第3話 ホルマリンダイバーは撃ち抜く

文字数 2,617文字

しわしわの手をしたおじいさんが僕に話しかける。その声はまるで初等教育の段階の人間に話しかける口調で、実際に僕は社会性がなく、精神年齢が低かった。だから、おじいさんの話し方は好感が持てた。
「……でな。要するにここの土地柄。ここの風土がどういうものかというと、互いに足を引っ張りあって自滅するというものなんじゃ」
 おじいさんは呵々大笑。笑えるのだろうか。
僕らは今、どこにいる。浜辺だ。近隣の、海の、浜辺。冬の海。
「そういう経験が、あったんだね」
「あったとも。わしにも。ほかのみんなにも。成功する奴も失敗する奴もいたが、ほぼすべての人間は大成功をしない。なぜなら潰しあうからじゃ。残った奴が成功で、残らなかった者を失敗と呼ぶだけで、大成功は、するまえに終わる」
「成功、しそうなことがあったの」
「うんにゃ。ないね。失敗して終わった口じゃったよ、わしは」
 僕は押し寄せる波をみる。
「波か。光は粒であって波でもある。そう思うとロマンを感じるもんじゃが、幾分わしは書物に親しむのが遅くての。学校も初等教育だけじゃった」
「ロマンかぁ。授業を僕はまともに聞いたことないからわかんないや。みんなは僕のことをデブデブ言って笑うんだ。もう、学生じゃないのに、みんな学生気分で僕をデブデブ言って突っつきまわす。いろんな手段で、さ」
「それも足を引っ張ることの一種じゃと、わしは思うがの。希望は、きっとある」
 僕がなんでこのおじいさんと話していたかを思い出す。そう、希望を失って、ここに来て海の音と波をずっと見ていたら話しかけてきてくれたんだ。
「君は学生じゃないというが、わしから見たら子供じゃ。それに、わしくらいの年齢になると子供がえりしていくもんじゃ。なにも気に病むことはない。デブがなんじゃ。他人を貶すことが存在意義になっとるんじゃよ。そういう生き方をしてきたのじゃろう。憎しみや嫉妬なんかの負の感情をぶつけるために育っていったんじゃな。復讐心や、見下す心。それでそいつらはおまえさんよりもいい暮らしをしているじゃろう?」
 と、言っておじいさんは僕の色あせたコートとジーンズを見て、太ももを手で叩いた。僕は五年くらいの間、新しい服を買っていなかったのだ。それは色もあせるよ。
「しかしの。そういう手合いが足を引っ張りあって自分も他人も焼け野原にしてしまうのじゃよ。それに比べたら、その歳でその服装でもいいと、わしは思うが、の」
 おじいさんは、
「じゃ、わしは去るぞ。達者でな」
 と言って立ち上がる。お尻の砂を手で払い落して、歩道に消えていく。
 もう、おじいさんは振り返らない。

「ああ。おじいさん。行っちゃった……」
 僕は堤防に上り、歩く。
 波はだんだん高くなっていく。肌寒い。冬の海。おじいさんの話が熱くて寒いのに気づかなかった。
 テトラポットに乗り移る。
 海の中をのぞく。
 なにも見えない。
「…………」
 僕はテトラポットから海に飛び込んだ。

          *****

 海に入ると、逃げたくなった。
 僕は空気を求めて浮上しようと手足をバタバタさせる。慌てていて、水泳の形にならない。
 リラックス、と念じたが、念じたら足になにかが絡まってきた。
 念じなければよかった。
 巨大なタコみたいな怪物だった。触手が伸びてきて手足に絡まり、唇をこじ開けて、口の中にも触手を侵入させてくる。
「げぼぁ」
 口の中の空気が一瞬にしてなくなった。
 ずるずる引きずり込まれる。

 落とされた底には、お祭りの屋台のお面屋さんのように、天狗の面が並んでいた。
 怪物は触手を離し、どこかにいなくなる。
 左右に天狗の面の列が見えるその中を、僕の体は浮遊する。縁日に店が並ぶ中を歩いているような。
 学生時代の同級生の女性の声が水中なのに聞こえてくる。
「みやま天狗先生!」
 僕はその女子の声のするほうに、目だけを動かしてみる。
 ダイバースーツに身を包んだ人間が浮遊していた。手にはモリを持っている。
 みやま天狗先生じゃなくて、これは同級生の女子なのがわかる。みやま天狗先生がだれで、どこにいるのかはしらないけれども、女子がモリを僕に向けているのはわかる。
 女子がモリを持っていて、やっぱりモリはダンコンのメタファなのだろう。
この光景は幻なのかな。
現状の判断がもうつかない。ただ、涙があふれる。窒息の恐怖がある。
「短小! うひゃひゃひゃひゃひゃ。短小オトコ! うひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」
 同級生の女子が僕に向けて、僕を貶す言葉を発するのが聞こえる。水中ってしゃべれるんだったかな。わからなくなる。
 女子は声音を変えて、教師風にしゃべる。
「みなさん、こんな大人になってはなりませんよ。なれないか、短小は短小だもんなぁ!」
 女子がモリの狙いを定める。
 僕は天狗のお面の並ぶ中で、浮遊してただその同級生の女子を眺めている。
 左右のお面もしゃべりだす。
「もうやめろ」
「おまえのことなんて全部お見通しなんだよ」
「ぶっ殺されたくなければやめるんだな」
「町からでていけ! 害虫!」
 お面は口々に吐き出す。
 僕に?
 この女子に?
 足を引っ張る声が?

 僕はホルマリン漬けになった自分を想像する。これが水じゃなくてホルマリンで。僕は好奇の目で見られる、僕だった、なにかの物体。僕はデブで、短小なのだ。そう、さっきのおじいさんが言ったとおりだ。足の引っ張り合いは、あるんだ。友達なんていなくても、知ってるやつの手足を怪物は絡めとるのだから。

「お気の毒。おまえは死にました」

 モリが撃たれる。
 僕の左の腹部にモリは食い込んで、血が水の中で流れだし、まわりを真っ赤に染め上げる。

「やぁ」
 声にはならないけれど、ひきつった笑顔を作って女子に手を上げ挨拶する。
「元気?」

 答えは返ってこない。
 沈んでいく。海底に身体がつくと、海が巨大なホルマリンの水槽に思えてくる。
 言葉は通じない。ずっとそうだった。僕にも言葉は通じない。
 痛い。苦しい。
一瞬だけれども、海の底に光が差した気がした。それがなんの光だったか、本当に光が差したのか、それはわからない。
希望はきっとある。きっと、誰かの手には。僕は漂っていく。モリが刺さったままで。


          〈了〉
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