第9話 【雨】雨合羽と引っ越し

文字数 2,016文字

 私は目を開きながら雨を降らす雲を仰いだ。
 手を伸ばす。太陽が掴めないのはわかるけど、この雨の一粒一粒すらも、この手で掴むことは叶わないのだ。
 獣ヶ原工業地帯。ここで私は汚れた雨に濡れる。酸性で、灰混じりの、黒の。
「お姉ちゃん」
 すっと差し出して、私の頭上に傘をかぶせてくれたのは妹の千春だ。
「雨の日ってどうしてこう、やる気を殺ぐのかしら。ね、お姉ちゃん」
「そうね」
 私は手を下ろし、相合い傘のようにして千春の傘に入る。髪の毛から雨の雫がこぼれ落ちる。
「まあ、うちには元気なのもいるけど」
 千春の視線の先には居候のみっしーが黄色い雨合羽と長靴でそこらを動き回っている。
 死神であるみっしーは私の魂を奪いに来たのだ、という。
 そう言いながらやってきて、私と千春の家に住み着いてしまった。
「この雨が酸性雨なら、私の身体ごと溶かしてしまえばいいのに」
 私は自分の髪の毛からしたたる雫を見ながら言う。
「溶けてしまうのならば、私と一緒に溶け合って欲しい」
 千春の肩が私の肩に触れる。
「長靴の中がぐしょぐしょなのですよ! 長靴を履いた猫さんのように勇敢な僕! 素敵! ……っと、悦に入ってたらこのクソ理科。てめー僕の愛しの千春にちょっかいだそうったってそうはいかないのですよ」
 足音を盛大にたてながら、みっしーが私と千春の方へやってくる。
「僕は田山理科の魂を奪いに来ましたが、解せませんね。やる気を殺がれてるのは僕の方なのですよ、理科。僕はポテトチップスコンソメ味のどこがコンソメ味なのかわからない死神です。人間の心の味わいなどもさっぱりです。ですが、死に場所を求めてるこのヒロイズム馬鹿の理科の命を奪うってのが、味気ないのだけはわかるのです」
「なにが言いたいの、みっしー」
 私がみっしーに尋ねる。
「ヒロイズムと言ったのですよ、理科。雨の日は憂鬱で、ヒロイズムに耽るのに最適なのです」
「否定できないわ」
 濡れたシャツの裾を私は絞る。水が地面に落ちる。
 工業地帯の、空き地。今私たちはそこにいる。明日私たちは引っ越しする。なんで引っ越しの前に私たちはここに来たのか。
 そう、幼い頃、私と千春はよくこの空き地で遊んだからなのだ。
 遊具は危ないとの配慮から、二年前に取り壊されたと聞いたけど、その通り、ここは公園でも緑地帯でもなく、空き地そのものって感じのスペースとして、金網の中に存在した。
「僕にはわかりませんねー」
 僕っ娘でもあるみっしーが首を傾げる。
「僕は縁切りの死神です。僕の大鎌は人間の関係性も断ち切ります」
 みっしーは強調する。
「人間関係。上手くいきませんでしたよね、理科。大丈夫、もう死ねますから。関係性も斬るし、大地に溶けていくのですよ、その身体」
「嫌なこと言わないでよ、みっしー」
 千春が口を膨らませる。
「楽しく出来ない人生だったでしょう。でも楽しくても楽しくなくても、そんなの天気と同じようなもんです。事実として田山理科は楽しくない人生だった。でも『気分的には』楽しい時と楽しくない時があった。人間の感情なんて、現実の環境とは別問題なのです。さあ、雨で全部流しましょう。次の町で、僕は理科の魂を刈るのです」
 どうしてなのか。みっしーという居候のこいつはどうしようもなく死神で、私がもうじき存在しなくなるのを知ってるかのように振る舞う。
 私には時間がなかった。だから、最後に好きなことをして消えられるように、引っ越しをしようと思っている。荷造りはしてある。
「引っ越しをしたら、みんなで楽しくするのですよ」
 だしぬけにみっしーが言う。
「魂を奪うには、理科には魂がなさ過ぎる。魂のない奴はごまんといるのですが、居候をさせてもらってる以上、楽しんでからミッション遂行なのです」
 私たちからまた離れて、雨合羽を広げてぐるぐる回るみっしー。
「恵みの雨に感謝! 家族にも友人にも感謝! そんな日本語ラップ状態になってこそ、僕が求める魂です。正直、斬るに斬れないんですよ、理科は」
 水たまりに飛び込むみっしー。
「だから、たくさん良い思い出をつくるのです。今度こそは」
 千春は私の方を見る。
「お姉ちゃん、寒くない? 風邪引いちゃダメだよ。ね。戻ろう。明日は引っ越し当日だよ」
 みっしーは、「喩えるならば」と、口元を歪めた。
「第二の人生を謳歌せよ。そう、つまり僕は一回仕事をしたのですよ。第一の人生を斬って殺したのですから。第一の人生は死にました。これからは第二の人生です。短いかもしれませんが」
 不治の病の私は、千春とみっしーを連れて明日引っ越しをする。暗い雨雲が移動するようにして。
 これから忙しくなりそうだ。この雨が大地に降り注いだことの意味を、考えたい。誰かの涙が降り注いで、なにかを生むのと同じように。そして、私の止まらない涙も。


〈了〉
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