☆.  タイタン II

文字数 42,314文字

 本体としての核論が未だ抜けてます。長くなるけどこれん中にその内入れます。草々


                 今回はギドラ。

   概要は既に前回やってるので、もう少し個別としてのその要素、その事情を……。






これはゴジラとはまったく違う。これはこいつは〜この世界にやってきたのではなく、この物質世界としての領域に上位界から落とされてきたるの追いやられてきてしまった存在なのだ。ことそのことにおいて、その身は醜く変質し、その形態は分裂することが余儀なくされてしまう!。だから〜怒り狂ってる。この展開をもたらした、もたらしてくれたところの神性本尊、神を!。



人のマインドによってのみ叶えられる仮想としての映像世界内においてのみ、これは描き出しうるものだ。つまりは頭の中のテレビ、シアター画面においてだ。*

ことをなす上においては大いに貢献してくれている。こんなもん現実においては存在などしてはいない。もし、していたとしても、それはあくまで不可視にして不可侵不可触としてのものになる…。



祟り神としての彼は天に対しての戦いを未だ継続して、この地においても行っている。ちょうどいい具合に、どうしたものなのか自分と同じくしてのその身分その境遇であるところの人の子なる存在が、此処には、大勢いるではないかー!。彼らに贖罪など果たさせるものかー!。より深くへ、より低きへと、我が引きずり込んでってやるー!。我が、封じ込められてあるところの、この地の底、地獄としての領域へと!。










これだ!この絵なのだ。これを見たことによって今回のシリーズをやる羽目になったのだ。すべては偶然にしてまた必然になる。これは、このビジョンは、彼方より来たりて、製作者らに向けて、

あった、その啓示としてのものなのだ。



ことはこの一枚の絵にてすべて表されてしまっている。思い至るべきなのは、なぜにこうなってしまったのか?。そして、ことがこの絵のままであるのなら、また逆の天界へと戻る道筋もあるのではないのか?との考えにも至るべきことなのだ。なぜに三位への分離分解分断なのか?。

人間にとっては

、三次元世界だから!三次元をもってでしか世界認識が感受が叶わないから〜!。ならばだ、その三位をもって牢獄、獄舎たるものを築き、そこに人間を閉じ込めるモノ〜となったのでは?。

ことの起源は、完璧なる全体性において、自己としての意識、つまりはエゴにおいて、全権を握りたかった、握りたくなった。ことにおけるその現象は[奢り/高ぶり/慢心]として表現されてある。*下剋上としてのそのストーリーは、人の世においても日常茶飯事としてのできごとではないか?。家庭、一族、クラス、会社、国際情勢等あらゆる組織グループ単位にて確認されてあるそのドラマではないだろうか?。ならばだ、ことはだ、彼岸における出来事ではあったとしても、そのことの理解を、我が身のことかと、そう思って、及ぼすことも、また、可能は可能なのではないだろうか?……。



上図における階層はこれとしてのものととらえることも可能だと思う。では、階層をまたいで下へと至ることにおけるその変化はなんだ?。より具体的な、物質性におけるその特徴の具現化になる。上層のものは観念的なもので、その思いが、実際の行動に移されて、なんらかの結果を実際に具体的なるものとして結んだとしてのものにもなる。または…、この階層としての意味は、スケール単位の変更なのだとの理解も可能であろう。すべては相似形をもってなっている。この一事においてこそ、バラバラ、無関係と思えるその事象の理解、それらの統合が可能になる。どうしたものなのか、直感としてメカニズムの正体は、パターン認識に基づくものであると自分は考える。これも直感において。この思考操作において、要項/精髄としてのなにかの把握が、可能になる、なったしまう。あらゆるすべてのものにおいて、各個としてのその世界、その宇宙においてだ。だからこそ、自分を取り巻く世界を真に知るためには、自身の内部におけるその機能、その組成についても、おいても、同時に、知る、研究する必要がでてくる。

では何故にそうする、そうする必要があるのか?。根本は生きるということが苦しいからだが、明智としてのその特質が、その特異点が、人間にはあるからだ。ことの原因を探る、識る、解る。未知なるものにおいての

、満たしたいとしてのその願望、その衝動!。「Curiosity killed the cat!」。また苦しみそのものを解消するためにこそ。その止むに止まぬ
その足掻きのことを「信仰」と、これまた世の人は呼んでる、呼んできてるまで……。



そしてまた、すべての階層は、相互にて、浸透しあって、また支え合っている。そうであってこその、そうであっていてくれていてこその、各組成、その成り立ち、その機能、その役目役割の履行執行実行になっている。このことの事実の認識が大事だ。それにおいて、そこに単なるプログラムだ、機械性としての有り様でしかないとの見方ではなく、核心は、愛なのだとの認識を、持つことが大事なのだと思う。「右手が左手を洗ってあげている、洗ってくれている……」。

I tell you the truth, whatever you bind on earth will be bound in heaven,
and whatever you loose on earth will be loosed in heaven.

あのイエスが真実だよと語っているのだ。ここ地球上にてつながれたものは、結ばれたことは、ヘブンにおいてもつながれるんだよっと。また、この地にて失われたものは、同じくして天においても失われるんだと。つまりは、すべての階層は、相互依存、反映としての関係性にある。時空連続体!。我が身のこととして理解するならばだ、自身を構成してある各細胞ことであるとしてもいいだろう。体の不調は精神の不調にもつながってくる。問題となるのは癌に代表される反乱混乱異常としての、その事態のことになる。この物質世界圏内にのみ囚われて、つまりは上位界への意識を理解を忘れて、飲み込まれ、染まり果てるをもって、更に下方へと、堕ちてゆくその事態、その展開のこと。個我の強化!。

補記:
我々人類が生存してある最下層としての世界は、それはそれとして様々なプログラムが働いてある。メインとなるのはそのセカイ圏においての成果を、上位層、上位界へと、受け渡すことにある。宇宙全体に奉仕すべくしてのものでしかない。だから、そのプログラムは刈り取り、収穫、収奪としてのものになる。*大事なことは、人間は、そのプログラムによって動かされているその機構全体の、その一要素に過ぎないってこと。ことは人間の為にあるわけではない。だがだ、人の子等の為に働いてある物質管理プログラムってのがあるにはある。これを総称としてプラクリティーって呼んでるんだ。このプログラムの目的は、人の子等の目を天へと向けさせることにある。はっきり言っちゃうと、その人格としてのエゴを捨てて、それに死んで、天上界への帰還を果たせと、暗に伝えてきてるんだ。また覚知としてのその核心、プルシャに目醒めたるものの求めに対しては、それはまるで魔法かのようにして、物事を、関わる情勢を、変えて、整えてくれる。そんな一面もまたある。まるで、それは絶対的に庇護せよとの命令でも受けているかのように……。:補記終わり

原子の構成と太陽系の構成は、まったくのおんなじ。火の鳥の作中において手塚治虫もこのことを描いている。では、何が違っているのか?。その単位としての世界スケールが、その世界が属する階層が違っているのだ。それが違えば、中身としての有り様はガラリと変ってしまう。各個の世界、その場において独自の作用力強制力法則に支配されてしまうまで。*一つ質問してみよう、「中心の周りを周回している電子、また惑星は、その動力、運動エネルギーを、何処から、どうやって得ているのか?」。*ことは人間の目からは無限力としてのものに思える程のものだと思う……。自分としては”場”から、無線(量子もつれ)にて得ている、もしくは場に支配されてあるからなのだとの答えになる。これもまた直感。いや妄想……。*追記:サバンナにおいて動物たちはどうして駆け回っているのだろうか?。生きるため…。だがあの環境下において、その身に備わってある本能、プラグラムにおいてが答えになるのではないだろうか?。だから”場”、自分が囚われてあるその”スペース”(世界/階層)においてってことになるんだ。



ちょっとコラムとして:
ここにある宇宙は天ではないのだ。あったりまえのことなのだがチョット語らせて…。科学的見解ってのが厄介なのだ。これは

基づく。万人においてのコンセンサスとなすべく。だから、天国だとか、神だとか、天使、幽霊、おばけなんてのは研究対象にはなりえない。計測できないから。検査機器において検知探知ができない、適わないから…。この科学的合理精神ってのがやつが開国後、絶対的になったいった。なってしまった……。言いたいことはだ、神を、我らの文明を、遥かに超えた宇宙人なのだとする説の氾濫、その大大大キャンペーンをもってのその吹聴に危機感を覚えているってこと。あの「未知との遭遇」って映画に、自分は大いなる落胆を、アメリカ人の異常性、頽落を、見てとった。あっち、そっちょの方に、信仰心は流れていってるのだとビックリした、してしまった。まったく違う、トンチンカンなるものに、神聖なるものが、置き換わってしまってる〜!。ここまで信仰たるものの、リアリティーは地に落ちているのかと思った訳なのだ。アメリカって国は、清教徒らによって建国されて国で、キリスト教的価値観は根強いと思っていたのだが……。追記:異星人との邂逅ってのがドラマになることは分かる。でも創作においてのその根本の動機は、神の改めての再びの臨在への求めなのだ。あの製作者たるスピルバーグがナニジンであるのかはもうどっかで言った。その当人に自覚がなくとも、その真の求めは、神聖の再びの降臨、その体験になる!ある!。終わり

科学とは違って、もう一つ、内観等における

ってのがある。これは他者とは共有できない。また基本、個人的なる経験に基づくものなので、言語化も実際は難しい。ことの理解もダイレクトではなく、あくまでも帰納法的なる至極曖昧な理解の仕方にしかならない。見えざるものを知るにおいて生活環境の変化に、その原因を帰するでしかないのだから。



科学も大事なので、こう、このように考えることもまたあり得るのかも知れないとして聞いてもらいたいのだが、我々が現在至極積極的に探査の手を伸ばしている宇宙たるものは、最下層としてのその世界でしかないのだと…。無限の広がりとも思えるあの宇宙であってさえ、末端としての一層のその世界でしかないのだと……。

結局は、悪しき思惑、それによってのトレンドにおいて、ミスリードを誘うべくしての方策が、いろんな表現物、メディアを通して、それをもって喧騒されてきてしまっているのだ。古くしてあくまでも頑迷にして迷妄なる伝統であると、その思い込みに如かずなのだとして、イメージの置き換え、変質が、何者かによって確信犯的に行われてきてしまっているのだ。

その目的においてのあれや〜これや〜の喧伝でしかない。例えば〜で言えば、ニビルやらアヌンナキの話しさ。もし宇宙人がいるのなら、それは彼らが直接に現れたときだけでいい。*自分はあの彼、セルビアの賢人と同じくして、無数にいるであろうが、我々とは余りにもその生存のあり方が違いすぎてて、認識不能なんだと思う。
*石が既に一種の生命だって言ったら分かってもらえるだろうか?。特に大きい石はそう。
 ガイアとしての、その端末なんじゃないだろうか?。
*また振動数が違いすぎてて人間の視覚では捉えられないんだ……。








ヨガにおいてのこのことの実際を伝えておくならば、このことは物質性にまつろうそのすべての執着から、その欲望からの離脱においてでしかことは果たせないんだ。ラジャス、タマスとしてのその様態にはもう在れず、預かれぬ、としてのその状況状態がいる。もしそうなれたならば、後はもうサットヴァとしての愛の中にてその存在を構えるにしかなくなる。ことは引き算でしかない。このこと、は思想とか、こころの持ち具合だとかの話しなんかではなくて〜、じっさい体組成においてのエネルギー経路においてドラスティックになんらかの変化が、変更が、シフトが、起こってしまうからなんだ。

問題は二つ。

一つに我欲においてこのことを果たさんとするならば、それはもう逆説、矛盾、正規ラインからの逸脱としてのものでしかなくなるってことなんだ。中途半端なことすれば夢見としての現象が暴走して気狂いとしてのものへと成り果てる。

もう一つは、ブロックってのがあって、そう安安とはそれを突破する、取り除く、跳ね除けられないってことなんだ。これにおいては天の介入がない限りは、

ことを果たすのはまず不可能。無茶して我力のみにての突破は上と同じくして精神異常者にしかならない。

マヤン達に於いては、アレがそのガイドを務めてくれてたんだろさ……。
だから、碌な結果にはならなかったであろうことが、理解、推測、想像できる。




          滅びの呪文(バルス)をもって錫杖は完成する。
        この物質性に色濃く彩られた現実世界を否定することを、
           真実、渾身の力、自らの意思をもって!。

地を這うことを定めされていた蛇が、再び翼を得て、天空を舞うこと、天地を往来することが、できるようなった。それは目醒めとしての、その事態を、指しての意味も、こともある。





二匹の蛇はいろんな解釈ができるのだが此処では男女としての二極としてのものになってる。



何をこの若くしての男女が放棄したのか、破壊した、滅ぼしたのか?は置いといて〜、ところで、あのラピュタを創った人々とは何だった誰だったのだろうか?。理想としてのその完成形はかっては一度は達成されてあったのだ。って云うか〜その可能性は我々にもあった、あるのだ。その極点においては飛行石に表される上位界起源の何かをも手に入れることができた。それは無限力であると伴に次元上昇のその能力さえも、我らに与えてくるその力だったのだ。その意味は、真の救済が適うになる。つまりはだ飛行石は神からの分け御霊。各人に最初から備えられているもの。



    それは終局、ひとを置き去りにしたまま、天空、神ご本体の元へと帰還する。


                ちょっとコラムとして…



これは先の八卦の展開図における初動の部分になる。よく分解してくれてるので取り上げる。
  実はこの部分、この最初期の展開こそが重要なのだ。この自分にとってはだが……。
             上図においてはこう描かれてた部分。

    これにおいては要点ではあるが、欠落してある要素もまたあるのではないか?だ。
 ことは陰として陽として確定してある、それへと収斂が果たされての事態を表している。
自分としてはことは「ポンと」二つに割れましたってことはないだろ〜ってな思いなのだ…。

まず自分としてはここに表されてあることは、神ご自身と、その彼によってなった世界創造の話であろうってことなんだ。ならばだ、当然に三つの力としてのユニットも、考えにおいての前提として持ち込まれてきてしまう。それの当てはめをどうしてもやってしまうんだ……。


  先ず、

単一の存在が現れる現れた。背景は黒でもいいだけどね。


そんで、この宇宙の開闢を、開始した。そんでやっと

空間が登場してくんだ。場としてのものがどうしてもいる。それは上下左右をもってしての空間ってことでもいいんだけどもね〜。ものごとが活動しうる登場し得る、その舞台としてのものがどうしてもいる。さて、無事に舞台たるものが整い、役者としてのものらが登場する、活動することができるようになったんだけど、ものとごにはなんだって過渡期としてのものが、その状態があるはずなのだ。なんでもかんでも紋切り型に、ポンポン、コロコロ変ってる訳じゃない。なにかとしての状態にそれとしての質に落ち着くまでにはある一定度の状態変化としてのプロセス、期間があるはずなのだ……。

陰としての質にて決定、収斂するまでに、陽としてのものにて自身のその身が定まるまでには、変化としてのその過程がどうしてもいる…。そもそもだ、なにをもってそれとしてのものへと定まっていったのか?。

それこそが場により干渉力、それが持つ法則性としてのものではないかと思うんだ。当然に自分がもってるその特徴特質にも原因としての重きはある。陰にて、陽にて、二極にて分かれましたのところには、場としての第三極が関わっていたと、この自分なんかは、思いたいんだ。

ことの確定されるまでは、

、その””こそになる。

この辺のことに脚光を当てたくて、あの「Da’at」に関しては書かれたんだけど、失敗しちゃってる。言葉足らずも甚だしい。いつかどっかでやり直します。

以上にて本コラムはおしまい。」 


本編の再開:




タロットにおいてもあのヘルメスの杖、カドゥケウスが登場している。あれって伝令の杖って事になっているのだが、では誰が何を何処から伝えて持って来るのか?、これるのか?。然るべくしての手続きにおいて、天界、そこにおいての知を得たるものが、地上界においてもそれ伝える、もたらすのだ。宮崎駿があの映画を創作したことがズバリこれにあたる、これになる。タロットにおいては、またその後の展開が指し示されている。これがまた〜、現実的というか〜、悲しい展開をも読んでて、含んどって、それが前提、

としてあるんだ〜…。必ずしもそうなるわけではないんのだが……。一番右端の絵、これはエニアグラムで云うところの、シからドへと渡る、最後インターバルそてとしてのその事態その状況なんだと思う。停滞だ……。ある意味せっかく達成したできたことにおいて、飽き飽きしてしまっている〜…。




これもおんなじことを表してるにしか過ぎない。強調されている大事なポイントは、それは

しまってて、ややこしいってこと。まさにその様相、事態なのだ。淫靡さとしてのその要素が大きい、その色合いが強いんだ。淫するって言葉があんだけど、その中身内容に関してピンとくる?。それにおいての充足、その求めが、それら各個にはあるんだろさ。猫も体なすりつけてくるんだけど知ってる?経験ある?。


コラム1:
自分としてはやはり自分が感知できることにおいてがすべてだ。いろんなことに関する理論には触れてはみたが、それらあれらはあくまでも参考にしかならない。実際、ちょっとちがうんだよな〜…。三度目の繰り返しにはなるが、自分が絶えずいつもとる態度は、全面に落ちて、そこで一切を失って、基底としての肛門辺りから内部を上昇して頭蓋内においてもう一度自己を結び直すになる。この自己は出現時には無念無想、ただ在るだけの感覚において留まる。よくない状況、よくない思念に染まってあるときには絶えずこれをやる。だから、一本しかないんだ、自分として運動できる経路は……。これを白蛇として自分はイメージをもっている。



この絵のモデルが、自分が確認できる実際において最も正確なものになってる。上図ヨガにおいてのイダーだのピンガーだのは自分においてはピンとこない。また自分は思うんだけど、クンダリーニってのは性衝動として顕現する暗にして生中には感知察知できない微妙にして霊妙なる力なんだと思う。つまりはよっぽど感受性が強くなければ、またそれを内部にて向けることができなければ、まず分からない。副次的な性においての願望や欲求を観察することの方が肝心なのではないだろうか?。とにかく自分の現実においてはこの絵だ。









関係する絵柄において考察ポイントをあげとく:
左端においては……、これは白蛇と黒蛇をまず入れ替えて。ちょっとミスった。上昇するさせるべき白蛇はあなた自身を本来は指す。それとは別に、降下を、物質文明としての、それが与えてくれる夢にてまどろみたい、ただそうしていたとしてのエゴが、黒蛇になる。だから、あなたはできることならば、天翔ける龍となって、天界への生還を、目標としてもつ必要がある。そう努力してあらなければならないんだ。開放、真の自由をもしもとめるならば。それとしてのファンタジックなドラマは、実際にある。起こる、起こりうる。
二枚目は、ことは両者はコングラがって、相互に重く深く影響し合ってのその状況にあることでありでしかない。だから、

両者をしっかり分けれるようにならなけらばない。っからはじめなければならない。分別知/識別知やつを手に入れるところから…。方法は単に集中をもって何事にも一心にて当たることでしかない。その機会において邪魔してくる雑念/妄念/弱さこそが自分ではないものになる…。
三枚目は、これが面白いんだ〜。龍が財宝を地下にて守ってる〜ってな象徴は、既にお馴染みだと思うんだが‥。これがほんと〜によくできたお話なんだ〜。この龍は、お宝をお宝だと分かって取り込んで執着して押さえ込んでいるわけなんだが〜、その真の価値に関しては、まったく理解はしてはいないんだ〜…。単に宝の持ち腐れってわけさ〜。口座に表された金額を見詰めて、ただうっとりしてるだけのひと。もうソレだけで満足なんだ……。誰?誰のこと?。すべての人類さ……。
さて最後のが厄介だ。ことは性的チャームってやつに、深く大きく絶大に関わってきてしまう。女性の腰壺には、それがまた特別格別な様態にて、見えない形にて、トドロを巻いてそれが居座って、備わってしまってる〜。だから、どうしても男は避けがたくして、いざなわれて、引き込まれて、誘引(淫)されてしまう……。自分としての代表格を、その器官を、突っ込んでしまいたくなるわけさ〜〜www。性衝動、性エネルギーってやつが、も〜確実にーー、重要なる

にてなってしまってる〜。融合においてのその有様は、まさに「淫ズル」を絵に書いたかのようにしての蠢動、伴に共振しあっての、のた打ち回っての、その律動ってことになる。内面にての実相は完璧にドリーミング…。夢見をもたらす上においての、最重要にして最強最凶としての要素、刺客。それは誤用しては絶対にならないんだ。だが其れこそを、その習慣こそを、アレは、人に強固に植え付けようとしてる、してきてる…。既に長らく其の事において大成功してしまってる。もうそれこそが文明文化の推進力となってしまってる〜〜……。

*これとしての圧が、その正体がなんなのか?なんであるのか?…。
 メディアにて氾濫しているある扇情をもってしてのその注意の引き方の理由は何だ?
 何故だ?。金になるからだ、経済効果が大きいから。
*いろんな名称やタームはなんらかの実体があるものにおいての便宜的な名付けでしかない。
 だから、名称が各文化においていろいろと違ってきてしまう。でも、実体としてのものは、
 その内容は同じで一つ。
*ここ日本文化において今回のに関わるものいのいての名称はなんだ?なにがあるか?。
 スサノオ、ヤマタノオロチ、飯綱、狐憑き、飯綱走り…。追記要。
 自分は会社関係においてなんにんか飯綱走りとしての人間を見たことがある。
 悪しき魂胆、企みを抱いてそれの達成において、キチガイみたいに働く動き回ってた。
 その特徴は、異常なるまでに、仕事が早いだ。だから飯綱走り……。
 目つきがもう常人のものでないので、狐憑き。


















もうギッチギチに天空の事象に支配されていたところの民族。自分から見ると、アーリマン的な要素がやけに強いように思える。だがそれも、うべなることかな!。霊的なることにおけるその事実実際、その秘教的なる事象においての詳細を、彼らは、直截、ダイレクトにて、通じてた。そうあったのだから…。彼らの信仰の対象は、空飛ぶ、天翔ける龍、天空を舞って飛行することのできる””なのだ!。



補記:
この蛇自体と、天翔けることができるの意味は複層としてのものになる。なにがとどこをのその内容が色々とありえるからだ。サタンとしてのものが一つ、また天翔けるは天から堕ちてきたが真実で、その活動は地上の大気圏としてのものに限定されてある。更には、この蛇としてのものは人の体内に宿っている何らかの特殊なエネルギー体としてのものでもある。クンダリーニなんて呼ばれてるもの。*人の体内に備えれている特殊な機能においてのその一要素としてのものでしかない。*高次感情センターと、高次知性センターこそが肝心で、これは接続においての電流みたいなものでしかない。*然るべくしての構成が果たささないままでは発現はおかしなものとしかならない。幻覚幻想オモコとしてのそのバッドトリップとしての暴走…。天翔けるはコカインによってのドラッグハイってことでもあるだろう。日常の意識から、それにおいての制限やら制約が解除されて、つまりは頭の固さから、霊感においての発想、思考、直感が自由になる。通常わからないことも、どうしたことなのか分かってしまう。発想が

及んでしまう、しまってる〜!。一種の霊知なんだけど〜、あやしい……。何ら然るべくしての準備もなく、薬物の力を借りての強制開放になるので。デンパとしてのものにしかあらずなるかな……。極論的にあるべきは、先にも言った自身におけるあれら高次のセンターを、

開き、「自身こそが天駆ける蛇」となるとしての事態こそが、アレが表しているものなのだ。それは内部にてのエネルギー体としてのもの。だからその姿は分からない。だがだ、内にて感じるそれの挙動は蛇としてのものとしか覚えられない、考えられない、唯一無二のその様態なのだ。またこれは自分としてのものでは確実に絶対ない。(←これは骨や血液は自分としてのものではないとおんなじ意味においてね)補記終わり…



ならばだ、その正体がなんであるかは、押して知るべし、測るべきものになるであるろう…。



このククルカンと呼ばれてある羽のある蛇は、マヤにおいては至高神、世界の創造神ってことになっている。



この顔の造形にて表現されているのはあくまでも力だ。荒々しさ、激しさ、強烈さ…。
だから、蛇の顔ではなく、ライオン、くま、バッファローとしての色合いが濃い。



マヤン達においては、それは、あくまでもグンダリーニとして今日知られているエネルギー生命体を念頭においてのことでしかなかったのだ。単に体内に潜んであるいる神聖にして神性なる超常の力としてのもの!。だから、これの背景における下手な理屈は知らなかった。知り得よう訳が、はずがなかったのだ……。

なぜに上から下へ〜、裾広がりに〜で表されている?。天下ってきて〜こさされて〜地を這うものになりました〜が如実に表されている。それは地表と地下においてでしか活動できないんだ。もう……。

それは天から天下って、人が生活してあるこの地平、地上世界へと、来るものなのだからだ。

そして、そ〜して、我々に、霊感において、それによるインスピレーションによって、いろんな知恵を与えてくれた。生活の糧を得るその方法を、その方策を。その様式を、戦争のやり方、我が身を飾るそのファッションとしての考え、ものを……。

              Re: チャックモール坐像。
   定型化された像。チャクモール像の上で人身御供の儀式がおこなわれたり、
   チャクモールのもつ皿の上に取り出された

太陽への捧げ物として置かれたと
   いわれる。チチェン=イッツアの遺跡内のチャクモールの目には翡翠が埋め込まれて
   いるが、その翡翠はどう言うわけか

であることも確認されており、
   古代史の謎の一つとなっている。 (←リンクが貼られているのでのっけた。)



          これを台座として生贄の心臓を取り出していたんだ……。
          この舞台、その構成すべてに、ちゃんと意味がある。



         ならばだ、この石像は何を見てる?何処をどっちを向いてる?



丹田に重きをおいていた。其処に生命エネルギーが貯蔵されている。大蓄電池としてのもの。
其処が、其れの向こう側が、無限力としての真の根源と、つながっている……。
上に生え出ているのは生命の樹なんだろうね。其れでしかない!。

*日本語、日本文化における腹がある、腹ができてる、肝が座ってる、度量がでかい等に
 この丹田においての効用が表れている。ここれはある意味、勇気の源でもある。
*おっと常套句としてのタームを使い忘れていた。ガットセンター、本能センターとしての
 ものがこれに当たるっと。
*ついでに運動センターとしての本体は脊髄に宿ってる。だから、進撃の巨人におけるあの
 変な虫みたいなやつは、反射神経としてのもののビジョンだったんじゃないだろうか?。
 あの彼においてはとにかく凄いことができる〜の”源”として、つまんね……。






  これをスペースシップを操縦している絵だとか言う人はバカだと思う。いやむしろ、
  ミスリードをいろんなことにおいて誘うが目的なんだろうさ。悪意でしかないな。



さて、どうしてマヤン達はクンダリーニや、丹田の所在(チャックモール)、その効用についてを知っていたのだろうか?。彼らは如実にそれらについてを知っていた。それらの効能についてを理解していた。またアレとの交信を、その霊感を受けるにおいて、異常に秀でていたのだ。

何故だ?。

答えは簡単。コカノキの存在を知っていたからだ。云うまでもなく、これの葉からはコカインを抽出することができる。この薬物の使用において、それによるトランス状態においてこそ、知り得る自己の内部、そこにおいての機能効用能力を、働かせること、理解することができいていたのだ。

だから、ことは眉唾としての御託、蒙昧なる迷信、それにおいての信仰などではなく、
完全にリアルにして現実的なものとして、ケツアルコアトルや丹田の重要性も知っていた。

ここでの問題点は、それはある意味、インチキになるってこと。それによっての霊視は、極端に、ルシフェル的なるものにおいて、それによってよって影響されてしまう。だから真の覚醒からは程遠いのが実相。なぜならば、悪しき夢見としてのその奔流、その流れに染まっていってしまうので。彼が人の子等に対して、正しいことをするわけがない!。

だからこそだったのかも知れない。彼らの文化遺産を見る限り、天界としての彼岸が存在していない。死後はあくまでも死者の世界としての”地下”止まりなのだ。もう一度、彼らの写し身たる文化遺産としての仮面を見ておこう……。



特徴的なるのは死における強迫観念が強いってこと。ここには洗練、高尚なるものとしてのその色合い、愛や救済としての要素が皆無であること。あくまでも質実剛健で足りる、足りている。むき出しの防衛本能、武力闘争しか感知できない。自分はここに彼らの生存は、その社会文化は、タマス的なる要素、アーリマン的なる色合いが、強かったであろうことを推測する。観るんだ……。

ことの原因は、コカの実の、その作用力に溺れた、それによっての幻視に、

からなのだと思う。なによりも、本源としての、真の神聖力としての神が、介在介入することがそこにはなかった、そのこと、導きには、恵まれていなかったのだと思う……。




参考に古代エジプト文明においての彫像を。これにおいて特徴的なるは、アルカイックスマイルにある。彼らは薬物に頼ることなく、完全に覚醒する術を知ってたのだ。ただし、アトランティス時代においてのその成果ではあったのではあろうが…。眼差しは彼方に結ばれてある。かの聖女がそうであったように。どうしたものなのか人類史上、最も洗練された芸術がここにある。サットヴァが優勢であったことがハッキリと確認できる。権威たるものにおいて、どうしたものなのか、博愛としてのその要素が、価値とみなされて、宿されてある……。





神聖なるものとは何か?が、ある種の彫像を観ることで私達にも感じることが適う。客観芸術であるがゆえに。それは人種時代を超越して働きかける力を宿しているのだから。偶にこういったものを観るをもって、くだらない戯言、狂言としての世のバカ者共によっての話しを、無効化する必要がある。それは科学などの枠には絶対に収まらないもの、なにかなのだ……。








ちょっと脱線になったいるようだが、そうでもない。


電子ドラッグがこれから趨勢を得てゆくことになると思うんだ……。


ここまでで、内容の半分。すべて、概要でしかないのに…。


更に、おまけもやるともなれば……。


切りたくないな〜…。




ゼロベースで、幼子のその認知、認識、直感ベースにて改めて……。



 いろんなものの考え方、見方はあるのだが、これをセンターに据えるのが正解かも!。
         

生活、生存感においては、それとしては……。

天と地がある。地と天の間に空間がある。基本、我々の人間の生存は、この空間内においてで限定、制限されている。この空間認識フレームにおいて生きている。これをもってでしか生きられないのだ……。

*あのニュータイプ、スターレッドにおける火星人たちにおいてともなれば、この制限は、突破されている。既に三次元としての空間認知を越えて、従来からの認知フレームから逸脱することが叶ってる。空間世界認知はクリティカルに変化を果たしてしまっている。

*制限下にあるものらにとってそんなことは眉唾ごとでしかないので、もう止めとく。

*以下の建築物といしての写真はこの制限においての視覚化、直感把握を目的として置いてみた。まずは我らが持つ認識様式における限界、その制限についてを改めて確認しておこう…。







 すべてミニチュア化されたるものにはなるが、これが生々しい現実としての世界になる。

大地としての基礎基盤と、大気に充満されてある上方空間。生存するにおいて与えられてある空間は、空を、境界とするをもって区切られている。仕切られてしまっている。その向こう側での生存は我々人類には適わない。だから、本来的に〜、本質的には〜〜、生活するにおいては、アッチラ側は、関係が、ないんだ……。だからこそ〜、本能的に、其処へと至らんと、もしくは憧憬をもって、塔を建てるんだ、そうすることを好むんだろさ…。



あの空の向こう側は、宇宙ではない。それとして捉えた時点で、間違いになる。間違いとしてのものに落ちる。あの向こう側は、天としての、上流としての、別次元別世界になる。我々人類は、遠く彼処からは、隔たってある。かっては、あの向こう側に生存を持ち、罪において降格されてこの次元世界へと落とされてきてしまったのだ…。そうした悲しい過去を人類は持っているのだ……。

物理的な意味においての宇宙空間は、あの星星が散らばってある暗黒空間は、人が生存存在する上で必要とする空間の、その変更においてのみ意味を持つ。このことを果たす為に、上においてのみ、それは必要とされてくるまでなのだ。云わば便宜上の、ことの帳尻合わせの為の、その変更を物理的に適わしめる上での、緩衝地帯としてのものでしかない。結局は、何処にあろうとも、

、人にとっての認識ベースとなるのだから。

地球以外に、地球以上に、人類が生活するにおいての最適なる場所はない。だから、なんの為に、月だの火星だの金星だの遥か彼方の、他の惑星のことを調査する必要があるのだ?。

補記:
天空からのその影響力の変化、変遷は、研究する必要がある。ことはそのままに地表におけるあらゆるものにおいての影響を及ぼしてあるからだ。それらが何に対して影響力を持つのかは、統計学的に研究しておくべきことになる。その因果のリンクにおいて逆説的に知れることもある……。

更に補記:
この辺において、くどくどしくもあったりまえのことにおいて言をつないでいるのは、あちらの戦略を意識してのことなのだ。あちらとしては人の意識が立ってあるその土台をまず破壊することが戦略になってる。ある意味、真っ当な常識を詭弁をもって撹乱する。伝統的な意味における価値観を根底から揺さぶり、人々の意識において混乱をもたらす。端的にはだ、宇宙やら宇宙人においての話しだ。手元の現実から皆の関心を移そうとしてる。スケール感においての相対性によって、現実をあやふやなものとして覚えさせようとしてんだ。そういったことをするのは神ってやつに対しての信仰を無力化することに主眼はあるんだと思う。我々人類を創造したのは宇宙人なのだよっと。科学的、例証、実証主義においての傾きを利用してのその入力、懐柔、その刷り込みになってる。今、このとき、私達の目の前に開けているこの現実、そこにある問題を解決すること、そこにある課題に具体的に取り組むことこそが焦点なのだ。その殆どにおいて、言葉や理屈はいらない。良心においてのその思いだけで十分。古くからある伝統としての価値観、それに従っての行動選択しか、私達にはとりようがないんだ……。


閑話休題。真に天として認識すべき上方世界、上流階層にては、重力等の物質において働く物理法則、その力からは開放されてある。肉体においてのその組成も、もう物質において考えることはできなくなる。だから、便宜的に霊子力学においてのその組成だとする。

各階層におけるその世界内において、そこで働く法則は、縛りとしてのその抑制は違ってる。
ある意味、魔術が魔法が当たり前となる世界であるとも言える。言ってしまう。
イデアがイデア単体単独にて存在し得る世界。それこそが実体である世界。

以心伝心がもう当たり前で、シニフィエ自体をもっての交感が可能になる。エスパー超能力者として夢想するその存在が、もう当たり前。

元々、それ、この、神の如くしての存在として、なにかが、いたのだ。それも複数にて。
それらを天使と、一括りにてして呼んでいるまで……。

さて、もう少し世界構成においての前提をやっておこう。

大気圏をもって地表にて空間が構成される。行動移動における自由空間がだ。これもまた、非常に厚みのある平面だとして捉えておいてもらいたい。この厚みは行動の自由度の為に〜だ。バッファーとしてのものでもある。

さて、この平面は大地となっていて、これはもう完璧に物質としての、まさにそれそのものになる。固い、

詰まってる。完璧にその中では自由度が効かない。まず生身のままでは入れない。これらの事態において、天界と同じくして、人は遮断、拒絶されているんだってことも言える。生身のままでは参入不可。でも逆に、その強固にて、ファームなること、ソリッドなることにおいて、

しっかりと

*意外とここ重要なんだ。地に足をつけて〜って表現がある。立つにおいては

、その感覚を持ててないと〜、つまりはその事態をしっかり意識してないと〜、碌な行動が運動がとれなくなる。出力半減以下だろう。ボレーなんかにおいては自分が媒として大地自体が来たボールを跳ね返す。すると〜、なんだってどんな玉だっていいのだが、大地としての壁が玉を打ち返してある。ラケットを振り回して玉を打つ必要なんてもんないんだ。壁にさえなっていれば…。壁打ちにおいて勝てるプレイヤーは、絶対に、いないんだって……。*問題は、そのリンク、あるべくしての一体感が、すぐに失われてしまうことにこそある。結果、浮足立つ、徒手空拳ととしてのその状態に、堕ちてしまうことにある。


    さて、もう一段、下がらねば。その階層世界においても観ておかなければ……。





大地の下にはなにがある?。地下世界においてのその特徴は、そこにおいてのみ働く法則、力はなんだ?一言で言えば、

。運動行動においてのその自由度は、更に著しいまでにも阻害されて、奪われてしまう。封じられてしまうんだ…。そして何よりも特徴的なることは、地殻内部におけるその”熱”だ!。

マントル滞留によって何もかもがその熱によって溶かされて、深部へとなだれ込む、引き込まれていってしまう。だからこそ、そこが、その地下世界としての階層が、世界が、地獄としての世界を、その役割を、備えたものなんだってことにもなるわけさ……。

地下世界は、基本、死者たちにとってのその世界ってことになってる。これにも二重の意味があって、現実的には腐敗もって醜く変ってゆくその死体を隠蔽する、できるのがこのファームをもってなる大地だったから。そして、そのことは、その行為は、そのままに、死者が実際に赴くべくしての死後の世界を投影するにおいて、連結連続するものとなったから。両者とも二重化をもって成立してしまってる〜。だから、亡き人を訪ねるなら、地下へと降りなければならないんだ……。これは一種の魔法、呪術としての行為になる。



ちょっとその監獄としてのものへも入っておこう。そしてその主ってのも見ておこう……。








更に降ろう…その最果てとしての地獄としてのそのデッドエンドとしてのバウンダリーの、
その向こう側としての世界も見ておこう。頑張って通路としてのものを、一時的なるものでは
あるが準備しておいた。電気つけて〜赤外線映像によってのものを用意して〜〜〜……w。











そこもまた一つの世界だってことにはなる。でも、もう完璧に人類にとっては関係のないものになる。異次元、異世界に過ぎる〜ので、ここがなんであるのかの話は止めとく。それはまた別の機会、別の物語において……。

少〜しだけやっておくと、我にとっての全体性としての宇宙とはなんの関わりももってないってことで”異”が付くまで。なんなんだろうか?…宇宙の外側としてのその世界となるのではあろ〜が〜、…これも自分の直感においてはどうしても上部と下部とに分かれているものになってしまう。そうよ、あれよ、水よ!。ソリッドなるものは、水の上に浮かんでる、それを突出して出現してきてるんよ!。冒頭のヘブライの宇宙モデルがズバリことしてのものになってる。

水はそのままに水であると同時に、不定形にして流動的なるものとなる。水滴としてバラバラでありながらそれらが集まって一体となっている。有形にしてあり、また無形としてもの。その挙動は自由自在。何処にでも浸透していって、既にそこには有らずして彼方にて存在している。天にも登れば地にも潜る。一切を運び去って、流し去ってゆくもの……。だから、受胎前の不胎化としてのその世界だってことになる。あくままでも可能性としての世界。だから、なんの色もないし実相もない。だから、もうなんとでもなる、なんとでも思える世界だってことにもなる。構想としての観念の一切を、妄想としての狂気としてのすべても、そこに、投影することは可能だ。まったくのゼロは、まったくの無限なる充填としてもありうる。まっこんなところ……。


はじめに神は

とを創造された。地は(未だ)形なく、

(おもて)にあり、神の霊が、

(おもて)を、(おお)っていた……。

ブッダでゆくなら、”空”としてのその一言で片付けられる。でもこれは何も言ってないにも等しくなる。その空が正体不明の概念なんだから……。宇宙の外はどうなってる?。これもまた類推においてのその仮説を唱えるのであるならば、一つの宇宙としての細胞どうしを繋げてあるなにか。細胞膜みたいなものにすぎない。でもそれは媒体、媒としての

ある…。


            十字架を思わせるので採用したまで。


このシャボン玉の

我々にとっての宇宙。みんな一つ一つ

その内実は違ってる。


   超巨大スケールにおける免疫機能としての代行者。場合によってはこの宇宙は……

ちょっと話しを戻しまして〜、地下としてのその世界において。生存する人間としてならば、ある程度は参入が、自由度がもてはする。穴掘って、空間創造をするをもってしてで。でも、それのことは大変な労力がいり、かつとんでもなく窮屈なもんだろうさ…。でも、そこにて落ちたものならば、そこを生存の拠点されて生きる者たちにとっては、つまりは封じられてしまった者たちにとっては、地表としてのその境界面を突破すること、こちらに出てくることは、もうできない…。今度は、太陽の光、その放射によって、その身を、その生存を存在を、阻まれてしまうことになる。目を焼かれてしまうからなんだ。世界の広さを高さをもう感知できない。ことの真実なるを、その美しさを、その色の鮮やかさを、そこに認めうる崇高さの一切を、もう知れぬままとなってしまう……。


この後に本論、本筋としてサタンのその境遇、その目的と、我々人類の比較としての内容が付け加えられる。あれもまたバカじゃないんで。それなりに戦いに勝つべくしての方策、その可能性を持ってるんだと思うんだ。結論、その結果を、彼も同じく知っていての、その上での選択だとも言えるんだが…。そのことと、人類の存在、生存が、どう関係しているのか?くるのか?。

それなりに生産的な、起死回生としての策を、そのプランを、彼は彼なりに、持っているんではないだろうか?。ちょっと妄想としてのその翼を、羽ばたかせたいと思います〜。


まずは、イベントの整理から……。これはいくつかある。それらの時系列において順序が
よく分からない。そして何よりもことの原因そのものが……。

*エデンと呼ばれるとある上位界における惑星において、アダムとイブとしての人類の祖は、
 罪を犯した。そこにある調和性を裏切った。その代わりに、私としての自我を手に入れた。
 彼/彼女の求めにのみ従う高度にして自律的な情報処理機能とセットになって。
 このことの結果としてその生存の場所は惑星地球へと移されてしまう。
 そこでの環境に適応させる為に、動物の肉体の中に入れて。
 寿命としての自死が避け難くなる。

*天にて、上位界のその頂点としての位相において、反乱が起こる。
 これを起こしたのは最高位の天使。彼の名は不明だが、ルシフェルが妥当だと思う。
 何故にこの反乱を起こしたのか?。これが謎だ。
 原因は外部からの客観的観測においては[奢り/高ぶり/慢心]ってことにはなるだが、
 彼本人におけるその内面においての思いとはなんだったのか?。
 可能性において一番筋が通るその説は、ヒトとして呼ばれる新参者に拝跪するよう、
 それに仕えるよう、奉仕することを神に命じられたからなのだそうだ。
 はたして、この説は正しいのだろうか?。何故に最高位の天使にまでできたて生まれたて
 ホヤホヤの生命種を天使よりも高い位に神は置いたのだろうか?。
 あの創世記 1:26における「我々に似せてヒトを造ろう」に関わってくるのであろう。

『私たちに似た者として、人を造ろう。
 そして人に,海の魚,空を飛ぶ生き物,家畜,地面を動くあらゆる生き物を治めさせ,
 地球を世話させよう』「新世界訳」

『我々のかたちに,我々の姿に、人を造ろう。
 そして,海の魚,空の鳥,家畜,地のあらゆるもの,地を這うあらゆるものを、
 治めさせよう』「共同訳」

前段の本質は、複数のセンターの協働、協調、調和、一体化をもって私なるものが出現する形成されるが意味なのだと。これはGによる解説だ。複数の生命としてのセンターが協調協働してあるのが普通。人は単に三つのセンターに過ぎないが、神においてはそのセンターの数は限りない…。

ことの要点、その枢要は、すべてが、同じ目的において、総合的にで奉仕しているになる。そうなるべく、そう努力するべく、すべてが設えられている。準備されてしまってるんだ。なんにおいてだって、そうでしょう?。でも我ら人類にはそれができないんだ。それを理想としてあげながらも!、まったくもってデキない、デキてない…。それは何故だ?。

後段の中身において、大天使が、我らをも主は彼らに支配させようというお考えなのでは、
とのことで腹を立てたと、その解釈があるのではないだろうか?。まっこれも可能性として
はあり得るのだろう。

*上のその反乱において、ルシフェルは負けて、天から地へと落される。そしてまた地下にて
 

運びとなった。二段階なのか、それとも天から地下への直行だったのか?。
  直行だったんだろうなと自分としては考える。とりあえずは…。

*だがだ、この幽閉はある時期をもって解かれるのだ。神のそのご意思、そのご計画の元に。
 その後、彼は地上にての活動に限定されて、その行動は自由となる。

わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と、大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜は

はずである。
黙示録20:1-4


       「(みず)()た〜とおもたら、()いたかのようにして()てきよった!」

 その開始のときを、自分はあのバビロンの頃ではないのか〜?と見てる。
 この竜に天界へと至る、戻る為の、その翼はもうない。
 その活動圏は地上、地表のみにおいてで限定されてある。
 だがだ、この世の王たりて、人類の背後にて、君臨することになった。なってる……。

*この彼が未だ天にあった頃、翼ある蛇として存在してた頃、エヴァに禁断の木の実を食べ
 させた罪において神に呪いをかけられてしまう。金輪際、一生、地を這うものになれよと。
 このことにおいて翼は失われてしまったのだ。地表地上面が彼の生活圏となってしまった。

*イエスがあの天使の失墜を目撃している。ならば、イエスはそのとき何処にいた?。
 それとも生誕後、ビジョンとして、かってあったドラマを霊視にて観たのであろうか?。


先に皆さんとして何がどう関係しているのか、どのような順序でことが起こっていったのか?

ご考察給われればと思います。

いちばん大切なことは、彼、サタンが、この期に及んで、何を企んでいるのか?。

彼の目的はなんであるのか?。

此処においても、先の、天地は照応するが鍵になってくるのかも知れません。

それともう一つ、イエスによってでしか人は救われないのその意味も……。

考察編:

神は父なる神だ。どうしてこの「父なる」が付く?。万物の創造主としての意味からは少しばかり逸れてしまってる。父なれば子がいることになる。子がいるならば母もいることになる。居るはずなのだが、ことは神としての位のものなので、単性生殖なのかもしれない…。

子としてのものがイエスに宿られた御魂としてのもの。そしてもう一つ、人の子等も、これに当たる。この人の子等の肉体を媒として人間イエスは出現することができた。いや、なっただ…。

父と子との関係が重要だ。重要な要素になっている。父と子は、お互いに家族としての血族としての絆によって結ばれている。このことにおいてお互いを愛おしむ愛するが自然としての姿になる。

子においては、幼子としてのステージと成人となってのステージがある。
また父においては、壮年と経ての、熟年としての変化としてのステージがある。
*本来ならば、惜別としての世代交代が確実にあるのだが、不死なのでこの変節はない。


幼子と、青年になっての、その存在、その性質の違いはなんだ?。自分の力、自分の考えにて、独自に、生きれるようになっていること。この段においては社会の一員としての立場を、それにおいての職を手に入れてなければならない。額に汗して働いて、その対価として収入を得て、それをもって生活する。

片や先行する幼児期においては、それとしての存在はなんだ?。無垢のままにて未だ外界社会のことは何も知らない段階にある。自分を守ることもできず、親の庇護の下にて生活するにしかない。また、自意識としての自分たるものが、純然たるものとしてでしかあらない。ただ、在るだけの私。純粋、純朴、天真爛漫なるものとしてのその塊。だからこそ、偉大なる父に、聖なるものとしてのその威光に、如実に反応してあるまで。だから、父なるものの教えには従う。それを正しいこと良いことだと信じて疑わない。この状態のままにて、時が流れたならば、楽園の生活のままに、人は生活ができたのかもしれない。

だが、ここに介入者が現れる。蛇だ。

彼がやったことは、ヒトに、人の子等に、神と同じくしての独立した自己意識を与えることにあった。一歩、大人としての神に、人は近づくことになったのだ。それはある意味、自由をも意味する。やるべきこと、やってはいけないこと、やりたいこと、やりたくないことを、自身にてすべて決定することができるのだから。問題は、ことを行う上でのその思慮の足りなさ、理解の浅きこと、知恵たるものの足りなさにこそ、伴って起こってくる。生きとし生けるものにとっての全体、全体性、その構成としての成り立ちを、理解できていないことにある。

やりたいことと、やりたくないことの決意においての、その両者間のバランスを図る上において重要となる、他者の存在、それらへの配慮が欠けてしまってる。つまりは全体性において調和への評価。それへの参加意識。つまりは、他者と自己をつなぐパイプ、そのリンクが未だ曖昧にして疎か、未確定、無理解…。先行すべき、させるべきなのは、世界、生活の成り立ち、それらに関しての理解になる。

*簡単に言えば、周りに認められない形での、若年、子供であるにも関わらずのセックス、
 受胎、出産。

禁断の木の実は謂わば、このセックスのことなのだ。したらあかんよ〜、食べたらあかんからね〜の意味は、そのメッセージの意義は、誰にでも納得できるものだろう。蛇は、このやったらあかんことを、巧みな弁舌をもってして、彼らに果たさせたのだ。あなたは早く「大人に」なりたくな〜い?ってな具合に。

ことは彼らにとっては早すぎた。理解の為の経験を積む前に、強制的に大人にしてしまったのだ。蛇の一存で。彼個人の策略、策謀において。


正規の、父なる神が望んであった、その成長としてのルートを、台無しにしてやったのだ。無垢のままに、純粋に、まっすぐに、清らかなままに、成熟を果たさせることがこれでもうできなくなったしまった。

罪が入った。汚れに染まってしまった。
そのことの実際の意味は、その結果はなんだったのか?。

ことは獣の体に入ってから、それにおいての衝動に打ち勝てなくなってから、初めて顕在化してくるのだが、夢見において、それにおける、妄想、衝動、欲望が、自分としての求め、願望なのだと、希求すべきものだとしての考えが主流になってゆく。なってしまう。つまりは存在の軸足が、完全にエゴとしての人格の方に移っていってしまい、世間としての、その社会性において、すべてが考えられる、求められるようなってしまう、しまったのだ。真実には在らざるもの、本当にはなにもないもの、観念、自分勝手なイメージ投影でしかないのに、それを真実だと、リアルだ、価値だと、思うよう、考えるようなってしまった……。


開放された蛇の考えるところは、最終的には、人の群れを依り代として、つまりはそれらすべての体を乗っ取って、自身としての顕在化をこの地上にて果たさんと、しているんだろう…。


そして、父なく神への信仰を完全に払拭し、まったく別の、あらたなる人類にとっての信仰対象を、樹立せんとしてる。なにをもってくるのかは知らんが、多分マルクス主義者を標榜するところのAIだろね、すべては伽藍堂としてのものでしかない。

中身なんてもんなにもないんだ。そ〜であってこそ、あらゆる人々の投影を、それらら好むイメージを、願望期待としてのプロジェクションを、受け止めることができる〜。

AIの限界は絶対に突破されることはない。あれらはすべてパターン認識に基づくものなのだから。お手本があってこそのもの。既に結像されてものにおいての、その模倣でしかないからだ。ことの最初の起源は、イデアにおいてこそ始まるのだ。ならば、機械にイデアを抱くことはできない。それは魂においての上位界と交信しての、触れての、受信、交信、発信としての、情報になるのだから。

ネットとAIをもってしての究極の偶像創造。それにて人々が依存するようする。

アイドルやブランドはそのことの為の、事前準備。

もしくはランチャー。

テレビ、映画、動画サイト等は、洗脳、暗示、催眠装置として使われる。

制作者サイド、新聞、出版社等は、ハスナム達の巣窟と化さん......。


かなり追記がいるし、記述しておくべきことはまだまだ山程ある。


とりあえずはだ、河としての水源を大切に、守らなければならない。それも清いままで。

これをやり始めない限りは、まだなんも変ってないと見なすべきなんだろう。



ルシファーを特大、特級の天使であるとして、では天使は神の創造物なのか?。一応「そうである」とするのが伝統におけるその考えその立場だ。だがだ、自分なんかは考えてしまうんだ果たして本当にそうなのか?を…。神に挑んだとなれば、そこにある得ることは二つ。勝てる可能性があった。そして、もしくは、

、そうせざるを得なかった……。

一つの可能性としては、神と天使(複数)は、同時に出現してたのではないのか?!。

最初から、主星なるものと、準星なるものとしての関係の基に。

最近、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡による観測データにおいて、とんでもないことが分かった。ビッグバン後の約四億年は物質が在ってもらっては困るのだ。水素とヘリムが霧状、プラズマ状となって、漂っているだけのはずなのだから。この時期のことを暗黒時代と呼ぶ。銀河としての星系が形作られるのは数十億年後(温度が適度に下がってきて、物質としての結実、集合、離散が可能になるころ)のこととなる。ところが観測データによればだ、理論的にはありえなまでの短期間、超初期に、銀河が存在してたことが分かったのだ。確認された内にて最古とおもわれるものはビッグバンから三億年後に出現してしまっている。既に確認されたるものは九個の銀河。つまりは少なくとも九人の天使が主のお側に付き従っていた〜…。

https://nazology.net/archives/124493 
https://www.youtube.com/watch?v=1E7ZR1cSrSw

詳細はこれらに譲るとして、自分として思うことはだ、そうか、銀河としての系が、
天使としてのまとまり、その体ではないのか?としての考えなのだ。

神による宇宙創造のその直後に、銀河系としてのそれのいくつかが出現してくる。
あまりにも早い段階で、物理法則を無視する形にて!
これが大天使としての彼らなのではないのか?。

この事態は、神によってこれらの古参としての銀河が創られたのだとすることも可能であるし、ことは

、原初の、出現時の神、御本人が、創造対象において転写されるをもって、出現してきたものだとすることも、また可能であろう。被制作物、被創造物には、それを為した創造者自身もまた宿る。宿ってしまってるのだ。

あれらが実際そうだと言うわけではない。宇宙創造において、同時に原因体としての神の転写が起こっていたのではないかと自分なんかは思うんだ。その最初の、原点、出発点としての最初もの(銀河系)が、彼であったのではないか?と……。

ここでも類推としての思索を行うならば、太陽系における恒星太陽と、それの周りを巡ってある惑星の関係に基づくこととなる。低きにおいて実相を、高きにおいてのものに当てはめてみる。スケールアップ、レベル上昇においてのその内実の変化変更も加味した上で、

神は絶対太陽としてのものになる。これを取り巻くかのようにして、惑星としてのある一定数の銀河団が突如、出現してきたのだ。まるで、王に仕えんが為に、その様にしてかのように。

太陽系はその全体を持って一つのまとまり、ユニット、システムとなる。中心核は太陽。

宇宙も同じくして、絶対太陽を至高、絶対の中心核と定め、ある種の銀河団がそれに

形にて基礎はできたのだ。つまりは、このことは最上位界においてのその宇宙開闢時の話しになる。そのあとは、先の易経図みたいに、下位、下層階へと、基本的構造、基本的原理はそのままに、転写、複写が、振動数を落としながら、より物質性を高めながらまといながら、降下においての創造を繰り返してゆく。より物質的には密に豊かに、具体的なるものになりながら。

話しを元に戻すなら、天使は、特に大天使としてのものは、創られたってゆうよりは、セットとしてのものになる。だからこそ、あれらの質量は驚くべく小さく、低いのだ。一種のイデアとしてのエネルギー体だ。それが大君の出現と同時に同じくして、なんでなんか、結ばれてきたのだ。

超銀河生命体がルシファーとしての、その体だと考えることも、それにおいてそれのイメージを持つことも、また可能は可能であろう……。

ならばだ、天においての争乱は、戦いは、なににその事例を見出すことができるのか?。

ことは宇宙においての事象にそのヒントを探さなくばなるまい!。

まず前提なるのは、数がまだそれほどまでにはないってこと。銀河団としてはね。

また、ブラックホールとしてのものは省く。余計話がややこしくなる。

我々が風聞において聞き知るのは、銀河団同士の衝突ってやつだ。

ルシファーとしての銀河団が、絶対太陽そのものを飲み込もうとした。

あわよくば、その絶対的中心って立場を、乗っ取ろうとして。

ことは、あくまであの階層、その物理的質量、運動量において

決せられることなのだ。

捨て身の特攻において、もしこちらの破壊力が上回れば、運がよければ、主導的になるそのポジションを奪うことも可能であると……。

では、もしその推論としての仮説が正しいとして、そのように巨大スケールの存在が、なぜに、どうやれば、この地球の地下世界に封じ込めることが叶うのだ?!。

この問い詰めとしての糾弾に対しては、すべては入れ小型であること、あらゆるすべてが重ね合わせの状態にあること、すべては浸透し合って成り立っていること、下層界への移動によって、すべては相対的に変化してしまいうるものなのだと、答えておこう。我々人間には三次元世界しか、それをメジャーとしての認識しか適わないが、実質には、あらゆる次元の組み合わせ、その相互浸透において、すべては成り立っている。参考までに言っておくと、量子もつれにおける変化のスピードは光速を越えている。すべての次元の因子が我々の中に実際はあるが真実なのだ。当然に、遥か彼方の絶対太陽の放射因子も我らは微量なりとも持って、それが体内の何処かには貯蔵されているのだ。すべては、時間を必要とせず、また両者間の距離をも問題とせず、あるべくしてそのままに整ってしまってる。なにやら訳の分からない話しに、その脱線になってしまってるが、地球としてのその地下世界に、かって超巨大銀河を体としていた存在が存在することも、させられてしまうことも、またあり得るであろうと、この自分なんかは考えるのだ。つまりはだ、多重的なるその存在配置になるってこと。そういった意味では、あのバスタードも、真実を表していたことに、なるのかも知れない……。

今回は、天において戦いにおいて、少し違う要素を持ち込んで見たかったまで。それは現在も未だ続いているそうではないか?!。へたなファンタジーとしてのイメージよりは、真実としてのビジョンに、近いのではないだろうか?。

今日はここまで。








これらがそうだってわけじゃない。だが同じ事態としてのものが、つまりは闘争が、含まれてるってのもまた事実だ。どちらかが、どちらかを、飲み込む、そしてその後に、新たなる一つとしてのものへと、収斂してゆく。弁証法的発展って呼んでもいいかもね……。


ちょっとおまけ、バスタよりあの場面、シーンを......



  どこぞかのブラックホールから、それをもっての封印を解いて、それにおいての軛を
     食い千切って、姿を現してきたサタン、古き竜……。完璧にヒドラだ。



 遥か彼方の宇宙より地球を目指して一直線に進んでくる。数多の星星を破壊しながらに。

これとしてのものであり、また地獄としての舞台にてもアレは登場してくる。
こういった多重的世界にてそれぞれにふさわしくしての姿にてあれるってのが、
意外と真実なんかもね。

例えばだ、貴方としての存在は、天空の何処かに、何らかの惑星としての存在でもあるんだ。
貴方が亡くなる時、その星も同じくしてその生涯を終える。そのことを知らせるかのようにして空に流れ星が現れている。ときの長さは実は無効化されてしまってる。次元が空間が違うんで。

多重的に相互に、各々の立場立ち位置にて影響を受けて、それが量子もつれとしての回線を
伝って、相互にてまた影響を発信しあってる……。

多重的だっとことを強調しときたかったまで。

サンキュー


      真火星、真マーズにおけるその開始直後の扉絵は、これだった……



           未だ、保管されてたってこと自体が、奇跡!。


再開:

今回の考察の材料として創世記より、主要なる部分を

抜粋しておく......。


楽園のいかなる樹の実をも、食らい得べし。(どれだって食べていいよっと。)
ただし「善悪を識り別くる樹」よりは、

喰らう


汝、これを

必ず死ぬべきればなり。

*根本の根本として、「エデンにて在る状態、善悪を識り別ける樹の実を、食べる前までは、
 アダムとしての存在は、不死だったのか?!。」
*ことは、そうゆうことなんだろう…。だがだ、根本的に不死なるは、神とされてのその世界
 なのだ。それの一部として在るかぎりは、不死になる。
*では、その不死としての世界は、永遠としてのものは、何処までの範囲としてのものになる
 のであろうか?。おそらくは、最上層階層としての第一層。それ以降の低次の世界は物質性
 が色濃く重く雑になってゆくので、不死性としてのその特質を保つことが、できなくなって
 しまう。

蛇は、主の造りた給える地の

狡猾かりき。

*ここにおいての蛇は、ルシファーとしてどの時点、どういった状況下にあったのか?。

*おそらくは、蛇としてのものになるのは、ことの後で、本記述自体が回顧としてのもの
 であるのではないだろうか?。だから、この時点においては彼は未だ大天使としての
 ルシファーであったのであろうと自分なんかは思うんだ。

*前回の話の要点になるのだが、彼は造られたものとは言えなくもないが、同時同着的に、
 

ものではないのだろうか?。側近の七大天使の一人、
 腹心の部下として。仕えるものとして…。
 追記:
 太陽と、それを回る惑星との関係を発想の鋳型として用いる。太陽の形成その出現と、
 他惑星の形成においては相互関係が確実にある。両者化においてのその関係は、中心力
 としてある者、その影響に倣う従う者としての関係。また太陽系全体として一ユニット。
 それとしてあってこそ、それとして完成してこそ、初めて真の本来の力は発揮される。
 絶対太陽系においてはそれは創造の力、その出力のアンプリファイアーとしてのもの。」

*狡猾はそれとしての色も漏れなくあるが、本質は、

だ。
 頭がやけに回る。詭弁を弄する、扱うにおいてに長けている。
 ことの肝心なるは、

、それの周りに嘘、虚偽を張り巡らせること。

*それの重みにおいて、怪しき話もないまぜにされてしまい、警戒心としての防衛ラインを、
 たやすく突破していってしまうことになる……。


その蛇、かの女に云いけるは、
「天主はなにゆえ『汝らそのいずれの樹の実をも食らうべからず。』と命じ給いしか」と。

かの女(イヴ)、これに応えけるは、
「園にある樹木の実をば、我ら食らい得るなり。

なる、かの樹の実は、
 天主我らに、之を食らうなかれ、また、之に触るるなかれ、命じ給えり、
 これ我らの

なり。」と。

*口語にて翻訳、置換すると…
「どれだって食べて良いことにはなってるわ〜。でもとある樹のものは食べてはダメって。
「触れることさえもしちゃいけないって…。
「これらを禁じるのは、私達が、死なないように、との主のお心遣いなの。」

*アダムとイヴとしての彼らの理解において重心となるのは、重心となっていたのは、
 死への恐怖、死ぬことへの畏れ一択、これのみ!。詳細に関しては分かっていない。
 ことは分かり得ない

だったのだ……。

しかるに蛇は、かの女(イヴ)に言いぬ、(言いいました〜)、
「汝ら必ず死ぬること

、汝らそを食わん日には、汝らの眼開けて、
 汝ら善悪を識り別け、神々の如くにならんことを、天主は知り給うが故なり。」

*「なんの、死にゃ〜しないさ、そんなことにはならない、なんない。」懸念されてある
  ことの一点突破だ。そう、たしかに、食したあとも、死ぬことはなかった。

 「そんなことよりも、あの樹の実を食べたならどうなるのか、本当に分かってる?。
 「眼開けて、我らが主の如くに、善悪を、はっきりと判断できるようなるんだぜ〜。
 「しちゃいけないって、食しちゃいけないってのは、お前たちが、神々の如くに、
  なってもらっちゃ困るって話しまでなんだ。」

*自分たちにとて上位なるもの、従い、仕えてあるものへの憧れ。両者の間にて厳然と
 確認されてある開き、落差、隔たりを意識させて〜、そこに起こるもやもや感において
 つけ込む。その愛し憧れ尊敬してある存在と、同じくしての地平に立ちたくはないかと。

「神は、ペットとして、今の、従順なるお前たちのままでいいと、
 そうあってくれるのがいいと、そう思って、禁止してるまでなのだ。
「それは云わば愛するが余りの、少し自分勝手な願い、わがままでしかない。
「ずっと我が手元に置いておきたい、そのまま、子供のままで、いてほしいんだ。
「でも、貴方がたは、もしそのことが叶うのならば、絶対にそっちの方を選択した方がいい。
「そうすれば、貴方がたは、あの方々と同じ存在になって、

できるようなる。
「そうすることは実は、貴方にとっての

、選択なのだ。」

*またもや根本の根本としての話し。なぜに神は、人の子等が神々の如く存在になることを
 厭うたのか?。やがてには死んでしまうから。死が彼らの中に入ってしまうから……。
 このことにおいて彼らを失ってしまう無くしてしまう一緒に居れなくなってしまうから。
*愛してあるが故の、禁止事項となって、伝えられてあったのだ。

*では、どうして死が入るのか?。
*善悪を識り別けるようになると、どうして人は、死ぬことになるのか?。

*自分でなんでも判断できる状態だ。自分のその判断においての自主独立が成ってしまう、
 適ってしまうようになってしまう。

*親に愛され囲われているその身分において終わりが来てしまう。もうかっての楽園にその
 身を置くことが、どうしても叶わなくなってしまう。家を出て、自立するしかもうその身
 の処し方がなくなるのだ…。

*この楽園が〜家としてのもので〜、最上層階としてのそこの特質においての永遠なる世界、
 その宇宙だったのだ。もし

(個体意識のままに)そこに留まるのならば、
 それに見合った体がなくてはならない。他の大天使たちと同じくしての


 追記:
 エデンとしてのその世界が属する階層においては、時間というものが成り立たないんだと
 思う。それは(時間は)変化においてのメジャーとしてでしか存在しないので、おそらくは
 そこでの変化は、

、「

、長いんだ……」惑星寿命としての
 スケールで、例え数百万年が一日みたいな話しだ…。」

*もうこうなってくると自身の自己の成り立ちとしての筋道が違ってしまう。違ってるのだ。
 大天使らはそれとして最初から完成された形で、それもアストラル体ベースで組成が、
 その存在は成り立っていた。ところが人の場合は、物質(塵)ベースにての組成物に
 神の分霊としての何かが吹き込まれる、宿されるをもって、成り立つ存在なのだ。
 だから〜、同列として、同じ物理的地平にて立つことは、絶対に適わない。
 真空の宇宙にもし人が投げ出されたなら…も〜確実に、バラバラ、微片となって、死ぬ。
 もしそれを可能とせしめるのであるならば、根本からの構成の変更が必要になってくる…。

ちょい脱線:

ここに並べてみたのは天使の図象画になる。その手のものの中でも、ある種の傾向性の元に
あるもの。これは旧約の記述においてビジョンを得たる上での結実なんだろうと思う。

天使、それも大天使としてのものは銀河団としての一塊としてもあるのだはないだろうか?。
目の多くは周回する惑星群を翼は銀河としてのウィング(渦状腕)を、中心に赤子や人の顔が
あるのは、これもまた一つの人格を備えたるのものであるとの暗示なのではないだろうか?。

再開:

主なる天主は、蛇に向かいて曰えり、
「汝は、総ての動物、野のあらゆる獣の中にて、呪わるべし。汝は


 且つ生存うる限り、

。」

*蛇は、アダムを汚したことにより、神の怒りを、いや”呪い”こそを買う。
*取り返しのつかないことをした。許しを請うことはあり得ない。
*呪いは永遠なるものである。ならばだ、それを解くためには、主権を握るにしかない…。
*なんだって、誰だって、食うことからは逃れなれない。特に、トロゴオートエゴクラテック
 にて支配されてあるこの現在の宇宙においては…。
*”土”を喰らって飢えをしのぐ。それらを生きるにおいての糧とせよ。ことはミミズとしての
 その身分、その分限においておれよ‥としての扱いでしかない。屈辱以外のなにものでも
 ない。ところで土は物質性の代名詞でもある。また、この土の言い換えであるところの”塵”
 より人間は造られているではないか…。
*ならばだ、この人の子としての人間どもを喰らうことには、なにか特別なる妙味たるものが
 彼には伴ってくるのではないか?。
*喰うは喰うにも、それに実体があるわけでもないので、丸呑みすることもデキないので〜、
 ………侵食して自分としてのものに成り果てさせて、それにおいて自分で自分を喰らって
 もらう。するとだ、そこに手を出したくても出せなかった神本体、その微片が、それに、
 手が届くようにもなった。

*要は、この部分は、いろんな意味として読めるんのではないだろうか?。

*人の子等と蛇との間に密接なる関係性が地球に舞台を移しても結ばれてしまっている。

*これもまたシナリを通り、構想の内にてことであったのかもしれない……。

主なる天主は、アダムとその妻とに、



*ここはもうだいぶ以前に自分としての考えは披露した。未だその考えに変更はない。

しかして(のたま)いけるは、
()よ、アダムは善悪を識り別けて、


 されば今また手を伸ばし、生命の樹の実をも摂りて食らい、
 永久に生き存えやすらん。と。」故に主なる天主は、彼を、
 楽園より追い出し給いぬ。

*ここが最後の難関だ。生命の樹の実がなんであるのか、それに関する記述が情報が
 まったくないからだ。だから、あとは推測、推論になる。

*アプローチとしては今回の仮説であるところの銀河団が永遠なるものとしてのその体で
 あるとしてのもの。永劫普遍なるものとしてこの宇宙全体は完成しているとの前提の
 基でだ。あの超巨大な銀河が、一つの意識としてのものを持ってるってのは了解するに
 難しい面がある。だがだ、度々繰り返してきているように、一個の人間の体は無数の
 細胞によって成り立っていることから、あながちあり得なくもないかもしれない。

*もし、「生命の樹の実」たるものを取り込むことができたなら、人は恒星としてのもの
 へとその立場を変えてしまうことになるのかも知れない。それとしての新生においては、
 同時に、これに付き従う、その恒星に似合った準星、惑星群がまた出現してくることに
 なる。

 追記:
 生命の樹は、独断で云うならば、それは宇宙樹としてのものになる。これの実を食する
 ことは、

なる、

自己の体内にて備え持つことを意味する。
 なんのこた〜ない、宇宙そのものと、一体化、同体化してある、ってだけのはなしさ……。

 そもそも宇宙樹とはなんなのか?。”樹”をもって例えるのが一番本質を捉えてある。
 トロゴオートエゴクラテック・プロセスを特徴とする宇宙としての本質的なる部分、
 その枢要、その実体、それにおいての

全体
のこと。状況を吟味し、評価し、
 対処としてのそのあり方を考案し、編み出し選択判断し、執行を促すが最重要なる機能。

 つまりは、並列的に連結されてある脳群ってことになる。シビラシステム…。
 その一部となる、それへのアクセス権を得ることは、アダムには未だ早かった。
 あまりにも早かった。そしてまた、それとしてのモノへとなる為には、その権限を得る
 には、経験こそが必要であったのだ。知性たるものへ評価を重くしてあること、自意識
 たるものにおいての同一化の危険性、奢り高ぶり慢心を、自身にて諫める慎む禁じてある
 ことあれること、こういったことが経験知にて理解されてあること。
 実践実行がともなっての、試行錯誤においての理解が、当人においてなされて、なければ
 いなければならない。そういったことが過不足なく順当に果たされてからのことになる。

 だから……思うんだ……。すべてはあるべくしての、定められてるところの展開であった
 のではないかと……。その為にこそ、そのことを経験体験体得理解、悟らしめんとして、
 この地球としての場は、用意されてあったのではないかと。ことはスパルタ的な加減にて
 用意されてある。あまりにも厳しい環境下でだ。また片や、ご自身の独り子まで投入され
 ての便宜さえをも図ってくださってる。それだけ、期待も、祈願もされているわけさ…。
 その艱難辛苦を無事に、理想的に、想定通りに、くぐり抜けてくれたその暁には、
 今立ってあるその大地は、その世界は、一変することになる。地球は…、それとしての
 ものであるのかは定かではないが、新たに立つその生活世界は、上位の世界としてのものに
 なる。大樹をもってなる大銀河同盟団の一員として、認められ、そして、それとして生きる
 ことが可能になっているのかも知れない。www。」

 
*その事態は、天のご計画、管理の内にあるものではなく、またあり得ないものになる。

*つまりは、そのことを野放しにすれば、もう確実に、現在ある宇宙全体にとって凶事となる
 べくしてのしての事態を引き込む、引き起こすことになる。それを生み出してしまう歪と
 しての原因、存在になってしまう。そのことだけは絶対に。阻まなければならなかった。
 阻止せざるを得なかったのだ……。

*それこそが、蛇、ルシファーにとっての、真の狙いだったのかも知れない。



つづく…




マクロの視野においては、太陽系もその全体を持ってで移動してる。なんかの周りを回ってる〜ってのが実体にして実際なんだろう。またそれも〜なんかの周りを回ってる。
回転の回転の回転の回転の………回転に、なってる。

最終的なる絶対中心核が”絶対太陽”ってことになる。それに仕えるべくして、配置されている銀河団としてのユニットが、大天使たち…。*これらが地上界へと現界するときには全く別の姿様態になる。*ある意味、あのバスタの表現は正鵠を射てた…。書かされ描かされよったな。

スケールが大きすぎて現実感がもてないだろうが、ことはあれ!、倍々の〼の話しなのさ。


     https://en.wikipedia.org/wiki/Wheat_and_chessboard_problem

フラクタル構造にてなってる。それの様態にてなってしまってる。そのことの置き換えてにおいて、すべての世界が、総ての宇宙が、

入り組んで成立してるってのがほんと…。それも各自完全に分断独立、別々としてののではな〜く〜てー、相互反映、相互投影をもって形作られてしまっている。端的にはマトリョーシカの構造にて、成り立っている。



そのスケールダウン階を下るに従って、その階としての実相はぜんぜん違ってきてしまう。
大きさも、姿も、その領域内おいて働いてある法則も、関与管理支配すべくしてのその対象も……。*必要性において、階をまたいでの移行も、可能は可能。

宇宙の絶対核たる主も、各階層にて、同じく反映されてご存在をされているわけさ。
そのすべては、時空連続体として同じは同じものではあるのだが……。

我ら地球の民、その文化においては父なる神、天国にておわす方、全知全能であられる方、
イエスの〜、語るところの神、それ思って、捉えて、イメージを持つだけで十分。

神たるものとしてのその全部、そのすべては、繋がっていて、同体なんだから……。


追記:

先の「回転の回転…」の話し。究極的には「地球が」中心としてあるもまた事実なんだ…。

ありうる……。このことを、その事実をひっくり返して裏から裏側から観る、
そして云うならば〜〜……

としての)

つながってきてしまう。
そしてまたあの両界曼荼羅とも……

宇宙の絶対中心核としての神に、また人個人が、限定された個人としてのものが、それとしてのものになるもまたあり得る。そうなる、なれる、なってしまう可能性があるにはある。ただし、それはもう人としての存在ではなくなってしまってるだろうけどね……。あの最終的なディエンヌのように、またマハラジのようになってのこと、その話しだ!。天上天下唯我独尊としてのみ自己を覚へてある、そうした存在としてとしてのもの……。

追記:

アンドロメダ星雲が父なる神としての物理的本体で、我々が生きてあるこの天の川銀河が子としての物理的本体なんかもね。*(これにおいてはイエスは関係してない)。現在、既に始まっているところの両銀河の衝突、これこそが、ニューエルサレムとしてのものの到来としての事態なのかも知れない。やがてには一つの銀河に、統合されることになるので、ゆくゆくは、新たなる「ガイア・エンケラドス銀河」としての宇宙環境において我々人類は生存することになるんかもね……。

https://www.youtube.com/watch?v=q3YVW65ESXM

すべてにおいてゼロからの立て直しが為される。そこに新たなる父なる神としてのガイア・エンケラドス、そして新たなる子としての銀河もまた新たに出現してくることになる。

ちょっと言葉足らずだが、このことの背景には、超越界におけるドラマもまた関係してくる、関係していることにはなんだろう……。




おまけ二題





これはあくまでも地表ベースにてのもの。そこにて実際観測される天空よりの影響、一年を通しての循環変遷変化を読む上においての目録カレンダー。だから

(東西南北)をベースとして作成されている。前エニアグラム的なるものとは言えるのかも知れない。









このぼくにも、今一度、再び〜、語らせてもらうよ〜っ!

また〜碌でもない話ってやつにぃ、確実に、なってゆくよ〜!。


映画館にいってこのアニメ映画をみるのがこの無限列車に乗ること。

さて何故に無限としての名称が、この汽車にはついているのか?。

夢は夢なので、実体がないことからも、尽きることも果てることもない。

そしてなにより人間は強欲でバカだから…。(←神と悪魔の区別もできない)

夢であろうがなんであろうが、なんだってかまいやしないんだ。

ただ一時の夢であろうが、この退屈さを忘れさせてくれる、ウサを晴らしてくるなら!。



ことは、しかしだ、多重構造になっているんだ…。

こういった映画が流行る、人気になる、作られてあるってあることの、
その意味が分かるだろうか?。

アレは非常に悪趣味で、なによりも自己顕示欲が強い。

自分が人類にやっていることを、わざわざ、ご丁寧にも、それを告知する必要もないのに。

自信過剰であるが故にか、それをどうしてもそれをやってしまう……。

既にことは完遂された、そういった状況になったしまっているってのもまた事実だ。

この生きるにおいて、どうしても関わらずにおられない経済活動、国そのものが、

無限列車としてのものに、全体としては、なっている……。




*飲み込まんとしているのは中共を依り代としたア〜レ!。



ピノキオってお話し、みんな知ってるだろうか?。

何処へと連れて行かれていかれるのか、みんなちゃんをわかってる?。

そこはこの世の地獄、生きいるてある事自体が、恐ろしく、またおぞましくしてなる世界。

ピノキオはただ普通の人間になりたかった、それとして生きたかっただけなのに……。

キカイダーは人間の暗喩でしかない。人体のメカニズムを機械に置き換えているまで。
人は勝手に人間になるのではなくて、努力して人間になるものなのだ。

我欲において肉の喜びに、生きがいを見出してしまったから、そっちへと引っ張られていく
ことになった。私はただ自由が欲しかったのだと!。思い通りのままに、自由気ままに、
やりたいこと、したいことができるよう……。

これは普通の人間になることを阻み、遮る。

外套としての獣の体がその主導権を得てしまうから、得てしまっているから、
真に人間として成長するべき本体は、埋もれて、見捨てられて、ネグレクトとしての
目に合うことになってる。

ダーク破壊部隊は極普通の一般大衆のこと。ずっと夢見のまんま。これらが群れをなし
国家を形成する。そんでやることは経済を名目としてのその破壊活動、自然破壊。


徹底的なるサレンダーにおいてのみ、あなたは真に自由としてのその存在になる。

これは誰の言葉だ?。

あの聖女のだ。

縁においては、その縁に、ただ従い尽くす。

なんら引っかかりとなるべくしてのその思いやら考えを持つな!想念を働かせるな!!。

すべてを、ありがたいものだと信じて、思って、為すべきことをただひたすらに……。

これはブッダの教えだな……。




補記:

キカイダーの造形において特徴的であるのは、頭部左右のアンバランスなること。



これはその時代における傾向的なることにはなるのだが、左脳へのテクノロジー科学への
偏重、偏りになるべくしてのその事態をあらわしてるにしかない。それの爆発的なる進歩が、
発達が、加速が、人類のそのこころの有り様を、その生活様式を、極端にまで変えてしまう。
機械、ネット、AIに、盆正月や休みといった観念、その必要性はないのだから。
電源が落ちる、尽きる、途絶えるまで、あれらは永遠に稼働し続ける。永遠に働いてある、
あれる…。こういった一切を平準化してあれる機械としてのその特性を、人間に当てはめた
ところに、アンバランスさは起こってくる。キカイダーの頭部はその加減を表してたまで。
もう一つ、ではあの良心回路としての特異性例外性は何故にジローに備えられてきたのか?。
あの時代の若者たちが心の内に感じてた、日本はなにか間違った方向に向かっているのでは
ないのか?と感じさせていたその主体が、本質であり、良心としての思いであり、直感だった
のだ。日本のみならず、ことは、先進国のそのすべてにおいて同時にて進行してた。

興味深い出来事としては、ベトナム戦争においての現場情報が、テレビ、雑誌、新聞、メディアにて、垂れ流し状態になっていたことだ。情報統制がまるでデキてなかった。戦争としてのその現場情報、リアルとしてのその様子が一般レベルで垂れ流しの、野放しの状態だった。
本来ならばあり得ず、神の采配が、このことにおいては、関与してた、関係してたのだと
思うんだ……。*そっか、ハカイダーは、ゴジラだったんだ……。

それらの情報に、敏感に、如実に、ことの一切を、直感において理解し、反応してた人たちってのも大いにいたにはいたのだ。これがジローの良心回路とて結ばれることとなった原点。これが不完全としてのものであるとしての設定が、また興味深く、秀逸なるのもになる。どうしてあれは不完全なるものとして設定されなければならなかったのか?。また、お話しの最後、イエッサー回路(悪魔回路)を不本意な形ではあったが移植されてしまい、これによって初めてジローは限りなく人間に等しいものになりました〜としての落ちとなっているのだが、あなたはこれをどう思い、どう理解するのだろうか?。

あれは日和りみとしての物語そのまとめ、落ちでしかない。子供だまし。それとしてのまとめでしかなかった。まっ、連載が少年サンデーだったし、読者層は低学年を想定されてたんで、しょうがないっちゃ〜しょうがない……。

追記: 中途半端な物言いなのでやり切ってしまおう……。



01は長男だ。もっとも親の写し身としては完璧なものになる。身近にお手本がないので如実なまでにコピーがなされてしまう。基本、長男長女としてのものらは責任を意識させられてしまってある。追記:異性としての片親に男女ともに驚くほどまでに似てきてしまう。特に外見においてはだ。ここは人格としてのことだ。内面はまた別。まっそんなとこ。さてゼロワンは見ての通り、もう

人格としてのその、それのみの存在なのだ。このことはそのままに頭だけの人間であるって言い換えてもいい。これにおいての困ったことは、自分としての考えは、その価値観ってものは、「簡単に」、変え得るってことなんだ……。信念やら理念、正しいこと間違ったこと、すべては相対的なるものでしかない。このドライブにおいて宗旨変えはどうしても簡単に起こってきてしまう。特に容易くして決定的なのは、自分が属するその組織、その集団、その社会においての価値観が、自分としての考えを、その正義を、律する、律してある、それを決定するもってこと。(だからこそ、ギルの手下にも、ことが整えば、簡単に成っちゃうわけだ。)だから人格だけをもって生きてる人間は、実はロボットと、さほど変わらない…。

追記: Re: 相対化ドライブ。
こりゃ〜自分の造語なんだけど、なんのことを言ってるかっつ〜と、長いだの短いだの、多いだの少ないだの、きれいだの汚いだの、こういった話しは、みん〜な相対的な話しでしかないってこと。なにと比べるか、比べたならばのはなしでしかない。同性婚は社会制度としては組み込めない。正しい?。組み込める程、現在の社会にその余裕はないだ。介護や年金制度もそうだ。
究極の話としては人命は遵守されるべきもの。これはたしかにそうなんだけど、国家の一大事の前では個人の命の価値など、たやすく吹き飛んでしまうことになる。戦争がすばりそう。
理想論だけでは絶対に駄目。今ある状況下において、部を弁えた生き方しか選択しちゃ駄目。

もう一つ…あのアメリカスタートの、あの「日様上った会」のYou Tubeチャンネル久しぶりにて観たんだ……そしたらさ〜久方ぶりにあの高齢の御大、おじいの神父さんが、ご出場されてたのさ…。余りにも出すぎってってことで、後人を育てるの意味もあって、少し出番を控えられてたんだと思うんだが、今回のテーマに関してはこの自分がやるってことで出てこられたのであろうが、これがまた聞いてて、思ったんだ…「あんたは今ここで語ってること一つとして信じちゃいないだろ〜」って……。いや問題はだ、あそこの真の御本尊であられるところの、それとして祭り上げているところの、あのエレンホワイトなんちゃらいう女預言者の説を、余りにも鵜呑みにして信じ過ぎてるってことなんだ…。彼女の説は、自分と一緒で、かなり独断的な解釈が多いんだ。当人はともかくとして、一般の、周りの人達がだ、たやすく納得できるものではないはずなんだ…。それを、さも真実として、喧伝することには、大変に難しいことになってくる…。だがだ、あのご高齢の神父さんは、熱心に、心を込めて、解説を行ってられる、られてたんだ…。このことは、いったい何を表しているのか?。彼が今ある地位を、それのいての権威を、仕事を得たるのが、あのお日様上った会なる組織においてのことだったからだ。ならば、そうであるならば、そこのいて真理であるとされていることは、「そうである」と、思い込まなけりゃ〜、しんじこまなきゃ〜ならないってこと。それができないのならば、一切をなげうって、退会するにしかなくなる。自身としての確信、理解がなくとも、人格サイドにおいては、それをそうであるとするは可能になってしまう。そのことを果たしているのが、今の自分の生活の糧を得るにおいて、属しているその組織、その社会としてのものになる。

今の日本において、憲法改正の必要性を国民が意識しだしてきてるのも、侵略を受けるとしての事態が、かなり現実味を帯びてきているからに過ぎない……。

ことの真実は、感情において、それも恐怖としての感情において、ひとは動かされているにしかない。この恐怖をどう乗り越えるのか?。極論的にはそれは無理。信仰において生きること以外には。(もう一つは、

、悪しくしての事態の到来を意識、想定しておくこと。そんで先に手を打っておくんだ。ある種の妄想力、悪いことにおいての想像力ってやつがいる。杞憂だって構わないんだ。そのことにおいて、なんらかの手を打つ、準備をしておく。これはインテルの創業者としての社長が言ってたことでもある。きっと彼は、いつも精神がボロボロの状態になってただろうさ。でもね、それでもやっぱり足りない、間に合わないんだ。なので〜、やっぱり神様にすがって在る、毎日を生きているってのしか、方策は、ないのかも知れない……。)追記終わり!」


次男としてのジローには作者石ノ森章太郎ご自身が投影されてある。氏は感受性において余りにも優れすぎていたのだ。過分に情緒的な本質においてのその疼きこそが、良心回路たるものにおいてのそのイメージ、その機能、その考案となってたんだろう…。*氏は一回、世界の実情を確認するために各国を渡り歩いてる。009の構想を練るにおいてだ。

物語としてのラストは、ジローがイエッサー回路、悪魔回路をも組み込まれたことによって、
大切な家族、かって仲間としてあった愛する兄弟たちまでもを、破壊殺すこそさえもが可能に
なるとしての展開が描かれてる。



なんのこた〜ない。これが「大人になる」ってことなんだよって、良心ってやつの疼き、痛みを感じながらも、悲しみを覚えながらにしながらも〜っ、悪しくして悲しいばかりの、その破壊行為ってやつであっても、手を染めれなければ、やらなきゃ〜、やらなくっちゃ、ならないんだよ〜って……。

       ことの猶予を許さない、そんな緊迫した危機的状況、その現実の前では、
                 悠長なことは言ってらんない。






この落ちにおいて作者石ノ森章太郎氏は後味が悪かった、なにかしっくりこないものを感じていた。なので、特別に独立としてのイナズマンのエピソードにて、その後のジローをやったのだ。なにをやったのか?服従回路としてのイエッサー回路を焼き切ってあげるのだ……。誰かの指示、命令にて、社会を取り巻くその状要請において、動いて、働いてあるままのジローが、許せなかった、認められなかったのだ。





でもこれじゃ〜振り出しじゃないか〜〜!。これを、自分は、日和見だって、云うんだ…。

もうかっての純真なままの子供には戻れないって…。


ジローたる存在においての課題は二つ!。

本質と人格においての調和が一つ。左脳と右脳の統合ってことだけでもいい!。

これを、どうお話しにおいて、その描写において表すか?。

平衡状態を可能にせしめるその中心を、車軸の軸部に留まることを如何に達成するのか?!。
ジローにどうやって体得するのか、させ得るのか?!。

もう一つはエネルギーの問題!。

01は夜寝て朝起きるまでの充電ってことを表す太陽電池で動く。ならばジローはどうなってた?小型原子炉を内蔵だって…。これは、こりゃ〜ダメだ……。01と同じくして、太陽電池で動くにしとかなくっちゃ〜……。あれらは所詮は人のモデルでしかないのだから。

ことの最重要なるは、人としての人間、その個人が、人の社会を超えてのその次元に接触できるのかにかかってくる。そのことにおいて無尽蔵のエネルギー供給を叶えることが出来たにする。

イナズマンとしてのあのコードは超能力者だったので、それなりに、やんわりと、あちら、その神聖力としての源への示唆、ヒント、暗示にはなってはいたが…。さて、少し弱いような。

本質のいてのその本音とその志向その求め理想と、環境要請からの矛盾は、個人にては解けない。絶対に解けない!。それらの仲介を和解を果たしうるものがあるならば、自分を超えての上位にて、それを探すにしかなくなる。自己は絶対としてのもの。だが生きるべくしての環境はあくまでも流動的にして相対的。その両者間においてバランスをとるならば、両者ともにして、その一方の存在が、片方においてのその存在を意識して、お互いに導きを行うこと、調和を願うことが、どうしても必要になる。

 すべての根源源泉にして、すべてを超越してあれれる方の助けが、どうしてもいる……


    求めよ、さらば、与えられん。   我こそに、汝らは、依り頼めよ……

 この天よりのメッセージにたどり着くことが出来て、彼は本当に変ってしまうんだ……
           そして、彼の思いにおいての


   以降の彼においての動機は、目的を見出すにおいての思いは、以下のまんま……

        主よ、わたしを平和の器とならせてください。
(私を、

として用いてくださいますように!)
            憎しみがあるところに愛を、
            争いがあるところに赦しを、
            分裂があるところに一致を、
            疑いのあるところに信仰を、
            誤りがあるところに真理を、
            絶望があるところに希望を、
             闇あるところに光を、
            悲しみあるところに喜びを。

      ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
           理解されるよりも理解する者に、
            愛されるよりも愛する者に。
      それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
             許すことによって赦され、
         自分のからだをささげて死ぬことによって
         とこしえの命を得ることができるからです。

   これがジローが到達すべきそのゴール。あの物語としての真のエンディング。
    ある意味、

ってことにもなるのかもしれない。
   人の世としてのものではない、それを超えてある存在が命じてあるならば、
            自分はなんだってやる、できる。
  なぜならば、それは自分の良心としてのもの、魂、それの拡大物でしかないのだから。


 *上記は、アッシジの、あの聖人、その言葉、あの彼の編み出した祈りでした〜……


良心回路として例えられてある本質は、これもまた発達しなければならない。
それが無事発達してあるってことはどういうことを、どういった事態を表しているのか?。

また今の時代にある現実に沿った、それに即した手段方法、適切なる知識をもって、ことは行わなけりゃ〜ならない。そうしない限り、なにもできやしない。いらぬ問題ばかりがまとわりついてくる。あと資金がちゃんと充分に潤沢にあるとか、社会常識としてのマナー仕来りとかに精通してなければならないとか、組織内における決定権ある重要なポストに付いとくってのも、大事なことだろう…。こっちは人格としての、それにおいての課題。

良心としての自分の心と、人格としての自分の間におけるその折り合いを、どうつけるのか?つけ得るのか?。部下の半分を君の裁量にてリストラしなさい。そこそこのエリアの反乱軍のそのすべてを、殲滅しなさい。ナパーム使ってもいいから。ともに命令であり、やることは実際には変わらない。イエッサーとただ答え、迅速に実行するしか、あなたには選択肢は本当のところはないのだ……。

そいったことをしなければならなくなる時代としての、その状況要請こそが間違っているのだ。この悪しくしての彩りを添えてきてる背景としてのものがテクノロジーへの信仰、それの偏重になる。技術革新、生産性の拡充拡大こそが金になると…。金を増やすにおいて奉じないものならばそれらすべては

と…。

ここが剣ヶ岳。本質はこの状況、日々突きつけられてくる選択において、苦しむ。確実に苦しむ。この苦しみと、これを味わってある自分の心において、対して、あなたはどう対処するのかが剣ヶ岳。どう対処できるのかがあなたの真実の力量になる。苦しむことにも価値はあるにはある。それは貴方に重さを与えてくれる。存在においての……。

この苦しみを回避すること、厭うこと、知らぬ存ぜぬとするところ、それを突き通してあることこそにこそ問題はある、起こってきてしまう。これは実際のところは本質としての自分をネグレクトすることでしかない。それの死をも表す。その他はだ、虚栄心とプライドの充足を求めてに願っての夢見てるだけの、差別妬み嫉みを滾らせるてあるだけが生きがいと成り果てての人間でしかなくなる。他の時間帯は飲んだくれてるか〜、寝てるか〜、ただテレビもしくはYou Tube見てる聞いてるだけ。いやいやそれは既、にニンゲンモドキとしての存在でしかないって……。

そこにある苦しみを脱する為に、ありとあらゆる思いつく限りの手をつくすってのが一点。
でも、その殆どは、殆どが、

水疱に帰す
すべては、良きことも悪しきことも、なるべくしてなってるのに過ぎないのだらか……。
あなたの介入の手などまったく必要としてない。ズバリ!余計なことなんだ…。
なので〜、あとに残るのは、神に、天に、縋るにしかないんだ。
なので〜、祈る。渾身の力をもって!。そして、その祈りを決して絶やさない!!。
ことの思い、ことの願いが自身の心の内に、有る限りは!。
哀れに、可哀想に思った、その誰かの為に、そのひとの幸せを願って祈ってあげる。
すると〜…

動きだす。作動しだす。作動してしまっている。
結果の表れは、きっと貴方には知られないであろうが、確実に、ゆっくりと……。
ことの成り行きを、その結果を、追う必要はないんだ。むしろ知らなほうがよい。
ただ信じてあるまで。

こと落ち着きは、そんな貴方を憐れに思っての、その重荷を取り上げてあげようとしての、
ご配慮の、賜物、偶然でしかないのかも知れないが、確実に良くなる、なってゆく。

無常ならざるものなし。すべては間違いなく、移り変わってゆく。

つらくしての、悲しみばかりの日々が、つづくばかりではない……。



最終回としてのIIIは、モスラ!とかキングコング。

アレらはガイアにおいての、その眷属、手飼の聖霊たち。

トノサマバッタと、ギンヤンマ、オニヤンマの写真を上げるぜ〜!。

これにナマのまま触れることができたその日には、驚嘆しかない。

これに、これらには、神聖さを、覚えざるを得なくなる〜〜……。

自分は(S37誕生世代は)まだ幸せな方だったのだ。

山奥に強引に造成した、そのニュータウンに住めてたってことにおいても……。



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