六章・忘我(2)
文字数 6,010文字
『本当に行ってしまうの?』
朱璃に良く似た顔。彼女が大人になったような女性。それが目の前に立って震えながら自分を見上げている。
『やっと母さんがいないことに慣れてきたばかりなのに、父さんまでいなくなってしまうなんて……そんなの、ひどいよ』
風が強くて、長い髪がその顔を隠した。
最後になるかもしれない。そう思っていた自分は、もっとしっかり目に焼き付けておくべきだと考え、手を伸ばす。
ああ、頬が冷たくなっている……可哀想に、こんな寒い場所へ出て来たからだ。
『もう、戻れ』
『嫌よ、私も父さんと行く。おばあちゃんを助けるんでしょ?』
『駄目だ、お前は残るんだ』
わざと突き放すように言った。
あんな化け物と戦うのは、同じ化け物の自分だけでいい。
それに、この新しい国には王が必要だ。自分の代わりの新たな王が。
娘は妻に似て賢く育った。きっと上手に人々を導いてくれる。
『父さんは勝手よ……みんな、父さんを信じてるのに』
そうだな。でも、その信頼には十分に応えたはずだ。三〇年間、全力で応え続けた。
だから行かせてくれ。皆が反対したけれど、それでも自分にはやはり、今もあの中で苦しんでいる母を見捨てることなんかできない。
『……ごめん、わかってるよ。このままじゃいけないんだよね。いつまでも父さんに頼り切りの今のままじゃ、どうせいつかは駄目になる。いいかげん、自分の身は自分で守れるようにならなきゃいけないんだ……私も、この国の皆も』
賢いから彼女は、そんな結論に到った。
ああ、なんて俺は勝手な奴だ。
自分から突き放しておいて、娘が自立を口にした途端に寂しくなる。
ごめん、ごめんな
『謝らないでよ父さん。代わりに約束して。必ず帰って来るって。おばあちゃんを助けて二人で仙台に戻って来るって、そう言って』
ああ、約束する。
絶対に戻って来るよ。
愛してる。
『私も愛してる。父さんと母さんの子に生まれて、本当に良かった』
しばらく抱き合った後、どちらからともなく離れ、遠ざかる。
何度も振り返った。地下都市へ続く出入口から漏れる光。その中に彼女はずっと立っていた。妻の面影を宿す、この世で最も大切な娘。
それでもなお歩いて行く。
やがて振り返っても姿は見えなくなった。吹雪のせいで微かな光が完全に覆い隠されてしまったから。
俺は泣いた。
どうして、一番大切なものを手放さなきゃならなかったんだ。
母もこんな選択を望んではいないはずなのに。
それでも二本の足は立ち止まらない。
もう決断の時は過ぎた。
『帰る……帰るんだ。絶対、あの場所へ帰る……母さんを連れて』
母を助けること。娘との約束を守ること。
そして──
『……あいつを、殺して』
誰にも言えなかった、言わなかった三つ目の理由。
俺は、そのために全てを捨てた。
「おい、アサヒっ」
「わっ!?」
しばらく意識を失っていたらしい。仰向けでのびていたアサヒは友之に声をかけられて勢い良く目を覚ます。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です……」
すでに傷は治っている。痛みも元から感じない。ダメージを受けすぎて一時的に意識が飛んだだけだ。この肉体も無敵というわけではない。
「ボサッとしてんな、さっさと立ちなさい!」
朱璃が肩を蹴飛ばす。
「班長!」
友之が抗議の声を上げても彼女は傲然とアサヒを見下ろしたままだ。
その顔に、今しがた見た夢の一部が重なる。
「……ひかり」
「ハァ? 何をボケてんの!」
「ご、ごめん」
そうだ、今は特訓の最中だった。思い出して慌てて立ち上がる。
途端に頬を冷たいものが伝った。それを見て流石の朱璃もたじろぐ。
「ちょっと、泣いてんの? スパルタ方式でいくって言ったじゃない」
「いや、違うよ。朱璃のせいじゃない」
ちょっと夢を見ただけ、そう言って涙を拭う。
(どうして今頃になって?)
今までどれだけ思い出そうとしてもオリジナルの自分が“英雄”になってからの記憶は蘇って来なかった。それはおそらく伊東 旭が意図的に“崩界の日”以降の記憶を自分に複写しなかったからだと思っていたのだが……。
いや、やはりその認識は間違っていないと思う。福島で一つのキッカケからサルベージされた直後の記憶を思い出したように、他の記憶もあるのなら今の夢を見たことが原因で連鎖的に回復しても良さそうなものだ。なのに相変わらず何も思い出せない。
つまりあの夢は、それだけ大切な記憶だったんだろう。捨て去ろうとしても捨てることなどできないほどに。だから彼の意志に反してこの記憶だけは模倣体の自分にも焼き付けられていた。そう考えるとしっくり来る。
「で、どうする? まだやれるの?」
朱璃に問われ、アサヒは頷く。
「やろう」
その身を包むスキンスーツは、すでに穴だらけでボロボロになっていた。
──少し時間を遡ろう。この場所は特異災害対策局の敷地内にある射撃訓練場だ。普段はその名の通り調査官達の射撃訓練に用いられている建物。アサヒに与えられた私室同様地下にあり、窓の類は一切無い。これはMWシリーズの試射等機密扱いの実験にも使われているからで、ここなら外部に情報が漏れる心配は無い。
あの後、研究室には
残りのメンバー全員を射撃訓練場まで移動させた彼女は、万が一にも心臓に当たるのは不味いからと言ってアサヒに鋼鉄の胸当てを装着させた。それだけで彼女が何をさせるつもりなのかは察しがついた。
案の定アサヒは壁際に立たされる。
「今から全員でアンタを銃撃する。アンタはそれを全部避けつつ前に出て誰か一人に触れなさい。それで特訓終了。ただし
というわけで、この無茶苦茶な特訓は始まってしまったのである。
「はい命中。さっさと戻りなさい!」
「いや、やっぱり無理だろ!?」
もう何度目のチャレンジか数えるのも諦めてしまった頃、とにかく朱璃以外の面々が疲労の色を濃く滲ませたタイミングで、ようやくアサヒは疑念を呈する。
「攻撃を受けながら前に進めって言うんならともかく、一発も当たるなとか不可能じゃないか!」
友之と小波はいつもの突撃銃ではなく、より連射性能の高い軽機関銃型のMW四一四を使用している。この二人の弾幕を掻い潜るのがまず難しい。銃弾なんて目視で回避できる速度じゃないから、アサヒはとにかく素早く動いて当たらないようにしている。けれども幼馴染だという二人のコンビネーションは見事なもので、一方の射線がアサヒの行く手を塞いだかと思うと、次の瞬間には逃げようとした先にもう一方の弾が飛んで来ている。
さらにこの二人の攻撃を運良く避けたとしても朱璃と門司の狙撃が待っている。二人とも狙撃銃型のMW一〇七を使い、アサヒが一瞬でも足を止めたら正確に当てて来るのだ。
そして最悪なのがいつもの突撃銃MW二〇五を使うウォールだ。彼は他の四人の攻撃の合間にアサヒが移動しそうな位置を予測して三連射ずつのバースト射撃を行う。それだけでなく魔法まで駆使して邪魔をする。移動阻害の凍結魔法や視界を塞ぐ黒煙が邪魔で邪魔でしかたない。
それでもまだ移動できる範囲の広い屋外ならなんとかなったかもしれない。でもここは地下の狭い空間だ。横幅は三〇m。さらに縦方向への移動や魔素障壁の使用を封じられたルール内で全弾回避しつつ前に出るなんてできるはずがない。事実、ここまで一度も一〇m以上前へは進めていない。朱璃達のところまで五〇mの距離があるのに。
「泣き言を言うな! 次、行くわよ!」
愚痴を吐きつつも所定の位置へ戻ったアサヒに対し、給弾を終えた朱璃が早速攻撃の口火を切る。
「すまんアサヒ!」
「よけてよ!」
他の面々も申し訳なさそうにトリガーを引いた。再び弾幕が張られ、避けようとしたアサヒをメッタ撃ちにする。鋼鉄の胸当てがいくつかの弾丸を弾いた。これが無ければ胸の中の高密度魔素結晶体を砕かれ、とうに死んでいたかもしれない。
「……っく……」
膝をつく。痛みは無い。けれども全身の傷口から一気に魔素が漏れ出している。これは彼にとっての血だ。人体を精巧に再現している以上、当然大量の失血は意識の低下を引き起こす。さっきもそのせいで気絶してしまった。
「ほら、また行くわよ!」
「は、早い……」
「敵が待ってくれると思ってんの?」
「くそっ……」
ふらつく体に鞭打って立ち上がる。声も震えていた。
生物型記憶災害、すなわち“竜”である彼は、胸の中の高密度魔素結晶体“竜の心臓”を破壊されない限り死なない。その部分を保護してある今、まずこの訓練で死ぬ確率は低い。
けれどもゼロではない。鎧で保護されていない部分から体内に入った弾丸が心臓を貫く可能性が全く無いとは誰にも断言できない。極めて不死に近い存在ではあるが、本当に不死身なわけではなく、死ぬ時には死んでしまう。
その事実を思い出し、汗が噴き出した。昨日の人斬り燕との戦いと同じ。そんな恐怖が彼の動きを鈍らせる。
「がっ!?」
足を止めてしまったところに朱璃と門司の狙撃を両方食らう。門司の弾は足に当たったが朱璃の攻撃は容赦なく左の眼球を潰し、頭をそのまま貫通した。流石にたまらず倒れ込む。
「アサヒ!?」
「あ、頭を狙ったんですか班長!?」
「落ち着きなさい、死なないわよ」
「う……ぐ、ぅ……」
頭と右足から煙を上げたまま、しばらくその場に這いつくばるアサヒ。思えばこれまで頭部に大きなダメージを受けたことは無かった。潰れた眼球が再生していく感触の不快感。これも知らなかった。
(なんで……こんな、無茶を……)
心の中で呻きつつ、しかし、さらに深いところでは一つだけ理解していた。朱璃は合理的に物事を考える。つまり、これもできると思っているからやらせているのだろうと。
ならば間違っているのは自分だ。できるはずのことをできずにいる自分の方に非がある。
何が間違っている?
どうすればできる?
考えても考えてもわからない。そんな彼の耳に、遠く離れた位置から大きな嘆息の声が届く。
「ハァ……呑み込みの悪いやつね。同じ血が流れてるとは思えないわ」
「なん……だと……っ!!」
憎まれ口に腹を立て、ゆっくりと立ち上がる。これも自分を鼓舞するためだとわかっているからこそ乗ってやった。
朱璃は狙撃銃を置いたカウンターを跳び越え、近付いて来る。自分を睨むアサヒの前に立つと、思いっ切り背伸びして顔を近づけた。怒りを忘れてドキッとした彼の目を透き通った青い瞳が覗き込む。そして問いかけた。
「アンタの長所は何?」
「え?」
「そのくらい即答しなさい! 自分の強みも理解してないの!?」
「ま、魔素……魔素を、普通の人より多く使える」
「他には?」
「いや……そのくらい、だよね?」
他には思い当たらない。彼がそう答えると、またしても彼女は深くため息をついた。
「そこまで自己評価が低いとは思わなかったわ」
「どういうことさ?」
「いい? アンタには他にもいくつかの武器がある。その一つは“反応速度”よ」
「はんのうそくど?」
「アンタ、福島でシルバーホーンと戦った時、むっちゃくちゃなスピードでピョンピョン跳ね回ってたじゃない。覚えてないの?」
「いや……覚えてるけど」
たしかにあの時、圧倒的なサイズ差を考え、真っ向から立ち向かってはいけないと判断してスピードで攪乱する作戦に出た。
でも、あれがそんなに凄いことだったのだろうか? たとえば朱璃達だって自分と同じように魔素を扱えたらできることなのでは?
「んなわけないでしょ、馬鹿ね」
腕組みして、いつもの小馬鹿にするような笑みを浮かべる朱璃。その顔に不思議と今は安心感を覚える。
「ピラーの時にアタシと大谷が死にそうになったのを忘れた? 人体はそもそもあんな高加速には耐えられないのよ。仮にその問題を克服した上でアタシ達があの時のアンタと同じ速度で動けるようになったとしても、やっぱりすぐに自滅するわ。それはね、人間はあの速度の中で思考できないから。思考も反射もとても追いつかない。つまり、すぐにしくじっておしまい。でもアンタは一度もしくじらなかった。自分がどう動いているのか、相手がどう動くのか、ちゃんと見えてたんでしょ?」
「う、うん」
「いい? それがアンタの武器の一つ。人間の限界を超えた反応速度」
そうか、やっとアサヒは理解した。
これはそれを鍛えるための特訓だったのか。
「銃弾を見て躱せるようになれってことだね?」
「……」
「あ、あれ?」
朱璃はまた呆れ顔を浮かべてしまう。どうやらそうではなかったらしい。
「答えは自分で考えなさい。甘やかされ過ぎだわアンタ。ったく、旧時代の人間って物を考える力が無かったわけ? アタシはこれ以上教えてやらない。後はアンタが自力で限界を超えるの」
「そんな……」
ゴールがあるのかどうかもわからない迷路に置き去りにされた気分。心細い彼をその場に残し、再び持ち場へ戻って行く朱璃。
「三二回目、行くわよ!」
彼女は回数を数えていたらしい。
「ッ!」
スコープを覗き込む朱璃を見て身構えるアサヒ。話している間に傷は完治した。けれど、何をしたらいいのかがまだわからない。
(銃弾を躱すなってわけじゃないんだよな? 最初に全部避けろって言われたし)
友之と小波の射線が交差する。わずかにタイミングがずらされていたそれを、アサヒはこれまでの経験から予測してどうにか掻い潜った。流石にこれだけ撃たれ続けていたら多少は読みも当たるようになる。
だが、そこへウォールが魔法を繰り出して来た。目の前で強烈な閃光が炸裂する。
「うわっ!?」
眼を焼かれ、一時的に視力を失い、堪らず立ち止まってしまう。
次の瞬間には朱璃と門司の狙撃で撃ち抜かれるだろう。避けなければ──そう思ってアサヒは気が付く。
自分は今、一瞬の攻防の間に“思考”している。
「ぐッ!?」
結局彼はそのまま二発の銃弾に撃ち抜かれた。さっきの教訓を活かして顔の前で腕を交差させていたため頭部には被弾していない。腕と脇腹に受けたダメージはすぐに修復が始まる。
「防御してどうすんのよ! よけろっつってんの!」
またしても朱璃の罵声が飛ぶ。
けれどアサヒは──
笑っていた。