第39話 アバドーン病棟【虫杭20】

文字数 1,210文字

 コールドスリープの冷たい冬眠用空調。
 それがゴゥン、と音を立てる。
 夜中、寝ているうちにわたしの身体中に虫が湧いて、全身が小さな虫だらけになってしまった。
 虫は白くてうようよ動く蛆虫のようなもので。
「空調、きいてるのにな……」
 わたしは身体中に湧いた虫を払いのけ、ベッドから立ち上がる。
「台風でも来りゃいい。もしくはわたしが台風になるるん」
 退屈すぎる病棟に亀裂が走ってる。わたしはそれを見逃さなかった。
 時間がまた、動き始めるのだ。
「たしか、わたしはもう中学二年生の、ラッシーちゃんだよ?」
 確認するように、自分の名前を呼ぶ。
 同室のみんなは死んだ目をしていて、わたしの声を聞かなかったかのように背けて無視をした。
「わたしはここの『ヌシ』に会わなければならないわね」
 ヌシ。
 ここに巣くう、ヌシ。
 ええと。「ヌーシ」は「シーヌ」の反対だ。死んでないってこと。死なない存在。
 この病棟が身体を冷凍保存するように。
 この言葉、「ヌシ」は、その存在には、だから両義性がある。「死ぬ」の反対は「生きる」ではない。「死んでない」だ。死んでるように生きるってのも、ある。
 ここの病棟の患者を生かさず殺さずしているのは、機械でも術式でもなく、ヌシという言葉、存在なのだ。
 わたしはわかった。
 今、それがわかった。
 わたしは目が覚めつつあるのだ。
 ここは貪欲な食の皇、アバドーンの腹の中なのだ。
「ねぇ、聞いてるんでしょ、アバドーン。応えなさいなのだぁ!」
 廊下に出て叫ぶ。
 いつもなら病棟スタッフが駆けつけ、わたしを拘束して、また寝かせる。
 でも、もう無理だろう。
 時間は動き出してしまっている。
「……ここにいれば死ぬこともないぞ」
 声が廊下中に響き渡る。アバドーンだ。
「知ってるわ。そんなの」
「では、なぜ」
「不可逆なの。今の時空は、亀裂が入ったから。勝つにしろ負けるにしろ、今起こっていることに白黒ついたら、大きな歴史が動いちゃう。すごく大きくね。だからわたしは目覚めて、介入する。サイコロを振らなくちゃならないの」
 立っているわたしの身体に、また虫が湧く。
 歯槽膿漏化が始まっているのだ、身体中に。
「厄災を運ぶ天使よ。おぬしは運命を受け入れる気があるというのか。ここは安全だぞ」
 廊下のリノリウムをわたしは足で踏んだ。勢いよく。
「当然! ラッシーは戦う少女なのだ! それに、ここはもうダメでしょ」
 言った途端、くらくらと目眩がして、意識が途絶える。

 ……そして目覚めると、そこは病院の外だった。まるでそこに病院なんて最初からなかったかのように。
「ここ、……港?」
 斬の宮港。工業港だ。
「わたしはまた、美空坂を登って、みんなに会いにいかなくちゃならない。物語を日常に戻すために」
 握り拳に力を入れて、わたしは港を駆けだした。



〈つづく〉
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