九章・真実(2)
文字数 4,841文字
だから今、ここには自分達以外、誰もいない。
いや、正確にはもう一人、遅れてやって来た。
「……やっぱり、オマエだったのか」
憔悴しきった顔で目の前に立った相手を見上げ、マーカスはようやく、先刻自分が殴り飛ばした敵の正体を知る。
「よくも思いっ切りやってくれたな」
黒く染めた髪を元の金髪に戻し、カラーコンタクトも外し、顔の半分を大きく腫らしたカトリーヌは、喋りにくそうに口を開いた。
「おかげでせっかくの美貌が台無しだ。奥歯まで折れたぞ」
「お互い様だろ。朱璃のことを殺そうとしやがって……」
「そういうオーダーだったからな」
「よくやってくれた」
偽の人斬り燕を労う、本当の雇い主。
神木 緋意子──彼女もまた目の前の術士に朱璃の殺害を依頼していたのである。
つい先程マーカスも本人の口からそれを教えられた。だから神木も左の頬が腫れ、口の端から血を流している。相手がかつて同じ班に所属して戦った仲間でなければ、それこそこの場で殺していたところだ。
「何を考えてやがる……自分の娘の殺害命令だと……?」
「本気でやってもらわなければならなかった。でなければ剣照一派を欺くことなど絶対にできなかっただろう。彼女が相手を選ばず任務を遂行できる人間で良かったよ」
この作戦は神木が思いついた。三年前から開明と共同で進めていた剣照一派の一掃計画。朱璃がアサヒを連れて来た時、ちょうどいい手駒が現れてくれたと思った。だから草案を女王に提出し、長い時間を説得に費やして、ついには首を縦に振らせ実行した。
剣照がカトリーヌの正体に気付いたのも、こちらがそれとなく情報をリークしてやったからだ。気付いたのではなく、気付かせたのである。
──反体制派は彼という後ろ盾を得て活気付いていた。だが、同時にこの三年で失望もしていた。あの男は慎重すぎたのだ。必勝を期するあまり三年という期間の全てをあの一瞬のためだけに費やした。だが反体制派の連中はもっと派手なことがしたかった。連中は元々、鬱屈した感情のぶつけどころを探していただけ。そんな彼等にとって剣照という男は実際のところ相性が悪かった。こちらはその齟齬を突かせてもらった。
本人も気がついてはいたのだろう。だから朱璃とアサヒが結婚する話が浮上した途端に焦り出し、自身の計画を早めた。反体制派の不満が爆発しないうちに早期の決着を図りたかったのだ。万が一にもクーデターを起こす前に誰かが裏切ってしまえば、最悪、密告によって計画が瓦解するかもしれない。そんな恐怖にあの男は屈した。
彼の最大の失敗は反体制派との共闘にこだわったことだ。南日本と手を組んでいるなら、素直に彼等の戦力を借りてしまえば良かった。おそらくは武人としてのプライドがそれを許さなかったのだろうが、リーダーなら自身の矜持より成功率を取るべきだった。それができなかった時点で、負けは決まっていたようなものだ。
「奴は馬鹿な男だった。だが、あの用心深さだけは侮れない。カトリーヌが本当はこちらの戦力だと気付かれることだけは避けたかった。だからお前にも、あの少年にも、朱璃にも教えなかった。まあ……朱璃は薄々気が付いていたようだが」
アサヒに人斬り燕対策の特訓を施す時、彼女はカトリーヌを呼ばなかった。おかげで神木は一時的に浮いた駒になったカトリーヌをマーカスと共に剣照一派が狙っている重要施設の絞り込み捜査に加えることができた。おそらく、こちらの計画に気付いた上でアシストしてくれたのだろう。
「じゃあアイツは、自分が殺されるかもしれないことを覚悟で動いてたってのか……」
「知っているだろう? あの子はそういう子だ。ハイリターンが望めるなら躊躇無くハイリスクを取る」
用事は済んだとばかりに立ち上がる神木。マーカスは顔を上げて呼び止める。
「オイ、まだ手術は終わってねえぞ」
「死なないさ。星海の血筋は強靭だからな。神木と違って」
「ふざけんな! テメエ、母親だろうが! 良司にも申し訳ねえと思わねえのか!?」
激昂して立ち上がったマーカスだったが、しかし振り返った神木の顔を見て言葉を失う。ここ数年、一度も見たことの無い感情がその瞳に宿っていた。
「彼の名を口にするな……」
「……クソがっ」
再びベンチに腰を下ろすマーカス。
そんな彼をしばし見つめていた神木は、目を細めて嗤う。
「お前に私は責められないよ」
「アァ?」
「お前も朱璃を愛してなどいない。お前は良司との絆を守りたいだけだ」
「……」
「反論が無いということは、自覚しているのか。所詮、お前も私と同じ穴の狢だな。まあ、私達だけじゃない。陛下は自分の後継者としか見ていないし、開明も境遇が近いから同情しているだけ。血は繋がっていても結局、あの子にとっては他人と同じ。誰にも愛されないから愛し方を知らない。恐怖を感じないのもそのせいだな。大切な人間なんて一人もいない。大切じゃないから、失ったところで痛くも痒くもない。大切にしなければ、あの時のような悲しみも味わわずに済む」
朱璃にとっては、自分自身さえ路傍の石と同じ価値。
「私に似たんだろう。夫は違う。彼だけは、朱璃を心底愛してくれた」
一方的に言うだけ言って歩き出した彼女だったが、二歩進んだところでまた足を止める。振り返らぬまま、ポツリと呟く。
「でも……今度は違うのかもな。初めて、彼以外にも本当にあの子を愛してくれる人間が現れたのかもしれない。あの子が彼を愛せるかは、まだわからないが」
──自分自身も瀕死なのに、意識を失うまで何度も朱璃の名を呼び続けたアサヒの姿を思い出す。
ただの駒だと思っていたが、そうではなかった。神様とやらが本当にいるのなら、朱璃を憐れんで彼を遣わしてくれたのかもしれない。まともに子供を愛せない歪んだ大人達の代わりとして。
神木が去り、しばらく経ってカトリーヌも踵を返す。
「……どこへ行くんだ」
「京都」
「それも、最初から決まっていたのか?」
「ああ、朱璃が死のうと死ぬまいと、私が交渉役を務める。そういう約束だった」
「テメエと局長は、随分と仲が良いらしい」
「違うよ」
腫れ上がった顔で無理矢理微笑み、結局、痛そうに顔をしかめる。
カトリーヌは手術室の扉を見つめながら教えた。
「朱璃との約束だ。当人がどう思っているのかは知らないが、私は彼女を本当に友人だと思っている。歪な関係ではあるが、それでも友情は友情だ。友と交わした約束は守りたい。当然の感情だろう? 私もやはり、あなたと同じ穴の狢なんだよ」
そしてカトリーヌも去って行った。
一人残されたマーカスは、かつて親友と交わした約束を思い出す。
いや、一日だって一秒だって忘れたことは無い。
『僕に何かあったら、朱璃と緋意子を頼むよ』
あの日、自分は東京に行かなかった。臆病風に吹かれて直前で辞退した。勇敢に戦った仲間達が命を散らしていたその時、彼には何もできなかった。してやれなかった。そこにいなかったのだから。
そう、本当は緋意子の言う通りなのかもしれない。朱璃に対して愛情なんて抱いていなくて、ただ罪滅ぼしがしたくて、親友との最後の約束を果たすことにこだわっているだけなのかもしれない。それが彼との友情を嘘だったことにしない唯一の手段だと、どこかで思ってしまっているのかもしれない。
朱璃の前で父親面をする度に、本当は自分自身に腹を立てていた。お前にそんな資格があるのかと問いかけていた。
でも、そうだとしても、それでも頼む。自分の愛情が紛い物だったとしても、あの子に罪は無い。だからお願いだ。
もう二度と、自分から大切なものを奪わないでくれ。マーカスは手術室の扉の前で懸命に祈り続けた。
「神様……朱璃を助けてください……」
あの子の笑顔が無ければ、生きてなどいけないから。
『おい、アサヒ。大丈夫か? 息してるか?』
『先生、この子、どうして……体内の魔素は沈静化したんでしょ?』
『スタンガン喰らって暴走しかけたモンを気力で無理矢理抑え込んでたからね、多分その反動だろう。あの場にいた全員、いや、この街そのものを守った代償さ』
『たしかに、あん時に暴発していたら、地下都市ごと消し飛んでたかもしれないッスもんね……』
『私達全員、この子に守られたわけか……』
『……』
『起きなよアサヒ。班長が目を覚ました時、君がいないと寂しがるよ』
『班長が? それは想像つかなくね?』
『それはあんたが鈍いだけ!』
『おいコラ若者達。騒ぐんなら他所いって騒ぎな。ここは病室だよ』
『あ、スンマセン』
『あんたのせいで……』
『小波』
『す、すいません』
『ウォールさん、今日初めて喋ったッスね』
『あれからもう一週間か』
『まだ目を覚まさないね……』
『アサヒ、班長はもう目を覚ましたぞ』
『……』
『……』
『……』
『駄目か、班長の無事を知ったら起きるかと思ったんだけど』
『まさか、この先ずっと眠ったままとか……』
『不吉なこと言うなよ。あ、これも報告しないと。開明殿下も助かってな、お前のことを気にしてたぞ。本人もまだ重態だから直接見舞いにゃ来れないけど』
『殿下、水面下で陛下や局長と協力して、ずっと剣照閣下の陰謀を潰そうと頑張ってたんだよね』
『ああ、すげえよな。俺、あの人のこと王族らしくない気の抜けた人だって思ってたけど見直したよ。やっぱり王族はとんでもない人ばっかりだ』
『うん……』
『……』
『あ~あ、カトリーヌさんも特別任務だとかでずっと帰って来ないし、最近つまんねえな。そろそろ起きてくれよアサヒ。お前のために本も持って来たんだぜ。見ろよ、これなんかオレの代表作だぞ』
『先生が、何か刺激を与えたら目覚めるかもって言ってたけど、毎日話しかけても手足をマッサージしても起きないし、他に何か良い刺激ってあるかな……』
『あ、小波! お前、胸触らせてやったら?』
『はぁ!? 何ふざけたこと言ってんの、ぶっ殺すよ!! 真面目に考えろっ』
『いやいや、冗談じゃないって。男はみんなおっぱい大好きなんだ。だからアサヒだってきっと……』
『……え? マジ?』
『マジ』
『……う、ううん……え? いや、でも……ええ~っ……あんたみたいな馬鹿ならわかるけど、アサヒも……? ないでしょ』
『あ、やっぱ駄目だ。お前の場合、おっぱいじゃなくて胸板だもんな。くそう、やっぱりカトリーヌさんが帰って来てくれないと』
『ぶっ殺す!』
『小波』
『……すいません』
『やーい、怒られてやんノヴォッ!?』
『お前が悪い』
『そ、そりゃないッスよ、ウォールさん。ゲンコツもでけえ……』
『──なあ、アサヒ。あれから三週間だぞ? そろそろ起きてくれよ』
『友之、いい加減にしな。アサヒだってきっと、目覚められるもんなら目覚めたいさ』
『まあ、そうなんだけどよ……あっ』
『班長!?』
『馬鹿はまだ寝てるのね。まったく、いつまでもグースカグースカ』
『あ、どうぞ。この椅子使ってください』
『ありがとう。でも、その前にすることがあるの』
『え? あっ、何を班……ちょっ!?』
──唇に、何か柔らかいものが触れた気がした。
アサヒは瞼を開く。まるでずっと開いていなかったかのようにバリッと音がした。上下の瞼が癒着してしまっていたのだろうか?
「ア、アサヒ……?」
友之の声がする。
「どうして……ああ、でも、やっと……」
小波の声もする。
けれど二人の姿は見えない。
目の前に朱璃の顔があるから。
「ほら、言ったでしょ」
少女は穏やかに微笑み、アサヒの開いたばかりの瞳を覗き込む。
「古今東西、乙女のキスで呪いは解ける。そういうものよ」
ね? 彼女はもう一度、夫に口付けた。