第89話 ディレイド・ブレイン(下)

文字数 6,491文字

          *****

 散乱した物やごみが、命を吹き込まれたかのように、波打ち、脈動する。大量の蟲がうごめいている幻視。部屋の正面には掛け時計。ダリの描いた目玉焼き型の時計に、見えてくるから不思議だ。
 内臓色に見える風景は変わらず、その中に、肉の布団をかぶったままこちらを見つめている、兄の姿があった。
「おれに、話か。どうした、幻視をするようにでもなったか」
「どうしてそれが」
「目が泳いでいるぞ。今にも白目を剥きそうにしているじゃないか。もともと、ここは通常空間ではないからな」
「通常空間では、ない?」
「カクリヨさ。ウツシヨとは、違う」
「僕も兄さんのようになってしまうのかな」
 兄さんは被った肉の布団から、頭部を出した。
「ならない」
「どうして」
「聞きに来たからさ。幻視をするほど、お前が他人にとって目障りな存在になっている、とでも言いたそうだぞ。心が疲れているから幻視する。だが、心が汚れているかどうかは、社会が決める」
「社会が決める?」
「そうだ。社会が、適応者と不適応者を分別する。燃えるごみと燃えないごみのように、な。おれに話を聞きたいとは、つまりは」
「そうだよ。僕は兄さんのようにはなりたくない。二の舞はごめんだ」
「おれも二番煎じをされちゃぁ、困る。食事を運んでくれる人間がいなくなってしまう」
「そうだね」
 僕の足元で多くの蟲が、くるくる回っている。今にも足から這い上がってきそうだ。
臭気はきつく、そして兄さんは始終、ぶつぶつ口を動かしていて、唇が渇くのか、たまに唇を自分の舌で舐めて潤す、という行為をしている。
兄さんが、手を伸ばして、僕を人差し指で、指す。
「お前には本当は、欲望があまりないのだ。だから、他人の欲望に取り込まれる。結果、自分を見失ってしまうのだ。自分の道が、ないのだ。その歳になっても、な」
芝居がかった兄の口調はスロウペースで、声の質はハスキーだ。誰とも会わない生活をしているとは思えない。僕は兄がこんな風に喋ることもできる人間だとは、思いもよらなかった。
「話をするならば、おれはおれの話をしよう。とある引きこもりの幻視者の、だれも聞きたがらない半生の話だ。なぁに。短い話さ」
 まるで初対面であるかのような距離感で、僕らは可笑しな風景に彩られた、嵌った格子の先の最奥部で、会話をしている。
「学校のテストで百点を取れないやつは小説なんて書くな」
 兄が抑揚をつけないで、台本の棒読み風に、言う。
「テストで百点じゃないと、小説は書けない?」
「おれが昔、お前と同じくらいの年齢だったときに言われた言葉だ。すべてはその一文に尽きる」
「それくらい、重要なことだったの」
「そうだ。どんなものでもいいが、『専門性』を身に着けないやつは、仕事のできない人間であり、また、趣味の分野でも、発言する資格がない。それが現実だ。百点を取れる人間じゃなければ、書物なんていう〈知識をひとに教える〉ものや〈ツボを押さえて気持ち良くさせる〉ものはつくれない。もちろん、書物とは、それだけのものではないが。だが、本の多様性とは、無知からは生みだせない。無知の知というのがあるが、あれは無知であるということではないし、な」
「勉強をしても、だんだんとみんなに追い付かなくなっていくんだ」
「お前は本来、落ち着いたタイプの人間ではない。むしろ、そわそわして興味がころころ変わって結局なにもかもが中途半端で終わるタイプだ。タイプ、で片づけないのが今の世の中の流れなのだが、それをここで言ったところで、なにが変わるわけでもない。勉強も、する気が起きないのだろう?」
「そうなんだ。勉強ができないし、勉強をしても、理解ができないことが増えていく」
「理解するまで勉強しろ、と言っても無駄そうだな。理解するまでやっても、人並み以下である可能性は高いだろう。だとしても、勉強を〈する〉ことをあきらめてはならない」
「兄さんは。あきらめたんだろ」
「いい質問だ。さて、すべてをあきらめた人間が家から出られないように格子の檻のなかに閉じ込められている、と思うか?」
 兄さんは天井から釣り下がった電灯のスイッチの紐を見る。紐に括り付けてあるのは、パソコンゲームの有名なキャラクターだ。いったい、いつのものなのだろう。制服を着ている猫型をしたキャラクターのそのぬいぐるみは、ぶら下がりながら電灯の光を浴びて、色あせながらもゆらゆら揺れている。
「あきらめるのと、あきらめさせられるのは、似ているようでいて、全く違う。当事者にとっては、な。なんでおれが“ひとさまにお見せできない人間”なのか、わかるか」
 布団にいつもくるまっている、年の離れた兄弟である、兄。彼はもう成人で、だが、一歩も外に出られないようになっていて。
「幻聴が聞こえてくるのだよ。そして、疲れると幻視者となる」
「こころの問題なの」
「幻聴も幻視も、〈社会生活に問題がある〉から〈問題〉なのだ。〈誰か〉に不適合に〈された〉とおれが感じても、悪いのは不適合者である、おれの方なのだ。だからお前も、その〈誰か〉に気をつけろ」
「誰か、って?」
「さぁな。その誰かが誰かはわからないし、独りかもしれないし複数かもしれない。時間差で現れる、互いには接点のない人間かもしれない。それは当事者にしかわからないことが多いものだ」
「防ぎようがないんじゃないの」
「防げないな」
「じゃあ、どうすれば」
「お前は今までなにをしていた。おれのところに毎食、食事を運んでいただろう」
「うん」
「おれに話を聞きに来るなんて、世間様におびえて立ちすくんでいるかのようにみえるが、実は〈やり過ごせば終わるだろう〉と思ってはいないか。時間が解決することもあるが、問題というものの多くは時間によってはその量が累積していくのだ。やり過ごすことは、できない。だからやめろ、〈やり過ごせば終わるだろう〉という、その発想は。警報機が鳴っただろ。あれがもしかしてなにかのきっかけだったのかもしれないが、そうだとしたら残念だ。こんなゴシップネタ、喜ばないほうがおかしい。事実の隠ぺいはむずかしいものだ。事実が闇の中に消えるのは、真相が究明できなかったか圧力があるかなど、それなりの理由がある。おれが閉じ込められているなんて、薄っぺらな事実でしかない。そこには大した真相なんて潜んでいやしない」
「どうしよう」
「お前、本当は欲望があまりないのではないか。劣等感があっても、それを昇華させるなり、解消させるなりを、する気がない風にしか見えない。本気さが足りない。考えてみろ。自分で外的なものごとをコントロールしたいと思ったことはないのか。今だってそうだ。自分の内的な問題で終わることじゃないだろう」
「それはどういう……」
「他人をコントロールしたいと思わないのか。言い換えれば、『利権』が欲しくないのか。そうした感情で劣等感を開放してやりたいとは思わないのか。そう、訊いているのだ」
「わからない」
「わからない、を連発するやつだな、お前は。また、おれの話に戻ろう」
「そうしてくれると助かる」
「ある種のタイプの人間は、憎い奴の足をわざと引っ張る。相手の足をつかんで引っ張ったら、そのままそいつを崖に突き落とすのだ。そして、自分が相対的にのし上がることになる。「おれは〈学校のテストで百点を取れないやつは小説なんて書くな〉の呪いに潰された。悪意が感染した。悪意の感染後は、おれも崖から突き落とす人間になりそうになったし、なにより汚い言葉しか書けなくなった。〈文字〉通り、潰された人間がおれなのだ」
「小説家になりたかったの?」
「ライター。書く人間。スペルは違うが、火をつけるライターにも、ライターという言葉は通じている。風変わりだが、コトダマだな。おれはライターで、火をおこすパイロキネシス能力者だ」
 僕は話についていけなくなってきている。
 それを察したのか、話を途中で切り上げるようにして、掛け布団をかぶったまま、兄さんはその場で立ち上がった。
 立ち上がってから兄さんは、かぶっていた掛け布団を僕に投げる。
 頭に覆いかぶさった布団で、僕の視界は真っ暗になった。
「ちょっと。なにす……、んん?」

 僕が掛け布団を押しのけると同時に、兄さんは僕の右肩に噛り付いた。
 兄さんの歯が僕の肩に食い込む。
 兄さんが肩の肉を服ごと、引きちぎる。人間の技とは思えない。
 僕は痛くて悲鳴を上げる。足がもつれるのを、必死にこらえて、立ちながら兄さんを見る。
 兄さんは部屋から外に出て、錠前の開いた格子からも外に出た。
 おかしい。引きこもりには違いないはずなんだけど、こんな兄は、物心ついてから、初めてみた。
 母の言葉が、頭に浮かぶ。
「あの子はね、うちの恥さらしものなのよ」
 父が言ったことも、そこに重なる。
「世間様に、お見せできるような人間じゃないんだ、あいつは」
 ……だから、家の奥につながれていたのだ。
 僕は肉がちぎれて出血している肩を押さえながら、もう片方の手で警報機のボタンを押した。ビー、というビープ音が鳴って、警報機は点滅した。
 警備会社のひとが来る前に、兄を追うのだ。
 僕は床に血を滴らせながら、走って追いかける。
 兄さんはたぶん、玄関から外に出るはずだ。
 ところどころで転びそうになりながら、僕は廊下を走り、玄関で靴を履く。兄さんは、父のカジュアル用の靴を履いて出ていったようだ。
 玄関を開けると、血がぽたぽたと垂れていて道を教えてくれる。僕の肩を噛みちぎったときの血が滴っているのだ。
僕は急ぐ。どうにもならないかもしれないけど、それでも、どうにかならないと決まったわけではない。
今日は僕が、兄さんの話を聞きに、格子の中に入ったのだ。責任は、僕にある。
街路樹の植わった大通りに出る。
そこで、不思議な光景を見る。
兄さんが手の人差し指から炎をだして、滝見沢くんに向けてその火の玉を飛ばしていた。
滝見沢くんはそれを避ける。流れ弾の火の玉は街路樹の一本に命中し、燃えだした。
僕の幻視は、いつの間にかこんな光景まで見せるようになったのか。
滝見沢くんが僕に気づく。
「田村。お前はおれの敵だ。この〈ゴリラ〉の飼い主であるお前は、躾もできないようだからな。おれがお灸をすえてやるよ。北関東秘密結社の叡智を見よ」
 言っている意味がわからない。
 状況もわからない。
 なんだ、これ。

          八

 血飛沫。
 それは滝見沢くんの身体から一気にあふれ出た。
 まるで見えないピアノ線でぐるぐると巻かれて、きつく締められたところから一斉に迸ったみたいな飛沫だった。
 怖さに鳥肌を立てていると、僕の背後から女性の声がする。聞いたことのある、静かな声だ。
「わたしには因果の線が見える。因果を辿って、彼の悪果から悪因を手繰り寄せて弾けさせたわ」
 クラスメイトの井上さんだった。
 別名、井上デリンジャー。
 線とか手繰り寄せるとか言っているし、銃であるデリンジャーじゃなくて、糸みたいなものを使うのか。やはり、兄と同じ、能力者なのだろう。

「おれはクラスの女子でなら、井上が好きかな」
「井上さん? 井上デリンジャーって言われている、あのひと?」
「そう。聞く耳持たない、一方通行のひと。だから、デリンジャー。弾丸が一発しか入ってない銃の名前をその名に冠す、井上デリンジャーさん」
「渋い趣味しているね……」

 滝見沢くんとの会話を思い出す。
 滝見沢くんは井上さんが好きだ、と宣言していた。が、玉砕した。今、血を噴き出して。
 井上さんは、僕の真横にすっと寄ってきて、耳元で、
「あなたも北関東秘密結社のものですか。それとも、〈ゴリラ〉の賛同者?」
 と囁く。
 兄さんがこっちを見て、
「離れろ、魔女! 弟から離れないと噛みちぎるぞ、いろんなところを、な!」
 と、井上さんに怒鳴る。
「具体的には?」
 静かな声で、井上さんは兄に質問で返す。
「あの、あれだ、えーと、で、デリケートな部分……とか?」
「セクハラの罪で殺しますよ」
 どうやらセクハラで殺す、殺される、の時代が到来していたらしい。
 体中が血だらけの滝見沢くんが体を折って口から血を吐き、それからゆっくりと立ち上がる。
「ちょっと待て! おれはまだ生きているぞ! 井上さんが魔女とは、くそ! それよりも、だ。田村! お前はおれの敵だ。〈ゴリラ〉は敵だし、井上さんも魔女だから敵だ。敵の味方も敵の敵も、全部おれの敵だ! いや、待て。敵でも味方でも、やっぱりどうでもよかった、お前はおれの敵だ!」
 錯乱したことを言うのを最後にして、滝見沢くんの全身から血がまた、大量に噴き出して、自分でつくった血の池に倒れ、そして果てた。
「目ざわりなのもまた、セクハラ認定されないとなりません」
 目ざわりだとセクハラ認定が必要な時代が到来しているのか。僕にはついていけない世の中になったのだな。
 感心していると、兄が火の玉を生成して、こっちに投げ飛ばしてきた。
「〈火きこもり〉の計だ、食らえ!」
 僕は飛び跳ねて逃げる。
 井上さんはその場に立ったままで、火の玉をずたずたに引き裂いた。
「言ったでしょう。わたしには、因果の線が見える……、と」
 兄が僕のそばに来る。井上さんは飛びのいて距離を取った。
 兄が僕に向かって言う。
「これが、〈幻視者〉の世界だ」
「幻視者の、……世界」
「もうじき警備会社の人間が来る。だが、今度こそ逃げだしてやる。お前に語った話で言えば、おれを社会不適合者にさせた〈誰か〉を殺すために、外の世界に出る。引きこもっていた間にいろいろ考えたよ。なにしろ、〈幻視者〉はその特性上、言語野や認知に影響を及ぼす魔力を身に宿しているからな。布団に潜ったまま、朽ち果てるかと思ったぜ。じゃあな!」
「待ちなさい! セクハラゴリラ!」

          *****

 僕は悟った。勉強ができなくても、違うやり方の世界があるのではないか、と。
 なんで『なにか』ができないとならないのか。
 なにかができるひとと、なにかができないひと。
 閉じ込められていた家の中の世界で、兄は役立たずの、世間様にお見せするのが恥ずかしい人間だ、と言われていた。
 しかし、世界が変わると、火の玉を指から出したり、ひとの肩の肉を噛みちぎったりするような人間で、それは通常の世界の常識とルールに反するけど、無能力だというわけではなく、そういう世界でそういう世界のひとたちと戦いをしている人間に様変わりするというだけの話なのだ。
 要するに、生きていく環境が変わると、役に立ったり、役立たずになったりするということだ。もちろん、役立たずの環境下で頑張らなければならないことも多いだろう。でも、その場所で役に立たないからって、自分にはなにもできないと、嘆く必要性はないのだ。
「テストで百点を取れないやつが小説を書くな」……か。僕が生きている場所では、テストは赤点だけど、それでも、僕はなにかをするだろう。
なにをするにしても、百点じゃないやつは手を出すな、と嘲られる。それでも、なにかをして、嘲られても嘆くことはしないで生きていこう。
嫌われていることが嫌でも、それは些細な問題なのだ。世界中で誰一人として味方する者がおらず自分を憎しみ、蔑んでいると、だれが言えようか。たまたま生まれて、育った環境がそういう風だという、それだけの問題なのだから。

考えていたら、警備会社のひとも出動してきた。捕り物帖が始まるのだろうけど、僕の話はいったん、ここでおしまいだ。捕り物帖は任せて、僕は僕のこれからを考え、行動を起こそう。ずっと機会を待っていた兄さんのように。

          〈了〉
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