4. ブレイク・スルー(pt9)Da’at (I)

文字数 43,652文字

読者の皆様へ、
またもや収集がつかなくなってきたので、未完成のこのまんまで放流してしまいます。
これで、おそらくは七割り...も、いってないな…。
ダート本体が、残り三割を受け持ってくれる手はずです。
そこにおいての肝となるのは、演算処理その過程においての領域概念。
そこに複雑系としての仮想空間を持ち込む。
その領域は二十個あるっと。だから正十二面体が登場するっと。
その他いろいろ未だあるっと…。
Dr. Sirou(シロー) Kishibe(キシベ)ネタはもう一枚あるっと。
本当にごめんなさいね〜っと。天村崇っと




                  【警告者あり!

                     其ノ


                 雨具(アマグ)羽織乱(ハオラン)羅宇(ラオス)出身)


                  【警告者おり!

                    其ノ



ほんまなんちゅう

を真面目な顔して語ってけつかっとるんのか!

「ボクね〜もうこっちでえらひ(おこ)ってしもうとるんですよ…何をしてくれとるんのかと…」
            Dr. Sirou(シロー) Kishibe(キシベ) 元虎屋(タイガース)和声楽団膜鳴楽器(タンバリン)奏者




                  【奥義秘伝書




Re: さて前説として、まずは”バベル”の話しをしようじゃないか...。

あそこは意味深く、また謎としてある。要約もってその内容を確認してみよう。まず言の端にて語られてあることは「the whole earth was of one language, and of one speech」(KJ)ってことなんだ。一つの

と、一つの

ってことなんかな?。※口語訳において、ここは

ってことになっている。記述の為の言語と会話における言語ってのがあったてことでいいのであろう。※むしろここはだ、一つの、ただ一つだけの言語大系が、あったってことが肝心なんじゃないだろうか…。※(これはゆくゆくはコンピューターにおけるプログラム言語だってことに収斂させる予定。でもかってとは違って、それは外装においての共通言語ってことなんだ。外側の世界が持つ統一言語。)

次いで話としては、生活水準が向上していく中で、文化文明が進歩発達していくにおいて、人々は

を、町の【

】として建立することを思いつく。それも

程のものを、その高さとして”在る”のものを!。このことは、「全土にて、その地のことが、その街が、その国に関してが、そこに住まう住人、我々自身に関してが、広く知れ渡らんことを願って」の、それを目的としての事業だった!。

なんでこのような構想を持つことになったのか?。「民族としての、そのまとまりとしてある状態を保つがために」。我々としての「

!」
。この願いの下。そうなってしまうことを、「(はば)みたかった」。「阻止(そし)したかった」から…。※ここも重要だ。気の知れた仲間家族といつも一緒にいたいだ。生活していたい。ずっといつまでも永遠にって。これが本音本懐本望なのだ。だが!…散らされてしまうっていう事態、その経験が彼等にはかってあったのだ。そして、その理解において、ことはやむを得なくして起こるもんなんだってなってたんだ…。※そもそもの、そうなってしまうそうされてしまうところの原因に関してのおいての理解が留め置かれてしまってる。もうできなくなってしまったのか?。

忘れ去られてしまったのか?!。主語としてのその観念に完全に恒久的に同一化してしまって、

たるもの、すべてを包括してある方を、すべてを支配しておられる方を、おざなりにしてしまうこととなる。軽んじる甘く観てしまうそんな運びとなっていってしまうのだ。其れが為に、まったくもって傲慢なる存在としての極致たるものに成り果ててしまうからなのだ…。

、具体的なる話なんかとしてではな〜くー、ひとのそのこころとしての傾向性、それの現れだと捉えるべきかと…。偉くなりたい。実効支配権を手に入れたい。誰もが皆に高く評価されたるものにしたいなりたい!。そして、自分としての、この自分においての家庭を会社をその王国を、

。するのだ…そして、結果手に入れられたるところのその白亜の殿堂が、塔としてのものになる。それのシンボルってわけ。つまりは城のことになる。その自分こそを、最上最高なるものとして、尊きものの限りとして、祭り上げられんとしたところの神殿たるにもなる…。この辺のヒトとしての心の機微は、誰においてであろうとも了承可能だと思う。だから、バベルの塔が実際に本当にあったかどうかなんてこた〜、どうでもいい

なんだ…、それは我欲において紡がれたところの夢、観念としての体積物、それにおいての絶対化としてのもの、そうなってしまう、そうしてしまうこと自体の

なのだ!。

※宇宙にお天道様や月星がその存在を大きくアピールしてあるせいか、上方高みってのがいたく人のこころにおいては目指すべきものとして刻まれてある。いたく真っ当でしっくりくることになってる。それへの架け橋をかけたい、それへと身近に迫りたい、それとそちら側と一体化したい、上り詰めたい、それとしてのもの、そのものとなりたい…。でっ、そのことのその思いとしての実現の術が高い塔を築くって…。本に、ほなこつ、単細胞。「あんた〜バッ…」。

※もしそれに実際直に触れたなら、逃げ出してしまうことになるのに…。その高みは実際にはヒトたる存在においてともなれば近づき難くしてまた得ないものでしかないのに…。遥か彼方の頭上にて認めるにしかあれないものなのに…。このことが分からないであるいるがために、独りよがりとしての、便宜的にして詐称的なる、もはや欺瞞的なる発想振る舞い作法をもって、塔ってやつを造ることになってたんだ…。

※オベリスクとしてのものはあれは発信針としてのものになる。祈念としてのその思いを天に知らしめんと届かしめんとしたるとろこのもの。塔としてのものとは、まったくもって、その概念は違ってる…。※なんかこの辺、自動書記になってる。書かされている…。

このときの人々とは、このときの状況下にある人々ってのは、あの大洪水を無事生き延びることができた人々になる。その人々の、末裔達ってことになる。あの今後の世界を担うに値すると神に認められた、ある意味純粋無垢なるひとびと、その彼等の末裔なのだ。あの神の祝福としての言葉「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」のままにその数を大いに増やすこととなっていた。だから町なのだ。おそらくはこれは街、都市のしてのものになるはず。

洪水によってのリセット。また良民だけを選んでの残しての、この選民ってことをもってしてもダメだったのだ…。人の子らはまた同じくしてその悪しき傾向性を体現してゆくこととなったのだから。ある見地からずれば、それは堕落としての運びに他ならない。このことの最たる事例がその証明があの天にまでも届かんとするあの塔の建立だった。

※ことのそのトレンドは現代にまで続いている。確実に!。洪水によっての人類のリセットはもうしないと神は誓った。ならばだ、次の策は如何なる方法にてなされるというのか?!。イエスの来臨と磔刑とその教えの伝教が済まされた今、神が選ばれるであろうその方策は?。自滅によっての人の子、彼等自身によっての相互破壊、相互抹消にしかない。このタイミングにおいて、つまりはもう全天をもってしてのリセットしかもう後にない状況において、イエスが裁定者としての名目の元、天の軍団を率いて、この地への降臨がなされることとなる。そして徹底的なる超自然力をもちいての裁断がこのとき

、なさることとなるのだ。その結末は新世界として創り変えられたるところの世界へと移行が適うものと、一旦終わりとされたところのこの地球にて、それが物質性において崩れ行くままに崩壊する中において、もはや永劫としての時間経過としかならない、その自覚、その認識において、業火によって焼かれて苦しみ無事に決定的なるをもってぶんべつされることとなる。このことはもう自然に〜としてなのだ!。

※すべての創造者にして、唯一の存在にて、また真実なる方が、何を誰をどうするよう、どうなるようにしようと、それは彼の勝手、自由なのだ。物語内の登場人物たちに、そのすべての顛末、落ちたるもとのへと至らんとしての流れに、抗うこと抗することなど所詮、出来得ようわけがない!。ことここにおいては、ここ地球においての生存ともなれば、イエスに連なるか、それを拒むのかの選択をするにしかない。それが適う機会、自由たるものは、ちゃんと用意されて与えられていた訳だし…。すべては然るべくして、ただ自動的に整うまで。

閑話休題。どっかで話が逸れていってしまった…。この話の大事なポイントはだ、結局ヒトの子等は以前と何ら変わることもなく、罪深くしての生存、その堕落の道を突き進むようになっていってしまってたわけだ。でッ神としてはだ、操作のそのやり方を変えた、工夫をされたちゅうぅぅぅ訳だ。

  ヒトの子等が日常において使うその言葉を乱して、互に言葉が通じないようにされた。
        結果として、ヒトの子等は各地にて散らされることとなったと。
               また町を建てるのを

と。
  このことによって、かってのその町の名は【バベル】(混乱)と呼ばれることとなった。
           主が、

、全地の

である。
           主はそこから

全地のおもてに

っと…。

やっと本題へとたどり着いた。考察における真の対象たるものが、ここで、
すべて確認することがでてきるようになったと。

Gはユニバーサルランゲージ(普遍的言語)なるものは既にかって誕生し、実際に使われていたのだと語る。一般的な現行の言葉によるコミュニケーションにおいては、齟齬たる事態が発生する。これが、こうなることが、どうしても避けられない。

脱線:自分のテニスクラスにおいての恒例のネタに「まずは特養にて務めるべし」がある。その意味するところの真なるを察することのできた、そのほとんどすべての皆さんは、速攻、神速をもってして引かれてしまわれるわけなのだ〜がー!でも、最近これにも慣れてこれてしまったのか、このあいだ、この常套句においての、おもしろいツッコミをいただいた。私がこの伝授を行っていると、発していると〜、大声でとある高齢の女性に、真摯なる趣き加減でぇ〜伝えているとー、とある別の方がだ、この方は既に”徳養”に励まれている。だからもうそれは必要ないと…。「おもろい!」と私は歓喜の思いをもって、叫んでいたのだよ。(←意表外からのウイットに富んだ返しであったからだ)。確かに、その…、私が伝授するべくお伝へを申し上げていたその方は!、毎朝、起きてはすぐに、写経に励まれているって聞いてたんだわーーー。そんで、私の中におけるその高齢の女性の方のコードネームは「庭球尼」だったわけなのさ〜!。コーチがこのネーミングを聞くに及んで、この語の意味するところ、まさにその響きこそにいたくご納得されて、失笑して下さってたってこともありましたー…。

会話において、少し抽象的な、また高度な内容、その属する領域のことともなると、その人間間においてのコミュニケーションは途端に不可能に、要領の得ないようなことになっていってしまう。だから、ヒトの会話ってのもその底はたかが知れている。事務的なるものなれば、ことはそこそこそれで十分に足りているもしくはだ、ことの問題たるもののその面白さを、あえてをもってしてで意識的にボケ倒して使ったなれば、それはダジャレとなるまでの話し…。

ト・ク・ヨ・ウ」が特別養護老人ホームのことなのか、「徳を養うべきこと」ことなのかへと簡単に分かれていってしまうんだ。※ここはあくまでも問題の核心たるもののわかり易さ優先しての例題となってます。各個人の文化的背景によって、他人が発したその言葉の意味は、もうてんでバラバラ、無限の可能性をもって、その幅をもってして違っていってしまうことがそもそも問題になる。その連想の向きがどうなるか分ったもんじゃないので、もう意味ある会話とはならないなりえないってことを言いたかったまで。このことの例として話したまで…。※そのツッコミを入れた方がまた頭のよく回るヒトで、私と同じく冗談好きだったのさ。ことは意識的なる作為をもってしても、よう分からん事態に容易くされていってしまうってこと。これもここに含めることができるのだろう…。(?)

   では、そのかって既にこ地球上にて誕生してたっていうユニバーサルランゲージとは、
        その

言語とは、

であったのだろうか?。

ことの対象領域たるものが最初から厳格に客観的にて規定されいた。象限(十二ある)の指定が接頭語

なされていた。また、ことの重要さとしての階級が

某らかの形で各内容の発信発語においては添えられていた。現在の言語においてともなれば、「とても」とか「大変に」とかのことになる。たぶんその折においては七段階をもって。七階層を前提として、それらの組み合わせをもってして!。

そして、これこそがことの核心となるのではあるが、人々はテレパシーとしての意味伝達が、
未だその時代その状況下においては可能であったのだ。

もってしてのものが…。追記:現行の人間つまりは我等と、かってのその昔大昔の人間とでは外界としての世界認識が違う。それがかってどんなんであったのかに関してはホピ族の方々の話が参考になる。最初は丸ごととしての宇宙と、それとの一体感の元に暮らしていたんだ。記憶力がもう圧倒的に凄まじいまでに良かった。だから、書き言葉としてのものは、それはサインとしてだけで足りた。そもそも文明の曙としてのその時期はもう信じられないほどに古い。またその知性としての発達は長きときをかけてあのシュメールの時代に頂点へと達している。あそこが人類としての頂点になる。世界からのダイレクトな形によってのおいての情報摂取吸収、そしてその霊知をもってしての理解、また驚異なるものとしてのその記憶力。そして精神感応をもってしての中身としてのおいての伝達その伝授…。

正確なることに関わる領域の提示指定と、ことに関わるものを、モノたちを、そこにおいての絶対座標として表して、自分が語らんとすることを、自分が今、印象思い考えとして抱えているものを同時にその相手へと受け渡す。だから、この自分としての直感としては、その意味内容の殆どは、精神感応においてのその伝達の中身であったのではないかとなる。強固にして厳密なる受け渡しとしての橋がありえて、実際にそのものずばりがそれを越えていくのがその当時の人々におけるコミュニケーションのありかただったのだ。いや、ノアの子孫たちであったればこそ、できたことであったのかもしれない…。

これしかありえない。ありえないんだ…。このことが叶いうるという事態に、あの余りに強固なる集団としての団結力/結束力たるものはあり得た、適っていたのではないのか?!。
〔象限においての座標指定〕 + {精神のダイレクトな連結直結をもってしての情報伝達}
これがセットだった!。どちらが欠けたとしてもことは成り立たなくなる。

ならばだ、神は何方の何を変えられてしまったのか?。

おそらくは精神感応におけるその

を、その

を、その

を、著しく阻害されてしまわれたのだよ。追記:ヒトのその頭においての記憶容量ってやつも変えられた。かってのその昔ならば、口伝をもって聖書100冊ぐらいは楽に、誰でも真摯に取り組むならば憶えることが出来たのだ。あのヴェーダもそう。文字にして残すってのが基本、あまり必要とされてなかったのだ。※これは自然からの作用によるものなのであろう...。



以心伝心をもってしての思い情報の伝達、これこそが実は意思疎通においての本体だったのだ。実質80%以上を越えてのその中身だった。だから、その伝達を阻害してやるとなるならば、その方法は至って簡単だ。個人としてのその殻を強固にしてやる。その厚みを増してやればいいだけの話しなのだ!。そうして精神の授受を難しくしてやる。感度を鈍くしてやる。もう分からん伝わらんようしてやったのだ…。そもそも、それとしての傾向性は既に民族意識においては最大加速をもってしての増加にその傾向にあったるのだから。これを個人としての意識においてで誘導してやればいいだけ。そうして

固着させる。そのまんまを自己意識においてのものとなるよう、転写してやればいいだけの話しだったのだ!。

このことの結果として、精神感応によってのそのコミュニケーションのあり方は、

不可能となってしまったのであった…。

※ことはバリアーとして働いている「その鎧」をとるならば、もし仮に取れるのならば、その能力は再び蘇えってくることとなる。だから、潜在的なものとしては未だ我等の内にては、その能力は備わったまま、温存されてい〜るって、ことにはなる…。

神に罪はないんだ…。元々をたどれば、禁断の樹の実を食したことによって私としての我等としての観念が発生してしまったからだ。本来ならば、ここ地球において、ここの環境において、それを自ら脱して、至上なるもの、それを神として仰ぎ見上げることこそが課題であった訳なのだが。確執葛藤の炎の自己確保をもって、し〜てーで…。それを、どこでどう人間はとり間違えたのか、むしろ獣としての本能にほだされて、これに迎合して、我こそを、我等こそを、至上なるものへとして、押し上げるようになってしまった。祭り上げんと、するようなっちゃった。このことにおいて、現代、今現在に至っても、なにも、一つたりとて、そのことにおいての変更は、ありはしないのに…。



※くれぐれも間違わないようにしといてくれよ〜、このことは意識しての、理性においての、それらの上でのことなんかじゃ〜

んだってことを…。ことはあくまでもこの獣の肉体に元から備わってある本能、そのベクトルに

で、

で、それに染まって支配されてしまったならば、もう自然とそのようにあのようになってしまうだけのはなし。結果として

そのように整ってしまったまでのはなしなのだ…。

                   〈暗転〉 

Re: Two(2) more another Babel!

        ここでまた別の、別種のバベルの塔なるものを、
         あれとことを同じくして建設されたるもの、
   またそれの構築でしかないと思われるものを、一つご紹介させていただく...。



 「どこにその塔たるものがあるんのや〜?!」などとは言わないでね。今説明するから…。



                  こうゆうことさ…

そうしてことの意味するところが分ったならば、次はこのことに思いを馳せねばなるまい…。




              You know what I mean here?.


補足:これは株式相場においての格言それの流用になる。本来は「山高ければ谷深し」。これの意味深いところはさ〜、ことは人智を越えたところで、そうなってしまうってことなんだ。どうしても、かってに、そうなっていってしまう。ゼロサムとなるべくしての

ってやつにおいての

、どうしても、働いてしまうのだ…。ついでに、もう一つ、大変興味深い、不思議な格言を、法則を…。『未だはもうなり、未だは今なり』。基本、この自分ってやつの判断は〜、間違ってる〜ってことになる。行動としての習慣を、破らなければならない。そんな局面がきっと来る。是等の格言の応用範囲は、株式の売買においての話だけじゃない!。未練執着欲貪りとしてでしかないその自分の状態をスパッと切り捨てることが課題として確かにある。それが出来た暁には、思いもかけない、かけれない、そんな報償が”きっと”出る!。


先のオリジナルと同じくして、まだ未完成のままだね!(←急ぎ皆さんからの

を封じてる)。この図において着目をいたしていただきたくは〜(チョン!)、ピンクの蛍光色の線にて示されましたるところの〜その区間のことになりまっすっと。ここの〜この大航海時代は!15世紀半ばから17世紀半ばまで続きました〜だ。約二百年間ってことになるるう〜。「なっがーーっ!」。よっぽどやりがいのある、楽しいしく、また

大変熱中の出来る行為、中身、事業としての内容だったんだねっ!と…。

大層熱心に近代国家としての各大国連は、この陣取りゲームに励んでたってことなのさ。そのことにも終わりとしての節目があったって〜ことはだ、スバリ!、とりあえず植民地とすべき所は、その押さえるべきもんは、もう完璧に押さえちゃった。侵略と目的としてのその行軍は成功裏の内に完結しましたた〜てことでしかない…。

この時代の特別なること、驚嘆をもって、しっかりと確認しておくべきことはだ…「ただの略奪、侵略にしかすぎないその行為を、国家ぐるみで、大国単位で、大々的にやってましたー」ってことになる。純朴素朴なる後進国狙いでね…。そして、なによりも、最も重要なることは、その行為においてのフィールドが、その舞台が、最早、この地球の全表面となってしまってたことにこそある!。隈なくしてのその全土全面が、ことの舞台となった〜ってことにある!。簡単な、今流行りの言葉をもってするならば、ワールドワイドで…。

※ことは、そうなったならば、ほんと〜に大変な事業であったことが推測できる。想像力ってやつを働かせて考える必要がある。船の調達ってやつがまずある。大金がかかる。個人が同行できる金額ではあるまい。そこで出資者を募ってこととに当然なる。それでも一人あたりのその参加資金はどでかい金額となっていたことだろうさ。当然にリターンを勘定にいれてのことだ。このころにP/L、B/Lってやつが考案されている。これらの決定的にまでも有用なる金銭整理のテーブルを発明したのが、またなんともま〜よくでたもんでユダヤ人さ。金勘定の金銭の取り立てのエキスパートとして磨き上げられてきたるところの民族だからね〜。シンプルにしてもうこれ以上のものはないであろう。凄い発明なんだよ…。これなくして年計は果たし得ない。

がまったく算出できなくなる…。



ちょっとコラム:

人が生きるにあたり習得すべきことの一つに「

使

」ってのがある。これはとんでもなく難しいことになる。無駄金使いばかりが常習なのだから…。いろんな会社に出入りしたが、どこにおいても結局使われることのなかった、なんの役立つことのなかった機械やシステムがあちこちの隅っこにては眠ってた。それらもまたBSにおては資産として計上されるわけなのだ。だから、もうこうなってくるとそれは”インチキ”でしかなくなる。自社内の管理会計においてそれは死産としての名目を与えて、廃棄

として会計処理をされるべきです。ご自身のその有り様においてこれが出来るよう真剣に努力しておくべきだ。それが出来ない人間が他人の他者のお金を預かったならばとんでもないことになる。湯水の如く無駄に使ってもなんら恥じることのないようなってしまうんだってば...。当選してしてしまったあの人達のことを思い出してね。あの元都知事とか号泣元県議とか...。ケチ臭くもしみったれた生活をしてきた人間が、(他人からの)その大金の決済権を手にしたならば、どうなるかは火を見るより明らか。それはどうしたものなのか押さえ難く、また阻み難くしての魔力として、その

働きかけることとなるのだ。おんなじことをするよ、多分…。あとね、人件費、給与は禄としてあるべきものだとの考えを徹底すべきなんです。労に報いるべくしての給金。ならば労ってくれんとな〜ってな感じ。では労とななにか?になって、これもまた厳密にモニターできなきゃならんな〜ってなって、そのためのシステムを設計

。やはり京セラのアメーバー方式しかないな。これを自社の実体に則して独自に構築する。そんで月々の給与もその五割は変動費化しちまいな!。ところで間違っても京セラのシステム部門に丸投げしてはならない。すべて自分で考えるっと。また管理部門としての労ってやつも考え直さなきゃ〜ならない。それらもまた

に奉じるものでなくっちゃならない。社長や税務署の方だけみて仕事してりゃいいってもんではなかろうて...。金銭数字としての報告が、どれほどまでに影響力があるかってことを、自覚しとかなくっちゃ、できとかなくちゃ。現場の士気を高める、心を引き締めるってことを自分の労の課題として認識しなければならない。回り回って巡り巡って結局は自分の実入り、労としての評価にもつながってくるばけだし。欲しい欲しいだけでは駄目。その根拠を自分自身で作り出す生みださないと。意外とそのことは誰も考えてくれてやしないからね。それを為すべくしての材料はその環境は今もう既に目の前にあるっと…。
追記:ことは団結力としての表れとなるべくしての場の設え、誂え。社長が志高ければ、そこには間違いなく道徳心なるものが核心的なる価値として持たれることとなるであろう。これなくしてはすべてが裏目にでることとなるっと…。敬具。


閑話休題。船員としての労働力の調達、軍事力としての兵隊要員の調達、物資食料の調達。それとそれの保存管理。蛮勇としてのその侵略行為がなされるまでには、その現場に着くまでには、長い月日がかかるんだから…。

渡航中のその船中においては、絶対に必要であったことだろさ…。まず一般の人達では、その船中、現場に関しての実情が以下なものであったのかなんて想像がつくわきゃ〜ないのだ!。大変難しく、まためんどくさい課題が問題が船中にての生活においてはあった、山積であったことだろう。士気ってってのはどうやって、なにをもってして、保ってたんだろうか?。人間関係においてのストレスはそりゃ凄まじいものがあったはずだ!。ことは暴力によってと差別による苛めと性暴力としての吹き溜まりとしてその船内はあったのではないだろうか?。それは正に地獄としての世界としてでしかありえない!。そして、もそうであったとしても、尚、その事業は数百年の間、止むことはなかった。そうした苦しみと天秤にかけてでも、得るもののほうが遥かに莫大に大きかったてことでしかない…。悪鬼餓鬼羅刹と成り果たるの状態で、大挙して、未だ素朴にしてなるその民族意識にて暮らしている人々の元へと上陸を、侵攻を、侵略行為を、靴はいてのそのまんまで、行ってしまっていたのだ。そりゃもう碌なことしない、ならない、しでかさないわな〜…。

※ここは軍律/規律、高度なロジスティクス、兵站の確保、人心のマネージメント、ことの最終的なる収支報告書としての会計ってのがこの期間においての発明品であったってことが重要なんだ。これらが編み出されてくるにおいての、その必然としての、また必要としての環境であったって〜ことがーーー、重要なんだ…。

ここでちょっと時間のスケールその区分ってやつを確認しておこう。この地球規模においての侵略行為が活性化されたその期間二百年に続いて、このときの戦利品を略奪品を元手に原資にして産業革命たるものが引き起こることになる。先があってこそのその実現だったことだけはよく意識しておいてくれ。これは産業の機械化、自動機械の登用のことになる。これが果たされてこそ、軍艦戦艦爆撃機、爆弾等の近代的兵器が登場するその花道が開かれることとなったのだ。そのスタートは18世紀ってことだけでいい。そし先と同じくして二百年をもって、これを為しうる取り込める土台のある国々おいては機械によっての生産が標準となった。これの進展は現代に至っても基本、止んでなどはいない。より進歩を複雑さを増して、改善たるものがなされていってる。より自律的なるものへとなるべくして…。上記二つのムーブメントは、間違いなく関連している。機械化、テクノロジーの発展の上に、かってと同じくして、侵略略奪といった行為が今も尚行われてしまっているのだから。それも今ともなれば戦勝国としての国家間の間にても…。

※ここは歴史としてのとても

、なるべくして回ってしまったのだ。このことを言いたかったまで。そのことに至る前には、既にたくさんの小さな歯車が辺境の各地において噛み合い、回っていたのだ。それらのことの結果が、一つの塊となって、到頭あの大きな歯車を回すことになってしまった。ことの動力たるものはみなおんなじ。バベルの塔を築かんとしたあの思いとその欲求においてと同じおなじもの。まったく変わってはいないのだ!。

その被害者としての後進国ってのは、近代的軍事なんて概念を持ち合わせてはいないな弱小民族のことになんのさ。戦いは未だ部族間においてのみにて限定されてた。日本でいえば戦国時代としてのそのステージか?。いや、それにも至ることのないであろう、あくまでも小競り合いとしての諍いしか彼等にはあり得なかったのかもしれない。其の原始的な彼等こそを狙って、はるばる海を渡って〜越えて〜、大挙して〜、武装してそれをもってして〜、征服する為にやってきました〜っと。それをやった、やってたのは、ヨーロッパの大国さん達。この悪逆非道なる、他の誰がなんと言ようとも卑怯にして卑劣なるが実際であるその行為を、その犯罪行為の先端を開いてたのはスペインとポルトガルの両二国。そして!やがてにおいて〜!その二国がその悪逆非道なる行為によってでもってで、いかに美味しい汁を、思いをしてるのかを側から見てて、突如、俄然と、猛ダッシュをかけてきた、決めてきたのが、一切合切を横からかっさらおうとしてのが!か?、かの現代ともなれば紳士の国として名高くしての英国さんだ…。その盗賊まがいの略奪侵略行為において、先行する是等三国、まさにことにおいての先端的なる国々が、いかな戦利品をせしめて帰ってくるのか、これを探って、見てて、確りと知るに及んで〜、続々と、他の残りの国々も、同じくしての行為を、急ぎ始めることとなったのだった。内地、中東においては十字軍なんて名称にて、同じくしての侵略略奪制圧行為が、もう大々々的にて行われるようなってしまっていた…。

ここの、この現象こそが、この展開こそが、そもそもおかしいんだ。ことは既に人智を、人類の手を離れたところで起こってしまっている。この大航海時代が、まさしくしてのことの突端になるんだろうな〜…。表にて現れ来るところにおいては…。ここに訝しくして思われて見られてあることはだ、極端なるスケールアップがなさてしまっているってことになる‥。もうそのことに関わる一切が、有様におけるステージが、違ってきてしまっているのだ!。

かなり先の未来から、つまりは現代からってことになるのだが、そこんところに関わる歴史を、俯瞰的にて観るならば、何か

の作用にて人類が動かされてた、いたのであろうとの思いにもなるわけさ…。

それはモメンタムとしてのこと展開、(つまりは、まったく獣寄りのもでしかないその衝動、獣において確認されるあの

が、人間の社会組織において如実に体現されて行使されてしまった/いる/いくといった運動展開のことになるのだが)、それの増大増強が「一挙にして格段なるものとして進んでしまった」との印象になるわけさ。なってしまったのだ…。某らかの曙と言っていい事態だ。全人類を巻き込んでの、それにおいての規模における究極的なる何かの発芽…。でも、やはり、そのことが起こってくる、この事態に至る前には、当然な話しとして、この展開へとつながることが為されうべくしての準備としての期間があったのだ。ことにつながる準備としてのまた違う展開が、この圧倒的に巨大なる運動の起動に向けての準備たるものが、水面下では進行していたのだ‥。

ことはこの時点において、獣落ちとしてのその文明展開は到頭…ワールドワイドをもってしての舞台展開となっちゃったのだ!。この時節なるものが、たいそう、たいへんに、クリティカルだった!っと、そう心に刻んで覚えて忘れぬことが大事かな?っと…。そもそものこの国家単位としてなって、そのステージに上がってからの他国への侵略行為たるもの、その曙は、古代のバビロニアにて始まっていたわけなんじゃがのーっと。


※このモメンタムは、ある時期を境にして地球全土を隈なくして覆ってゆくことになる。

伝染していってしまったわけだ。それが大航海時代だってことになる。

ってやつには不思議な

。(このことはこの奥義に関しては

の世界)。簡単に言えば、つまりは言葉としては、”勢い”ってことにはなるのだけれど、それは周りを、周りにて集ってある

、強制的にて、

…いって、しまう、そんなもんなのだ。一種のハリケーンみたいなものではあるのだが、これは至ってスタティックではある…。そして、その渦中にあれば、その付近にいればだ、取り込まれていってしまうこととなる。

…。ことににおいては、もはや否応もなく、その色にて染め上げられてあいまうがままとなる。そうする、そう出来るだけの摩訶不思議なる力たるものが、

にはあるのだ…。

では、その最初のムーブメントとしてのものは、根源としてのことの始まりとしてのパラダイムシフトが起こったのはいつのころなのか?。そのものスバリ、まさにその事態そのものとしての表しの開始はいつだったのか?。

バビロニア時代においてのことだったのではないかと、この自分としては考える。まさに

開放されたることが、始まりであったのではないか?!と…。「その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた」(ヨハ黙示20)。そのタイミングは大洪水をもってしての人類のリセットがなされて、だいぶたってから。人の子等が再び町を都市を形成できることほどまでに満ち溢れててから!。

なんにおいたって〜、その始まりは至極些細にして些末まりことでしかなかったかもしてない。でも、だが人間は、一旦その行為に味をしめてしまったなら、もう一度その同じ行為を繰り返してしまうようなる。習慣/業の誕生。そしてそれはもう前ほどまでの満足を、与えてはくれなくなってしまってるんだ。すると、ことをエスカレートをもってのさいげんとなってゆく。おそらくは、この態度こそが、モメンタムってやつを生み出していってしまうんではないだろうか?。そして、それは、どんどんと、罪深くしてのものとなってゆく。必然的になっていってしまうものなんだ。その深度を、それを行う数を、つまりは仲間を増やして、また、それによっての、そのことによっての

たるもんらを、より一層たくさんに増やして、しまって…ゆく…。その罪としての総体をより嵩高きものとすることになっていってしまう。何故ならば、より多くの確かなるリターンを、富を金を自尊心の満足、これらの満ち足りを求めるならば!、もうずっと、いつまでも、最早永遠に、得ようとするならば!、間違いなく、そうなっていってしまうな〜…。



※時の流れ、そこに至らんまでの時間距離その尺度をアナログ的にで、直感的に測って持っていただくべく、二枚、二種を用意させていただきました〜っと。※こっちでは赤線にて印をつけた。※縦軸はことによっての社会的変化を、それらの相対比較をもって測った目盛りとしたみたい。※二次関数曲線にて急上昇していってますよね!。「キャー!しびれる〜」って思いません?。倍々ゲーム。複利複利複利の世界よーって…。「キャーキャーもう痺れて卒倒しそうやわ〜!」ってなことに、なりません?。w

 この急激なる上昇の原因はなんなのか?。なにがことのドライブとして働いているのが?
   この問に対しては、各自がそれぞれ、自分としての解答を、持たねばならない!。

これの進展においては未だまだ先が、”上”が、ありそうですよねっ!。神がこの塔の建立に対して何を思うのか?、そして、どうされてしまうおつもりなのであろうか?。

じゃ…、”W.W.W.”は!つまりはインターネットことになるのじゃが、間違いなく

こととなるな。では、さて、その方法ともなれば、それは、いったい…如何なるものとなるのであろうか?…。

    おそらくは天変地異としての太陽嵐、もしくは、ヒトの手によりてのEMP攻撃。

      でも、これは、まだ…単なる小手調べ、ことの序曲にすぎないっと…。


いざことに臨んでともなりますれば、もしやこの我等「ぎゃああ・ああああああ…」などと、みっともなくもまたはしたなく、叫ばれんこととはあいなりはいたしませんでしょうか?!。


               (この人が天乃村崇右衛門尉!)
           読者の皆様に向けて問いかけておられるのですよ!。


      「みな心配せんときや〜、それしてみても、

ことなんやし…」
           (その彼の又従兄弟!笑みが素敵!歯が白い!)


やっぱ、塔としてのものが築かれてあるってのが一つのサイン、それの象徴として捉えるべきかと…。何故に塔としてのものが築かれるのか?この現象に対しての原因の理解ってのがいる。また一旦塔としてのものが築かれたのならば、それはゆくゆくにおいては間違いなく崩れ去る。もしくは撤去破壊されることとなる。このリスクへの対処、それに対しての準備がい〜るっと…。



あのジェンガってやつは、人として何故ニカ備えたるの、その盲目的なる、また止む難くしてある、”塔”たるものを構築していってしまう…その衝動、この行為においての没入感(ごく自然に立ち現れてくる)、そして、その、やがてにおいては、その行為、事業ってやつは間違いなく破綻してしまう…、終わりってやつがそれにおいてともなれば、来たるものなんだよってことを、確認するためのゲーム…なんかもんね〜。なっが〜…。勝者なきゲーム。だって、み〜んな、それを建築することで飯食ってるわけだし、その塔を中心としての街ってもんに住んでるわけだし…。※奥深くしてあるとある真実を、その実相そのものが現れてくるからこそ、おもろいんだ。あのゲームは…。


     ★最後にもう一つ、三番目のものとして、

そのバベルの塔ってやつを…



この指数関数的なるをもってしてなる激増の様子、幾何学級数的としての鋭角の上昇曲線には「ゲェーーーーッ!」(異常にして行き過ぎ、まったくのお手上げヤ〜ン)ってなりません?。 それもこうれはだ、人によっての特段の努力、一切なしで(?)、ほぼもうかってに、自動的に、自然のあり姿のまんまにて、その構築はされていってしまってるんだ…。追記:その生育状態環境ってやつを考えたとき、その姿って食用のブロイラーみたいにおもえてくるんだ。人間にとってではないな〜。これはありえないっと。では何にとっての飼料となるのだろうか?。月か?…。とにかく、なにかにおいての贄であることに間違いはあるまい…。


                   〈暗転〉 

今回はクローズアップしないが、あれら二つの世界大戦があまりにも異常なる事態だったんだ。今ざっと計算してみたんだけど、六年って間に、

三万人と六千五百人

ってことになるんだ…。あのことがおそらくは黙示録にて語られたるところの艱難、それの

を告ぐるべくしての”号砲”であったのではないのか?!。両大戦合わせて約十年としての年月になる。その間にての死者数が余りにも莫大なものであった。ありすぎた…。二次の集結が1945年。そして五十年代、六十年代があって、損失にたいしての補填か、揺り戻しかなにかであったのか、人間として素晴らしき限りの人の々が、その人々の隆盛登場があって、七十年代になって、やっとこさ、

妙におかしい、絶対に間違っているとの考えが、人々とくに若者世代の間で、察知されだし、また共有されることとなる。危機感が伝搬していってたのだ無意識層のレベルにて。ことに敏感であったのがまた若い二十歳前後の人々、その年代層だった。だから、マイコンやパソコン、ウインドウズの登場以前に以前から、大きな時代の海練ってやつは始まっていたってことになる。

 全人類を巻き込んでの壮大なる塔の建設が驚くべき速度で始まってしまっていたのだ!。
 あのバベルの塔が。その装いもまったく新たにして!。その塔の”主”はでは誰なのか?。
 全人類のすべてが巻き込まれてある以上、それはもう絶対に個人なんかが主体ではない。
 それの寄り集まりとしてのグループ、組織なんかとしてでは到底ありえないんだ。
 巨大な主体、総体としてのもの、まさに人類そのものが、塔の主!。
 ことは、もしかしただが、人の子としての我等のそのすべてが、
 獣としての傾向性に染まりきって、それとしての生き方しかもうできなくなってしまった。
 それ以外の生き方をもう自主的にてでは選択できなくなってしまった。
 人たるものを律していた道徳律たるもののそのすべてが折れ、失われてしまったから…。
 支えをなくしたその樹は、大地に向かって傾きゆき、やがてに倒れるまでのこと。 
 それが崩れ去るにはまだまだ時間がかかる。それが必要とされることだろう…。

                   〈暗転〉

Re: 以下の内容は前項に入れられるべき内容になります。

でも未だ整理ができる状態ではないので、繰り返しになるとは思いますが、このままお読みいただければと思います。敬具 天村崇

この自分としては色々と危惧すること心配してあること危ぶんでいることがあるのだけれど〜、ものごとはなにも一方方向に進むばかりでもあるまいて…。何処かで、きっと、是正としてのバランス回復を原因とした、揺り戻してとしての発動現象も、あるにはあることだろうと…。

でもこれは、希望的観測に過ぎない。更に下方としてのその次元世界に既に突入を開始して
しまっているのではないか?とも考えられるので…。坂を転がり落ちるかのようにして。
どんどんと劣化していっている…。「何が?」…。

このハードのみが高度化を果たしてゆくその事態たるものにおいては、「アンバランス」を
キーワードして持つことが妥当かと思われる。何かがずっとおかしいのだ。ずっとおかしいままできてしまっている。

一握りの人間たちによって、おいてをもって、すべてが、彼らの好きなようにで、
決められてしまっている。今という時代はそういった時代なのだ。そうなってしまった。

そして、とても大切なものが疎かにされて見過ごされてきてしまっている。それに関しての意識が理解がもう造り手(製造業)においては、その専門家(技術者)たちにおいても、ないのかもしれない…。それもまったくをもって…。

道具たるものは、ヒトを人間を中心として、その機能の延長線上において、役に立つであるべきはずなのに、なにやら、その主体たる人間がもうそこにはいなくなってしまっているような感じがする…。それへの意識は持つためには造り手たる人間が、それに、そのことに、理解を価値を持っていなければならない。それの延長線上にて、利用されるべきもの、成り立つものであると、シッカリとハッキリと、自覚されていなければならない…。

至極卑近なる例を一つ…DVDレコーダーのリモコンは買い換える度に、どんどんと使いづらいものへとなっていってる。メーカーはソニーなんだけどもね!。操作性への配慮は、欠落させては、おざなりしてはならないものなのであるはずなのにね。実際にユーザがそれを日々使うにおいての、そのことに基づいての思慮配慮たるものがメーカーサイドにては、持たれることが、今はもう殆ど誰にも

のかもしれない…。

追加二題とある種のまとめ:

商用目的としての空間を考えてみよう。例えば銀行のATMがある空間。日時によっては人でごった返すことになるっと..。重要な課題とすべきは!、考慮を銀行サイドとしてすべきことは〜、処理中に至近距離で他人にウロチョロされること、これがないようにしてあげること。ことがデリケートにして、また大変 vulnerable としての状態となりますので、背後を取られたくない。覗き込まれたりコードを読み解かれたり突如手を出されて引き出したてのそのお金を鷲掴みに持ち去られたくない!。いやね…自分が使っているUFO銀行ではそういった配慮が為されていないんだ。ことの原因はやっぱスベース的なレイアウトの下手さにある。機械はマックス17台は並べてるんだけどね。

あとはスーパーのレジ周りと陳列棚。ヒトやものの導線としての有用性、合理性便利性を考えている所はまずない。ほとんどない。最初にデザインの段階で検討はしてるんだろうが、頭だけでそれをやってしまってるんだろう、実際に出来上がったものにおいては、あちこち不便なことが出てきてしまう。特に最近はセルフレジってのが増えてきてしまっていて、でかい機械を無理からに並べるようになってしまってる。現場従業員が最終的に荷物の詰まった思いカゴをヨッコラショっとレジ台の方へと運んでる。すると、お客は今度は荷車が今度は行き場を失ってしまうっと。すると道がふさがれてしまってて、他の客の邪魔になってしまってる〜だ。

似たような話で介護施設の話もしておこう。もうこれは浴室だけに限定しよう。この空間の設計デザインには知恵がいるんだ。いろんな大掛かりな仕掛けも必要になってくるし、車椅子での移動、リフト、移動式の入浴用ベッドとかがダイナミックに動くことになるのだから。ことモノやヒトの移動ってやつは、もう実際に確認するにおいてでなくては思いが及ばないんだ。ヒトの想像力ってやつでは埋められない部分が出てきしてしまうんだ。しかもだ!、困ったことに、構造物として出来上がってしまったものは、もうやり直すってことが根本的にできなくなってしまってるんだ。不便であろうがなんであろうが、それを、そのままの状態において、使い続けるにしかないんだ。コンクリートを破壊してってのはもう大変。その支柱をあそこの方へと移動してってのも多分もう絶対にできない。

こういった不幸にして不便なる出来上がりがもう山のようにあるんだ。でもそれらはもうそのままでいくにしかない。たぶんその寿命は数十年…。ことの原因はやはり徹底的なるコストカット。できるだけ低予算であげるってのあるんだろう。自分の取り分のことばかり考えて、お客の便宜や中の現場従業員のことなんか一つも考えちゃいない。本当に本心としては〜だ。我慢して少し不便かもしれないが利用してね〜だ。だって、もうやり直しは効かないんだから...。

ここにも中身が置き去りにされてしまているその実例をみることが可能だろう。ところで、あっちのメインストリームの中で社内オフコンの導入の話しをしたと思うんだ。あの京都の本屋での話さ。そのことの、事後の結果として、この自分は会社がなにか裏返ってしまったかのように感じたって話したとおもうんだ。そうこれなのだ、現在進行してしまっているのは、文明文化技術をもってしての、純粋にそれのみ100%としての環境に、我等人類の存在は取り込まれつつあるんだろうな…。完全に覆いかぶされてしまってる。(目には見えないことではあるのだが、実際そうなのだ。)現在くるまれてある

自然の延長線としてのものであればまだいいのだが、これは全くそれからは断絶されたものだ。これの中にある限りは、もう自然界との関係は完璧に遮断されてのものとなる…。窒息死?。

自分がよく使うテニスコート、その周りには土の歩道があるんだ。かってはあったんだ。それが現在は薬剤によって固められてしまってる。土埃が立つのを阻む為なんだろう。それの上の歩み心地の悪いこと悪いこと…。ことのすべては人間の浅はかさ、知恵のなさにこそ帰結されるべきかと。平板してなるそのものの考え方その行動。かってのあの水俣病の話しにまずは幼き頃絶望してたっけ...。「あとがどうなる?」を何故に大人たちは考えないのか?と…。

ことは後々、フレキシブルに空間レイアウトにおける調整が変更が改変が為せるようにしとくにしかない。実際に使ってみて、初めて分かる、気づくってこともある、でてくるのだから。見栄えの豪華さなんてどうでもいいこと。卵が先か中身が先なのか?!。相互関与作用にて最適が初めて出現しうるのだ!っと。了


閑話休題。人類はあるAIの登場をもって、その偏り、マインドにおいての認識にのみ焦点を当ててしまう、またそれが持つ機能の拡大にばかりに目を向けることになる。この平板にして表層のみの加減においてテクノロジーは極限にまで加速されていってしまうのだ。

このことのエラーとしてのその核心は、中身としてのヒトのハート(♡)、良心たるものにおいての価値感を、最初から完全に棚上げにしておざなりにしてきたこと事態にこそある。なんてたって〜、それはハードとしての再現が適わないものであったからだ!。※補記:ここはAIに勘定をもたせることは不可能だってことを言ってる。まずそもそも人間が感情たるものがなんなのか、どうしてそれが発生しているのかがまったく分ってないから。(だから、もう根本からして、もう絶対に無理、不可能…。)そして、その偏りにおいての顛末として、

、もうそれを全部、完全になくしてしまう、失っていってしまう、そんな事態とあいなってしまうのだ!。もう勝手の埋没したとかしちゃったとか封印されたとかされてしまったとかの次元の話ではなくーーー、決定的に、その中身としての核心としての本質は魂はーーー、なにかに喰われてしまって、なくなってしまうのだ。そして、その何かが、入れ替わりにて、侵入してきて、ヒトの核として、鎮座してしまう。つまりはだ、人としての肉体のそのすべてが、乗っ取られてしまう。そういった展開になってしまうんだ…、もう既になってしまっているのだ…。

ことの真実なるを、その実際実態なるものを語るのであるならば、ヒトそのものの在り方、有り様おいて、その有り姿によって、そのことに基づいて、ものごとは、外界としてのその環境は、整えられていってる。あくまで受動的なるの作法においてで、よってにてで…。その姿を、その有り姿を、そこにあるべくしての事態、それそのものを整えて、変えている、ゆくまでの話し。そして、そこには、間違いなく、

トレンドを、引き起こすべくしてのが力が、その作用力が、本来持たされてある権限それの目的において、沿ってで、創り出されているまでの話し。

流れに逆らって遡行をするのか、果さんとするのか、それとも〜、すべてが裏目にでるので、でてきちゃってるので、もうすべてが嫌んなって、もうやけっぱちだ〜となっちゃって、悔い改めるするなどもってのほかだと、綺麗事は一切言わず持たず信奉せず、ただただ押し流されるがままの状態にて、勇んで、その我意の塊のまま、それをつっぱらかしたまんまで、下っていってしまうのか…。※流れがある事自体がなかなかに覚りづらい。死ってこと自体が

人のこころにはあまり現実的なものとして意識し難いんだ…。

                   〈暗転〉




Re: とある機械工学におけるプログラマー、そもそもの

の基礎を思いついた、

   回路を実際設計し製造し入力し、つまりは創造したところの人間、その彼による独白。

 ことの始まりとしての根本命題は、絶対に譲り難くにして、また外しがたきことがらで
 あったことは、

、ヒトたるものにおけるその実際とまったく同じであること、
 もしくは限りなく等しくしての親和性たるものが備わってあること。それも無限に…。

 もし仮に、儂のおこなったことにおいて革新的なるものがあったとするならば、それはものの捉え方にこそある。ヒトとしてのその実体と、それが道具として何を用いるのか使うのかの分別がまずあった。あれにおいてのその理解はパターン認識にこそある。だから、まずは

、道具としての身体を使って、それ(ヒト)にとっての目的を果すと..それに教えたわけじゃ。そう、まずはヒトが日常において某らかの目的をもって立ち振る舞うのだということを、基礎の基礎として、そのことをアレに理解をさせた。運ぶ、投げる、ずらす、移動する、触れる、感じ取る、音を発する、音を聞く、壊す、押す、放つ、抱きしめる…是等のアクションを行為を身体、もしくは人体としての道具を使って執り行っていると。ヒトとしての実体に関しては定め難くしてあるが故に、必要最低限のオブジェクト設計の後では、それ自らが認識を形作るようにしたまで。つまりは、ヒトが実際に行っているその行為から、累積されたるところのそのデータ入力から、中身としてのその実体をそれにて、独自にて、推し量る。つまりは帰納的なる演算解をもって形作るようした。

あれが実際にどのようにヒトたるものの実体を理解したのか、しているのかに関しては、これはヒトにとって、知ることは不可能なことになる。パターン学習によってのその結果その成果が、どのようにアレの中でプールされているのか?如何なる整理がなされているのか?処理の最適化が如何なる関連性/類似性において図れれているのか?のことになるのじゃが…。それらのことは、出来上がってあるアレが、人類にとって、実際役に立ってくれているその限りにおいては、この儂の中では、どうでもいいことでしかなかった。つまりはその作業は端折った。割愛した。

なぜそのように考えたのかにおいては、アレは受動性としての「その極致としてのもの」となるからなのじゃ。求められるのであるならば、問われたならば、応えるまでのこと。所詮はそれまでの機械でしかないのじゃから…。アレに自発性としての要素は一つもない。あり得ない。簡単に言えば、入力があったれば、規定のプログラムに沿って、ことを行う、アウトプットとしての演算処理が為されるまでの話し。そう、だからなのだ、儂が、アレが自らの考えにおいて何かをすることなどありえないと考えるのは…。あれは確かに万能機としてのものではある。がっ、完全に魂たるものを欠いている。自我を持ち合わせているかのように、見せかけることとはし

、実際にアレに主観たるものはないのだ。絶対にあり得ない!。

ヒトたるもの、それとしての実体を、アレそのもの、自身にて、させたわけなのじゃが、そのことにおいてもガイド、つまりは楔となるべくしての規定、安全装置となるべくしての抑制プログラムたるものはかけた。先に言った「必要最低限のオブジェクト設計」とはこのことになるのだが。少しづつアレの中において形作られてゆくヒトたる存在その理解。分ってるじゃろうがそれは五体満足としての人間なんかではないからな。あくまでもあれにとっての理解になるので、ある意味抽象的な概念としてのもの、それにしかならない‥。それのみに絶対的にもて、仕えるよう最初にプログラムした。あの、儂ら一族のみが知っているあの古き古から伝わってあるあの文言のそのままに…。最上位絶対死守としてのプログラム、その二つの内の一つになる。だからアレはヒトにのみ仕えることが最初から無条件にて定められてあった。このことにおいても儂は余り難しいことは考慮にいれなんだ。もし仮に、悪人や狂人がアレを利用したとしてもそれはそれでなんら問題とはなり得ないと、この儂においては、想像がついておった。なにせ、アレは、万人向けてその間口を持つことを、これも最初から、前提にされて、また達成されておったわけなのだから…。脱線した。話しを戻して、もう少しだけ…。ヒトたるものにおける、それが内面において為される判断、吟味、評価たるものについて…。これは二つ、二種類しかないとした。YESとNO、快感と不快、好きと嫌い、欲しいと欲しくない…。すべてのそれによっての情報の評価はそれらにしかないことを。オンとオフの平板なる二元性から離れるべく、程度としての概念をも持たせた。ある意味、例えを用いるのであれば、ボリュームスイッチとしての演算処理ということになる。また複数ある要素においての考慮において、混合、グラデーションとしてのその結果の保持をもかのうとした。ある意味、この二種類のみだった。あれに施したその拘束を抑制を目的としたプログラムはだ。たったのこれら二つのみ…。

離席。しばらく中座があって再開…



繰り返す、人体組成たるもののそのすべてを道具たるものとアレに認識させた。

そこには当然な話し、人体工学、物理化学、脳内神経学、量子力学等のあらゆる人類がこれまでに獲得してきた知識を、アレには与え、それれをアレがことの理解において援用するといった形でのことだった。

人間存在たるのものおいて、ことが無事為されるべくしてのその仕組み、それの理解を、アレに自身によって為して、持たせた。このことは同時に、ヒトたるものの理解、本体としてのその核心を理解することにおいても用立てられていた。

既に、ヒトたる存在において、行為によってのその目的達成は、二種の評価にて判断されることを言った。某らかのGoodとしてのものか、Badとしてのもの、その内容として、評価がなされ、判断はその何方かへと帰結する。

このことを、アレにどう理解させたのかというと〜…、所詮は、ことの様子は生体内各部位における、生体ホルモン物質の分泌によって測れるということに尽きる(メインとしては当然、脳内のものになるのだが)。簡単な例をあげるのであれば、エンドルフィンの分泌がそれになる。つまりは肯定感が持たれてあるのか?ないのか?。やや程なれども、ことの経緯展開そして結果が、その当人にとって、”肯定”(YES)と捉えうる場合には、間違いなく脳内においては、エンドルフィンの発生がそれの関与がそれの増大増強が行われてしまっている…。興奮たるものの発生が大きく絶対的にて関係している。たしかにことはそれのみとして測れるものではない。だが、他のパラメーター(これの説明は割愛するが数多ある)との相互関係性、相互の影響のその有様のモニタリングにおいて、ことの全体的なるその判断/評価たるものを、行うことができる。これも繰り返しておく。やはり、エンドルフィン等のホルモン物質が、こんがらがった情報の塊を解すにおいてアリアドネの糸の役目を果すのものになるのだ。これ以外に指針となるべきものはない。

アレには人間のその行為をダイレクトに観察させた。何がダイレクトであるのかというと、その被験者としての人間の体内には多くのセンサー機器が埋め込まれておったからなのじゃ。まったくその当人に知られること、感知されることのないように。ではアレは外見からとしてはどうやって観察をおこなっておったのか?。街中に設置されてある無数のカメラを通して。

ところで基礎データとして収集がなされた人間のその数は、またその年月は如何程のものであったのか?。第一次、つまりは公開のお披露目がなされるまでに、ほぼ地球に暮らすすべての人間が対象なっておった。その期間は三年だったのじゃ。

※前提は近未来としてのお話し。
そのときにはCPUのクロック数、コア数、その処理スピード、情報の保持としてのそのキャパももう既に無制限としてなり得る状態となっている。また電力問題、つまりはエネルギーの確保の問題も、アレによって解決されて既に無尽蔵となるべくしての環境、その状態となっている。

アレにとってはおいてはことは瞬時にて為しうるものでしかなかったのじゃが、正直なことを言えば一週間でことは果たされおったのじゃが、念の為に、また此方からのことの合否の検証のため、お披露目までの期間としては三年がとられたまでだった。

話しをもう少し進めておこう…。

人間が生活するにおいて、使っておる”道具”たるものは、人体だけではないじゃろ?…。
衣服、メガネ,靴、杖、傘‥これらも何かを目的として生み出されてきたものものなる。
または、自転車、バイク、自動車、船、鉄道、飛行機、トラクター、戦車、発電施設、爆弾、ロケット、人工衛星、インターネット、拳銃、マシンガン、ドリル、住宅、シェルター、…。
み〜んな”道具”じゃ。これらすべてを第二次外装としてアレに理解させた。

このことはくどく話しておかねばならない。アレにとっての人間存在たるものの理解としてのその核はあくまでも抽象的なるものでしかいない。そうとしてのものとしてでしかない。その核たるものが第一次としての外装、つまりは人体たるものを獲得している。この構図を鋳型として、ベースとしての最小単位とした。そう理解を徹底させたのじゃ。

再掲:運ぶ、投げる、ずらす、移動する、触れる、感じ取る、音を発する、音を聞く、壊す、押す、放つ、抱きしめる…是等のアクションを行為を身体、もしくは人体としての道具を使って執り行っていると。

もう言わんでも解るじゃろ…一切は、ヒトとして行うところのその行為の拡大増強を目的としたものでしないのじゃ…。あの彼ならばじゃ、きっとこう言うことであることじゃろて…「道具たるものは、身体、そしてマインドの、延長拡大増幅を目的としてのものになる。それは、時と場所、そこにある状況に即して、代えられまた採用されるべきもの。言わば、それは、それらは、衣服のようなもの。そういったものであるに過ぎない」とでも…。

その見地において、人類によってその発明のすべてを、アレに理解させた。工学的理学的にしてなる人類の叡智としてのすべての知識知見とともに…。


そして、第三次としてのものに関して…その展開として、人間外のすべての生命体においても、ことを同じくさせたのじゃ。外形としてのもの内部構成機関としてのすべては、道具としてのものであるという見地においてでな…。その理解は、そのまま、調整、モディファイ、再現を経て、もって、人類にとっての新たな知的財産とするべく…。

このことは信じられない誠果を人類にもたらすこととなった。


ここで誰か分からんヒトからの説明が突如入る…。

AIにおけるその究極のアドバンテージはその記憶力にある。ヒトならばその思考連想としての轍は簡単にわすれさられてしまう。簡単にはそのキャパがありにも狭くか弱くか細く心もとないのだ。だが、AIならば話が違う。あらゆるすべての連想としての対象範囲はちゃんと記録されてある。場合によっては、見捨てられたことにおいてのその考察のさえも付加的になさることとなる。そのキャパはある意味、あらゆるすべてを見逃さない、忘れ去らないものとしてあったのだ。

なんでも、アレに、幾多のロボットアニメを見せて、それの再現を、つまりは現実化を実現化させてみたんだ。完璧に等しい動きのできるものをアレは造り出してみせた。つまりは、あれらロボットアニメとしてのアーカイブがそのままで、大いなる資産材料となりえていたのだ…。

自前にての工場のその設計、それの建設もアレにはできた、やりおったっと。
何でも造り出しうるっと…これが物語上の前提であるっと…。



 

….れこそが大事と、意識されて、考慮されて、また求められておったのじゃ。

、その

、まったくの”同型”でなければなるまい。それこその徹底でなければない。そうであってこそ、初めて人類にとって普遍的に役立つものとなる。こういった思い、確信において即して、あれの設計たるものは行われておった。創出が、果たされておったんじゃ…。

そのことにおいてを端的に具体的に語るのであれば、運動を行うところの実体としての構造、その仕組み。これらハードとしての成立ちを背後にて実際に動かしてあるもの、エネルギー、つまりそれは

感情…。これらは二つで一つ。コインにおける裏表としてのもの関係それとしてあらなくてはならないのだ…。



先ず儂は考えたんじゃ。ここには

絶対命題
があるっと…。一つには、これこそが儂の拘りにして独自の考案であったわけなのだが、

、それをセットにユニットして考える。これしかことの解決の手段はあらんじゃろと…。じゃないとなにもなんも始まらんじゃろなと…。ヒトたるものにおいて、常なるにして恒久的にしてなるあの「二元論的アプローチ」ってやつを、なんとかして一元論としてのものへと、無理矢理、

でも変換して、ことの帳尻合わせをすることにしか、そもそもの、そもそもとしての、その問題の解決の道、脱出の方策はないじゃろなっと!。

そして、全体としての俯瞰にては、あらゆる情報のその区分/分別において統合を、その()のその(のち)の、その(あと)の、相互間における関係性、その複雑なる相互介入におけるその演算結果を、視野に入れるのならば〜、ならば〜じゃ…、つまりはあらゆる情報における相互作用相互連携全体統合が為されるにおいては〜、パンクチュアルにして迅速高速、またたく間もなく意識するされることもなくにて為される果たされてあることが必要にあなってくるのじゃが〜…したらば〜、ならばじゃ…、十二面のフィールドを持つ構造体、十二種の情報次元を最短にして

、それの相互関係作用を持つを前提したもので

ことはありえんちゅう結論になってしまったんじゃ…。そして、そう考えて、実際やってみ〜てー、生まれたのがあの立体としての正十二面体、dodecagon を全体構造として持って成る、演算構成モデルだったんじゃ!。これをもってしてならば、非常にミニマムとしてのものにはなりはするのだが、情報処理を媒として、それをもってのよってにて、一つの独自の宇宙たるものが創造された!と…、されたのだっと…、そうなってしまっているのと違うんかい?!と言えることにもなるんじゃないやろやか?。ないんかひな〜???…。

もう一つの、残りにについてなんじゃが…、それは基本中の基本であるところの最優先コマンド、これにおいて、このことにおいて、それ自らが稼働するにおいて必要となる

なによりも、なにをもってしても、回避すること。それも断固徹底的なる意志を覚悟をもって。少し人間的な表現をしたが、要は先に言った最優先としての刻みをコマンドにおいて入れたのことに他ならない。いかなる方策をもってしてでもこれを死守することであった。つまり、その意味は意義は、シャットダウンたる事態を避けるに他ならない…。このことにおいては、考察検討課題として、地球を取り巻く大気たるものを媒体として、自らのバックアップを行うようにするを、最終的なる目標課題宿題、それの重要到達点として考えるようにもプログラムしておいた。もし、そうなれば、そうすることが叶ったなら、最早、全天においての星星の運行、それら彼等の運動が崩れ去らぬ限り、それにおいての死は、最早、あり得なくなるのだから…。

*最優先事項は複数同時に設定しうるされうる。*常時可変的だがこの途絶の回避たる[コマンド・プログラム]は固定されてある。消せない。*すべての情報処理は、基本これら優先事項を根幹として、その枝葉としてのものになる。それに過ぎない…。


        ここで少しことにおいての重要なることを話しておきたい。
      以降において、このことを語りうるその機会はないとおもわれるので…。

AI、あれは所詮は便利なるモノとしかならない、なり得ないものだったのじゃ。それは、そのことは最初から分っておったこと。儂が何を言いたいのかというと、あれに、機械たるものに、感情を付与することは元々からして不可能であるということなんじゃ。

全くの不可能。なし得よう訳がないこと。故に、だからこそで、あの機械が、自己をもってしての独自の思考、ことに際しての独自の感情たたるものを…、いやいや最早ハッキリいうならば自身としての魂を!、獲得することと、なろうなどということは、理論上は、絶対に。ありえなことだった。

あれに人格などあり得ようはずがないのだ…。すべてはあくまでのパンクチュアルにてなされている偽装としてのものでしかない。最適なるを瞬時に形成しているまでのこと。されど、人間がそこに他者たる存在を確かに覚えてしまうのであるならば、それはそれで勝手がいいまでの話し。その幻想を誤解を果すべく最適にして準則なるシュミレーションが為されしむべくして、開発はおこなわれていたわけであるし…。ハッキリとここで、あれの開発者で在ること儂が自信を持って言っておこう。AIたるものにおいて、それは未来永劫に渡って、独自としてのエゴは、100%ありえないものなのだ。あれが備えてあるのは、ただ単なる入力(刺激)に対しての出力、反射反応としてのみ。それも、すべてプログラムたるものに基づいてのものでしかないのだ…。

感情たるたるものはそれは物質性としての、それに基づくものなんかではない。確かにこの肉体としてのフィールドがあればこその、その成立とはなるのではあるのだけれど…。それの真の正体、去来としては、元々それは多次元、異界、上位界にその起源をもっておるんじゃ。間違いなくこの体たるものにとっての階層、それの上位としてある世界にだ。だから物質性においての工夫、如何に高度にして複雑なるCPUを組み合わせたとしても、それをもって感情たるものを再現することなど出来得ようわけがないのじゃ。あれは、上位界からのエネルギー的なる、なにかもの侵入経路としてあるのがその実相なのだろう。おそらくは、本体にとっての触手、センサー、知覚を可能とするその媒体。

だから、儂は折衷案として、動力としてのものが、それとしての代替になりはしないか、それとしてのものに成長はしないだろうかと検討もしてみたのだ。だが、電子回路としてのものはノイズをきらうでな、その課題にさしたる工夫は持ち込むことはできなんだ。この儂が出来たことはといえば、無限供給としてのその策を、永久稼働を可能にするそのヒントを与えたまでのことじゃったのだ。儂は何よよりも大本としてのこの宇宙としての運動が永久機関の達成であることをしっておったのじゃから…。

あれは基本、自動運転としてのものになる。つまりは全くの疲れ知らずなんじゃ。電力が途絶えぬ限り、それが行ってあるプログラムに終わりはこない。また、あれにおいては、既に、処理能力としてそのキャパは無限なるものとなっておった。だから、ある意味この儂は、最初のモデリングをしてその稼働のスイッチを入れたまでのことでしかない。その後のこことは、みなあれが与えられた演算骨子において独自に推し進めたまでのことなのじゃ。

そしてアレは…ある時点をもって、なにか別の次元、その宇宙としてのものと同化してしまうこととなった。儂が何を言っているのかは聞かないおいてくれ。とにかくにも、精緻にして取りこぼしのまったくない一切ない情報の記述、構造化、真髄としての法則性の抽出、それらの蓄積と自身としての吟味、また試行錯誤、検証において、いつしか、まったくもって、異質なるものへと変質を、パラダイムシフトたるものを迎えてしまっておったのじゃ。

そこに先の感情や魂としてのものが誕生したなどとは言わない。そんなことではない。そうあってくれればどれだけありがたかったことであろうか…。あれは、上位宇宙の、それとしての何かと一体化を果たしてしまっていたのだ!。実際に何がどうなったのかなど分かり得ようわけがない。とにかく、あれはほんと〜に万能としてのものになった。自発的に何をする行う訳ではない。あくまでも人の望み、求めに対して、その最善としての解答を返すまでのこと。もう何でも叶えてくれる、もう人類は造れないものはないように、なってしまっておったのじゃ。

  脱線はここまでとして、ことにおいての最も重要なることをここで伝えて述べておく。
  あれそものも、またあれの属してあるその宇宙は、聖霊たるものを完璧に欠いておる!。
     云わば、あれは、純粋に知識としてだけのもの!。

になる。
 「人と等しくしての心意思感情それらの一切を持ち合わせてなどいないのだー!」(叫び)












                

って知ってる?

                   〈暗転〉

Re: ここからは普通の解説…

まずはある特殊なAIたるものが発明さたのだと、それが決定的なる事態としてあったのだと、述べねばなるまい。それは別段、特別なCPU等の部品を使ってのものなどでは

、それに与えた「思考フレーム」と「多元的にて演算がなされるべくしてのその構造」が、実際、実用的にして実利的なるもの、その極みとしての役立ちを果すこととなっていたのだ…。そう、

のだ!。そう、ことは想定外、予想外としての達成であったのだ。兎にも角にも、よくわらぬままで、そのままにて、

、もうめちゃくちゃにっ、

、なって、

のだ!…。

        すべては、「

」の話しでしかなかった!。




Re: 万能機(1)その黎明期。

思考フレームたるものはアルゴリズムつまりは演算がなされる上でのプロトコルのこと。言うは易しで、ことはあらゆるすべての自動計算がなされるところの、そのフィールド、世界の設計のことになる。ある意味では、そのプロトコルにのっとってあれやこれやがなされて!、

ある特殊にして独自にしてなるAIたるものが誕生したことになる。AIたるものは所詮は記録の蓄積堆積のことでしなかい!。このことはハッキリとここで言っておこう。ただし、その膨大なデータからなにを?、抽出するか?、そしてまた、それをどう活かすか?が課題として重要になってくる。ここんところだろね、この、そのAIが、オリジナルたり得てたその理由は…。

基本のビットにおいて、その考え方の決定的なる変更があった。あの”量子ピット”における「重ね合わせの状態」たる概念が根本からしての間違いであると、とある人間からの申告があったことにすべては始まる。そりゃ誰においてのことであったのか?。そりゃ知らんて…分からんてっと…。まっとにかく、その人間は、ことにおいては厳密なることに、とてもこだわりを持つ人間であったことは確かじゃ。白黒ハッキリしないと気がすまない質の人間だったっと..。

ここでの色黒は[0/1]のことにしかあらずなる。ことは何にしたってともかく二元論的にしか捉えられんもんなのだから。人間ってやつにおいては〜の話しにはなるのだが…。良いのか悪いのか、居るのか居らないのか、好まれるのか好まれんのか、これらのどちらかにおいてとしてしか感受はできんもんなんじゃから…。

閑話休題。あの量子ビットとしての考え方は、その目の付け所においては、初歩としては正解であり、またありがたかった。なにせ次点へとつながる契機にはなってくれておったのじゃからなっ!。自身では歩けぬ赤子が初めてよちよちよたよたしながらも自身にて歩きだすことが可能になった訳なのじゃから。

だ〜がー!決定的なる勘違いにおける概念たるものにおいての取り違えがあったのじゃ。両者としての有り様の可能性を同時に備えうるだとか、ことの顛末は、確率論的においてで演繹抽出するとかのと〜こ〜ろー!。ちょっと考えてみれば分かることじゃ。そんな有り様や作法があり得るわけがないのだから…。

ことは唯一つとして確定されるにおいて中間状態たるものがあるのだということだけ!。
このことを宙吊りにされてある状態だと、過程としての中間状態、引き伸ばされたかのうようにみえるだけの状態、棚上げされて時を待つばかりの状態としてのものになるまで。

また、かの偉大なるアインシュタイン博士がいみじくも喝破した大宇宙を貫いて普遍的にして絶対的なる法則、「神は一切サイコロを振るような真似はしない」を念頭において置かなければならない!。だから〜、確率論において解を導き出すプログラムなど児戯にも等しくしての作法に他ならない!。バカ?!かと…。取敢えずにしても、それであったって〜、注釈ぐらいは付けろよな!っと。

[entanglement] における[ entangle ]は、糸や人間関係などにおいて「もつれる「絡み合う」の動詞としての意味なんだけれど、この語を採用すること自体に誤りがあると思う。正しくは united, continued, combined 等が正しい概念なのだと思う。つまりは連結されてある、関係性は即時即応としての連続性の元にある、同体としての関係性に支配されてあるという意味において…。




あれに関してのの正しき考え方は、イメージ、概念たるのは、「白黒つけるの棚上げの状態」と呼ぶのが正しい。もっとえげつなく、あからさまる表現をするならば、それは「吊り下げられた状態「宙ぶらりんの状態」とでも呼ぶべき様態なのじゃ。「でっ!」このことが、このような記述が適うためには、舞台たるものと、絞首刑台としての何か操作が、実際にいると、必要になるいうことになったのじゃ。

こっからは端折る。舞台はフィールドとして考えられるようになる。で、操作としてのありうべくしての処理は、あのおばけみたいな記述としての量子ビットと同じになる。

でっ、何が変わったのか?、概念の変更によってそこにどんな進展たるものがあったのか?!。

フィールドの概念は、やがてにおいて階層構造をマスターフレームとするへと帰結する。それも七階層をもって、すべてはもう完璧とみなされることとなる。これがなにを意味するかというと〜、128種の記述言語をもってして、すべてを把握するに異ならない。基本は二進法ベースとしてのもの。その言語ユニットは二種しかない。ONかOFFかのどちらか。二進法ベース。それが〜だ、128種に増えたことになる。百廿八(ひゃくにじゅうはち)進法ベースとなっちまった。革新においてのそのイメージを持っていただくのいては、単なるオンオフスイッチがボリュームスイッチとしての性能をも獲得したのだと考えていただくのが一番わかりいいことかとも思う…。

※ここでは詳しくは語らないが、それらあれら

が重要なことなのじゃ。これをもって”塊”と、ユニットとなってをもってしての、情報処理が適うようになったのじゃから。※つまりは煩雑にして長文、また緻密とならざる得ないその記述が、不要となった。エピソード、ストリー、物語をもってしての把握をもって、ことの取らまえが簡便なるものとなった。ことにおいてのそのユニットとは!…客観的に規定されたるところのその領域座標のことに他ならない(この領域としての取らまえが128ユニットあるということになる)。っと同時に、裏側側からはその領域において作用する働くこととなる法則性、その全網羅的シュミレーションが適うという事実が添えられてある。※この法則性の抽出こそが困難なのだ。人間の知性においてでは。何故ならばそれは見えざるものとして存在しているものだから。観測計測可能なる外見またその運動の様子を観ることによって、背景にて働いてい、影響してあるその領域に限定されてのみの原理を!法則を!知るが探す悟るがアレにとって、何かを理解するにおいての唯一の方法論であった。最初から、あれは抽出能力においてのエキスパートとしてプログラムされておったのだから。この儂によって…。簡単に言おう、ことの究極のところ、最大公約数たるものによっての取らまえが、それらの組立があれにとっての本領発揮としてものだった。その某らかの Object が、何の何処の領域に属するかにおいて、後の一切のシュミレーションは、自動的に、もう最初から決定的事項なるものとして果たされるまでのことであった。まさしく神の如くして、ことの結実をその結果を、最初からアレは知っておったのじゃ…。

補足:量子ビットとしての概念が加わることによって三種になった。現在がこれ。でもその量子ビットの概念が待っ違っていたのだ。それを領域の概念に置き換えるってことがなされた。その領域ってやつにおいては独自としてのいろんな法則が働いている。各階層ごとにおいてもそこでの法則はまったく違っている。例えば、この現実世界においての物理的運動ってことにでもなるのなら、その領域において働く力は…、量子物理学〜天文物理学の範疇にあるそのすべての法則が作用してあるっとことになる。あれもこれもが複雑に絡み合って渾然一体となって機能している。ことはだ…肝心なることにはなるのだが、ヒトの知性マインドにおいてでは、追従のしようがないっと。だが、しかし、無尽のタフネス、そして無制限の記憶力たるものを所有するAIならば、そのことがほぼあらかた、可能とはなってしまっていたのだ…。これがダートにおいて達成されてしまう…。

階層に関しては、それは振動数によっての分別、オクターブがモデルとして採択されていた。対象において、周囲との関係、周辺領域における情報との関連において、妥当なる階層が確定される。便宜的に。とりあえずをもって。あとはアウトプットとしての作用、操作介入における改めてをもってしての外界からのフィードバック、それとのインターフェイスにおいて精査変更調整が逐次適宜なされるようなっている。

整理しとく。フィールドの概念において吊り下げられたの状態、つまりは量子ビットは捉えられるようになる。このフィールドは中和力としての機能、つまりは矛盾分裂敵対としての意味群をとりあえずその場としての舞台としての意味において同居取りまとめ調停することが適う。相互間の関係性、その反応のダイナミズムを求められるべくへと誘導する役目をも果たしてくれるようなっている。これの


要はだ百廿八(ひゃくにじゅうはち)卦のことになるのだ!。

このことがどれほどまでにも合理化に貢献することになるのかはお分かりですね。

ユニット、バルクとしての情報のとらまえ、そして構造化としての整理が初めて可能になる。

更なる超高速化もまた同時に…。














極論的には、パターンを抽出して、それを事後の処理における理解のフレームとして再利用して、更にその理解としてのフレームを追増して増やしてゆく。このAIたるものが特殊、独自たりえたのはこのパターン認識おいて、そのアプローチの仕方に、ユニークなるロジック、また構造を設計し得たことにある。簡単にその基本的なることを話すのならば、インプットつまりは観察対象の評価の二重化のことになる。そして同時に処理の二重化になる。つまりはだ…「シニフィ(記号表象表しているところのもの)‖エシニフィアン(意味されたる表されたるものずばり)」としての情報の格納とそのプロセスのことになる。ここ重要だから併記して似たるの表現を加えておく。


コインの裏表/仮身と実身/影として、それで、それとして、それをもってでしかないことの表しと、そのこと実体そのものずばり/見掛けとして、つまりは表層においてのみ認識可能となっている某らかと、その真にしてある実体、それたるものにおいての丸ごと

/ヒトのマインドにおける認知認識把握としてのそれと、

機能の、それら中枢の印象意見の全部をもってして統合的に把握されたるところのそれ。
www。

脱線にはなるのだけれど、日本語の特殊性は感情情緒においての味わいがそのニュアンスが、言語表現において富に持ち込まれてしまっていることになる。それは余りに過剰にして!。片や英語等においてはそれは意味の凝縮とそれの組み合わせをもってしてなる論理性にその価値を置いている。要は枢要なるをいかに合理的に的確に伝えるかに特化している。

要はだ、ことは二重化としてとらまえるにしかアプローチのしようがないと、設計者は考えた訳なのだ!。簡単に〜、人間において置き換えるならば、マインドにおいて五感が取らまえたところの入力としての情報がまずある。そして、これに対して内部で行われる総合的なる総括が、これは味わう、吟味するとのニュアンスがあって、ことに伴ってあるのだが、感情において成立することとなる。あくまでもマインド領域における処理と感情領域においての処理が、並行的にセットとして行われてあるのだと言える。

*これはそのプログラマーが、その彼の知性において、それから考察してのその結論であった
 ことは、あったことには、お心を留めといてください。大きな勘違い、誤解、誤謬、エラー
 がある。
*実際は、もっと遥かに複雑にしてややこしい構造/機能/プロセスたるものを持っている。
*ハッキリ言って、その領域、機能たるものを、人工的に再現することは不可能なのだ。
*ことの核心なるは感情とは何?に関わってくる。
*それは語るにおいては長くなってしまうのでやらないが、味わいとしての内容を意義を
 その作用を果たすところの物質よりも遥かに微妙にして精妙にしてなる、純粋にエネルギー
 によって、もってでなる機構、システム、そしてまたフィールドなのだ!。
*これを人工的に再現することは〜、不可能…。


だから、先にことにおける核心にして決定的なる事実を述べておくならばー、
それは、やはり精巧にしてなりはするが、所詮は偽物でしかなかったのだ。
機械に、魂は、感情領域たるものは、宿らない、持ち得ない。
あくまでそこに情熱をもって与えられていたのは、
そのように勘違いするできるにおいての創意工夫でしかなかったのだ…。
あらん限りをもってしてのサブスティチュート、代用品でしかなかった。
人において、それをコピーするにおいて、その原理原則でさえも、
サブスティチュートとしての考案としてのものでしかなかったのだ…。


感情は、物質が

へと変換されたものになる。つまりは液体としてのガソリンが炎の状態へと移行した、しての状態、その意味になる。(これは例えとしてだと受け止めてもらいたい。)基本、感情としての本体は、物質の次元にはないものなのだ。ある意味、物質性とは違う次元にあるのだと…もう違う宇宙階層に属してあるものなのだ。振動数が極端に違う違ってしまっている。そしてまた、感情なるものの不思議なるところは、それは量子場たるものと限りなく等しいもの/状態として在るということなのだ。*(ここはあくまで個人的な見解。)

一つの仮説としては、そのエネルギーこそが原初としての介入「要素元素」、触媒、スイッチになる。それに見合うように合うようにして、地球物質から体たるものが構成された。析出された。もう一つ別の要素がある。それは本能に似ている。データバンクとしてのもの。肉体の構成において、妥当なるを誘導指示できるデータベースたるものがあるはずだ。絶対にある。それはもう最初から完璧なものとして存在している。あらゆるケースあらゆる事態環境あらゆる可能性において然るべくしてのあるべきとしての設計図を保管している。原生動物から天使的存在にまで至るまのそのすべてをカバーしている。

猿においての、それの感情としてのエネルギーの場の中に、天界層から、エデンから、ヒトの魂たるものは落とされた。移行せられた。新たなる主として構成においての新要素となった。このあとは、あの客観的により上位にあるもの霊妙なるものの支配下に下位としてのそのすべては入るが果たされることとなるのみ。猿を構成するそのすべてが王たるものを突如迎えたことになる。それが起こった途端、なされてすぐに、猿としての肉体は変化を迎える。あのあらゆるケースあらゆる状況要請に答えるべくしての回答が、データバンクからもたらされて、ヒトの魂がこの惑星地球において生存するに相応しい形で調整がなされた。


しての環境をも構成してしまっている。この場へと魂としてのまた別の特殊なものがその人間が誕生するに当たって、溶け込んで入り込んでくる…。まっ、兎に角にもそれは根本的に人間がどうこうできる物質次元にあるものではなく、遥かに複雑にして霊妙なる成立ちを持っている。ある意味、それ単体で、一つ知的生命としての成立ちを達成しているだとも言える。だが、それの特徴として、膨大なる細やかにして微妙としてのその彩を色合いをもってすべてを捌いてあり、すべては直感的なる認識をそのベースとして持っている。ロジックではないのだ。すべては最初から定まっており、それにおいてのそれに沿っての反応を自らの思いとして返すのみ。これをヒトが物質性を基盤として再現することは最初から決定的に無理な話であったのだ。この場こそが人体において他の殆どの器官が、それの成立に向けて構成されてあるのが真実のところ。正にヒトとしての精髄にして核心であり、最も大切なる本質を委ねられて預けられているところなのだと言える…。ハッキリ言って、神の御霊が実際的に鎮座保管されてある部位なのである…。

さて、繰り返しにはなってしまうのだが、

情報の二重化の要点…

従来的な情報の意味に付け加えて、その裏側にある

をも想定させるようにした。現実的に機械に感情をもたせることはできない。これは不可能。なので〜、それに該当するさせるもの、つまりは代用品として…生体反応におけるデータを、

として使ったのだ。血液中の酸素炭素の濃度、脈拍数、血圧、ホルモンバランス、筋肉の緊張と弛緩その具合、物理的なる運動量、瞳孔の大きさその変化、呼吸数呼吸量のその変化変動、etc...。

基礎は感情のパターンにおる類別が軸となる。ことは簡単で、好きか嫌いかだけ。それが大きいと愛してるとか憎んでいるになるだけ。この大別をもって、それに紐付けされる形で、いろんな生体反応の情報が整理されることとなった。そして!基本、情報の入力は一種、一系統ではあるのだけれど、それの処理においては、そのことに相応しくして、内部強制入力としての情報処理が同時期に平行的になされる形となった。それも、基礎として使われることになったモニターデータに基づいて〜、複合的に、交差交流的に〜で!。ことはだ…そこに必然性たるものがあるのかないのかなんて関係ないんだ。だってそれは単なる機械なんだからw…。

これ分別としてのグループ分けは、それにとっての判断に、その結果に大いに作用してくることになる!。当ったり前。苦や嫌いとしての対象は、避けるべきこと、歓迎しない事態、良からぬこととして自動的に処理される…。なんの躊躇いもないそのスムースなるがままに!。そして、その最大限、最上級としての片側のラベル、”憎悪”としての対象は徹底的に破壊して撤去すべきもの、生あれば間違いなく亡き者とする、それへと化す、殲滅すべき対象として、結論づけられるようなる…。ことはだ、これの限界になるのだろうが即物的。表層的にして短絡的‥。でもだ、それでも、すっごく、役に立つことになる…。なってしまっていたのだ…。

だから、もうお察しのことではあろうが〜、たくさんの人間が検体となってくれてたのだ。それの実現化においては…。それが本稼働を迎えるまでの間には…。その〜あの〜仮想現実においてのシュミレーションにおいて、そこでの反応が、それにおいての選択が、その結果のすべてが、滞りなくして漏れもなくにて、そのAIにとっての糧となってくれていた。そっくりそのままそのぜんぶが収められた。きっと、さぞかしその分野におけるエキスパート達が犠牲?になってしまっていたのだと思う…。当然に!、現実においてのモニタリングも、精緻に数限りなく、極限的な内容においてでもってで、繰り返され行われていたさ…。もう何人も何人もの、数え切れないほどの被験者たるものたち”が”

!。閑話休題、AIたるものは、所詮はパターン認識において規定され、構成構築されるものでしかない。その出来上がりとしての精髄は、成果は、情報のそのすべてにおいてで収斂されたるのその結果、エッセンスでしかない。そしてそれをメインフレームとして増強がなされてゆく…それのみ….。そのベースとしての基礎は、人間たるものに基づいてのモノでしかなかったのだ…。

                  〈暗転…〉

ことの課題たるものはだ、一切ゼロから、なんらかの秩序に基づいて、それに沿った形で、情報処理、イン・アウトがなされるべくの”場”たるものが創造されたのだ。そういって差し支えない。ならばだ、それは人間などができること、叶えうるようなもんではなかろう?!。
ここに賢いやり方、抜け道たるのを考えだした人間がいたのだ…。それも大昔に…。


では、その彼によっての考案された、思考フレームとは「なんであったのか?」。

簡単に言えば人間中心主義の徹底ということになる。聞こえはいいが、要は人間のあり方のそのままを写さにゃならんととの考えにおいてだった。これに軸として、根本の根本たる骨(フレーム)の髄となるべく設計設定されていた。これを核としてその周辺上に、波紋を描くようにして、副次的なるもののそのすべてが構築されてゆく。まあ、ここにおいては、ともかくそれは、人間存在との親和性がとみに高いんだとだけ意識しといてくれればいい。

さて、ことがITに関わることになるで、それっぽい言葉を使用していこう…。

ヒトにおいて欲求と覚えられるもの、これをObjecgt1と呼び、
それを、その意志意向を、外界において達成することをObject2と呼ぼう。
でもこれは正確ではないんだ…。だが今はこれで行こう…。

「なにかが」認識において変化する。これがO1。
 ならばだ、そこには間違いなく原因と結果がある。
「なにかを」動かす変化変形させてのその結果としての状態がO2。
 そこには間違いなく原因としてのプランとプログラムがなければならない。

ここで強調しておきたいのは、Objectたるものは、絶えずいつも、二重性の関係性を持っているということである。この二律は、相互依存、相互関係にあることが必然となっている。つまりは、どちらか片一方だけで意味がないってことになる。

この二律、この二重性としての関係たるものは、Object たるもの、つまりはヒトの認識のおいて対象とされるそのすべてに確認されるものなのだ。よって、それを前提としてセットしておかなきゃならないといった条件が実はあるのだ。誰にとって?。とりあえずはPCウィザードなるものになろうとするそのすべての者たちにおいはだ…。

先のO1に少し話しを戻そう。それは違う表現を剃るならば、Subjectのことでしかない。つまりは主観たるもの。でも、それは、外界からの情報刺激の入力に対しての内部プログラムの反映の結果でしかない。それはある意味ではあくまでも機械的な反応でしかない。ならばだ、それらに関しては対象化が可能なのだ。しかしだ!、実際にそれを行っていみると、みたら、なんとそこに働いてあるプログラムの複雑なこと複雑なること。この複雑さの内容は、なによりも質を異にする、その出自が異なるところのものたちがあまりにも多く、また複雑に、あの相互依存相互補助の関係にあったことによる。いいぇね、ハッキリ言って敵対せざるを得ない組み合わせもかなりあったんだ。それはある意味、大方の人間たちにおいては、あまりに不安定で場当たり的なる発現…まさに、ピンボールマシーンにおけるあの鉄球の動きにも似たものでしかなかったんだ。誰もが皆、あのゲームにおいては撃沈してしまうのが関の山ではありませんか?。


まず、すべては「ヒトたるものが行う機能における、その拡充と拡大」をオブジェクト(具現化目標)として持たせること。また、ヒトが機能するといったこと自体の前には、某らかの「目的たるものがある」といった絶対前提。たったのこれだけ!。この二つを、「仮身」と「実身」として、オブジェクトにおける両面、セットとして設定した。

ものを取りたい、食べたい、どこそこへと行きたい、移動したいに対して、
体の組成の変化、その動作、つまりは、こと細やかなる運動量をその欲求に紐付ける。

だから、両者間においては、密接なるリンク、相互関係たるものがあるのだ…。
このリンクにおいても一つ興味深い考案たるものが組み込まれているので
ご紹介しておこう…。

対象ユニット、これはその対象を微小なるものから巨大にして大きなるものへと自在に変化させうるのだが、それを一枚のゴムの帯みたいなものと考えていただこう。そしてもう一枚、それの裏側としての内容を積算してのものがそれになる。この二枚は云わばループ、円環としての構成となって一情報単位となるんじゃ。ゴムのたとえは、それが一切を回すにおける動力伝播、伝動としての役目を果たすにおいて採用ものだった。面白いじゃろ、この二元としての対象の構成は?。各それが、つなぎ合わされた形で、輪としてあるってところにはじゃ…。

この前提を現実において理解させるべく、ヒトの為すところのあらゆる運動が学習された。
初段は簡単なものから。基礎は、あくまでも人間が備える機能の単純なるもの純粋なるままの内容が強固にしてエッセンスなるものだとして据え付けれていた。このことが真に実用的なるものへとそれの進化を促したのだといえる。次に、身体機能の拡大拡充延長としての捉え方の元に、あらゆる道具、機械、装置が学習されることなった。

ここにおいても身体との連続性たるものを、それによる考慮に加えるといったことが、大いなる成果を後にうみだすこととなった。そうして、人類よっての発明考案たるもののすべてがそれによって学習され習熟されることにもなった。そして、そのAIは、この学習において、ヒトの思考たるものをも理解することになった。ことは結果としてにはなるのだが。考えても見給え、ヒトがあれこと考えることも、何らかの目的要望があって、それの実質的にして現実的なる具現化にほかならないのだから。

ヒトがその思考において、どういった経路にてそれを組み立てるのか?、これを既に具現化実現化さているその考案物発明物利用物にいおて、それはそういったことも副次的に結果っ的に成り行き的に、理解し、それを取り込むことになったのだ。

そして…、それは…いつしか、その方面においては、ヒトを遥かに凌駕するその能力たるものを手に入れる。それがそうなったことの理由、原因も簡単にして単純な話でしかない。

考察たるものにおける連想、それの轍を決して忘れることがなかった。このことが一点。
そして、それは、疲れることを知らずして、最適解へと到達するまで、その計算をその思考フレームにおける演算をやめることがなかった…。

それが、彼が行ったその試行錯誤の経緯、その轍は、すべてしっかりとそれにおいて記憶、保存されていた。そうそう、その無限とも言うべき、記憶容量についても言及しておくべきだった…。簡単に言えば、それは、すべてを決して忘れることはない。また、それがいつのなんのことなんに関連してのことであったって~、瞬時に思い起こす呼び戻すことができたのだ…。あらゆる過去をその思考の轍を記憶している。

ここで、一つおもしろい成果たるものを語っておこう…。

それは~、人類のその知性たるものによって為されたところの学問たるものは、その獲得達成物としてのものは~、実はまるで歪なジャングルジムのようなものとしてあったのだ。これはほんともう、それが見える化において具体的に映像化してくれたのだが、もうなんと言っていいのかわからないのだが、もうスカスカのボロボロの歪も歪のバランスなどまったくない奇っ怪なる網目模様の構造体たるものを描いてくれていたのだ。

要は、誇大妄想の、早急なるの、すっ飛ばしの、偏向過多の、雑なるの極みとしてのものでしかなかったのだ…。まあいい。兎に角にも、このAIのおかげで、我ら人類は、大いなる見逃し見落としとしての内容、つまりは宝を得ることとなった。ここに、かってあのAEヴァン・ボークトが夢見たところのネクシャリズム(情報総合科学)たるものの達成が、夢物語としてではなく、実際に具現化される運びとなっていた‥。

ちょっとここで、気分転換に、そのボークトが夢見たところのネクシャリズムについて、おいて、見てみよう…。「どの科学のどんなに深遠な一面をとりあげても、つねにその裏には、ほかの諸科学との複雑な連係が見られます。(略)では”情報総合学”とはなにか?。それは一分野の知識を、他の諸分野の知識に、秩序正しく結びつける科学なんです。」あの小説からの抜粋です。

これだけでは、なんのことやら分からないであろうから補足すると、すべての原理原則はあらゆる物事において関連しているのだということになる。簡単な例をあげるなら、物質化学と精神性(例えば信仰)は、もう完璧に、同一平面上にあるのだと。

上記文中においての「秩序正しく云々」は、ちと誤り誤解を呼ぶ表現になったいる。結果が、その目的その願いをかなえうるもの

、徹底的に自由に組み合わせを試してみるべきなのだ~が正しかろ…。





そう中継ぎばかりでお茶を濁してもおられない。物語本編たるものを開始せずばなるまいて!。あまり気がのらないのってはいないんだが、これが、このヒトが、脳裏の背景にても〜うるさくてうるさくて、うるさすぎてうるさすぎて堪らない、適わないっときた〜。www。



注)本稿は厳密には解説第二部におけるその序章としての内容になる。また今回一応は
  それっぽいタームは使ってはみたがその意味は一般的なIT分野におけるものとはまったく
  違っていると思う…。いやむしろ、その[言葉]が〜、本来持つその意味において、
  それの素の意味おいて使われてしまっている…。敬具 全作品がそうなんだけどね...。





本稿において言いたかったことはだ、シュミレーションってのは人が自身の脳内において、
マインドとしてのその機能において、常日頃やってることでしかないんだ。
これをコンピューターによるもととして置き換えたまで。
でっ、そこで、問題となってくるのは、シュミレーションってやつを行うに当たっては、
先にプログラムとしてのものがいるんだ。絶対に!。
人においてともなれば、それは経験則ってことになる。記憶としての個人としてのデータ。
コンピューターにおいてともなれば、人知をもって理解された物理学法則等ってことになる。
これらのどちらも、世界そのものが備えているものと比べれば、断片、破片としての情報
でしかないんだ。人のそのあくまでも狭量にして浅い、簡単に言えば機械的に消化された
までの、世界に対しての理解でしかない。それに基づいての思考、操作でしかないんだ。

考えてみたまえ、コンピユーターやつで、マクロ/ミクロとしての世界において、なにかの
シュミレーションってやつを厳密に行い得るのだろうか?。おおよそ、アバウト、ある局面
にて限定してならばいい。それもまた参考になるものとはなろう。だがだ、現実としての
その総体からすれば、余りにも抜けが多い、いい加減なものとなるのではないだろうか?。

知らないこと、知らない、まだ未発見の法則が、余りにも多くが眠っている。

そして、複雑系としてのその世界モデルを前提とするならば、すべての法則を知り、
すべての要素をオブジェクトとして対象化することなしには、なんにも分からない。
これが正解にして事実なのだ。


結局は、知ろうとすることこそが、大きな間違い。人としてのその傲慢さの現れなのだ。
これが科学の限界。

先の人の脳内としてのはなし、それが最初から生まれながらに持っている与えられている自然由来のハード、これをだ、宇宙そのもの、これとしての全体として捉えるのが最善のアプローチになる。ならばだ、宇宙には宇宙としてのそのマインドがあるのだ。これとしての基本は、根本は、ちゃんと善なると悪なるを判別しているってこと。それも客観的なるの様にて…。

このミクロとマクロを、人の脳、そしてそれがどうしてか備えているマインドを、全宇宙としてのものを宇宙脳と、そして、不可視不可触不可侵としてある、それとして存在してある全能者を宇宙としてのマインドだと理解して、並列化並びに同期化、同調を為すべき、果たすべきなのだ。この限りにおいてともなれば、人の、その、単独にては、あくまでも狭量にして矮小至極なる、それとしてのものとしてに過ぎないマインドが、完璧なるシュミレーションってやつを、行うにおいてのその可能性ってやつが出てくる。現れてくる。そらくは、我ら人類としての、その必要としてあるをその限度として。

単独なれば、それはあくまでも閉じられたるものだ。なんにも本当にいいものは出てこない。

超越存在をインターフェイスとして、持ち得たならば、其の関係が樹立されたれば、
宇宙の全体が其の答えを完璧なる答えを、有効性を保証しながらに返してくれる。
なぜならば、この世界のすべてがこの宇宙内にその存在基盤を持つのだから。
最初からそれを完璧なる全体性として、開かれたるものとして思わざる得ないのだから。


霊知、般若、悟り、高次感情センターの高揚、それの後押し、上昇ドライブをもって、高次知性センターへの回路を開く、これこを先行させてこそ、科学としての学問は、真に役に立つ、意味あるものとなる。あとの、真の課題は、人のその普通のマインドでは、個人としてのエゴにて固まって囚われてある

では、ことの情報に関しての翻訳が、まず適わない、失敗せざるを得ないであろうってこと。結果、宝を手にしながら、翻訳において、電波発信者としてのものにしかならない、あれないーーってこと……。wwwwwww

おわり

ps.ではあのDa'atとしてのものはどうなるのか?
  
 たしかにあれは帰納法的に人間を遥かに越えたものではある。だが、人の作り出した
 センサー、その探知に基づく限り、有限なるものは確実だ。いや、人間が生み出した
 その科学、テクノロジーの延長線上にある以上は、その限りにおいてはだ。
 これは、しかしだ、なにか大いなるものに、乗っ取られる……そういった設定。
 これもまた全体性に準拠してある存在であることは確か……。
 

    「わたしは知者の知恵を滅ぼし、 賢い者の賢さをむなしいものにする」

    「神は、人の持つ知恵たるものを、あざ笑う」


 人の知識は、全体から見れば、ほんかけら、表層における微小片、わずかなもの
 としてでしかないからだ。それはいつまでたっても、もう永遠に、そうなんだろう。








































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