五章・桜花(3)
文字数 2,731文字
窓ガラス越しに、うららかな陽光が差し込み、目の前のテーブルを照らしている。
嗅いだことの無い独特な香り。不快ではない。むしろ心地良い。
「コーヒーって言うのよ」
「えっ……?」
朱璃は、気が付けば小さな建物の中にいた。煉瓦を積み上げた壁。昨日今日建てられたものには見えない。それなりの歴史を感じる。紙が何枚も貼られていた。名前だけ知っているコーヒーの銘柄が数種類。紅茶も出しているらしい。ケーキ、パフェ、カレーライス、ナポリタン……なんだこれは、飲食店のメニュー?
「お待たせしました」
給仕の女が見たことの無いものを運んで来て、注文した覚えも無いのに自分の目の前に置いた。黒っぽい泥水みたいな液体が注がれた丸いカップと、三角形に切り分けられた物体が乗った皿。
似たようなものなら知っている。もしかして、ケーキ?
「食べてみて」
目の前の女に勧められ、何故か素直にフォークを手に取る。好奇心には勝てなかった。
少しだけ切り取って、フォークで刺して口に運ぶ。口中へ入れる直前、新鮮なフルーツの香りと甘いクリームの香りが同時に鼻孔に流れ込んできて驚いた。食べる前からわかる。これは絶対に美味しい。
ぱくり。
「……すごい」
涙が出るくらい美味しい。自分達の時代のケーキは、こんなに甘くない。もっと素朴な味だし、職人がどんなに頑張っても雑味を消し切れない。スポンジの食感だって、もっとボソボソしている。
こんな一口だけで空も飛べてしまいそうなほど美味しいものが、どこにでもありそうな、小ぢんまりとした店で普通に提供されていたのか。
伊東 旭やドロシーが生まれた時代。それがどれほど恵まれたものだったのか、朱璃は初めて知識としてでなく実感として理解できた。
「コーヒーも飲んで。甘い物と、すごく合うの」
「うん」
言われて一口啜ってみる。しかし今度は顔をしかめた。
「うえ……苦っ……」
「あ、ごめん。いきなりブラックは刺激的過ぎたわね。一緒に運ばれて来たそれ、砂糖とミルクよ。好きなだけ入れて」
「アンタ、わざとでしょ……」
ジト目で睨みながら、とりあえず加減がわからないので、砂糖をスプーン一杯、ミルクを数滴垂らしてみる。もう一度味わってみると、まだ若干苦い。砂糖をさらに二杯足してみた。
「ん、これなら飲める」
「子供舌ね」
目の前の女は苦笑した。彼女のコーヒーは黒いまま。馬鹿にされたようで悔しいけれど、しかしこちらには、マウントを取れるとっておきのネタがある。
「アサヒ、アタシが貰ったわよ」
「うん、あなたで良かった」
そう言って、術士・
肩にかかる程度の長さに切った、艶めく黒髪。柔らかい曲線を描く眉と目。異国の血を引く朱璃に比べると鼻は低く平坦な顔立ちだと思う。でも日本人らしい容姿だし、とても綺麗だ。アサヒはきっと、本来はこういう女性に惹かれるのだろう。
聞いていた通りの特徴だったから、すぐにわかった。そして、何故自分がここにいるのかも。
「助けてくれたわけ」
「ええ、爆発の寸前、なんとかあなただけは引き込めた。この“箱庭”の中へ」
ドロシーは、あの伊東 旭の抜け殻に嵌め込まれている水晶に似た物体が“箱庭”だと言っていた。つまり目の前にあったから、ギリギリ間に合ったのだろう。
「よく、アイツに見つからず行動できてるわね」
「こういうのは得意なの。彼の、オリジナルの旭の精神が完全に壊されてしまう以前にも繰り返し潜入していたから、抜け道や隠れ場所だって知っている」
そういえばカトリーヌが、桜花は数多の術士の中でも特に精神に干渉する分野においてずば抜けた天才だったと言っていた。月華もその才能を、この自分に匹敵するものだったと称えている。
「アイツを助けるために偽のシルバーホーンに喰われてから一年でしょ……まさか、まだ自我を保っているなんて」
「けっこう危ない目にも遭ったわ。でも、その度に助けられたの」
「助けられた?」
この世界に彼女以外にもまだドロシーの支配に抗える人間がいると言うのか?
「あ……」
思い出した。たしかにいる。桜花以外にも以前、ドロシーの中から外界へ干渉しアサヒの助けになった者達が。
「おかわり、いる?」
さっきの給仕が戻って来た。改めて顔を確認した朱璃は、やっぱりねと納得する。
店内の他の客達も振り返った。少年。少女。老夫婦。壮年の男。他にも数人。いずれもアサヒの証言通り。
給仕が朱璃の前に、もう一つケーキを置いてニッと笑う。
「この店は安全地帯。あの子の作った空間の中に、さらにアタシが作り出したもう一つの疑似空間。ようこそ子孫よ」
彼女は手を差し出し、握手を求める。どことなくアサヒに似た面差しを向けて。
「アタシが伊東
何かがおかしい。ドロシーは異常に気付く。
体内で発生させた大爆発。巻き込まれたアサヒは辛うじて一部が残っているだけの状態。完全な再生までには数分かかる。
その数分間で決着をつけるつもりだった。肉体を失った朱璃を記憶災害として復活させ、同化を果たす。それで完全決着だと、そう思っていたのだ。
しかし朱璃がいない。もちろん接触した魔素の中に彼女の情報は保存されている。でも、それだけでは不完全。魂が足りない。記憶だけで再現しても現れるのは人形だ。科学ではまだ解明されていないその“核”が揃って初めて本物と寸分違わぬ生物型記憶災害を生み出せる。
だから旭は自分の分身を生み出すためシルバーホーンの“心臓”を使った。あの竜の魂を利用して、人形ではない、意思持つもう一人の自分を作り上げた。
まさか朱璃は、まだ死んでいない? 跡形も無く肉体が消滅しただけだと思っていたが、そう思い込まされた?
【……奴等ね】
考えられる可能性はそれしかない。伊東 陽と、彼女に保護されているだけの複数の魂。彼女達だけなら大した脅威ではなかった。けれども去年、さらにもう一つ厄介な魂を取り込んでしまった。あの術士と伊東 陽がコンビを組めば侮れない。
この状況で妙に大人しくしていると思えば、こういう場面を狙っていたわけか。自分の目を欺き、朱璃と接触できるチャンスを。
【させない】
何をするつもりか知らないが、これ以上は目障りなだけ。ちょうどいい機会だし完全に叩き潰してやる。
「無駄な足掻きはここまでよ」
再び偽りの肉体を構築して杖を握る。抜け殻の旭、その中にある“箱庭”へ干渉する。
「さあ、どこにいる? 上手く隠れなければ、すぐに見つけてしまうわよ?」