にあるよう、そうである、そうなるよう、展開されてしまっている〜ってこと(状況)なのさーー!。その手配は、当然に、かの方のご意向においてだろうがねっ!。この宇宙はホント微に入り細に入りよく出来ている…。

既に言ったように、舟は”人”だ。海の上にあるってことで、それはオープンとしての自然の、真っ只中に生きてる生存してるってことになる。少し端折る、その舟は「タコ」みたいなのに襲われるんだ。そして、襲われてしまった人間は、もう死んだも同然になる。ここは、詳細をやると、それに取り憑かれて、もうそっちに支配されてしまうってことに、なぜだかなっちまったんだ。でも、その彼は、本当には未だ死んでない。もしかしたらその魂ってものだけは、そいつにすぐ喰われちまったのかも知らないが。後に、そいつの中に、そいつとして残るのは、純粋なる動物的反射神経の塊だけってことになっちまうのかもしれない。要は、実際は、そいつにいいように操られてあるだけの、自動人形になちゃった〜てことだけが、真実として残ることになるわけだが…。この事態を表現をするに、先に使った「呪われた人間」っ言葉を、使ったわけなのだが…。

       ここで、数枚を、少し駆け足で、連続をもってで見てもらおう…

                まずこれ「カシャ!」



ならぬ

ならぬ「蛸拉箱(タコラバコ)」ってな訳さ。かな〜り昔に、とある島で私が見つけたものになる。記念にでもと思って写真にとっといた…。暗くて狭っ苦しい空間に、体丸ごと取り込まれてしまってて、もう「にっちもさっちも」いかないような状態になってしまってるね…。

だ!。でもその箱たるものはあなたの肉体のことでもある…実はそうなんだ…。では、それに入るにおいての「入り口」ってのは何なのであろうか?…。何だったのであろうか?…。そして、いつ?どうやって?どこから?……。兎に角にも、体の内にては、そいつが、もうびったりびっちりと貴方たるものの、あちこちに吸い付いてしまってて、もうめちゃくちゃなまでに押さえつけられてしまっている。そちら…「出口」(つまりはこれは入り口のことにもなってしまうのだが)へと向かうのなんていうことは、もう大層難儀なること以外のなにものでもない。そうとなってしまっているんだ…。ことは、凄まじいまでの苦しみを、痛みを、苦悩を、伴いてのその年十数…数百年数千年?…いやはや、もはや、永劫と思えるくらいまでのときたるを、必要とするのではないだろうか?…。

だってだね〜…それは「檻だって」ボクは既に言ってるんだから…最初からもうそれなんだって言ってたんだから…。”

”意外と盲点だったんじゃないかな?。一般的には、檻たるものは、偶然結果としてできるもんなんかじゃない。「

/

」造ったるのものなのだから…。だったらば、ならばだ、

、それは簡単に開けることなどできようわけがないじゃないか!。いや、そんなことなんか絶対にないよう/できないようにとの考えもて、最初から堅牢にして頑丈にしてなる檻たるるものは設計され用意され準備されてあったのだから…。では…もう…絶望的な話しでかない…。
(↑ここの問この難問に関しての回答はマハラジがしてくれてます。もしなんのことやらわからない…、もしくはその回答たるものに、ご興味ご感心がおありでしたらば、訳書にでも当たってみてください。自分のやったやつの中に、それがあったのかどうかは、もう自分はもう憶えていません。イエライ・イエライ・イエライ「カシャ!」)

触腕の、そのまるで生きているかのような様子からは、そこにある現実は、当人が死して尚も、亡者となりたりとはいえども、まだその肉体としての生存活動は継続しているってことの証なのかもしれない…。もしくは、その当人を宿主として、それ自身が、精力的に、活動を以降も続けているってことの表しなのかもしれない…。

               そしてこれ…「カシャ!」

               そしてこれ…「カシャ!」

                そして…「カシャ!」

                そして…「カシャ!」


此処で、最初に、今あらためて強調してお伝えしておきたくは、おくべきなのは、この絵に表されているものは、生物学システム上にては、生きているものだと、呼べるものなのかも知れない。その人間としての”魂”は、遠の昔に、既に、朽ちた、同化されきってしまってる、吸いつくされて粗方もう空っぽ、だ〜か〜ら〜、死んでしまってるってことなのかも知れない。だが、とにかくにも、それは別次元体としてありながらも、未だ、生きているってことにはなる。つまりはだ、自意識たるものを、ちゃんと備えて持っているってことになるんだ…。

ここに並べられたその絵においては、ことにおいては、それには更なる成長変化ってのがあることになる。花弁や花びらの如くしてのものを、それに該当するなにかを、それは形成することは既に言った。このことの目的は、その宿主をより完璧に取り込む支配するための、その自己としての拡大同化における分化分散、それによるネット形成になる。その様子を、狂ったその脳の夢見において、

そのビジョンにおいて、感化して表しているに過ぎない…。

そして、それもまた、成長変化のその暁には、戦略的目的において、誰か他の人間に向けての牽引をしかける戦術をとるのだ。そのことが、たくさんのチョウの誕生と、その旅立ちにおいて語られている。…ここは怖いところだ。なにかをもってして、他の人々を同じような境遇にその同じ境遇へと、引き入れる工作をその存在は始める。ことは、狂ったその脳内において紡ぎ出されてくるある出現するビジョン、それに基づいての観念のことになるのであろう…。最後の水晶のようなものの析出は、あれはまさしくアレの霊感に触れて触れられて、なにかおかしげな観念が、紡ぎあげられてある事態を、表していることに間違いはないであろう…。

                   「カシャ」

                   「カシャ」

                   「カシャ」

                   「カシャ」


       これら四枚の絵は同じ内容、または事態たるものを表している。
  皆さんご存知のクラーケンたるものに襲われているその図、その事態、その様子になる。
      これが一体本当のことにおいてでは、何を表し、何を意味しているのか?。
            これを、皆さんには考えてもらいたい。
         某らかの非常事態、一種の戦闘状態なんだろけどね…。
       私からは、これに関してはヒントも回答も一切出さないでおく。
    四枚におけるその単位そのスケール差ってのが何を表してしるのかにも、
               着目しておいてくれたまえ。


        さてっと、ここで改めてこれを… 「カシャ!」



             そして最後にこれをと…「カシャ!」



とうとう最後にて、”御大”たるもののご登場だ。ここに違和感を感じたり覚えるする必要はない。ことはあれ…分厚くって、まとわりついてきて、くるもので、張り付いてしまって、もはや離れない、離れやしない、離し難きの代物。これらの要項のみが、それに関しての、疑いようもない確事なのだから…。粘着し、また縛着せるもの…。知性を持ち、狡知なるのその限りとしての存在。悪しき思い感情たるを煽り、吹き込むがそれの意向。こういったことのみが、実際の、その現場にては、確認されるのみなのだ…。

ならばだ…、それはもう”蛸”のようなもの、もしくは、暗がりを這って蠢動しながら素早く動き回る”蛇”の如くしての、もう

と、例えられて語られたとしても、そこにはなんの問題もないではないか…。しかしだ、そうであるにしても、両者両方ともに例えとしては有効ではあるが、それらが、それそのものだって訳では断じてないんだ。このことだけは、くれぐれも間違えないよう、勘違いしないよう、いてもらいたい…。

                   「カシャ」

            とてつもなく強靭強圧にしてバイタル。
           その弾力性を備えたるの豪腕に抱かれたなら、
         粘着縛着するその数多の触手に押さえ込まれたならば、
            如何に?!脱出することほば得ん?


                    〈暗転〉


   さて、ここで息抜きがてらに、話しを人による表現たるものに戻してみたい…。

Re: どうして、

に、ヒトは

しまうのか?。


これに関しては最初のほうの(くだり)で、もう殆どその理由たるものの核心は語ってしまっているのだが、改めて…。なぜだかどうしてなのかわからないのだけれど、ヒトはある種の表現からは大いにインパクトを受け取ってしまう。それは何故なのだろうか?。

それが表すところの意味、それが持つ意味たるものを察するからだ…。そして…恐怖の感情がどうしたものか、湧き出し、もう止めどもなく溢れ出してきてしまう…。要は、核心としては、それがなんであるのかを、何を意味しているのかが、分かっているのさ。ボンヤリとながらも…。

ならばだ、それに関してのデータが、間違いなくあることに、あるはずになる。

端折る。

ことは、魂においてプールされているところの、

における

よっての反応なのだ。

それは基本、宇宙と連結してあるのがまさに本質で、全体から即時即応にて参照が可能っていや〜可能なのだ。このことは話すと長くなるので、簡単にまとめると、魂は、魂においては、敵の正体、それに関してのものならば、もう丸分かりなのだ…。だが、困ったことに、人間の主体としての座は「人格」たるものにある。要はマインドにだ。これと魂との関係においてともなれば、大いなる齟齬がある。両者間においては、誤解誤謬、不公平なる交信ばかりだ。このことも語れば長くなるので、語りは差し控えたいのだが、もう簡単に言えば、間違いとしての判断ばかりを両者間においては繰り返してしまっているその主体たるものが、その人格なのだ。そのことの最たる例となるものを一つあげてみよう…。

                   「カシャ」


ご存知これは入れ墨、タトゥーだ。メリケンさんに、ベルンさん、フランにダルムちゃん、
ヨーロピアン各国なんかにおいては、もうファッションとして広く定着してしまっている。

                   「カシャ」


                   「カシャ」


 なかなかに際どいところにも密かに、”こっそり”と入れてるもんだ。ざぞかし房中、男は、
 いざってことになってから”ギョッ”とすることになんだろね〜。ここに至るまでの、その
 動機ってのは何なんだろうか?何故に、このデザインのタトゥーを彼女は入れたのか?
 なかなかに、決心のいるもんであるとは思うんだがね…。もう簡単には取れないし…。
        
       (ホラッ!)(考えて)(考えて)(考えて)(考えて…)

一つには、根本的には、自分への付加価値を上げたいだ。その要素は、強さ、たくましさ、畏怖させるに足りるもの、そしてなによりも、艶めかしさ、エロティシズム、神秘的なる

に原因を持つ若さ/活力/強運、等々…。でも、こういったことは後付けの理屈、つまらなく小賢しいばかりの小理屈に過ぎない!。単なる戯言。云わば言い訳にしか過ぎない常套文句でしかありゃしない…。

ことの前に、その戯言を自身の脳内コンピューターはじき出すその前には、とある印象においての確かなる”ショック”ってのがあったはずなのだ…。その表現されたるものの向こう側に、実体たるものを、確かに、間違いなく、感受している。してしまっている。それが果たしてどれ程までの明瞭さ、確かさ、深度によるものであったのかは知らないが…。分かりはしないが…。これにはこれで、

、必要にはなってきてしまうのではあるが…


      「それを見た、それに触れた、その最初から、もう既に、完全に!」

       今、改めて、ハッキリと、皆さんに、ここで言っておこう!

  「それは、それらは、そこに

、”蛸”でもなければ”蛇”でもないのだ!」

   「また、当然な話しとして、虎でも龍でも鷹なんてものでもありゃ〜しない!」。

たしかに、ことは、その意識下、無意識無自覚なる領域においてはの話しにはなってしまうのではあるが…、一応は、その表されたものの向こう側にあるものにおいて、ちゃんと理解はしている…。だからこそーーーっ、”ショック”たるものを、体験する、体験できているのだ!。ちゃんと分かっている、知っているからこそ〜、その結果においての意識の深みから現れ立ち上る特別にして格別なる、常日頃の日常では知ることのない、味わいたるものを〜、体験経験することが出来てしまっているのだーーー!。


疑いようもなく純粋にしてなる、それのみにて成立している異次元生命体…その一種になる。それが超越者であるからこそ、我らは

それに対しては覚えてしまうようなる。

 この恐怖、もしくは畏怖を覚えるに当たって、その当人には選択ってのがあるわけだが…
 つまりは、逃げるのか、それとも戦って、その脅威を撃退するのかっていう行動選択が
 あるわけだが、このケースの場合には、ちょっと変わった、面白い反応をね〜、ヒトは
 見せることがあるんです。
                   それは…


    『これは間違いなく、越境倒錯違反、罪としての行動選択になるのです!』。

まずことにおけるその理由原因たるものを、考察するに当たってなのですが、これ先お伝えしといときますね、長々あったりまえの聞き慣れた長台詞聞かされても退屈だし、なにやら腹たってくることにしかなりませんからね、ではその

ってやつを聞いていだだきましょう!。



     「間違いなくそれによって魅せられてしまっている!」
     「そうした経験が今まさに為されてあり既に知らぬ内に起こり始まってた!」。
     「何を何がどうしたものか引き寄せられしまっており既に深みまで
      引き込まれてしまっててもうどうにどうしようにも引き返せない!」。
     「ダメだダメだダメだ!イケナイと分かっていながら知っていながらも
      どうしたものなのかもうどうしようもなく抗せない」。
     「どうしたことなのかどうしてなのか体がもう勝手に!」
     「恐ろしいもの圧倒的に巨大なる神秘なるまったく勝てないと思うが故に、」
     「それに平伏せんとそちらへと自ら渡って、それの庇護を得んとしている。」
     「なんたることんなのだ!俺は今強烈なる快感それも未知にして甘美なる
      共振において陶酔しきってしまくっているではないかー!」。
     「ことはまるで永遠なるがままでいつ果てることもなく実際これにおいては
       終わりたるものがないまったく来ないではないかー!」。



今のは聴取におけるその記録ってやつです。催眠療法ってやつをそのときにはやったのです。



そりゃ〜そうなるでしょ、至上の御方と争い、彼に取って代わろうした、その存在なのだから。それが頽落をもって醜き存在となりたりの今になりたりとはいえ、我ら、か弱き原罪背負っての罪業ばかり深くして情けないばかりのヒトたるものにおいてともなれば、その新たにまとわいたるであろうそのブランド力、ブランドイメージたるものにおいてともなれば、もう信じられないほどの半端ない影響力たるものを持って振るって拡散しまくたりこと相違なかろう!。ときに、あれだ、そのイメージ、ヒトが観念として持つそのイメージたるものにおいてともなるならば、それに関してともなれば、それはまさしくまさに彼が十八番も十八番の得意分野!。あれにメタモルしたるならば、もうそれの根城にして居城たる領域でしかありはしないのだ!。嘘偽りに関してともなれば、在らざるものにおけるその創意工夫考案発明洗練に関してとなるならば、我こそに、お任せあれよって、




                    〈暗転〉


       Re: 

…。






「よって…ことに関しての情報提供はなされてある!。それは間違いなく表現者らにとっては
 リアルなものでしかなかったー!。だが、そのものに関しての感受は、また特別なるもの
 だったのだー!。これも言葉にするにおいてとなると〜難しくなるのでーこれにおいても、
 喩えたるものを採用しよーーーう!」。

体内においても、それに向けて、感覚たるものはあるはある。異物なんかが入ったなら如実にそれを識ることができる。でも、それが何なのかは明瞭ではあるまい。切って開いて摘出して、明かりの下で見ないことには、ハッキリと、正しく、明確に知ることはできない。でも、これは難しい場合もあるにはあるんだ。なんってったて〜手術っては大仕事だからね。また、素人さんができることでもない。それもなんだが、その異物たるものが、具体的なる実体たるものをー持たない〜って場合もあるのさ…。つまりはだ、CTスキャン等の科学的センサーってやつでは捉えられない、見つけられない、確認のしようがないってってなケースだ。ならばだ、それはもうその当人が内的感覚をもって探るしかない、なくなるわけだ…。だから、このことにおけるサーチってのは、間接的なる、演繹的なるものとでしかあり得なくなる。また、事においてのその情報発信は、あくまで、個人的にして主観的なる、もうアバウトなものとでしかなり得ない、成り立たないわけさ。ここで、その当人は「それはまるで何々のような…」ってな表現をせざるを得なくなる。なかなかに、もどかしい思い、その限りをその当人はすることになると思うよ。だって、自分以外の誰にも、自分が今陥ってある異常事態たるものを、正確に伝えられない、分かってもらえない、理解してはもらえないってことになるのだから…。

でだ、その彼は、なんとか喩えをもって、それに関してを皆に伝えようとするんだ。それに関しての、それのあり様に関してを、それが何を、この自分に対して今行っているのかを…。この行為の本質的なる目的は「救助して「注意せよ「警戒せよ」のメッセージとしてのものなだが、なにがどうなってるんだか、驚くほどまでのその目的の変質変形をもってことは為されているんだ。端折って、もう簡単に、ザックバラン、即物的に、その実状たるものを語るならば…、商品として、売り物として、金儲けの手段としてのものとなってしまってる…。

彼においてともなれば、そんな事態ともなってしまったならば、もう真っ当な仕事になんか付けるわけなんかないだろうからねっ。しかしだ、金はいるわけだ…生活をしていく為にはだ。そんで、なんでもかんでもをもって金策に走ることになる!。

でもだ、自分としては、そこには計略ってものが働いてるんだろなって思うんだ。すべては然るべくして、その魔の手を伸ばすってことになっている。新たなる獲物を求めて探して、そして寄生する為に。増殖するその手段として、その被害者たる彼が、外に向けての救助サインを、まったく別なるものへと”それ”が変えてしまっているのさ…。

その受胎において、その後に、なにがどうなってゆくのかは、その当人にしか正確なところは分かりはしない。いや…何がとうなってゆくのか、どうなってしまったのか、その実際たるものは、その当人にさえも、分ってはおるまいて…。



ここも、もう端折ろう…。あれらの観客の心を掴んで離さない創作物ってやつは、”撒き餌”なんなんだ。それらは、どうしたものなのか、確かにチャームたるものを持っている。秘めて宿してある。その核心たるものは、ハッキリ言って「魔力」としてのものでしかないのだがね。そこに表現されてあるものこそが、紛うことなく。その彼によっての活動、戦略闘争としての営為ってことになってるのさ…。



ことは快楽原理と恐怖渇愛羨望偏執執着、そして、更に、それらに加えて、あらん限りの負の感情を煽って利用してが、それた企むところの戦略になっている。まずなによりもエロが最も有効なる手段なんだろうね。何せ、際どい一線たるものを越えるにおいちゃ〜、越えさせるにおいては、唯一社会的に認められてある、否、有効有意義なるものとして考えられちゃってる、認められてしも〜てるもんになるんだから…。(婚姻関係)。でも、これも、あくまで然るべくしてのプロセスを踏んだ上でにて限定されている。社会通念的にはだ。これは種としての連続性、その必要性があるからなのだろうが…。だがだ、ヒトは、いつのころからか、自分のタイプとは違う異性、その相手との”交接”を果す、これを、むしろこっちの方を、好むようなってしまっているんだ。メディアにおけるそのセックス・シンボルたるもののイメージの放散によって、そう躾けられてしまってる。この不可思議な事態たるものが、散々にあちらこちらで、起こってしまっている。そうなるよう仕向けられてるってことでもあるんだが、もう、どうしたものなのか、そうなっちゃってしまってる。それを果たし倒してしまってる…。これは、あれだ…暇だからなのかもしれんな…。他にやること、楽しいことがないからなんだって…。

更にはだ…、これが最も困ったことにはなるのだが、理性における、正しいとされるその判断、また良心たる本質、それが求め志向する選択と行動指針、それらとまさに真逆のことをすることが、個人としてのその志向となってしまっているといった現実がある…。マインドの誤作動、狂気、罪たるもの、それへの敢えてをもってしての志向…。これもまた、かの存在、彼の操るところのその影響力によってなされているところの事態たるものに…



                    〈暗転〉


         もう一度今ここで、改めてあの蛸と骸骨の絵を観てもらおう…
                    「カシャ」



こいつはボクが観る分には、いっちゃん優れたるの、シャープな出来栄えの作品になるんだが、この作品の描き手たる人間は、も〜完全にそれに魅せられてしまってて、既に取り込まれているってのは〜確かなことなんだが…、ここに、描かれた髑髏、それの元たる人間は、確かにもう死んでいる。その彼の「骸」をこの蛸みたいなやつが苗床にしているわけだ…。でも、ここに表されたることの、その現実は、それでもこの”彼”ってのはこの世間にて普通の一般人として、生活をしているんだってことになんだ…。その本質、彼の魂は、喰われてしまって、もう死んでしまっている…。もしくは、限りになく

状態にはいるんだが…。

もし、そうなって、そうなったなら、何がその彼には残されているのか?。獣としての反射反応が、なにやら不確かなる、曖昧模糊としてあるのが実状実際なる、ヒトの観念において価値とされてあるとこのものを志向する、その習慣において培われて定着してある反射反応があるのみなのだ。虚栄虚妄としてのものを、現実実際だと思いこむことにおいて、日々毎日をただひたすらに励むまでのこととなってしまう…。現実には

ものを、ありえ

ことを確かだと確かなものだと思い込む、思い込ま

しまっているのさ…。

、それがもう手綱を握ってしまってて、それが求めること、求める方向へと動かされているだけになる…。当人においては「自分は自分の人生におけるその手綱をしっかり握っている」と思っているだろうけどね…。それはもう本当、実に巧みにして上手。正に芸術的なるまでのその技の高みをもってしてのことなのだ!…。

                    「ガタン!」

               (ここで聴衆の一人が立ち上がる。)

    「オレは、今、ここで聞いたことを、世界に向かって、

せねばならない!」


                                「いや…」



「自分以外の他の誰が考えたこと見つけたこと発見したことであったって〜構いやしない!」

「このオレがすべてのメディア総出まくりをもって、この事実を発狂…いや

してやる!」


 「ああ〜そのときの俺の様子が、そのときの情景が、光景が、今も〜目まぐるしくして、
    我が脳裏にては、浮かんできてはまた、消えてゆくばかりではないかー!…」




   『ガード!』 『ガーード!!』 『ガーーード!!!』 (ノヴァが叫んでる)
    
                    〈暗転〉

  「くぅおうら〜〜なにをする〜やめんかーー!とにかく、も〜止めてくぅぅぅ〜れー」



  「この儂は一橋慶応モード学院付属議員連盟所属の次期首相

なるぞエー!」


           *この彼は、この後すぐに強制退去させられました…。


                    〈暗転〉










                    〈暗転〉


先程の彼は雷沼自称教授といって私とは旧知の関係になる。昔から目くそ鼻くそを笑う、批判する、バカにするを正にそれの地をゆく間柄なのだ…。ここ、私が今言っていることは、解るよね?。つまりはだ、全くの同類ってこと。それの仲間だって訳になる…。*(ここ含み)

            今日日は、ほんともう先程の彼みたいなのとか、
         これみたいな輩が大勢世にては誕生しては放たれてしまってる。

                    「カシャ」


                    「カシャ」

                    「カシャ」

                    「カシャ」

                    「カシャ」


                   「カシャ!」



なんか一枚思わぬ

が入ってたみたいだが、それはそれでありがたくもある。影において介入しているその御本尊ってやつも偶には積極的に〜で顔を出しておいてくれないとねっ。そうそう、これで行こう…。あの心臓のやつってのも…、あれはあれで、”リアル”だからねっ…。

”蛇”と”蛸”ってのは、その表象の向こう側にあるその実体の意味たるものとしては、その本体としては、

になるんだ。蛸の意匠がでてきたのはここ最近、近年のことになる。それが備えてある

のやり口、吸い付いての抱きしめ、熱烈な吸引をもってしてのその粘着的な抱擁が、より強烈にして鮮明にして強調されだしてきたことの証しなんだ。かっての、その昔は、禅僧しかそのことの具体的なることは語ってこなかったいなかったんだけどね…。

それともう一点、おそらくは、かのコズミック・ホラー小説なるものの創始者たる彼の創作がやたらめったらと脚光を浴びることになったことにもその原因はあるにはある。PCゲームにおける海の向こうにおけるその人気のせいだろね。あれらはまだ揺籃状態にあるものでしかない。やがてにおいては、おそらくはVRゲームへとそのプラットフォームを移したその暁には、その本当の完成体としての威力を効力を発揮して来ることになるであろう。生々しくしておぞましい。怪しくも艶めかしい”魔力”たるものを付与されて、それ秘めながら、再現しながら、それを、ビビッドに、ハイセンスハイブロウにて放散してある形にて…。きっと、たくさんのファン、それら増やすことにおいて、異常なる急拡大をもって、果すことになるであろう…。

                   「カシャ!」



                   「カシャ!」



ここに付与されてある要項は、破格のスケール拡大拡充になる。ある意味、御大自らが直接に

エスカレートした状況に今はもうなってしまっているのかも知れない…。彼は現実おけるその体を収めるにたりるものを手に入れた(※)。ことはまさにアルマゲドンその、それの鳥羽口あるとも言えよう…。取り敢えず新規に持ち込まれたるの、その表象の要素たるものは「ゴリラ」と「」、そして、それはまさしく、「ヒト」…。人類としての、その手の「軍勢」その総体なんだろうと思う…。ことのトータルとしては、強靭さと強大さ、その表しなんではないだろうか?…。そして御大において旧来より喩えられて添えられてきたるのその表象としての数々だ。蝙蝠の翼とか印、五芒星だとか魔術的ガジェットだとか、いたくオカルトチックな要素の細々としたやつが、紛れ込まされている。これにおいても真実なるはあるはある。その舞台は宇宙の丸ごとを舞台としたもの、話しであるが以上…。そう、すべてはそうした「出来」になってるんだ。だから、極論的には、どこへも、誰においたって逃げること、その闘争を避けることなどできっこないんだ。何故ならば、その闘争の世界の中に、我らはその生存を託っている、その人生を持っているわけなのだから…。

これのまんま、これそのものって訳じゃない。これらにおいて喩えられている、その向こう側にあってこれら表象を結んでいるものこそが本当だって話しなんだ…。だからこそ知っておかなくちゃならない。注意を怠りなく、しっかりと「絶えず目を覚まして」いなけりゃならない。向こうの手管は千変万化するものとしてあるが上に、マインドにとっちゃ〜抗いがたい魅力ありきのものでもあるのが現実だ。その誘引誘惑としての作用は決して侮ることはできない。

    あなたが解脱したその存在でない限りは…。

でもね、そんな大層な存在にならなくても、こちらにはこちらで対処のしようもないわけじゃない。彼は”嘘”をもってしかなにもできゃしないんだ。虚構こそが彼によりてのその真価、そして作用、懐柔の力になる。少し勿体つけて語ってしまっているが、ことは、それはまったく、真実においては存在してないってことに尽きる。だから、あらゆる事において、明らかにしてなる、確実なる、決して間違いのないことのみを、しっかりと、自分で、自分のその心に偽りなくして、それに根ざして、生きるってことに尽きる…。それは”今”に関わることにおいてでしかそうはできなかろう。それとしかならないはずなのだ。なぜならば、それはまさに”今”確定されたるの、”今”まさに確定されつつあるものに、関わる行為になるのだから…。

追記:
ことのややこしくしてあるは、ヒトの持つその創造における能力にこそある。それは本来は神の持つその特質特性でもあるのだが…。それが適ってあるのはヒトが彼と同じ似姿にあるが故に他ならない…。遠回しにではなく、ハッキリと言うならば、ヒトは一種の神、神の子なんだ…。だからもしヒトが、なにかを認め信じて崇めて、それの到来を求めるのでああるならば、これは無意識においてのことでもかまわないんだが、それらもまた、ヒトの意識、その心において、リアルなるもの、現実のものとして、その顕現をやがてには果すことになる…。奇跡的なるはもう物理次元においてもなのだ…。要は、どれだけそれに関心を向けている、あるのか、ロマンを感じているのか、信じているのか、執着を執心を果たしてしまっているのかに関わってくる。ことは

おいてであっても、同じ反映を、世界は返してくれるようなってるんだ…。「求めよさらば与えられん」が、実地に為されて賜われて起こってきてしまう。そういうもんなんだ…。了

だから未来に関しては「思い患うことなかれ」って忠告だけでいいんだ。すべては天にお任せしてればいいってはなしなんだ。だから、今やるべきこと、やらなきゃならないって思うことだけでいいんだ。ただし、間違いなく、ことは貴方によっての直接的にして、また積極的なる介入を求めているはずなんだ。某らかの目的をもって、それは自分のことためだけじゃ〜なくって、自分以外の誰かを含んだものの為でなくてはならない。その人々の幸福を願っての目的でなくてはならない。とにかくにも、「観てるだけ念じているってだけ」ってのだけじゃ〜絶対だめ。



*ここで一旦中断します。


まだつまらない話しは長々と続けられてあったのだけど、

その内容は後日に先送ります。

既に長すぎ…。




体の良いところで、強引に、きれいにまとめてみました。


いつか後日できるだけ早い内にここ入れます。



たとえばね、あの搭乗者がその後どうなったのか?とか…。
↑その後、かれの個室にては謎のとても小さな石像がどうしたものなのか、
 かってにあらわれてきてしまようなるんだ。こんなのが…

  片付けても片付けても次の朝にはこんなのがいっつもベッド周りの床に落ちてる。
  一応分析してはみたんだが、物質自体はありふれたラブラドライトなんだが、その年代
  測定の結果が余りにナンセンスなものだった。この宇宙の開闢を遥かに遡ったところの
  生成物だてなことになってしまってたんだ。つまりは過去宇宙のもの、もしくは…
  異世界からのものになる。





ケンタウロスとパン
これも本稿の中に組み込みたかったんだが…。

としてのケンタウロス、そして、

の語源ともなっている牧神パン。実際にその表象たるものを並べて比べてみよう。




両者は共にヒトにおいてのある事実を述べているに過ぎない。獣の肉体の中に〜、人の子らの魂はー、住まわされているってことの…。でも、そこにバランスの違いってのが生まれて発生してくるわけさ。ケンタウロス型が理想。では、その彼たるものにおいては、どんな特徴があるのか?。端的には”弓”もしくは”槍”だ。(目標であり一点集中でありことの貫徹であり…他にもある)そして、彼は、どうしたものなのか、医術たるものに丈たるのそのマスターでもある…。これらのことに、何を読み解くべきかは各自にお任せしよう。片や「パン」だ…。
獣サイドに落ち込む、それへの傾きがきつくなってて、そっちからの作用影響が激しく強くなってしまってる〜の状態。そこには【混乱】としいて評されるべきなにかがある。あったあるからからこそなのだ!。そして〜、

にて、たとえられる事態の現れが強くなってしまっていること…。誰にとって、何においての混乱なのか…。理性良心魂にとってのさ。

ケンタウロスが天に上げられて、主要星座の星座の一つになっていることにも、
なにか意味が、理由が、あるのかもしれないね…。

追記:
「的を得たる」の表現がそれが表すその内容関しては的確にして最適。
 何故それができる?。何故に彼方に置いたその的の真中、中心を、彼は射抜けるのか?。
 その能力(本質直感)のことを、このケンタウロス(半獣半人の調和)は体現している…。
 究極は、あの「口より生えいでたるの両刃の剣」を、そのことは結果としえ表している。
 ならばだ、天の意向/ご意思の、代行者/代弁者…。

 「弓と禅」って本を外人さんが体験をもって書いくれている。オイゲン・ヘリゲル著


セイレーン人魚がなんであるのか?とか…

決してそれはヒトの天界に所属する”魂”からすれば、良きものなんかではないんだ…。
ハッキリ言ってあちらサイド側、つまりは精霊界におけるその存在なのだから。
「そのことの結果としては…」にはなるのだがダメ押しとしてのその登場になるんだ…。

「ええい!」もうきれい事としての発言ではなくして、

、言ってやるー!。
それは、あちらサイドに堕ちたたるの、あれに依って立つを選択したるの元人間の女!。
そのことの結果として、ある種の特殊にして特別なるチャームを得たるのだ。
それは新たにこちら側に引き込まんとして”彼”が与えた能力になる。
対「若い男」ともなれば、中々の効力たるものを発揮する。
まずその彼は、この手の女の誘惑に、抗することはできまい…。

簡単にザックバランに言えば「淫売娼婦汚れたるの魔性の女」…。どうしたものなのか、稀によく判らないで、

側(ダークサイド)に紛れ込んできた(ウブ)で純真で清廉な男の子に、思いを寄せてしまうようなこともある。あの人魚姫のように…。ことは簡単で、もう一度かっての、その真昼の太陽の下での生きるに値する、そちら世界の住人に戻りたいって思いにあるだけのこと…。本音としてはそう願っている…。ああ〜面倒くさ!。こういった

をするともなれば、ある方に、あの方のことに、触れずにはおられなくなる…。

Re: マグダラのマリア…。
彼女はその身の内に「七つのデーモン」を住まわしていた。このことには「何を観る?」「何をどう理解する?」。もうかな〜りに痛く、酷く、罪深いことをこの女はしているな…。「そう正解!」。では次には具体的に、「その罪たるものはなんだったのか?」。このことの中身は想像するのは中々に難しい…でもことの核心は「涜神」たる行いあったことに間違いはない!。他にはありえないだろうと自分なんかは思うんだ…。それにおいて倒錯的な快楽の中にしこたま思いっきり落ちたいた。その動機は〈怒り〉と〈絶望〉そして自らにおける〈無力感〉。そこにはそこなりの、そうしたならそうなったなりの、「変成」が彼女自身の霊的なるを含むいろんな構成においては起こる。起こってしまう。そうしたことの結果としての「セイレーン/人魚的な存在」が、なんと!イエスとの邂逅を果たしていたのだ!。なんともま〜それに対しての救済の手配、そのお膳立てまでもかい!ってな感じで聖書の構成はなっているんだ…。確かにイエスが罪人の為にこられた以上、この手の救いがたい人間に対しての救済劇も、実際になければならなかった…記録されていなければなるまい…。聖書の記述においては「イエスによって七つの悪霊を追い出された」とはなっているが、その実際は事実は現実は、そうではなかったはずーー!。イエスは〜単なる「触媒」たるものでしかなかったはずなのだ(強断定)。あくまでもマグダラのマリア自身が、それ、つまりは贖罪を行ってた。イエスは彼女がその本来の魂における力を取り戻す為のあくまでも契機。実地においては、彼女の魂理性良心こそが真に力を振るうべくしてなされたことの結果だったのだ。ことは、やはり、

行われ、また為されていた、その様に理解されるべきだと思う。基本、そうとでしか贖罪たるものは、ありえないんだから…。(病気とか気狂いはまた別)。

正確にやっておこう...。
七つの悪霊と淫ずるとしての行為が、あのマリアにおいてではあった。それも選択的に意識的にてで‥。そしてことの渦中において業が刻まれる。それらが居座る、それらにとっての住処としての存在ともなった。イエスによって彼女の体内に居座るすまいしてある悪霊七体は追い出される。これは確かだ。だがだ、刻印は残る、残ってしまってある。彼女の中にて過去に培った業が染み付いてあるのだ。これが再度のリンクを容易くしてしまう。あれらからの電波を影響を簡単に受信してしまうことになってる。だから、改心しての後に、自身の内に刻まれて染み付いてあるカルマを、彼らによっての刻印を、一掃しなければならないのだ。いろんな、いろいろ、ややこしくしての化合、結合物、行為の結果において結晶化された残留物、癖、習慣のそのすべての反応系(つまりはレールだ)を、確執の炎をもって、祈りでの神性との接続の結果、流れ込む、流入してくる光、至高の霊性によって、焼き尽くす、焼き滅ぼさなければならない。ここはもう完全に彼女個人自身の選択手努力においてでしかない。この工程は絶対に省けない。イエスの神能力をもってしてでも、スキップさせることはできない!。

側に、彼イエスが居てくれたからこそー、この自分を救わんとして真実愛してくださっていたからこそーー、彼女自身もまた、その必死の奮闘たるものを闘争たるを行うことができたるのだ…。彼に報いたいとの思いにおいて。彼女たる存在は元々、潜在的にはかなり霊的には優れたるの人間だったのだと思う。そのはずだ。であるからこそ、そうであったればこそ〜あの”彼”も、このマリアに対しての攻勢をこれまでにずっと長くしかけきていた、きていたのであろう…。そして、かなりもう抜き差しのままならぬ状況にまで彼女は堕ちて沈んでしまっていたのだ!。イエスとのシンクロつまりはイエスの存在そのものが音叉の役割を果たし、彼女はその波長に無事高いレベルで共振することができた。そのことの結果として無事改めて、こちら側の真っ当な世界に、彼女は無事舞い戻ることができたのだ。万死に一生を得るの形にて…。

*この辺の話しを徹底的に掘り下げてなんの隠し事もないままに、むしろ生々しくも血肉の
 通った形で、その話しを誰か書いてはみませんか?。別段名前をそのままに使う必要もない
 わけだし…。エログロ満載でかつそのマリアの心情としてのその理由思いを著さなければ
 ならない

ってのが、やっぱ難しいかもね…。


           かってのそのマグダラのマリアのイメージ・ボード。
         オリジナルである「薔薇と拳銃」においては魔女キルケー。
                 「 サ〜〜ン・Q!」



               追加でもこれはキルケーじゃない。



      他には、あれの変奏で、節足動物、甲殻類がどうして描かれるのか?とか、

少しそれに関しての草稿をおいておきます…。ここに変奏としての蜘蛛がでてきたね。でもここにおいて記そうとしたのはそは引っ掻くってことなんだ。ヒトの脳をね...その

...。そににある悪意ある干渉における痛覚を感覚を例えるにおいてはむしろムカデや昆虫の手や足の方が妥当だと思えるんだがね…。このボクにおいては…。


(※)要は人々を束ねることのできるプラットフォームのこと。その核心として、ことを果すにおいて、置き換えがたきインフラとなってしまっているのが”ネット”。それはすべてのシステム的なるものを、それ上にての制御管理記録へと移行することができる。金融がいい例。これって、元々の、それ本来の目的とは違った目的にて利用されるようになってしまってる…なってきたるのだ…。すっごい逆説をもってしての、悪意あるいちびりを、ここにも見ることができる。元々が、情報たるものにおいての階級制、差別に対して、それをもう完全に無効化するにおいては余りにも破壊力がありすぎたってのもあるんだが…。要は、ここにおいても、救世主は世にて殺害されて、その彼の権能権威だけを取り上げて乗っ取って、そして、それを悪用しているってことに他ならない。ある傾向生、収奪強奪回収、金儲けの合理化の目的にて、それもまた形作られるようなってきてしまってる…。皆の自由にして公平なる関係性を目指す為のものであったはずなのに…。それを目的としての最大限の利用もあり得たはずなのに…。

既得権益を代表としての人々と、目の前にイメージとして開けて見える理想を現実化したいと願う人々との争いが対立が今ここに潜在的にはある。ならばだ、そこにおいて、取られる選ばれるべき行動は、”創造性”に賭けるにしかない!。武力をもってしてなどは、最悪最低、愚の骨頂としての選択になる。要は、「論より証拠」なのだ。なにか、現実に今、誰かの目の前に横たわっているなにかの問題を、解決してあげればいいだけのこと。誰かの問題、そがゆえの苦しみを、解消してあげればいいだけのはなし。生成力が滅ぼしの力を凌駕すればいいだけー!。

老婆心としてのアドバイス。これって今尚もってしても必読書だからね。「第三の波」アルビン・トフラー。オフいけば百円で転がってるはず。この著者たる彼も、ユダヤ人。

追記:
ことは…その出現が適った時点で、”外形”としての、形様子仕組み出来栄えは、誰においたって簡単に把握可能になってしまうものなんだ。…そして、それが世間において評価たるものを勝ち得ているならば、つまりは価値たるがある、つまりは評判を得る、金を稼げるものとなった時点で、もう怒涛の如くして模倣者、追従者、エピゴーネンたるものが生まれてきてしまうようなる。…その彼らに欠けているのは、何故それらそれらが力を/魅力を/価値と感じさせうるに足りるそのパワーを備えているか?になる…。要は、何が、その析出において、その創造において、背後にて働いていたのか?作用していたのか?に関しての理解が、もう完璧に欠落してしまっているのだ。これが既得権益の人々、つまりは二世三世のことになる。

かって、価値アリと認められたものを、ただひたすらに追従しているまで。自分の自分たちの保身の為にね…。


現在あらゆる芸術芸能の分野にて、ことを同じくして、模倣の徹底たる事態が確認されている。そこに、たとえ洗練たるものがあったとしても、なんの魅力も力も感じることはできない。クラッシクがいい例。録音も良くなり技能も更に完璧になっているのに、なぜか、その演奏はなにも心に響いてはこない!。

ただ単に外側だけが洗練強化されるばかりとなってしまっている。これはハードのみが進歩進化洗練を果たしていることになる…。析出化現象そのものを適えるところのソフトがもう途絶えてしまっているところに、それがなんだったのか忘れたところに、すべてが偏りをもって熱心にも構築されつつある。

もう一つ例をあげておく:
建材がいい例だ。それは木材のように見えてそんなもんなんかじゃない。石材のように見えたとしてもそれは石油原料から仕立てたものなのだ。何故に?。コストを下げる為に、加工がしやすい製造における合理化がきくから。極論的に金儲けの為にだ。

更にもう一つ:
食品関連においては、もう長期の冷凍保存が当たり前になりつつある。活性元素というものの考えからすれば、それはもうその活性元素を失ったものにしかならない。取り立て/出来たてが何故に美味しいのかを理解して、健康においては、これこそが根本にして必須なることを忘れてはならない…。

    

                    〈暗転〉



これって悪ふざけで扉絵に使ったやつなんだけど、それやったからこそ、「タコラバコ」って表題が生まれたんだ。よくできてるな〜って思うよ…。全体としての、その

、事が起こり整いそして定まるまでの、その

ってやつがね…。聖霊によるその介入?。www



                   〈超暗転〉






”わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、
 それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた”。黙示録13:1

これは、その「海から上ってくる獣」の変奏でしかない。

では、この”海”ってのはなんなんだ?。人の行ってある観念、それによるそれに基づく想念、それらすべての総体としての世界のことさ。その現実から遊離した人達ってのを一つに束ねてあるのが共産主義たる思想。既存の、今ある、その現存のすべてが嫌な人達が飛びつく、その脱出口たるものが世界革命を支えてあるところのこの思想。これが単なる悪魔のいちびりにおいて紡がれた思想であることはどっかで既に言った。すでにどうしたものなのか、まるで伝染病であるかの如くしてこれは世界各国のリーダー達のその心のなかに浸透してきてしまっている。その核心にあって立っているのが現法王猊下殿であることに間違いはないと、自分なんかは確信してる…。


たしかに、*(生き返ってきた!)あれのようなものは、もう既に現れ、登場してしまっているのだとも言える。問題は、現行の既得権益の人々は、なにも本質は分ってなくて、保身のままにあること。そして、現行のすべてを否定してある、したがる人々も、また(ウブ)なるがままで、なにも、なんにも、分っていない…。でだ、ことの結果として、本質から隔たった形で、閉塞した状況にて、その社会環境に閉じ込められているまでのことなのさ。云わば、蒸しガエルの状態にあるってことになる…。

        狂ったその調子調律を特徴とする人間機械の群れ…。

ことは、本質本源から、それに根ざした形で、生きるにしかない。これは実は簡単なことなんだ。本心おいて思い願ったことをただ実行すればいいだけのはなし。また、新たにナニカ事業を創造するだけだ。ただし、その願いは、その動機は、天に恥じない、それと同調したものである必要がある…。



                  次回本編予告!



            おそらく背景は違うものに代えられます。
     さすがに蛸の頭では、その絵に締まりがでないって判断だったのだろうね。
   自分としてはなんとか頑張って本来の蛸の出で立ちにせねばと思っておりますが…。


  次回本編登場予定のこれがもしかしたこれがコミイッテルンの首領なのかもしれない?!

                 いや、こっちか?!
          *だいぶ前に作って放ったらかしにしてたやつー!。
          *だからもうどっちがどっちだったか忘れたーー!。
          *たぶんこれどちらもそれとはならないと思いますよー!。

               突如鳴り響くコール音…。

                    その発信元。


            徹頭徹尾乞ふてあるは在らずのご期待!!!




                以下は〈おまけ〉!!!




          作っちゃたから〜。あっちとのリンクも貼れるから…。



               これってサーヴィスになる?



Re: 循環のモデル。二種。








この二つはモデルとして統合すると分かりやすくなる。



なぜならば、それは十字架の如きその姿を形成することになるのだから…。
人間はこの二律において

にも等しい存在なのだ。
この「律」たるものから、逃れうるものは、一人もいない…。


         通称ケルト十字
向かうべくしてのその正解は上方になる。天だ。何故に下方としての基部の方が長いのかに
おいても、何かを察すること

できるのかも知れない…。

*これはあくまでも創作における妄想だからね!。その架空においての解釈だからね!。
*ご自身にて果たしてこのモデルが使えるのかどうかはご判断下さい。
*自分としてはあくまでも理解に向けての手がかり足がかりその一歩でしかないな〜って
 思ってますがね…。座標図としての自分が考察するその対象の位置確認の為のもの…。



                  逃げまいた…。










今回の内容に関して、は4FのNo.25「磔にされて」にもまた違った詳述があります。
もし未読の方がいらっしゃりましたらば是非にお読みいただけたらと思います。
あと、もしお時間に余裕がおありでしたれば、B1にあるNo.6「螺旋力」も…。







        「本講義の締めとして、もう一題やらせてもらうよ…」。



Re: 遠離一切顛倒夢想…


これはあの般若心経からの一節になる。

正しきアドヴァイスではあるのだけれど中々に難しいことでもある。

人の子たる我ら人類は、どうしたものなのか正/誤、正/邪の逆を行うといった習慣が身に付いてしまっているのだから…。それも不自然な形で長期にてそう躾けられるをもって、たいそう根深き習慣となりはててしまっている。我らに、その昔、注入されたるの、あの蛇の精によってね。あれがその作用を我らの中で振るうことをもって…。それは然るべきときに、基底のその奥に封印されるをもって、その自由なる宿主への介入や作用は出来なくされてしまっている。だが、習慣たるものは残ってしまった。それも強固なる形にて…。

ここで二つ、誠の理性からすればもう理解しようのまったくない奇異にして異常なる行動が
その人類たるものにおいては行われてしまっている、その事例となるものをご紹介しておき
たい。
                一つはこれ…「カシャ」



珠代だ。別に彼女である必要は特別ないのだけれど、最近どうしたものか私の目に止まってしまったのでね…。あくまでも

にて出演してもらってるまで。北斎のほうがホントは絵になるんだが…本件においては、彼女こそが最適にして格好の例題になってくれている…いたんだ。何たる采配、何たる天佑、何たる主のご用命!。

”痴”なるへ自ら飛び込んでゆく。敢えてをもってそれに染まりきる染まり果てる…。観てくれるものが喜んでくれるから〜、笑ってくれるから〜、つまりは

からだ…。彼女の場合は、もうかなり際どい一線にまで肉薄してしまっている。もういろいろなことが分かんなくなってきてしまってて、もう既にいろんな考慮や配慮が、それをすること自体が面倒くさくなってきてきてしまってて、もう色んな事がどうでも良くなってきてしまっている…。それなりの理由において、今現在は、ある種の自暴自棄にまで陥ってきてしまってる…。良き人との出会いが、その身を置ける託せる所属させ得る、安全なる家庭たるものが築けていれば、あればよかったんだが…。

  先に言った、その一線たるものが自覚され保たれている間はまだいい。まだ正常だ。
  安全であると言える。ことはあくまで演技、パフォーマンスでしかないのだから…。

危険性は、その一線を越えるが当人において”快感”をもってなされる場合のことになる。これは一回それをすれば、経験すれば、その行為が

、ことは習慣化する。常態化していってしまう。それが根付いてしまい、しまって、以降においては、エスカレートするばかりとなってゆく…。
このことにおいては理性たるものの育成に失敗すること、その努力を放棄することに他ならない。ほん短かくにしてでしかないこの有限なる人生、その可能性たるものが与えられてあるその貴重なる生存期間においてだ!。いかなる経済的な理由があったとしても、自壊をもってしての、それを売り物にしてなる職業などについてはならない。


付録: ベルゼより抜粋、第三十八章「ドイツ人について...少しばかり」より。

こっちも、ほん少しだけ…

     「馬鹿よ、白痴よ、お前は私の慰めだ!」
     「阿呆よ、愚鈍よ、お前は私の喜びだ!」

オリジナル原書においては、ここはドイツ語表記です。

      Blodsinn、Blodsinn、Du mein Vergnugen、
      Stumpfsinn、Stumpfsinn、Du meine Lust。

Blödsinn=ギャグセンス、ナンセンス、いちびり、おふざけ
stumpfsinn = dull sense=鈍い鈍感馬鹿げた感性発想発語

ええと…れは通常の文章ではなくって、おそらくは酒を飲むときなんかの掛け声としての歌。
大体のみなは、このときばかりは、つまりは飲み会、あまり建設的なことを何もしないし考えないし、それでOKってことを、お約束をするにおいて、その代わりにこれを歌ってる叫んでるって…。ですから、彼らは、彼らが通常の日常において行うことと比較してになるんですが、彼らが脳細胞を殺す以外の何ものでもない方法をあえてをもってするんだって、この時ばかりには、高らかに、そう宣言しているだけなのです。 以上ドイツ人さんによる説明でした…。








二つ目、これはもう言葉のみをもってで伝えておこう…。

世にて流布流通する言葉に「タナトス」なるものがある。確と分からんことには、ただ沈黙をもってするのが賢明だとは思うんだがね…。権威たるものらにて語られたるの、その意味内容は、もうほんとめちゃくちゃなものになる。死への衝動など生命にあるわけが、あるはずがないからだ!。

追記:ことはあのフロイドにて生み出された概念なのだ。このことにも、自分としてはかの民族が異常にしてなる観念論者であるってことが確認できるっと。ありもしないことを自ら概念として生み出してそれに汲々として止むことがない。ことは「ひっくり返してみましたらば〜」いたく魅力的なるものとしてこの自分には映るようになってたからだ。背後にて、このときたるを逃さんとばかりに、何かの霊力が作用してたってことは間違いなからろう。かの民族は、神とのダイレクトなる関係が欠落してしまっている。もちろんそのすべてではないだろうが、イエスを救世主として拒否しているその限りにおいてはどうしてもそうなってしまう。本源から隔たったところで、いくらその優秀なる頭を使ったとて、結果、他の人々を迷妄なる迷宮魔宮へと誘い込むようなことにしかなりはしないのだ。その最たるものが、あの共産主義思想だ。権威として尊きもの崇高なるものの一切を破壊するがそれにおいての理念となってしまっている。背後にて、これに力を与えている、このムーブメントを応援してあるものが、いったいなんであるのか?!、これはもう言う必要はあるまい…。了

生ありてこその、命あってこそのその物種、生存のありがたみってもんなんだから…。ことにおけるその実際は、逃避としてのものでしかない。

を、自ら申告する事態でしかないのだ!。もしくは…”痴”としてのその領域への敢えて自らをもってしての”転落”もしくは”移行”…?。ことはもう人間を辞める辞めてしまったの事態にしか他ならない。

一つ想像力たるものを働かせてもらおうか…

圧倒的な力の差が推し量れてある、その敵のあぎとたるものの前に、その口の中に、今あなたは立たされている、いる、あるとしよう。虎がいいか…。あなたは今その前足でのしかかられてしまってあり、次のその瞬間にはその牙が、あなたの喉首に炸裂せんばかり!。その虎は途方もなく大きくって、抗うこと事態が、もう最初からナンセンス。

ならば、その瞬間、あなたは何を思いどうするのだろうか?。

たぶん諦めてしまんうだと思うんだ…。

余りにも強大な敵に襲われそうになったとき、
ヒトはもう即座に”万歳”する方へと、すべてを擲つ方へと舵を取る、
もう自分からその生命を投げ捨てるような真似をする、すべてを強制終了させるべく。
まるで堰を切ったかのようにして、そういった行動へと向かっていってしまうようになる…。

恐怖と絶望いう感情や思いに圧倒されてしまって、もう「パニクる」しかなくなる…。
そして…愚かにも、浅はかなるの、短慮の極みにて、
自ら、その人生の幕を、強引なるマナーにて、下ろしてしまう…。

ことは単なる情動における力学的作用反応における、その結果にしかすぎない…。

そこには、なんら個人として魅力となるもの、なりえるもの、
つまりはヒトが好みうる要素など、

存在しては

のだ。

個人としてのその「キャパ」を超えたるの、その”脅威”、
もしくは”危機”って事実事態だ〜けー!。

この「キャパを超えたるの」の意味にもよく注目してもらいたい。

そこに、真に理性的なる判断ってものがなされないのであるならば、それは単なる勘違い誤解
見当違いにおいて、動揺し、惑乱して、取り乱してしまっている〜〜だけの事態にしか他ならないのだから。つまりは、その脅威たるものが、真に、客観的なるの意味において、正しく認識されているのか?ってことになるんだがね…。

幽霊の正体見たり枯尾花

「尾花」はススキの穂のことで、幽霊だと思って恐れていたものが、よく見たら枯れたススキの穂だったという意味から。疑心暗鬼で物事を見ると、悪いほうに想像が膨らんで、ありもしないことに恐れるようになるということ。

*ここでの幽霊は、あの蛇や蛸や、ゴリラや象やら蝙蝠やらの、それらのごった煮でしかない
 

のことでもあるからね〜。


またものの優劣の比較は一元的、例えば軍事力ってもんだけで推し量れるものではない…。

「Heaven(God) helps those who help themselves.」

この英語の諺は本稿を締めるにおいてはもってこいのものになる。

真っ当に生きるってことを勇気をもって励んでいるものは、決して自死自壊へと逃げ込んだりはしない。また、最上位としてのあの彼と、タッグを組むのであるならば、もう決して後悔するような人生を歩むことなどありえない…。絶対に、も〜完璧なまでにありえないのだ!。


追記:整理として…

ヒトを構成するその全体においては、死の選択は絶対にあり得ない。そのプログラムとしての「生きよ!」は、枢要にして根源的なる、もう圧倒的に強力なる命令としてあるからだ。
また、魂としても、その自己たるを結ぶ結んでくれているフィールドたものを、
尊び愛して、

ものなのだから。

だが、人格/マインドとしての人工物の範疇に、その存在の拠点を完全に移した場合には、この根本としてのプログラムも、その尊い価値観も、効力たるを制御たるを果たせなくなる。*バックアップとしてのサブAIに、全権を与える委ねる明け渡すみたいなもんかね?…。

本来はありえないことが、現在の人間においては起きてしまっている。若年層の自殺。そんだけ、本能領域から距離をおくことが、良心からの声に耳をふさぐことが、幼くして、できてしまう、できるようなってしまっているのだ…。

                何故だ?。

その行為は、本当に不幸なる状況にその当人があるときのみ、つまりは癌なんかで体そのものの機能が狂ったり破壊されてしまっている場合、そのために、そ人が、も〜大変に苦しんでいるといった場合にのみ、それも回復不能であると見なされてしまっているときだけに〜、許されるものなのだから…。

遊離、乖離、逸脱、越境、いつの間にかホームグラウンド(リアル)から彷徨い出てしまってて、見知らぬ世界、おとぎの世界、ワンダーランドみたいなところに至りきってしまうこと。そこにて生きることにしか生の実感たるを覚えない味わえないこと。お金という強迫観念に憑かれてしまうこと。それへの盲信、暇にあることに耐えられない耐えきれないこと。”今”に落ち着けないこと。ただ在るがままにて、安らぐこと、くつろぐことのできないそのありさま…、その他諸々!。結果としての展開なのだが!、…”エデン”たるものからは、追い出されてしまう、

のだ…。



最後に、この祈りの言葉を、添えさせてもらう…。



  キリストの御魂(みたま)よ、我を聖なるものへと、導き鍛えて整えて、変成(へんせい)し給え。


  キリストよ、苦難苦境窮地たる試練に、我、(おちい)りたれば、それに至りたれば、
  やがてのその相応しきときにおいて、それへの到達をもって、我を、救い上げ給え。



  キリストの御血、我それに酔うをもって、汝と同体とならんことを。



  御脇腹(おんわきばら)より(あふ)れいでしたるの、いでしその”水”よ!、
    御身の目から見て、我より、不用なるの一切を、流し去りて、取り上げ給えよ!。



  キリストの御受難、わが心を引き締め、強めて、真の勇気たるものを、
    我に教えて、悟らせて、得さしめ給えよ!。

(☆ここ一番重要です。)

  おお!至上にして最上なるイエズスよ、


    我が、ここに願うことを、聞き入れて、そして、叶え給えよ。

  御身の傷の中に、我を収めして、この世、世間、社会より、我を隠し給え。



  御身より離るること、これを、絶対に、我に、許し給わざれ。



  悪しき悪魔らどもによるその姦計、その魔の手より、我を、護り、給え。



  我、死したるの、その暁には、何卒、我にお声かけのほどを…。



  御身の元に来たらんよう、我に、お命じくださいますことを。



  御身の側にて控えある聖人らと伴に、我も、彼らと共に、

  御身を賛美して仕えしてあるを、得さしめ、給え。



  世々末代に至るまで。


  ことは終わりなくして、永劫不変永久に渡りてで、そうであらんことを…。


    アーメン



        強意訳版アニマクリスティ

           これがあの祈りの真実の内容だと思う…

              この意味もて、スパニッシュで、自分は祈ってる…。

                   それも一連の祈りの、その最後に!



PS.:

Re: なぜ最後にこの祈りに関してを加えたのか?。

ことは、それに対しては、二種類の対処しかないからだ。

一つには、それを確執葛藤の火もて焼き滅ぼすにある。
   一番有効にして効果があるのだが、そんなに長くにては行い得ない…。

そして、もう一つが””祈り””なのだ。
   良き祈りとなりたれば、それを構成してあるなにか筋肉の束のようなものの、
   その数本が、一本かが、「ブチ切れる」といった事態が起こる…。

            これほんと。

これは重要な情報になる。
祈りの行為には、こういった効能もあるんだってことは、
ちゃんと報告されるべきのことになるからね。

それは、切れたとしても、やや程ともすれば、復元が適ってしまってる。

だが、ことは、根比べの構えとして捉えるべきなのだ!。
十ッ本が切れて、七本がまたつながったとしても、三本がそこに失われてしまっている。
ややほどまでなれども、それの力は、確実に、弱まってしまったのだ。

祈りたるものは、これを目的として行うものではないが、
某らか、神秘的なる効果を、間違いなく確実に及ぼす発揮するものなのだ。


良き祈りとは、一心にてあるもの、周り自分さえもその考慮配慮が失われてしまってて、
文言の内容が本心として素直に、また真剣な願いとして、発せられてになっているもの…。
 

                   以上

               一年ぶりだったから…
                   の
                 天村崇でした。























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