八章・約束(3)
文字数 4,209文字
最初の時に比べれば、アサヒは成長していた。
ドロシーの手の内を知ったことで、長く、粘り強く抵抗した。
それでもやはり、経験の差が彼を追い込んでいく。
「ぐ……う……っ!!」
無数の蛇に絡み付かれ、完全に身動きを封じられてしまった。余裕の表れか、ドロシーは人の姿に戻り、同等のサイズで近寄って来る。
「頑張ったわね。でも、やはりとても幼い。彼はまた選択を誤った。あなたを作り出して自分の負うべき責任から逃げた。それが敗因よ」
「逃、げ……?」
「自分の妻が過ちを犯したのよ。なら、それを正すのは夫の責任じゃない。なのに、あの男はそこから目を背けた。それがあなたの生まれた理由」
伊東 旭という男は、どうしても甘さを捨てきれなかった。
二二〇年前、自分達を倒すチャンスがあったのに妻への愛情を捨てきれずそれを不意にしてしまった。
「あなたはね、彼に責任を押し付けられたの。欠損している記憶は私と出会う直前からのもの。彼は私のことを知らない
ねえ、あなたはどう思う? そんな男に批判する権利があると思う? 私は実際最低の女かもしれない。けれど、彼だって最低の男じゃないの?」
夫として、そして父親としても、あの男はどうしようもなかった。自分がそういう風に育ててしまったからではあるが──“ヒーロー”として以外、生きられない人間になっていた。
思い出せない。彼を裏切る以前、最後に愛を囁かれたのは、いつだったろう?
「ねえ、教えてよ? あなたは、自分をどう思っていたの?」
「……俺、は……」
懇願するように問いかけられ、アサヒはようやく、ドロシーを少しだけ理解できた気がした。
そして自分の犯した過ちにも気付いた。
ライオのことを見捨てられない。そう思ったし、今もまだ思っている。それでも、だとしても、やっぱり──
「……残る、べきだったんだな」
思い出した。
オリジナルの自分が残した唯一の“王”の記憶。
いや、あれは“父”として、そして“夫”としての後悔だった。
「あんたの言う通りだ。俺は……俺達はヒーローじゃない。そんなものになるよりもっと大事なことがあった」
「……」
「ライオは仲間だ。そんな仲間を見捨てたら、絶対に後悔していたって、今でも思ってる。でも、朱璃を置いて来たことにも後悔してる。すごく……ものすごく……」
「だったら……」
ドロシーは拘束を緩めようとする。理解し合えた。そう感じたから、この少年は許してやろうと思った。
「でも」
でも、アサヒは悔やみ、俯かせていた顔を上げる。
そこには彼女の大嫌いな眼差しがあった。
「それでもやっぱり、俺はここへ来たと思う。朱璃が言ってくれたんだ、そうじゃなきゃ駄目だって。俺は最低のヒーローかもしれないけど、そんな俺を好きになったって、そう言って送り出してくれた。
だったら俺は、彼女が信じてくれた約束を守るだけだ。絶対に戻ってみせる。あんたが俺を逃がしてくれなくても、伊東 旭と同じように捕まってしまっても諦めない。朱璃ともう一度会うために、そのためだけに生き続ける!」
作られた理由は、生まれて来た理由はオリジナルの責任逃れ。目の前の女を殺すための道具としてだったのかもしれない。
でも、今の自分は違う。そんなことより、もっとずっと大切な約束がある。
「俺に訊いたって意味無い。俺はもう、あんたの旦那とは違う。俺が出会ったのは朱璃で、俺が大好きなのは彼女だ! 俺が帰る場所は、東京でも仙台でもない。あの子がいる秋田なんだ!」
「そう……」
一度は穏やかになった双眸に再び怒りと憎しみが宿る。それが彼女の本当の動機。人類を裏切り“ドロシー”を選ばせた理由。
彼女は“英雄”を嫌悪している。
「だったら、その後悔に溺れたまま死になさい! 取り込んでなどやるものか! お前のようなガキには、もう飽き飽きなのよ!!」
「ああああああああああああっ!?」
【アサヒ!】
絞めつけが強くなり、全身の骨が砕かれる。ライオは交代して本来の姿に戻ろうとした。だが直前で思い直す。絡み付いた蛇達が強靭すぎることを。このまま変身しようとしても余計に死を早めるだけ。何か別の手段で脱出しなければならない。
その時、彼方から閃光が飛来した。
「なに!?」
驚愕しながら、自分を狙って飛んで来たそれを弾き返すドロシー。伊東 旭の抜け殻が回転を繰り返しつつアサヒの方へ飛んで来る。
ライオは咄嗟にアサヒの体を操り、それに噛みつかせた。抜け殻の力を利用することで脱出できないかという、そんな思考に基づく行動だった。
「そんな姿になって、心まで失って、私達をこんな場所に落としておきながら、まだ気が収まらないって言うの!?」
激昂するドロシー。
腹いせのように絞めつけを強め、完全にアサヒを握り潰そうとする。
「ッハ!?」
血を吐き、同時に口から“杖”を離してしまうアサヒ。
けれど、この瞬間、すでに因子は揃っていた。
杖が輝きを放つ。その光輝が瞬間的に人の形を形成する。
驚愕に目を見開くドロシーとアサヒ。
両者の目の前に、突然、伊東 旭が顕現した。
「あ、旭……? そんな、どうして……」
完全に心は砕いたはず。何度もそれを確かめた。復活できるはずがない。
けれど眼前の男、三十代半ば、全盛期の彼の再現はゆっくり彼女の方へ振り向き、口を開いた。
「お前達が、俺に触れたからだ」
「えっ……?」
「俺を最もよく知るお前と、俺の宿敵と、俺の模倣体。全員が俺に触れた。お前らの魔素の中に保存されていた俺の“断片”が全て吸収された。だからだ。だから、この姿と心を取り戻せた」
そう言いながら彼は右腕を一閃する。それだけで、あっさりとあの強靭な蛇がまとめて断ち切られた。
彼はそのままドロシーに近付いて行く。一歩ごと足下に障壁を展開して。
「もうやめろ、ドロシー。終わりだ」
「よ……寄るな!」
体内からさらに無数の蛇を生み出し、差し向ける彼女。しかしやはり、旭が右腕を数回振っただけで全てがバラバラに切断され、拡散する。
「つ……強っ……」
あれが全盛期の自分。英雄として戦い続けた伊東 旭なのか。アサヒは、ただただ驚くことしかできない。
「まだよ……あなたのそれは、たかだか三〇年じゃないの! 私は二二〇年以上、研鑽を積み重ねて来た!」
体術で勝負を挑むドロシー。遠間から見ているアサヒにも何をしているのかわからないほど素早く、複雑に、瞬時に無数のフェイントを織り交ぜて攻撃を繰り出す。
なのに伊東 旭は、それを涼しい顔で捌き続けた。
「お前はたしかに、蛇と融合して人間以上の身体能力と反射神経を手に入れた。でもそれだけだ。魔素を完全に制御できれば、こんなこともできる」
努力の方向性が違う。彼は早い段階でそれに気付いた。出力の向上、技量の向上、そのどちらも魔素を扱う戦い方としては正しくない。
重要なのは“記憶”なのだ。相手に合わせ、保存されている記憶から適切な情報を抜き出し、リアルタイムに自分の限界を書き換える。それが英雄と呼ばれた時代、彼が最終的に辿り着いた答え。ドロシーが彼より長く経験を積み重ね、強くなっているのだとしても、いとも簡単に上回ってしまう。
「そ、そんな……どうして、触れられもしないの!?」
「いや……」
彼は自らドロシーの腕を掴み、彼女を引き寄せる。
そして、その胸に手刀を突き刺した。
「ッ!?」
「……お前の言う通りだ。もっと早く、こうしていれば良かったんだ」
彗星の欠片を貫き、引き抜いた手には、母が、伊東 陽の抜け殻が握られていた。
「あ、あ……嫌……」
自分の存在を維持していた二つの力を失い、ドロシーの肉体も拡散を始めた。もう彼女は生身の体じゃない。朱璃に倒され、別の欠片に移った時点で記憶災害になっていた。
杖に向かって手を伸ばした妻を、その杖を放り捨て、彼は抱きしめる。ドロシーの目が驚きで見開かれる。
「……どうして?」
「約束しただろ、ずっと一緒にいるって。大事にするって」
旭は泣いていた。自分の行いを恥じていた。
「ごめん……ごめんなドロシー。約束したのに、忘れていたんだ。君に心を救われたのに、俺は君と光理に、ちゃんと向き合えていなかった」
王として、英雄として、国と民を守ることに執着していた。
それ以外の生き方から目を背け、逃げ続けていた。
あの崩界の日、多くの人々の命を奪い、責任を取らなければならないと思った。けれど、贖罪を理由に家族を蔑ろにすることは、絶対にしてはいけないことだった。そんな愚行に走るくらいなら、いっそ誰も愛さなければ良かったのだ。
気が付くのに、長い時間をかけてしまった。
「……遅い。私達、もう消えちゃうよ」
「ごめん。でも、だとしても絶対に離れない。今度こそ、君と一緒にいる。新しい世界が見たいなら、俺が君と一緒に行く。だから……彼等は帰してやろう」
「うん」
次の瞬間、伊東 陽の抜け殻が光を放つ。
旭はもう一人の自分を見つめ、伝えた。
「母さんを追っていけ。元の世界まで導いてくれる」
「あ、あなた達は……?」
「言った通りだ。一緒にいるよ、ずっとな」
そう言う彼の肉体は、しかしもう崩れ始めていた。ドロシーと同じで体内に“心臓”が無い。維持限界を迎えようとしている。
本来その役割を果たすはずの抜け殻も体内からこぼれ落ちて、そして急速に朽ちて消滅した。これまでの戦いのダメージによるものか、彼自身の意思がそうさせたのか──
「お前は俺とは違う。まだ、間違いを正せる。十分に時間が残っている」
眩しそうに目を細める旭。
そして、はにかんだ。
「ライオ、頼む。ひよっ子のそいつを助けてやってくれ」
【……よかろう】
彼が引き受けた瞬間、旭は消失した。
ほんの数秒、自分より早く消えてしまった夫の名残りの魔素を手の平で受け止め、胸にかき抱くドロシー。
「ずっと一緒よ……生まれ変わっても、また……」
彼女も最期に理解した。自分は彼といたかったのだと。憎まれようと、恨まれようとも、それでもただ、自分を見つめて欲しかった。
結局、それだけだったんだと。
彼女もまた、霧となって拡散し、夫だったものと溶け合う。あとにはただ、穴の開いた彗星の欠片だけが残された。