第10話 【雨】紫陽花と落書き
文字数 1,522文字
楽しみにしていた運動会が雨で中止になってしまった。でも、「ついてないな」と思ったのは僕くらいで、クラスの他のみんなは喜んでいた。
学校に来てから大雨が降って、中止になって、僕らはホームルームで「今日はもう下校です。帰ってよし」という担任の阿佐ヶ谷先生の話を聞いて、解散になった。
教室の窓側の席の僕は、立ち上がらず頬杖をついて、雨粒が地面に叩きつけられるのを眺めている。
眺めていると次々と下校していく生徒たちが見える。
教室には僕ひとりになった。
「あー。傘を持ってきてないんだよな」
僕は窓ガラスに映る自分に向けて、そう言った。息でガラスが曇る。曇ったガラスに、人差し指で落書きをして遊ぶ。
落書きにも飽きたので机に俯せになって、目を閉じる。
しばらくすると、窓が開く音。それからざーっという音とともに雨の粒が大量に僕の後頭部に降り注ぐ。反射的に僕は目を開き机から顔を上げた。開いた窓からは未だ勢いがやまぬ雨。窓と反対側、僕の席のところの窓を開けた人物を、僕は見る。
「浮かない顔ね」
「浮いてる顔だな」
溢れるほどの紫陽花を両手で持って、びしょ濡れの体操着姿で、クラスメイトの女子、もっちぃは僕の席の横にいた。長く伸ばした髪が水で顔に貼り付いていて、それでたくさんの紫陽花の花を持って微笑んでいるんだから、ホラーだ。
「お前、なにしてんの?」
疑問をぶつけてみた。するともっちぃはくすくす笑って、
「ふられちゃったんだ」
と、僕に返した。僕はちょっと考えてから、それが「雨に降られた」のではなく、「異性にフラれた」という意味で「ふられちゃったんだ」と言ったのがわかった。
「そういや、ボンズくんと付き合ってたんだっけ、もっちぃは」
「そう。だから刈ったの、紫陽花の花を」
手向け。
私自身への。
なんだかそんなことを言ってもっちぃは手に持っていた大量の紫陽花を空中に放り投げた。
バラバラに花が舞う。紫陽花だから花びらが舞うわけではなく、花の塊が舞い飛んだのだが。
しかし、その花の紫色が、身体や服が濡れて妙に艶めかしいもっちぃを更に艶めかしく感じさせたのには、驚いた。
「綺麗だな」
床に落ちたのは一瞬で、だった。
「綺麗って?」
「いや。花がさ。六月に運動会をやろうって方がおかしいんだよな」
「ボンズくん、他の子とも付き合ってたんだ」
「ふーん」
雨粒が僕の横顔に叩きつけられる。しかし今は、雨で僕も濡れていたい気分になっていた。
「私は精一杯うたったわ。あいのうたをね。でも、気に入ってもらえなかった。だから、捨てられちゃったの。今、私が紫陽花を放り投げたように。宙から落ちて床に散らばったみたいに」
僕は頭をぼりぼりとかいた。髪の毛もすでにびしょびしょになっているので、頭をかくと洗ってるみたいだ。
「六月だな」
「そうね」
「……衣替え、するか」
この意味不明なもっちぃの行動が、衣替えのお膳立てだとして。
「僕でいいのならば、だけど。どうだろ」
びしょ濡れの顔ではきっともっちぃは微笑みながら涙をこぼしていて。
ボンズくんと付き合う前から、僕の方はもっちぃのことを好きで。
だからもっちぃも、もしかしたら寂しいとかそういう理由で僕にこうやってちょっかいを出してきたのだとしても。
「衣替え、じゃないよ」
もっちぃは、だけど六月の花の嫁って言葉は出さず。
僕も、「好き」という言葉を飲みこんで。
もうみんな下校して教室には二人しかいない。
僕のはじめてのくちづけは、吹き付けてくる雨に濡れながらになった。
僕らは六月の教室で、落書きのようなキスをした。
〈了〉
学校に来てから大雨が降って、中止になって、僕らはホームルームで「今日はもう下校です。帰ってよし」という担任の阿佐ヶ谷先生の話を聞いて、解散になった。
教室の窓側の席の僕は、立ち上がらず頬杖をついて、雨粒が地面に叩きつけられるのを眺めている。
眺めていると次々と下校していく生徒たちが見える。
教室には僕ひとりになった。
「あー。傘を持ってきてないんだよな」
僕は窓ガラスに映る自分に向けて、そう言った。息でガラスが曇る。曇ったガラスに、人差し指で落書きをして遊ぶ。
落書きにも飽きたので机に俯せになって、目を閉じる。
しばらくすると、窓が開く音。それからざーっという音とともに雨の粒が大量に僕の後頭部に降り注ぐ。反射的に僕は目を開き机から顔を上げた。開いた窓からは未だ勢いがやまぬ雨。窓と反対側、僕の席のところの窓を開けた人物を、僕は見る。
「浮かない顔ね」
「浮いてる顔だな」
溢れるほどの紫陽花を両手で持って、びしょ濡れの体操着姿で、クラスメイトの女子、もっちぃは僕の席の横にいた。長く伸ばした髪が水で顔に貼り付いていて、それでたくさんの紫陽花の花を持って微笑んでいるんだから、ホラーだ。
「お前、なにしてんの?」
疑問をぶつけてみた。するともっちぃはくすくす笑って、
「ふられちゃったんだ」
と、僕に返した。僕はちょっと考えてから、それが「雨に降られた」のではなく、「異性にフラれた」という意味で「ふられちゃったんだ」と言ったのがわかった。
「そういや、ボンズくんと付き合ってたんだっけ、もっちぃは」
「そう。だから刈ったの、紫陽花の花を」
手向け。
私自身への。
なんだかそんなことを言ってもっちぃは手に持っていた大量の紫陽花を空中に放り投げた。
バラバラに花が舞う。紫陽花だから花びらが舞うわけではなく、花の塊が舞い飛んだのだが。
しかし、その花の紫色が、身体や服が濡れて妙に艶めかしいもっちぃを更に艶めかしく感じさせたのには、驚いた。
「綺麗だな」
床に落ちたのは一瞬で、だった。
「綺麗って?」
「いや。花がさ。六月に運動会をやろうって方がおかしいんだよな」
「ボンズくん、他の子とも付き合ってたんだ」
「ふーん」
雨粒が僕の横顔に叩きつけられる。しかし今は、雨で僕も濡れていたい気分になっていた。
「私は精一杯うたったわ。あいのうたをね。でも、気に入ってもらえなかった。だから、捨てられちゃったの。今、私が紫陽花を放り投げたように。宙から落ちて床に散らばったみたいに」
僕は頭をぼりぼりとかいた。髪の毛もすでにびしょびしょになっているので、頭をかくと洗ってるみたいだ。
「六月だな」
「そうね」
「……衣替え、するか」
この意味不明なもっちぃの行動が、衣替えのお膳立てだとして。
「僕でいいのならば、だけど。どうだろ」
びしょ濡れの顔ではきっともっちぃは微笑みながら涙をこぼしていて。
ボンズくんと付き合う前から、僕の方はもっちぃのことを好きで。
だからもっちぃも、もしかしたら寂しいとかそういう理由で僕にこうやってちょっかいを出してきたのだとしても。
「衣替え、じゃないよ」
もっちぃは、だけど六月の花の嫁って言葉は出さず。
僕も、「好き」という言葉を飲みこんで。
もうみんな下校して教室には二人しかいない。
僕のはじめてのくちづけは、吹き付けてくる雨に濡れながらになった。
僕らは六月の教室で、落書きのようなキスをした。
〈了〉