第6話 【ダンス】ぼくらはダンスしながら生きている

文字数 1,716文字

 僕らはダンスをしながら生きている。
 そのダンスは時に苦しいものだったりもするけれど、「生きる喜び」が、ダンスってことなんだと思う。
 僕はそんな持論を持ちながら、予備校の自習室でシャープペンシルの上部をノックしていた。規則正しいノックとともに、シャーペンから芯が少しづつ出てくる。
 ちょうど芥川龍之介の『羅生門』からの出題が出ていて、そこのマークシートを塗りつぶしていた。
 芥川の作品は、ダンサンブルだ。『藪の中』や『或阿呆の一生』や『地獄変』についてダンサンブルだ、なんて言ったら講師に怒鳴られそうなもんだが、そう思うんだから、仕方がない。『南京の基督』に出てくる娼婦の食べる西瓜の種なんか、このひと、きっとリズミカルに食べてたんじゃないか、とさえ僕は思うのだ。
 鉄製の靴で踊る継母のように、赤い靴で踊らされる経験も、檻の中でダンスしなきゃならない現代人も、リオのカーニバルと同次元でダンスする。
 食卓に並ぶ皿の上の料理は、包丁さばきというダンスでつくられる。

 自習室で僕が思うのは、テストの時に手を止めた時に感じるのは、音楽が流れているのにダンスが出来なくなってしまうあの時の冷や汗と同じ感じだということ。じゃあ、ダンスは止めちゃダメなのか。いや、ダンスにはブレイクっていうもんがある。
 ブレイク。曲中に、一切の音が止むことがあるのだ。
 ブレイクの緊張感。
 それはウィリアム・ブレイクの詩の緊張感に似て……ねーな。うん。

 芥川はダンスに疲れたんだろう。生きる喜びが、ぼんやりとした不安になってしまったんだろう。
 小説とは詩を殺すものだ、と言ったのは果たして誰だったか。
 韻律なき日本の詩は、だから日本の民族性そのものなのかもれない。自由詩は散文のように散っていく、ポケットの中で粉々になるビスケット。

 お受験してるザマスの今の僕は、シャーペンで踊りながら、鳥籠の外を夢見る。
 お受験してる場合じゃねーぞ、って気がしてきた。そもそも文系に未来はあるのか。
 お受験してる僕は、受験より受粉したいのだった。

 僕はこの予備校に友達はいない。つくらないのではなく、つくれないのだ。このコミュ障めっ。自意識の肥大とこの一人語りは地下室の手記のごとく。
 シャーペンをくるくる指で回して、世界を旅してる気分。さながらそれはビタミン剤が主食の暮らしで、ヘルスメーターにも笑われるモデル志願のひとのようで。

 僕が自習室をぐるりと眺めると、陰気くさい顔が揃ってる。でも、彼ら、彼女らだって、ダンスしてるのだ。いや、性的なメタファーではなく。
 いや、性的なメタファーで合ってるのか。お受験ゲームは快楽も潜んでいるからな。
 僕は羅生門というテクストをもう一度読んでみた。
 追いはぎと老婆の人生論。この作品は、もっとまともに読まれるべきではないのか。
 人生はダンスなんだよ。上級貴族だろうが労働者階級だろうが、みんな踊るんだろ。それぞれのやり方で。
 追いはぎはともかく、るぱーん三世は銭形のとっつぁーんと追いかけっこというダンスをしてたぞ、確か。原作はもっともっとダンサンブルだったな。盗人ダンス!
 とかなんとか言っちゃって、これだから文系脳は嫌われるんだよな。次回は自戒しなきゃ。自壊しちまうぜ。

 予鈴が鳴ったので僕はテキストを仕舞う。ダンスには時間制限がある。ノンストップでDJが繋げても、やはり終わりはやってくるのだ。かったるい授業を受けにいくか。ダルなビートで。


 んんん?
 この話のオチ?
 そんなもん、ねーよ。
 逆に、どの行から、どの段落から読み始めても、そしてどこで読むのを終えても、全然構わない。意味なんかない。どこで始まり終わっても同じだ。この小説はそういう風に出来てる。
 ダンスは快楽だ。快楽とは、「気持ちいい」ことに主眼が置かれてる。だから、始まりも終わりも、決まってない。形式張ったダンスもあるけどな。身体をくゆらす。それが、僕が語ってきたダンスだ。ただ、それだけ。
 さぁ、もっと僕を踊らせてくれ。
 僕らはダンスをしながら生きているんだから。


〈了〉
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