最終話 冷たい夜から目覚める日

文字数 22,227文字

「朽葉……、朽葉ってば」
 わたしを呼ぶ囁き声は、耳元から鼓膜を心地よく揺さぶる。
 冬の布団と毛布は暖かくて、そして人肌のぬくもりはそれ以上の価値がある暖かさだ。
 わたしを耳元で呼ぶのは天音ちゃん。布団の中、二人でじゃれ合っているうちに、わたしは眠りに落ちてしまったらしい。
 布団の外は石油ストーヴ。ストーヴの上には大きめの薬缶が蒸気を噴き出していて、部屋が乾燥するのを防いでいる。
 一月。もう年が明けて半月くらい経っている。昨日降った雪は半ば固まって、路上をぴかぴかに輝かせている。
 お湯が沸騰するぐつぐつという音以外、ここにはわたしと天音ちゃんの心臓の音しか届かない。
 心拍数は、当たり前だけどとても上がっている。これでよくわたしも眠っていられたわね、と思ってから、わたしは頭を動かして天音ちゃんのぷにぷにした胸に耳をくっつけてみる。
「いけませんねー。心臓ばくばくだよ、天音ちゃん」
 言ったと同時くらいにグーに固めた拳がわたしの額をこつりと叩く。わたしは「うにー」と痛がる振りをして、布団の中でじたばた騒ぐ。すると天音ちゃんは、
「動くな。動くと撃つわよ」
 と、指でピストルの形をつくってウィンクする。わたしがピストルの指を見て、それから顔を上げて天音ちゃんの瞳を見ると、ピストルの弾じゃなくて天音ちゃんのくちびるが迫ってきて、わたしのくちびるを奪った。
「撃たれたのはわたしのココロとくちびるなのでした」
 ナレーションもつけてしまう。するとまたグーにした手が頭上に振り落とされる。
 わたしは「痛い」と頭を押さえながらもくすくす笑う。天音ちゃんもそれを受けて噴き出す。
 そしてまたわたしたちは布団の中でじゃれ合う。
「朽葉。まだ時間ある?」
「ん? あるよ」
「夕飯、うちで食べてきなよ」
「でも。天音ちゃんが一人でつくるんでしょ、天音ちゃんのお母さんと奏ちゃんのご飯も。わたしまでお呼ばれしちゃ悪いよ」
「朽葉だけは特別」
「ん……」
 わたしたちはまたくちづけを交わす。
 吐息と吐息が重なり合って、それが頬にかかる時の、このとろけてしまいそうな一瞬が、ずっと続けばいいのにな、っていつも思う。天音ちゃんの部屋でわたしは布団にくるまりながらいつもそう思って、……だから自分の家に帰る時は、たまらなく切なくて寂しくなる。
 町で一番のお屋敷に住んでいる天音ちゃん。天音ちゃんだけは学校でいつもわたしをみんなからかばってくれて、それでこんなに毎日抱きしめてくれて、とてもいい人だって思う。こんなに大きなお屋敷に住んでいるのは、マンガだったら決まって悪い人なのに。現実とマンガはやっぱり違うんだなって思って、ちょっと賢くなった気分にすらなる。この前そんな話を少し天音ちゃんとしたのだけれど、そしたら天音ちゃんは、
「悪い人? 朽葉は男子が読むようなお話が好きなのね」
 って、ちょっと苦笑気味だった。そっかー、深窓の令嬢とかそーいうの言えばこの場合、喜んでくれたのかもなーって家に帰ってから後悔したっけ。
 でも、どちらにしろわたしたちは、春の初めくらいからこうやってじゃれ合うほどの仲になって、立派な大人の階段を登っているのだーって自負してる。
 じゃれ合うのは楽しくて気持ちがいい。
 何時間も何時間も、わたしたちは毎日じゃれ合っていた。そのためかわたしの学校での成績は下がる一方だったけれど、天音ちゃんは学年首位をキープしたままで、わたしと天音ちゃんはじゃれ合うばかりで一年が過ぎる。
「天音ちゃん、奏ちゃんが帰ってくる時間じゃない?」
 そう言うと、天音ちゃんはまたわたしのくちびるにキスをして、それから裸の胸の少し上あたりを舌でぺろぺろ舐めた。
「そうね。帰ってくる時間ね」
「今日ははじめてご飯に誘われた日!」
 布団から出ると天音ちゃんは、きちんと畳んであった下着を身につけ、それから服を着たのだけれど、わたしはその様子をじっと眺めていた。ほんの一分くらいの動作。だけれど、わたしは顔が真っ赤になって、火傷しそうになった、長く充実した一分間だった。
「はわぁ……」
「はわぁ、じゃないわ。あなたもいい加減服を着てちょうだい、朽葉」
「う、うん」
 わたしはまだ裸のままだった。頭を叩いて何回も頷いてから、わたしは布団から出て、自分の裸の姿を見る。貧相な身体だと思われてなければいいな。わたしは自分の身体に自信がない。それなのに、こんなにスタイルの良い天音ちゃんとじゃれついて、いいのかな。
 天音ちゃんは着替え終わるとストーヴを消し、換気するために窓を開ける。
「きゃっ! まだわたし着替えの途中なのにー」
「さっさと着替えないからよ」
 窓の外からわたしの裸は丸見えだ。
「天音ちゃんのばかーっ」
 わたしは、でも、焦らずに服を着て、先に部屋を出る天音ちゃんのその背中についていく。
 天音ちゃんの部屋は二階にある。階段を転ばないよう慎重に一段一段降りていく。天音ちゃんはわたしでも聴いたことがあるクラシックのピアノソナタ曲を鼻歌しながら、階段を降りてキッチンへまっすぐ向かう。
 このお屋敷は和洋折衷で面白い構造をしている。二階の部分は増築で、基本的には大きな平屋建てだ。「いかにも!」な日本庭園も広がっている。
 メイドさんがいそうなほどだが、メイドさんとかの使用人さんはいない。仕事で忙しい母親と、塾通いで忙しい妹の奏ちゃんの二人のことを考えて、二人が帰ってくる前に天音ちゃんは夕飯を一人でつくる。わたしは料理が下手くそだから手伝えないでいたし、今日はいつもより長居してしまったので、夕飯をごちそうになることになったのだろう。はじめて天音ちゃんの手料理を食べる日。考えただけで身体がとろけそう。
 天音ちゃんの包丁さばきは神レベルに手慣れていて、このままお嫁さんに行けるんじゃないかってくらい。って、神レベルかは知らないけど。わたしだったら天音ちゃんをお嫁さんに欲しい。うーん、でも女の子同士だしなー。
 わたしが頭を抱えているとキッチンに立っている天音ちゃんが、
「全く。その顔。朽葉はカモノハシみたい。頭を抱えて疑問符を出してるカモノハシのキャラクター、いたでしょ。あれみたい」
「うふ。わかる」
「わかるなっ!」
 料理がしゃべってる間も次々に出来ていく。配膳はお客さんでありお客さんではないわたしがやることになった。とはいってもテーブルの上に料理を並べるだけ。他家だから料理の並べ方は知らないけど、天音ちゃん家が料理を個別の皿に盛っていくスタイルだとわかったので、それに準じて。
「なんか、はじめての共同作業だよねー」
 うっとりするわたし。
「阿呆か」
 冷たくあしらわれるのもご愛敬。そうこうするうちに「ただいま」の一言も発しないで鍵を開けて玄関から入ってくるのは天音ちゃんの妹の奏ちゃん。
「奏、手洗いうがいをしてきなさい」
 ため息を吐いてからわざと大げさに肩をすくめると、奏ちゃんは無言で洗面所へ向かっていった。
「朽葉、お母さんは帰ってくるのさすがにいつも遅くて待ってられないの。三人でご飯食べるわよ」
「はーい」
 挙手して賛意を表明するわたし。
 食事中も無言の奏ちゃんは、機嫌が悪いんじゃなくて、家で見かけるときは常にこんな感じ。わたしは天音ちゃんの顔を見てぽやぽや気分でご飯を食べて。ぽやぽや気分のまま、帰宅時間となった。
 帰り際、玄関で奏ちゃんは、
「朽葉さん、あなたは隙が多いわ。せいぜいお姉ちゃんに絡め取られて破滅しないことね」
 と、腕を組みそっぽを向きながらわたしに言った。
「大丈夫だよ。きっと、大丈夫だよ。心配性ね」
 わたしは奏ちゃんの頭を撫でようと手を伸ばした。が、その手は払いのけられてしまった。その拒絶にちょっとだけ涙目になったわたしは、すっかり暗くなった外を、街灯を頼りに自分の家へ。私の家はこの美空坂を下って斬の宮駅までついたら、大通り沿いに西へ行った斬の宮工業団地らへんにある。遠いけど、毎日坂を登ってここへ通うだけの価値がある。天音ちゃん家がある美空坂は高級住宅街で、更にその上には別荘地である異人居留館街がある。だから気が引けないこともないんだけど。
 とにかく、今日もまた一歩、わたしは天音ちゃんに近づいた! ……ような気がする。


          ☆☆☆


 わたしは小説を書くのが好きだ。なんでわたしが小説を書くのが好きかというと、それはフィクションだからだ。
 フィクションというのは嘘っぱちだ。でも、すでに嘘のレッテルが先に貼られている。嘘は前提として、みんなに共通認識されている。だから好きだ。
 わたしのパパも専業作家として書いていて、商業デビューしていた小説家だった。
「パパ。嘘は泥棒の始まりなんじゃないの? なんでパパは自分から嘘つきになって、そんな嘘だらけのお話を書いてるの?」
 まだ、小説を書き始める前だったわたしがパパに尋ねた。
「泥棒といえば泥棒だね。世界にある全ての小説は、先行する全ての小説や文章や、それに人間がしゃべった言葉やこの世の現実からとの相互依存で出来ている。先行する全てから逃れる術はない。全てから孤立した小説なんて存在しないのさ。つまり、世界のどこにも、本来の意味での『オリジナル』なんて存在しなくて、ひとは全くのゼロからモノを書くことが出来ない。先行する何かから刺激を受けて、それではじめて小説が生まれる。書く本人が意識しようとしまいとも、ね。フィクションはだから、嘘といえば嘘だけど、写し取る鏡のようなものもあり、コピー機のコピーでもあるかもしれない。白黒コピーしたたくさんの、モザイク状になった言葉、それを裁断し、つなぎ合わせ、その白黒に絵の具で自分なりの塗り絵をして楽しんだり、そういうことになってるわけで、それはもう、嘘とか本当とか、関係ないんじゃないかな。これは泥棒とはベクトルの違う話さ。人間の営みそのものだよ。それにね。泥棒って言っても、人間の赤ちゃんを考えてごらん。親やまわりのひとが言葉を教えてるから、人間の言葉をしゃべれるようになるんだよ。狼少年のお話を知ってるだろう。オオカミに育てられた子供は、やっぱり人間があとで言葉を教えても、上手くしゃべれない人生だったっていう実話のお話さ。言葉は、誰かが教えなければならない。世の中のフィクションは、いや、この現実の世界だって、互いにみんなが教え合うかたちになったり反面教師になったりして共鳴して、その共鳴する場で色々生み出されていく。小説にブームがあるのは、そりゃ仕掛け人もたくさんいるけど、共鳴しあってるフィールドで紡ぎ出しているから、同じ傾向の作品が同時多発的に生まれ、それがブームをつくるんだ。……いいかい? パパはね、小説家だから大の嘘つきさ。そして時代の流れを盗む泥棒でもある。しかし、この世で嘘つきじゃない、嘘を吐かない人間なんていないし、みんな、全員が全員、言葉をオリジナルで生み出すことが不可能という点に於いては泥棒だ。知的財産権の話はオリジナルかコピーかの話じゃなくて、金と『プライド』の話なのさ。これはパパ個人の考えだから、真に受けなくてもいいけどね」
 あるとき、わたしとパパはこんな話をした。いや、わたしは質問してからじっと耳を傾けていただけだったけれど。
 パパの言葉、あの日しゃべってくれたことを心の中で反芻してわたしは、家に帰るとまっすぐ自室にこもる。
 お風呂に入る前に、少しだけノートにメモを。
 メモには。天音ちゃんのこと。奏ちゃんも交えての夕飯のこと。そして思い出したパパのお話。
 パパはもうこの世界からは消えてしまったけれども、耳とのーみそで記憶しているパパ語録は、血や肉や骨になってわたしの身体を構成している。ような気がする。
 血となって身体中を巡る。つまり、わたしも物書きの血が疼くってこと。でも、疼いちゃうから、天音ちゃんとじゃれ合う時は頭の中の言語中枢が文字化けを起こしちゃうんだけどね。疼いた時の文字化けも好き!
 ぶつぶつひとりごとをしながら、わたしはノートにメモを取っていく。
 神さまがくれた甘く甘くしたハーブティー。それがわたしにとって、小説でありますように。
 書いて辛くなることも、書きたいときに書けなくて辛い苦みもあるけれど。そこにハチミツを垂らせばきっと。薬草のお茶の苦みとハチミツの甘さで、きっと人生が二乗倍で甘くなっておいしいから。人生は甘くない。ならばその人生の心の中ではずっと甘い夢を見させて。お願い、詩の神さま。
 わたしが書いているのが例えば世迷い言だとして。わたしはそれでも自分が書くものを、「恥ずかしいから辞める」なんてことは出来ない。文章を書くことの「苦み」の部分に、わたしは歯を食いしばって、次に訪れる甘いひとときまで書き続ける。


 夕飯をごちそうになった日の小説、それは原稿用紙にして数枚のショートショートだったけれど、できあがりは、それそれはおいしいショートケーキみたいだった。自分で何度読み返しても、それはそれは素晴らしい小説だった。
 でも、これを他人に見せてはならない。なぜならその小説を書く前に取ったメモ書き、あの、天音ちゃんのつくったご飯を食べて帰ってきた直後に書いたメモだ……、あれを元に、お風呂上がりに一気に書き上げたショートショートは、まずそのメモ書きは現実で体験したことそのままだったし、小説のかたちに溶かして型に流し込んでも、それは誰が見ても間違いようもないくらい、自分のことを書いているのが明白な文章だったからだ。回りくどい言い方になってしまったけれども、自分を主人公にした、ひとりよがりな小説、そう「思われても」仕方がないな、という気がしたのだ。
 自分で読んで絶品のおいしいケーキでも、それをつくった人間が他ならぬ「わたしである」のが問題になる。ケーキがおいしいお店があったとして、そのお店のケーキ職人さんが悪い噂を立てられている人だったとすれば、それは「まずいケーキ」と見なされるだろう。本当は「味が」おいしくても、「流言」で広まった「まずい」という評価が一人歩きして、いつしかそのケーキは、その先入観から本当においしくない、まずいケーキだと舌が認識するようになってしまう。それと同じように、わたしが書いたわたしの小説は今のところ、絶対に読ませちゃいけないのだ。他人に。
 なにを言っているかって?
 そう、わたしはクラスで孤立している。
 わたしに話しかけてきてくれる子は何人もいて、休み時間の間は退屈しない程度には会話してる。
 でも、さすがにわたしの年齢になればわかる。みんなはわたしに気を配ってくれて、休み時間にわたしとしゃべるひとは「当番制」になっている、ということに。
 それでも退屈はしないし、いじめられているわけでもない。学校が終わって賑やかな美空坂を登っていけば、そこには海の見える、見晴らしの良い大きなお屋敷があって、天音ちゃんが笑顔で出迎えてくれる。
 でも天音ちゃんはわたしと同じ学校で同学年の生徒であるにかかわらず特待生で、だから特別待遇の生徒で……。天音ちゃんのクラスはクラス自体が違う学校の教室みたいで、話しかけることなんてできない。それに学校での天音ちゃんのクールさは、ひとを寄せ付けないことに定評がある。
 なのでわたしは今日も小説のことだけ考えながら、昼休みに図書室にこもってみたりするのだった。

 図書委員の塔子ちゃんとわたしは図書室で二人きりになる。
「図書室に置いてあるような本に魅力なんて感じないわ、とか勿体ぶった理由をみなさん、つけなさるのですよー。失礼にもほどがありますわ」
 ことあるごとに塔子ちゃんはわたしにそう言う。
「電子端末の網が地球上を覆い尽くして、だいぶ経ちますわ。遅ればせながらとはいえ、図書館も電子の網に負けじと改革を始めていますわ。でも、その輪はゆっくりですし、図書館とは違い図書室、ましてやこの学園は私立で。公立の一斉改革と違い、頭の硬いうちの学園の有力者の皆様方は動きません。彼らが動かなければどうにもならないのに。進学率と微妙にしか関係ない図書の部屋なんていらないと言わんばかりですわ」
「ふーん」
 机に本を何冊か持ってきて読んでいると、塔子ちゃんはおしりをぷりぷりしながらわたしのところまで来て、愚痴をこぼす。
「うちの図書室にも今、朽葉さんがお読みになってらっしゃる『バークーバー白熱教室』のような本もたくさんありますのに。それに朽葉さんが机に積んでいるこれ!」
 塔子ちゃんは机をバシッと手のひらで叩く。
「これですわ! 『針山さん、世界のかたすみ』! この小説、すごくいいですわよねぇ。ロマンがあります。スピンオフでロボット小説になるのはご存じでらっしゃいます?」
「あ、いえ、知らないでらっしゃいます……」
「ふふ」
 瞳の中の黒目がハートマークになる塔子ちゃん。アニメキャラみたい。よっぽど本が好きなんだな、とわたしは思った。
「僭越ながら私が教えちゃいます」
 語尾にもハートマークがついちゃいそうな塔子ちゃん。頭の中が春になりそう、だって艶めかしいんだもの。
 わたしは塔子ちゃんを見てると艶めかしさにくらくらしそうだったから、また視線を本のページに落とした。白熱した内容で胸が熱くなる本だった。ホントは胸が熱くなった理由の所在は不明だけど。このドキドキ。


 予鈴が鳴りそう、とわたしは思った。
「もう帰るね」
「あら、もうこんな時間」
 図書室貸し出しカウンターの上の置き時計を見て、塔子ちゃんは驚いて飛び上がった。
「それじゃ、またいらして下さいね」
 深々と頭を下げられて、本を棚に返したわたしは教室へ戻っていく。

 教室に戻る途中、廊下でわたしは天音ちゃんとすれ違った。
 歩きながら、目が合う。天音ちゃんの口元が少し動く。何か言おうとしたのを噛み殺す仕草を、天音ちゃんはした。でも、わたしも天音ちゃんも足を止めない。目と目をクロスさせながら、歩いてすれ違う。わたしが頬を緩めると、すれ違ったあと「ぷっ」と噴き出して、それから慌てて口を手で押さえる天音ちゃんの後ろ姿を確認できた。わたしの緩んだ顔が面白かったのだろう。満足したわたしは、でれっとしちゃった顔を再び引き締め、自分の教室へと戻る。
 目と目でする会話を、誰にも見られなかったことに胸をなで下ろした。なで下ろしながらも、同時にみんなに見せつけたい思いもある。
 いっそのこと、わたしが書いた小説をみんなに公開させちゃえばいいんだ。わたしの、これでもかというくらいハッピーな物語を。そして思い知ればいいんだ、天音ちゃんとわたしの愉楽を。
 踏みとどまる難しさ。みんなにわたしの書いた物語を無理矢理にでも見せつけたい。それを、踏みとどめる難しさ。ひとはなぜ、文章を書き残すのか。無意識に書いたものであっても。誰にも見せないと誓いつつ書く文章であっても。「自分」も含めた『誰か』に読まれたいから、誰かに読まれることは前提として、文章は書かれるのだ。恥ずかしい話であってさえも、ひとはどうしても後世に残したくなる。
「失言をした者には死を! 社会的な死を与えよ!」
 これがこの世界のドグマ(教義)だ。ドグマである以上、それは完全に浸透している。変えられざる考え方なのだ、大半の人間にとって。
 それでもひとは、青臭いファンタジーを、稚拙なロジックを、頑張って書いて残す一面も持っている。
 様々な権利問題。例えばわたしが書いたことがきっかけで二人の関係を知られたら、みんなはどう思うだろうか。わからない。わたしは目が見えなくなるくらい天音ちゃんを眩しく想っていて、好きで好きで好きなので。
 いや、冷静に考えよう。わたしが書いた小説に、そんな高尚な問題提起が孕まれているのだろうか。読まれたところで「ふーん。あ、そう。よかったね」とかてきとーな感想言われて終わりなんじゃないか。でも、それでも「書いちゃいけない」と睨む人々がいて、睨むために読むのだ。
 わたしは教室で自分の席に座ってから、そんなことばかりを、ぐるぐる反復させながら考え込んでいた。
 午後からの授業は眠くてたまらないし同じ考えが黒板に書かれた内容と無関係にループするしで、気が気じゃなかった。
 だから今日も美空坂を登って、あの大きなお屋敷へ、天音ちゃんに会いに行こうと決めた。


「ハーブティーの香りとハチミツの甘さ。たまには朽葉も上手いこと言うのね。さすが物書き」
「物書き! 物書きだって認めてくれるなんて。うれしいな!」
「そんなにはしゃいじゃって。そこまで嬉しいものなのかしら」
「天音ちゃんだからだよ! 天音ちゃんに認めてもらえたから、こんなにうれしい!」
 天音ちゃんの部屋。学習机の椅子に座ってこちらに椅子を向けている天音ちゃんは言う。お膳で出されたカモミールのハーブティーを座布団で正座して飲んでいたわたしは、笑顔でいっぱいになった。
「創作は、甘くした、甘い甘いハーブティーじゃなくっちゃ!」
 わたしは小さな胸を張る。
「苦みと甘さが心のドアを開けてくれる。閉ざされた心のドアを開いてくれる、そんな小説が書きたいな」
 短いスカートで足を組み直す天音ちゃん。
「学校の勉強もおろそかにしている朽葉が言っていい台詞じゃないわ、ポエマーさん」
「うきーッ!」
 正座の姿勢から立ち上がり、学習机の椅子に座っている天音ちゃんの、おなかの辺りにわたしは顔をうずめてぐりぐりしながら、天音ちゃんを抱きしめる。
「うきーッ! もう離さないんだからぁー」
「馬鹿ね」
 天音ちゃんはわたしの頭を両手で抱きかかえる。
「馬鹿な子でも、それが朽葉であるなら大好きよ」
 アルティメット金持ちゾーンの別荘地、異人居留館街を抜きにすれば市内で一番大きな屋敷であるここ、天音ちゃんのお部屋でわたしたちは今日もじゃれ合う。まるで動物みたいに、じゃれ合う。俯瞰すれば犬とか猫とか、ペット同士がじゃれてるような、それは優雅な時間に違いなくて。
 今日も石油ストーヴの上でお湯がぐつぐつ沸いている。そのスチームを吸い込んで乾燥を避け、わたしたちは蕩尽の限りを実践する。わたしは悪と文学に染まりたいのかもしれないな。
 しばらくじゃれ合って、ちょっとお手洗いに行こうと服を着て部屋を出る。長い廊下。二階から一階に降りてガラス戸の外を見てみると、そこからわたしたちの住んでいる町が見下ろせた。ああ、そういえばここは港町なんだなー、って思って、立ち止まって景色を眺める。
「あなた、馬鹿なんですか。何、他人の家の廊下で立ち止まって口を阿呆みたいに大きく開けてるんですか。その汚い口を閉じたらどうですか」
 投げかけられた言葉にびっくりしたわたしが声の方に首を振り向くと、そこには奏ちゃんが立っていた。目を細くして冷たい視線でこちらを突き刺すかのようだ。外から帰ってきたばかりなのか、マフラーを口元まですっぽりと覆うように巻いている。
「え……あ……うん。あの……奏ちゃん、こんばんは。塾、終わったの?」
「こんばんはって挨拶するくらいひとの家に長居して、あなたは一体何様のつもりなんですか。昨日なんて、……家の事情を無視するにもほどがあります。とっととお帰り下さい、カモノハシさん」
「朽葉です!」
「ごめんなさい、あまりにカモノハシのキャラクターに似た顔をしてるものだから、つい……」
「うー」
「それにしても朽葉さん。あなたはよく”あの”お姉ちゃんと毎日毎日長話する内容があるのね。学校の中でも学年首位の成績に仏頂面。鉄面皮。それがうちのお姉ちゃん。なのにあなたはよく……」
「そんなこと言わないでよ! 天音ちゃんは、笑顔がこれでもかというくらい、可愛い!」
 一歩下がる奏ちゃん。後退り、後ずさり。
「じ、蕁麻疹ができそう……」
「奏ちゃんは天音ちゃんと仲良いんでしょ?」
「ええ。でも前に言った通りよ。絡め取ってひとの心を食べちゃうんだから。朽葉さんがこんなにも、一年間もお姉ちゃんのそばにいることがすでに異常事態だわ」
「じゃあ、やっぱりわたしは天音ちゃんにとって特別、なんだね!」
「あなたは……」
 片手で顔全体を覆って顔を伏せ、奏ちゃんは大きく息を吐いた。
「わからず屋なのね」
「それ、褒め言葉になっちゃうよ」
 会話を途中で断ち切るように、奏ちゃんは話が詰まったところで、音を立てないようにすり足で廊下の奥へと行ってしまう。わたし、まだ奏ちゃんとしゃべり足りないんだけどなぁ。
 わたしは奏ちゃんとも仲良くなりたいのにな、と思ったのだけれど、なかなか難しそうだ……。


 次の日、学校に登校して教室に入ると、クラス中のみんなが一斉にこっちを見た。効果音で言うなら「ザザザッ」って音が一番しっくりくる、そんな音。擬音。
 映画の撮影なんじゃないかってくらいのみんなのシンクロした動作にわたしは戦慄が走った。身の毛がよだった。どう考えてもこれは、わたしがなにかやらかしたからだと直感して。そうに違いない。でも、何をやらかした?
 わたしは考える。宿題の忘れや低迷する成績。先生達はわたしを疎んじるけど、わたしだって同様に教師が大嫌い。クラスの中で浮いているわたしは煙たがれてる。孤立してる。
 ん? ……うん。考えるまでもなかった。これ、普通だ。わたし、普通に嫌われてるもん。
 嫌われてるもん、遅かれ早かれ、始まるよね、こういう奴。
 みんなの注目を浴びながら、後ろの扉から入ったわたしは、教室の中を迷いなく進み、そして自分の席に着く。
 と、わたしの机には鉛筆書きで、ローマ字が大きく書いてあった。
『Hentai』。 Hentai……。なにそれ? 
 わたしはその文字を消しゴムでせっせと消す。机の落書きを消した経験のないひとにはわからないかもだけど、机の落書きを消すときってすごく消しゴムを消費する。だから消し終わると、消しゴムの大きさが半分になってしまっていた。
 わたしは授業のチャイムが鳴る前に、保健室へ避難することにした。たまにはそういうのだって、許されるんだから。


 保健室には、ぶかぶかの白衣を纏った保険医、ぱせりんがタイトスカートで出迎えてくれた。白衣がぶかぶかなのは身長が低いからではなく、痩せているのにXLサイズの白衣を着ているからだ。それも海外のXLサイズなのでやたら大きく、裾は床についてしまっていて、ぱせりんは歩くとき、白衣を引きずって歩くことになる。よくわからないけど、そういう先生だ。
 わたしが保健室の扉を開けると、駆け足で扉まで来たぱせりんは、自分の白衣の裾を足で踏みつけ、盛大に転んだ。転ぶと、バネ仕掛けの人形のように飛んで立ち上がった。
「今、先生のことを変なオンナって思ったでしょ」
「思ってませんよぉ」
「私がXLサイズの白衣を着るのは、おっぱいが圧迫されないようにするためぱせ。他意はないぱせ。おっぱいを圧迫、略してオッパク」
「は、……はぁ」
 てきとーに相づちを打った。それしか方法がなかった。
「胸の発育に圧迫は御法度。発育促進のために。さぁ、そこのハニーちゃんもブラ外すぱせ」
 超高速移動術『瞬動』、……というか身体を素早くワームのように蠢動させてわたしの背後に回ったぱせりんはわたしの背中のホックを片手で外し、どうやったものか、それをわたしの胸元から、するりと抜き取った。わたしの知識を総動員すればそれは助平ジジイの宴会芸のそれだった。
「うっひゃあぁ! 若い娘のぶーらー。ブーラー。ブラー。くぱあくらいふー」
「……う、うれしいですか、生徒にこんなことして」
 わたし、涙目。
「はぴはぴ、ぱせ!」
 本当にここは我が校の保健室なのだろうか。わからないけど、とにかくわたしは保健室で休ませてもらうことにした。


 ちょっと、つらい。今、休まなければと、心と体が訴えかけてくる。わたしは保健室のベッドに横になり、安静にすることにする。
「爆睡すりゃいいぱせ。爆乳が爆竹するぱせ」
「もういいから先生は黙ってて下さい」
「はぁい」
 しょんぼりする保険医に冷たい視線を送りながら、わたしは考えにふける。が、一時間もそうしていると、眠りが襲ってきた。大体、おっぱいが大きいひとをからかうのに巨乳ネタを言うってのはあるけど、なんでうちの保険医のぱせりん先生は自ら巨乳ネタで攻めるのだ……ろ…………う……むにゃむにゃ。


☆☆☆


 ゆさゆさ揺さぶられて起きると、そこは未だ学校の保健室だった。消毒液の匂いと、この部屋の外から漏れ聞こえる、グラウンド上の生徒達の話し声。白い天井に白い壁。わたしを起こしたのは、図書委員の塔子ちゃんだった。
「塔子……ちゃん?」
 なんで塔子ちゃんが起こしに来たんだろう。
「さっき、私のクラスに奏さんがいらっしゃったわ。いつもふてくされてたお顔をしている方ですけど」
 そこでちょっと苦笑する塔子ちゃん。
「その割に、朽葉さんの心配をして『私じゃダメだから』って、この私、塔野木塔子を奏さんはここまで派遣したのですわ」
「心配? わたしを? なんで?」
「もう、読まれてしまったのですよ」
「なにを? ……ってまさか」
「そう。朽葉さんの『私小説』です。あの日記風の」
「なっ!」
「見事な完成度でしたわ。ですが、その完成度が故に」
 全身に悪寒が走る。なんで。どうして。あのノートは自分の家の、部屋の机の引き出しに……。
「ええ……。朽葉さんのお母様が、天音さんと天音さんのお母様とお話をしたそうです。あの『内容』の真否について。それから、今日の朝方にはもう、校長先生のところにもお話をしに行ったそうで……。今日の朝のクラスの反応がおかしいからここで休んでいたのではありませんか。それは、……そういうことです」
 あぁ、そうだった。わたしのママ……、いえ、義母さんはそういう人だった。いつも家にいないからその性格も忘れそうなくらいだったけれど。
 書かれた物語が事実だと認識されて。
 または、そういう妄想を書き連ねる性癖を持った人間だと認識されて。
 全部事実だけど、嘘にしてもわたしは妄想を忠実になぞることは、義母には許されていない。
 わたし、どうすればいいんだろう。義母さんが現れたら全部を壊してしまう。いや、もう壊れてるよ、絶対。どうしよう。
「朽葉さん?」
 保健室のベッドの掛け布団をがばっと持ち上げ跳ね起きたわたしは、居ても立ってもいられず、上履きを履くと昇降口へ向かった。

 ………………。

「あんなに焦っても仕方ありませんのに」
「ああいう性格の子はああいうもんぱせ。だからあの女帝の天音さんが『堕ちた』んじゃないの」
 ぱせりんはえっちぃ声で下品に笑った。
「もぅ、からかうのはよくないですわ」
「そうね。……私たちは大丈夫ぱせが、この学校の子たちは堅物で保守的な子が多いからなー」
「他人事のようですわね」
「所詮は他人事ぱせよ」
「……嘘つき」
 ぱせりんはぎゃっはは、と大きな口を開けて、それからハンドクラップした。楽しかったらしい。
「それより塔子、私たちも朽葉さんたちに負けないくらい、いちゃこらするぱせよ。もう放課後、他に誰もいない保健室ぱせよ!」
「もう、先生ったら」


☆☆☆


 どこに行ってもどこにもたどり着けないような、砂漠の思想が、わたしにはある。わたしの血液の中でヘモグロビンが飢えた思想を運搬しているような気さえ起こす。
 この場合、今の事態、すでに回避は不可能で、刻一刻と事態は悪化し、絶望を与えられてしまうのも……仕方ないとはいえ受け入れがたく。どこまでが本気で、どこまで信じてて、どこまで子供がしていることだって義母さんは言うだろうか。パパがいなくなってから偏屈さが増していって、いつか食べた油マシマシのらーめんになったかのような性格を有するあの、油ギッシュな義母さんが。
 赤血球が運ぶわたしの思想。でも、オキシジェンじゃない、なにか。別種の。
 身体は異物を取り込み同化したり異化したり。身体の中でなされることと、心の中でなされることさえパラレルなものになっているわたしののーみそと、のーみそからダダ漏れなノートに書かれたフィクション。それはアンチフィクションとパーセンテージが半々なフィクションで。
 読まれてしまったら、事態を受け入れるしかない。なぜなら書いたのはわたしだからだ。あの描かれた世界は、描かれるべきモデルを描いた私小説。わたしと天音ちゃんの大事な秘めるべきだったフォトグラフのような、精巧な絵画。この絵画の上に直接ペイントしてきそうな性分の義母が動いているというならわたしは。
 ……いえ、「どう動く?」かなんて思考をする前に、とっくに動いていた、わたしの足は。
 わたしは走っていた。わたしは汗をかいて焦っていた。冬の冷気は頬を赤く染め上げ、上履きからスニーカーに取り替えたわたしは、身体中をほてらしていた。
 奏ちゃんは必死に守ってくれたけど、その防波堤を破られ、大きな波はわたしの名前に水を思い切り浴びせかけた。防波堤は義母さんの攻撃により決壊した。
 誰とまず、しゃべらなくちゃいけないかは、考えるまでもなかった。
 天音ちゃんだ。
 なぜなら、すでにわたしの世界の中心は、天音ちゃんで出来ているからだ。逆を言えばわたしと天音ちゃんの二人の世界が守られさえすれば、全ては耐えられるものだ。希望的観測?
 波は高く、船は出せない。わたしたちは孤島に取り残された。でもあいにくこのクローズドサークルはフーダニットではないのだ。むしろ義母がゾンビたちを操っているかのような、操り手が明白で。操られてるひとたちも明白で。
 でも、そんな戯言はどうでもよかった。わたしはただ、天音ちゃんに会いたかった。
 会って、自分の想いをぶつけたかった。
 もう、じゃれ合うなんてごまかしは考えなくてよかった。
 たった一言、「わたしはあなたを愛しています」と言えば、それだけで済む話なのだ。

 常に透明人間なわたし。透き通ってるって意味じゃなくて、ただ、誰にも認知されてないっていう意味合いに於いての。
 わたしはただ独りで文章を書いて、それを自分で読み返して、自分でなにか納得が出来なくて、それで、繰り返し繰り返し同じ作業をしていただけだ。書く、という作業。書く、という営みを。
 書くことはわたしにとって生命線だった。いや、最初から生命線なんてわたしにはなかった。わたしは生まれたときから死んでいた。わたしが書く文章の中にしか、わたしは存在してないんだから。
 溢れ出す拙い言葉。漢字が上手く書けなくて、ひらがなを頭の中で変換できないままで。言の葉の葉緑素、クロロフィルはフィルハーモニーを奏で続けているのに。この交響楽の演奏中、わたしはただ、走った。走っていた。
 今は何時だろう。わからなかった。時計なんていう機会の演算で縛られてなんて、わたしはいないつもりだった。わたしは、肌で感じるものだけが全てだった。なぜなら、ほとんどの物事をわたしは「肌で感じられなかった」人生を、生活を、送っているからだ。だからわたしにとって、『ぬくもり』こそは至上の現実だった。
 わたしが学校から、西の団地ら辺にある自分の家と違う方向へまっすぐダッシュし、珈琲店が並ぶ美空坂を息切れしながらも一度も止まらずに駆け抜けた時に、なんの言い訳も思いつかなかったし、それでいいと思った。ダイレクトに伝えるために。
 わたしは走る。
 大きなお屋敷は、もうすぐそこだ。


☆☆☆


「本当の物語は、常に本当の物語ではあり得ないのよ」
 わたしにはわからない。わかるはずもない。わたしには想像力が足りなかった。
 物書きなのに? そう。物書きだと思っていたわたしには、想像力なんてなかった。だから、天音ちゃんのその言葉を発音した時の突き刺すような口調のわけなど、わたしには想像なんてできっこなかった。
「言葉は、それを発した時点で虚構になる。たとえそれが本当のことだったとしても、真実はその魂を言葉にすることにより喪失してしまうのよ」
「わからないよ! 全然わからない!」
 わたしは耳をふさぐ。わからないし、聞きたくなかった。
「全ては嘘になる。言葉、ましてやノートに書いた物語なんて。だから朽葉、あなたは悪くない。悪くないけれども。紡いだ物語には、自分で責任を持たなくてはならないわ」
「だからなに? なんなの!」
 わたしは泣きそうだった。
「言葉は魔法よ。つまり、呪いでもある」
「そんなの知らない!」
「みんなが魔法のスイッチが発動して切り替わったの。蒼から赤へ。青信号の、信号機を渡れるその空気から、渡るな危険の赤信号へと。私から言えるのはそれだけよ。私とあなたがどんな関係か、学校の生徒も先生も保護者も知った。前から疑われていたのよ、わたしたち。それが、あなたの書いた文章によって暴かれた。暴かれた世界を生きるのは大変で、私は家を潰したくないから、荒事は避けたい。わかるでしょ」
「わからない!」
「朽葉、あなたとはお別れってこと」
 そんな! っていうありきたりなことを言いそうになり、それをわたしは必死に飲み込んで耐える。「そんな!」もなにもない。別れるのは決定事項なのだ。二人にとって。天音ちゃんにとって。だからわたしは叫んだ。
「天音ちゃん、わたしはあなたを愛してる!」
「ありがとう。そして、さようなら」
 冷たく放つ。
 心の扉は再び閉められ、わたしは放逐される。追放された、この園を。
 この園を追い出されたら、わたしはもう無傷ではいられない。帰路の中、わたしは涙をこぼしながら、ゆっくりと歩いて、坂を下る。
 わたしは去るとき、「さよなら」の返事もしなかったし、すがりつくこともなかった。
 歩く先は自分の家。今度はこの元凶とのご対面となる。ただ、そう思うと足取りは重くなる。どんどん歩くスピードは落ちる。
 斬の宮駅。駅前ロータリー。
 ベンチに座るとわたしは、もう一歩も歩けない。
 夕暮れは夕闇となり、そして夜のとばりが降りる。
 真っ暗になると、うっすらと雪が降ってきた。肌に当たって冷たい。動けないわたしは、ただ無感動に雪が降るロータリーを行き来する自動車のランプを眺めていた。
 何時間いたんだろう。わからない。見回りのPTAのおばさんが来て、わたしに話しかけた。わたしの知らないおばさんだった。PTAの腕章を付けている。
 おばさんにどこの誰だと訊かれてもしゃべれないし動けないし、学校や家に電話してくれたけども、そのおばさんが連れていってくれたのは場所は交番でもなく、場所は市内の総合病院の心療内科だった。家、学校、警察、等々が下したのは、わたしを病院に搬送する、ということだったのだ。
 取らないといけない行動はわかっていた。だからわたしは、自然と、自らの口で、
「休ませて下さい」
 と、力を振り絞って発声した。そうするしかなかった。震えるわたしの声を聞いてお医者さんは、看護師さんを呼ぶ。即日、入院することが決まった。


☆☆☆


 長い長いリノリウムの床が一本、まっすぐに続いている。そこは廊下だけど、灯がとぼしくて、奥の方は暗くてよく見えないし、至近距離の視界でさえ、憂鬱な気分になるほど真っ暗。
 鼻を突くすっぱさ、汚物の匂い。汚物の饐えた匂いはしかし、この病棟内の空調が『冷凍睡眠(コールドスリープ)』用で、冷気そのものであるという理由と、患者一人一人の鼻腔にチューブが差し込まれていて匂いがあまり感じられないという理由の二点によって、苦にはならない。もし、身体が匂いに反応出来たところで、半分だけ覚醒しただけののーみそで「だからどうしよう」という思考が起こることはないだろう。そして「慣れ」が来ている者たちにとって、このつんざく匂いが、起きて半分だけ覚醒している時のリアリティに一役買っているのだ、とも言える。
 チューブで鼻腔内に冷気が注入されて、のーみそも身体も低温状態がキープされる。冬眠状態に近い。だけど全く動かないで居ると「飲み込まれてしまう」のだ。身体が病室のベッドに貼り付けられてしまうような錯覚と、運動不足による筋力の低下。いずれ自分の床ずれも直せなければ便は大小問わず垂れ流し。そんな近未来……具体的に言うとそれはたった数日後かもしれない……が、待っている。
 だが、それでも「生きていること」が重要なのだ。わたしはどうも、「治せない病気」で、「症状が進行している」と診断された。不治の病の症状の悪化を防ぐため。義母さんは捺印し、わたしはここで、ゼンマイの切れかけた絡繰り人形のようにしか身体を動かせなくなった『わたしのなれの果て』を自分に対してすら無害であり、これを『是』とした。受け入れた。

 ここは冷凍睡眠病棟。人間を冷凍保存することが目的の、閉鎖病棟だ。
 外の世界と隔絶されていて、それが法的に許されているカクリヨだ。
 ここではみんな普段はベッドの中で冬眠し、薬の作用でたまに起きる。起きてる時に動き、そしてまた眠る。サイクルは一日とか、二十四時間とか、そういった「外の世界」とは全く異なっている、独自の時間調整の中、生きることになるサイクルだ。
 冷気ボンベを車輪のついた鉄製の杖のような車で押しながら、わたしは自分の病室を出て廊下の奥を見つめる。奥は暗い。ここも暗い。きつい饐えた汚物の匂い。長い廊下が天音ちゃんの屋敷を思い出させようとするが、すでにわたしの頭じゃ天音ちゃんの姿が、その像を結ばない。天音ちゃんに関する知識が分裂し、穴が空いて破裂する。これはわたしのアポトーシス(自死)なのか、いや、壊死なのか。事故のように外的要因による、破裂。
 わたしは廊下の真ん中で、
「あ……う……あ…………うぁ……あ」
 と、口に出した。何かを言いたかった。言うべき言葉が存在した。しかしわたしは、その存在を捉えることが出来ないっまだった。身体はロボットダンスのような所作で、がたがた動きながらも、次第にうずくまる。
「現実って一体なんだろう」
 問いかけたことがない人間はいるのかな。疑問を持ってない、もしくは疑問を持っても口に出さないひとがいたら、きっとそのひとはこの現実というものを信頼しすぎるほど信頼している。
「うぇ……んぢっ…ていたい……なろ………」
 頭の中で行った台詞を独り言しようと口を動かしてみたけど、ダメだった。声すらも、わたしは奪われてしまったらしい。
 わたしは歩く。長い廊下を。
 廊下は一本しかなくて、それは最初から最後までまっすぐに伸びている。その左右に、病室やトイレがある。片方の行き止まりはナースステーションになっていて、もう片方の奥の行き止まりはコールドスリープ制御に関するスタッフオンリーの立ち入り禁止区画への入り口だった。その、ナースステーションの所までゆっくり辿り着くと、深呼吸をして、それから上がった息が戻るのを待つ。戻ったらスタッフオンリー区画入り口まで、今度は歩く。その繰り返し。一本の廊下を行ったり来たり。ここで一本の廊下を歩くことには、なんの思想性もない。ただ、死なないように、歩く。でも、歩いててひょっこり本当に覚醒してしまったら、注射でも打たれてベッドに括り付けられてしまうだろう。わたしは思い出せない。なんでここにいるんだっっけ?
「半覚半眠。よけいなことは考えない。昔のことは忘れる。明日のことも忘れる。今のことは考えないで、歩け」
 うつらうつらしながら、ナース服を着た人に教わったそのことと、廊下ですれ違う、まだしゃべれる人がまくし立てる話の内容で、ここではわたしはどう過ごせば良いか学習する。
 廊下を二十往復したところで、わたしは自分のベッドのある病室へ戻る。そこは四人部屋で、ベッドは全部埋まっている。誰とも挨拶は交わさない。交わす必要がないからだ。「起きる」というアクションはここにはなく、コールドスリープから恣意的に「起こされる」があるだけ。栄養は手首に繋がったチューブから静脈へ入れて摂取する。コールドスリープの鼻に吸い込ませるチューブのボンベに繋がれて、点滴の袋がある。点滴袋のチューブは手首の静脈へ刺さったままになっている。寝てる間に誰かが取り替えてくれるのだろうけど、知らない。知らないままで生きられる。胃とか喉とかに飢えと渇きはあるものの、それでも生きられる。でも、生きているだけで何もすることはない。何も、何もしないのが、求められている。スリープすることを。データ採取されながら。わたしは診断された、異常あり、と。データのサンプルにされるのは必然だったのかも知れない。
 でも、そんなのどうでもよかった。ここでわたしは思う。もう、その像を結ばなくなった天音ちゃんを。わたしの中で記号と化した人物像と、『愛』という概念を。
 わたしは愛していたのかな。それとも、本当にじゃれ合っていただけだったのかな。じゃれ合っていたら、好きになっちゃったのかな。それって愛することとは違うのかな。「情が移る」ってやつ?
 ベッドに仰向けになってわたしは惚ける。
 fMRIでは異常は見つからなかった。
 でも、わたしはここにいる。
 ずっとずっと、長い眠りの中で、わたしは横たわる。汚物の匂いと冷気に包まれたここで。
 何度も何度も反芻して考える。
『愛する』という狂気と、その対象となる偶像について。ずっと、ずっと……。



☆☆☆



 武装化エフェクター細胞。そんな名前のテロ組織が結成されたのがちょうど一年前。斬の宮駅から美空坂を登った所にある異人居留館街に出入りしていたひとたちが中心となって結成されたのだという。
 彼らはバスチーユ監獄襲撃と同じように、冷凍睡眠病棟のある、総合病院を襲撃、データ採取が本当は主目的であったコールドスリープから人々を解放した。コールドスリープから目覚めた人々はしかし、その九割が解放直後に死亡してしまった。当たり前のことではある。なぜなら、コールドスリープで病気を時間ごと止めていたところを、無理矢理、動かしちゃったことになるんだから。

 そんなわけでわたし、朽葉は今が何年後の世界にいるんだかわからないまま、病院の外に出た。
 桜が満開だった。
 でもわたしは、長い間頭の中でこねくり回していた『愛』という言葉の檻に囚われて、知らない世界に凍えそうになった。他人が他人である以上、わたしには愛を感じることはなかったし、わたしもわたしで全ての事象が記号の塊にしか見えなくなってしまったのだ。
 病院から解放されたわたしは、まだ震える手足を慣らすように、身体を動かしてみる。
「……まだ動く」
 わたしのくちびると舌は勝手に動き、そう呟いていた。
 手首と鼻腔のチューブをそっと自分で引き抜く。
 痛みは遅れてやってきたが、それは死ぬほどのことではなかった。
 近くでは騒ぎが起こったままだったが、チューブを抜いて出た外の、満開の桜の美しさは、わたしになにかを思い出させようとする。
 思い出したのは、自分は小説を書いてた物書きで、それを誰かが褒め、誰かが貶めた、という記憶だった。

「本当の物語は、常に本当の物語ではあり得ないのよ」

 ……誰かがわたしに告げたことが、耳鳴りのように響く。そこにはわたしを貶めた無数の言葉をかき消すような、強い刺激があった。言うなれば、わたしにとってそれは愛の言葉を囁かれたのと同義だった。
 爆発音と悲鳴。だが、あらかた人がこの場を離れたのはもう前のことで、建物は半分、煙の立ちこめる瓦礫と廃墟になっていたし、民間のひとはあまりいそうになかった。
 わたしが出た病院の外はちょうど武装化エフェクター細胞が制圧し終えた地域らしく、ここで政府軍との戦闘が生じることはなかった。
 このテロ組織のこと、今の政府との国際状況を巡ってのあれこれ、それから内政不干渉の中での内紛。それらをわたしは、ピネルさんという指南役みたいなひとから聞いた。話はそんなに難しくはなく、すぐに飲み込めたが、なにしろコールドスリープから解凍されて目覚めたばかりだ。今にも崩れ落ちそうな足を力込めて踏んで、のーみそを動かそうと集中力を出す。ブランクがあっても、意外と話の理解は出来た。
 工業地帯のインダストリアルカルチャーと進歩主義的思想が混じったどーたらこーたらがこのピネルさんたち武装化エフェクター細胞らしくて、彼らは異人居留館街で結成してから、他の反政府軍と連携して戦っているらしい。
 ピネルさんのフルネームはフィリップズ・ピネルというらしい。外国の人の名前だし、この国の人とは違った。でも、語学力が優れたひとなのだろう、とても流ちょうにこの国の言語を話す。
 もしかしたらわたしは、ここでピネルさんたちの組織と合流すべきだったのかもしれない。
 だが、それは今のわたしにはできないことだった。
 ベースキャンプのようなところで少し休ませてもらってから、わたしは市街地にあるそこから飛び出るように走った。
 そう、美空坂の上にあるフィールドから戦いが始まったのなら、『あのひと』は今もわたしを待っているかもしれない!
 わたしは坂の下から猛ダッシュした。転ぶ。何度も、転ぶ。何度でも立ち上がる。立ち上がれた。一度もわたしは止まらなかった。坂道の途中、まだ壊れてないお店の硝子窓に自分の今の姿が浮かび上がる。わたしは走りながらガラスに映る自分の身体を見た。
 見て、それから笑った。笑えた。
 そう、笑えたから、もういい。こんなこと。
 なりふりかまってられない時の外見は、取り繕えなくたって、相手に伝わるものだ。笑える姿だけれども、気迫は伝わるだろう。もういい。気にしない。
 わたしは、走って、走って、走って。
 走って走って走ったのだ。心臓が破れるかと思った。吐き気がする。目眩がする。でも、走りは止められない、自分でさえも。

 そして着いたのは、あのひとの屋敷だった。あのひと……、そう、天音ちゃんの。
「天音ちゃん。……天音ちゃんっ天音ちゃんっ天音ちゃんっ!」
 わたしは馬鹿みたいに大声で叫んだ。
 屋敷はまだ現役だった。
 屋根の上には風見鶏が揺れている。建物は無傷だ。わたしは門戸を叩く。叩き続けた。迷惑だなんて言わせない。
 叩き続けていたら閂が外され、門が開く。そこに立って、わたしを見据えた人物。
 門を開いたひとは、奏ちゃんだった。天音ちゃんじゃなく、天音ちゃんの妹の奏ちゃんだった。もう、大人の年齢に達した姿の、奏ちゃんだった。

「朽葉さん……、なの?」
「うん。そうなんだ、これでれもわたし、朽葉なんだ」
 頑張って笑顔を奏ちゃんに向ける。とても怖い。
「全部、もう遅いんだよ。お姉ちゃんはもうこの国にはいない。結婚して、外国に行っちゃった。向こうに住んでる」
「け……っこん?」
「男のひととだよ、もちろん」
 奏ちゃんの声は柔らかい。昔の刺々しさは、だいぶ和らいでいる。
 でも、そのしゃべる内容は、それでもわたしを傷つけるに充分だった。
「朽葉さんが書きためた小説、全部読んだわ。私はすごく心を打たれた。……でも、出版は出来ないね」
「…………」
「なにも隠さず書きすぎてる。検索すればそれが現実のことだってわかるし、それに……この国、もうどうなるかわからない、出版どころじゃないわ」
「わたしは」
「ハッピーエンドが欲しかった? 残念ね。もう、多くの人が死んでいったわ。そりゃ人間なんですから死にますけど、そういう意味合いじゃなくてね。はい、残念。バッドエンドです」
 奏ちゃんは舌を出して笑う。それからわたしの右手の手首をぎゅっと握って引っ張り、わたしの身体を自分に引き寄せた。わたしは奏ちゃんの胸に抱きしめられる格好になった。
「バッドエンド。奏ルートエンドだよ」
「わからないよ、なにそれ」
「わからないの?」
「うん」
 ふふふ、と奏ちゃんは肩を上下させた。
「待ってたのは、私」
 わたしの身体を両手でぎゅっとする。
「お姉ちゃんはあなたを待てなかった。その代わり、私にチャンスが巡ってきた。私は朽葉さん、あなたを待ってた」
 奏ちゃんが空を仰ぐ。桜の木が風で揺れた。桜の花びらが舞う中、大人になった奏ちゃんが、ゆっくり息を整える。
「私の初恋は朽葉さんだった。でも、コールドスリープされちゃった。私は待った、ずっと。ある日、坂の上にお呼ばれで行って、ピネルさんたち、武装化エフェクター細胞と仲良くなった。だから、提案しちゃったんだ、病院の襲撃。……ね、私ももうピュアじゃない。無傷じゃない。……ねぇ、一緒に堕ちていかない?」



 愛ってなんだろうって考えた。ひととひとは人である以上、繋がりがあって、だからたとえばそれは同じ地球に生きているから愛するとかで。で、愛ってのはその、人と人との繋がりや出会いを意識した時に生まれるんじゃないかと思った。それは想像力とはまた違ったもので、そんな理知的なものじゃなく。
 ダイレクトに「大好きだ!」って思ったその感情が、愛しちゃうきっかけとしてあって、たったそれだけで充分なものなんだ、と。
 まわりくどいね。
 つまり。
「わたし、一緒に生きるよ、奏ちゃんと。もう戻らない。……そんな言葉で、満足してくれる?」
「不満です」
 わたしは抱きしめられながら、奏ちゃんを抱きしめ返した。
「大好き! たった今、わたしは奏ちゃんにきゅんきゅんして、大好きになっちゃいました!」
「それなら、大満足、です」
 抱きしめあいながら、わたしは未来を夢見た。もしも、こんな世界で愛し合うことが許されるのならば、きっと未来は…………。





(了)
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