第51話 我が子と作品を承認欲求の道具にしない(青)
文字数 2,473文字
あれから半年経って、作者も元通り、オレ達で遊べるようになったんだけど。
立ち直りのきっかけは偽りなく、「イリサに相談してみた結果」なんだよな
不思議ですよね~……
イリサが言うことすることは、ぶっちゃけて私が想像して創造してるだけなのに。
現実の私個人だったら絶対言えないような解決策を、こうやって提示してくるんですから
逆に言うと、「作者が絶対言わないことを言う。出来ないことをする」を想像した結果、生まれたのがイリサの性格なんだってな
このエッセイで何度も登場した、「辛口web小説アドバイザー氏」の言っていた、
「とにかく主人公は魅力的に、読者に好かれるか嫌われないキャラ造形にしろ!」っていうのがありまして。
魅力的な人物ってどうやって作ればいいんだ……?
とりあえず、「自分の人間性と真逆の、どんな時もポジティブで、どんなに辛い時でも幸せを見つけられるような人にしよう」
と、やってみることにしたのです
魅力的な人間を作ろうとしたら、自分と真逆の人って発想になるの、闇が深いような……
でも、イリサの特徴が作者と真逆(ネガティブ、自分に起こってなくても積極的に辛い方向に考えて勝手に不幸に)って言われたら、納得出来なくもないっていう
自分のことが好きか嫌いか、と言われればよくわからない、嫌いって言い切るほどでもないんですが。
魅力的か? と言われたら違うかもな、くらいの自己認識はありますので
そもそも、「魅力的」っていうのはなんなんでしょうね? たぶん、不特定多数の人に好かれやすい人間性のことなんでしょうけど……
仮にあおくささんが、不特定多数の人に好かれない? 人柄なのだとしても、私達にとっては、あなたがいなければこの世に生まれてくることさえなかった、他に換えようのない人なのに
この人の人間性(趣味)のせいで、話の中でひどい目に遭わされがちな仲間(キャラクター)も少なくないのに、イリサが言うとそうやってポジティブになるんだもんなぁ
どんなに酷い親でも、子供にとっては唯一の親だから見限ることが出来ない。その心理があるゆえに、現実世界では悲劇が絶えないのですが……
そろそろ本題に入りますが、イリサの気持ちを聞いて(想像して、書いて)みたことで、私も大事なことに気が付いたのです。
小説を書くって行為は、心身共に疲弊するものです。だから大半の作者は、その苦労に見合う反響や、作品に価値を認められたいって願うわけで
私達の物語を頑張って書いたので、その頑張りが認められたって思えるくらいの人に読まれたい。だけど、現実はなかなか、思ったようには読んでもらえない。自分の作品には魅力が足りないのか?
と、いうような相談を受けて……私という個人の人生は、不特定多数の人に閲覧されないと、価値がないのかなぁ? というのが疑問でした。
誰にも見られていないとしたって、私はコウ君達と一緒にいられるだけで幸せなのに……って
それで、気付いたんです。私がイリサ達の小説を書いたのは、彼女達の人生を、本人達に代わって「目に見える形にしただけ」であって。
閲覧数が多い作品に比べて閲覧数が少ない自作品が劣ってると思うことは、彼女達の人生の否定みたいなものです。
そして、物語の登場人物目線で考えたら、「自分の人生を見せ物にされた上に、圧倒的多数の評価を得られないから」なんて理由で、自分の人生の価値が低いなんて思われるのは理不尽です
そっちの世界で言う芸能人? やスポーツ選手? とかなら、一般人よりすごいことが出来た上で、歴史に名を残す価値ある人生だったって評価になるのはあるかもしれないけど。
この世に生まれる大多数の一般人が、ごく普通に幸せに生きた人生に「価値がなかった」なんてことは絶対にないもんな
本エッセイ18話で書いたように、ブログを始めて間もない頃の私は、
「イリサのようなオリキャラで遊ぶ姿をネット上に公開することは自己満足」だって、ちゃんと知ってたんですよ。誰も求めてなくたって、そうやって遊ぶことが私の幸せだから、続けてた。
それが、長く続けてきたゆえか、いつの間にか、イリサ達もあの頃よりは多くの人の目に触れるようになって。だったら今よりもっと見られるように努力しなければと思うようになって、勝手に疲弊して……。
言うなれば、いつの間にか。イリサ達のことさえ、自分の承認欲求を満たす道具のようになってしまっていたんですよ
あおくささんが心からそれを求めて優先したいとおっしゃるなら、私達のことをそのように使っていただいたって構わないです。それは、あくまで空想上の人物である、私達の務めですから。
ですが、あおくささん自身がそれを楽しいと思わないなら……ただただ、何よりも「楽しい」と思えるような形で、私達をいかして欲しいと思うんです
さっき言ったのと近いけど、オレ達が商業のための作品だったら「圧倒的多数に評価される作りを目指さないのは甘え」ってことになるだろうけど。
それを自他共に求められずに済む最適の形だからこそ、今みたいな表現方法を選んで、しかも18年も続けたんだもんな
「自分にとっての好き」が「圧倒的多数の人にとっての好き」と一致している人は、社会に認められるという側面の創作の幸福を同時に享受出来るのかもしれませんが……
創作物というのは作り手の方に生み出してもらえたという、それだけで幸せで、本質的な価値の優劣はないんじゃないかなぁと私は思いますよ
ここでお話したことは、あくまで「ストーリー以上に、自作品の登場人物が何より優先」という、私と同じタイプの書き手の理論です。現実はそんなに甘くないってこともわかっています。
ですが、私はこの経験を経て、何よりも。
「自分の創作を、承認欲求の道具にしたくない」
と、強く自覚しました。
今でもたまにその欲望に取り憑かれそうになって自信を失うこともありますが。
そうやって「落ち込んでるなぁ」と気付いた時には、前のページの「イリサが言いそうなこと」を読み返します。そうすると、初心に帰れるような気がします
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