第88話 ディレイド・ブレイン(上)

文字数 7,820文字

 一年生を経験するのは二度目だ。学園の初等部では、友達はいなかった。学園中等部の一年生として僕は進学し。
二度目の一年生になった。
失敗は許されない、今度こそは友人をつくろう。
友達百人できればいいなぁ、と本気で考えた春は過ぎる。自分からは友人をつくれない消極的な性格はそのままだ。
 けれども、学園の中等部の坂に植えてある桜が葉桜になるころ、僕は新しいクラスにも慣れてきた。

 ある日の下校時、学校の坂を友人の滝見沢くんと一緒に下りた。
「秘密を共有しようぜ」
 突然、滝見沢くんは僕にそう言った。
「共有? 秘密って?」
 聞き返してしまう。
「互いの秘密のことを教えあうのさ。例えば、好きなオンナの名前とか、な」
「好きな女の子ねぇ」
 僕は空を見上げて伸びをする。傾いた太陽が黄色く照っている。
「好きな女の子はいないなぁ」
「じゃあ、オトコが好きなのか」
「そういうことじゃなくて」
「ふーん。おれならいいぜ。お前がおれのこと、好きになっても」
「いやだよ、そういうの」
「ま、おれはクラスの女子でなら、井上が好きかな」
 僕は空から顔を滝見沢くんに向けなおす。驚いたからだ。
「井上さん? 井上デリンジャーって言われている、あのひと?」
「そう。聞く耳持たない、一方通行のひと。だから、デリンジャー。弾丸が一発しか入ってない銃の名前をその名に冠す、井上デリンジャーさん」
「渋い趣味しているね……」
「なんか、家の秘密でいいよ。教えろよ。共有だよ、共有。ちょっと前に流行っただろ。メンバー間でいろいろ共有するの」
「僕ら、なにかのメンバーだったの」
「秘密結社の、な。北関東秘密結社の」
「秘密……結社?」
「家族にでも訊いてみろよ、秘密。家の秘密が、あるかもよ」
「家の……秘密かぁ」
「そう。北関東秘密結社の結束は固い。秘密を共有し、守秘する」
「意味あるの、それ」
「さぁな」
 滝見沢くんは坂を下りきったところで、横断歩道の白線の目の前までぴょん、とジャンプして着地し、それから信号のボタンを何度もプッシュした。
「中等部生活、楽しくやろうぜ。今までおれと田村は面識すらなかった。嘘みたいだぜ。とにかく、秘密をおれにだけ教えろ。な?」
 僕は首をかしげる。
「家、反対方向じゃなかったっけ」
「ああ。塾だよ、塾。中等部になったんだ。進学のこと、今から考えなくちゃ。塾が駅前にあるから道はこっち方面」
「へぇ」
「では。また明日な、田村」
「うん。滝見沢くんも、勉強頑張ってね」
 信号機が青に変わると、滝見沢くんは足音を盛大にたてて駅前方面に走っていく。
 僕はその背中を眺めながら、
「勉強……かぁ」
 とつぶやき、なぜか少し泣きそうになった。

          一

 僕の家の奥の部屋では、いつも兄が寝込んでいる。
 年の離れた兄弟で、兄は成人だ。兄は学園を卒業している年齢。でも、働く様子もなく、ただ、毎日、布団にくるまっている。
 両親から、兄のことは他人には漏らさないように言われている。恥ずかしいから、だそうだ。
 これが、秘密といえば秘密なのかもしれない。

 両親は共働き。兄は家にいるが毎日寝ているので、僕は家の中で、いつも独りだ。学園にだって、友達なんてほとんどいない。ひととの話し方と話しかけ方が、僕にはわからないのだ。だから僕に話しかけてきてくれる、親切なひととだけ、僕は会話をすることができる。
 独りきりだから勉強をするかというと、家で勉強はほとんどしない。いつか僕も兄のように寝込んでしまうのではないかと思うと、勉強をする気が失せてしまう。
 なにをするのでもなく、ぼーっとしてみたり、音楽をかけてまんがを読んでみたり、今日も、いつものような時間の過ごし方をした。
僕はサイトで無料のまんがを読むだけじゃなく、少ない知り合いとの会話を成り立たせるために、少しはメジャーな作品も、お金を払って買って読む。僕のお小遣いはそれだけでなくなってしまう。
ゲームをやればゲームの友達ができるけど、余裕はなかった。それは、金銭面だけでなく、心にも。

「夕飯の時間だ。行かなくちゃ」

 奥の部屋のふすまを開ける。部屋には臭気が漂っている。
そのなかに、兄がいる。散乱した物やごみで足の踏み場がほとんどない。
 兄は布団にくるまりながら震えていた。
部屋の空気の悪さはごみを片付けないからだけではなく、換気もしないし、兄がお風呂にも入らないでこの部屋で一日中過ごしているせいだ。
 僕はなにも話しかけずに、おぼんに載せた食事を置くと、ふすまを閉めて部屋を出ていく。
 大きく深呼吸してから、自分の部屋に戻る。

「家の秘密……」
 ベッドに寝転がる。
「勉強も、しないとなぁ」

 ちょっと重いのではないか、と思ったので、兄のことは滝見沢くんに言わない。北関東なんとか結社には悪いけど、共有してどうするのだろう、こんなことを。
 僕は家の、ひとに言えるような秘密を聞こうと、両親の帰りを待つ。ひとに言えるようなことは秘密の範疇に入るのだろうか。むずかしい問題だ。

          二

 次の日の帰り道。僕が学園の坂を下っていると、だれかが走ってきて、背中にぶつかってきた。体勢を立て直して振り向く。滝見沢くんだった。
「秘密。あったか?」
 僕は頷き、昨日、お母さんに聞いた話をした。
「僕の家には槍や刀がたくさんある。それというのも、昔からそこに住んでいる古い家柄だからだそうだよ」
 滝見沢くんは、
「槍や刀かぁ」
と目を細めながらつぶやいて、それから、
「なに。自慢か?」
 と、吐き捨てるように言った。
「そういうつもりじゃないよ」
「へぇ。田村の家が旧家か。嘘だろ、それ」
「わからない」
「わからないって、なに」
「槍や刀は本当にあるよ」
「じゃあ、今度見せろよ」
 僕は躊躇した。
 家の奥の部屋には、兄がいる。“見せてはならないひと”がいるのだ。
「なんだよ、田村。目が泳いでいるぞ。見せろよ」
 息をのんで、
「いいよ。遊びにおいでよ」
 と僕は笑顔を作って滝見沢くんと約束を交わした。
 家にお客さんを呼ぶのは初めてだ。
「塾は夕方からだし、日曜日の昼に、田村の家にお邪魔することにするよ」
 日時が勝手に指定されたが、僕は、
「いいよ」
 と返事していた。困るのだけどな、とは言えなかった。
 親は日曜日も働いている。
だから日曜日の昼間は僕が留守番をしている。兄が、暴れないように。
「楽しみだな」
 滝見沢くんは今日も信号機のボタンを連打して、それから駅前のほうに向かっていく。
 僕は日曜日のことを思うと不安でいっぱいになった。
「目が泳ぐの、当たり前だよ」
 雨が降りそうだった。
僕は速足で家に帰る。

          三

 僕の頭は、幼い。勉強ができないこともあるけれど、他人の気持ちがわからないという意味でも、僕は全然成長していない。背は伸びてきているけれども、心はどんどんひとに追い越されていく。空気を読めないと、人の輪の中に入っていけないのに、だ。
帰宅部を選んだのは、中等部進学直後に入った部活動で、僕だけ仲間外れにされたからだ。部活内では、まんがや小説を回し読みしているらしかったのだけれども、僕には全く本を貸してくれない。仕方ないから、違う本を買ったり図書館で借りたりして読んでいたら、話題が合わずに孤立が深まった。
僕が退部届を出したのは、部活が得意じゃなかったのだけが理由ではなかった。
それからの僕は、あまり共感できないものでも、有名な連載まんがはある程度読むようにした。部活仲間もいないで、勉強もできず、社交的ではない僕には、なにかしらひととの接点が必要だったのだ。まんがが接点になるかというと、そうとも言えないことも多かったけど、ほかに趣味があるわけでもない。まんがを読んでいることで、それが接点になる可能性があった。まんがのおかげでどうにか僕はひとと会話をすることができる機会があったのだった。
クラスにはいろんなひとがいて、グループがいくつもできていた。ひとはグループをつくるものだ。そこからはみ出すのが怖いからグループをつくり、それを維持するのかもしれない。僕は話しかけられたら話をするけど、自分からどこかのグループに入ることなかった。
滝見沢くんの言っていた北関東秘密結社という組織は、本当にあるのかどうか疑わしく、滝見沢くんはクラスで一番大きいグループに所属する、そのなかでどちらかというと目立たない存在だった。
でも、そんなことどうでもいいと、僕は知らぬふりを装って、毎日を過ごす。心の発達も勉強も全部、みんなに追い越されていく自分を、平常に保つために。
心のセンサーを敏感にして、気を遣いあわないとならないグループなんて僕には向いていない、とはだれにも打ち明けられないし、それにだれも、僕のことなんて心配していなかった。いてもいなくてもいいし、できればいないほうがいい存在だった。
休み時間に耳を澄ますと、ひそひそ話で、僕を気味悪がる、悪口を言っているのが聞こえてくる。僕の心がそう思っているだけで本当は言われていないのかもしれない。けど、真相なんて、どうでもよかった。僕がそう思って余計と神経をすり減らすのが一番問題だった。部活の仲間外れのときのことが、いまだに傷跡を残しているのだろう。他人にとってはくだらないことでも、僕には後遺症を残すほどの傷口だったのだ。

呪詛を吐かないようにしよう。
 日曜日には、家に遊びに来るひとがいるのだ。おなかは痛くなるけど、仲良くなれれば、きっといいことがあるはずだ。おなかが痛くなるのは我慢だ。
 クラスにも慣れてきたのだ。
次は。
 僕は、承認されたい。おこがましいかな。
僕の承認欲求は、友達ができればきっと少しは満たされる。
だから。僕は。
 呪詛を吐かないようにしよう。

          四

「秘密結社的には、槍や刀というのは、非常に興奮する」
 学園の坂の下で待ち合わせをした僕と滝見沢くんは、コンビニに寄ってから、僕の住んでいる家に向かう。家には客人に出すものはなにもないので、滝見沢くんがコンビニでお菓子やお茶を買っていたのは、都合がよかった。
 日曜日の今日、家に友達を呼ぶことは両親には内緒にしていた。連れてくるな、と叱られるのは目に見えていたからだ。
「槍って、長いのか」
「長いよ」
 コンビニ袋を提げて、歩く。コンビニから三分くらいで、僕の家に到着した。
「小さくて、古い家だな」
「うん」
「槍や刀を飾るスペースはあるのか」
「とにかく、入りなよ」
「そうだな。お邪魔します」
 中に入って、滝見沢くんが靴を脱いでスリッパに履き替えたところで、
「ようこそ、僕の家へ」
 と、僕は言った。

 僕の部屋でしばらく話をして過ごす。僕は手のひらに汗がびっしょりだった。緊張。会話が続かなくなったらどうしよう、とそれだけ考えていた。
「平屋建てなんだな。珍しい」
 だから、忘れていたのだ。
この家の奥にある部屋のことを。
「この平屋の奥、どうなってんの。廊下に格子が嵌って先に進めなくなってあるけど。その奥には、なにがあるんだ」
 探検~、探検~、と適当な節をつけて歌いながら僕の部屋を出て、滝見沢くんは家の最奥へと向かう。

 日のささない、奥の方へ滝見沢くんが行ってしまい、僕が追いかけたとき。
 家の奥の方で、なにかものを投げて、壁にぶつかった音が廊下に響く。
 音のした、木製の格子の先、閉じたふすまの方を、滝見沢くんは目を見開いて凝視する。
「誰か、いるのか。あの奥に……」
 兄の部屋の扉であるふすまを、見る。
「あの奥はなんだ……」
 滝見沢くんの声に被るかのように、大きな怒鳴り声がする。ふすまの奥にある、部屋からだ。
「黙れくそがっ! 頭の中に入り込みやがって! 心の声を聴いて、その醜さに笑い声を立てる本当の豚野郎が。おれのことをさんざん豚だのデブだの罵るが、本当に醜いのはお前らなんだよ! 豚まん!」
「おい……、なんだ、これ」
「聞かないで!」
 思わず背後から手で滝見沢くんの両耳をふさぐ。
 その手を、滝見沢くんは振りほどいて、口元を釣り上げて喜ぶ。
「すげぇじゃん! 格子が嵌ってると思ったら、あのふすまの奥、ゴリラでも飼ってるのかよ」
「そ、そうじゃないんだ。見ないで」
「なに言っている、田村。こんな見世物、独占するなんてずるいぞ」
「ごめん、滝見沢くん!」
 僕は格子のすぐそば、壁付けになっている警報装置を押した。
 ビー、というビープ音が鳴って、警報装置が赤く点滅する。
 これは兄が騒いだときのための警報装置だ。数分で警備会社のひとが来る。
 格子が廊下に嵌っているのは見つかったら人権問題に関わりそうだが、僕にはよくわからない。警備会社のひとは、定期的にメンテナンスをしにやってくるが、今まで特に問題は生じなかった。
 ビープ音と、やってきた二人組の屈強な警備員の剣幕に圧倒され、滝見沢くんはその場で立ちすくんだ。
「ごめん。帰って」
「おれも豚まんってことかよ」
「ごめん」
 両脇に警備員がいる僕は、少し強気に、ごめん、と声を大きく出して、それから頭を下げた。

 滝見沢くんが帰ったあと、僕は自分の部屋で泣き、それから夜になって、両親に怒られてまた泣いた。

          五

 月曜日、学校に行くのがとても嫌だった。空はどんよりと灰色がかっていて、カラスが飛んでいるのが、いつものことなのに気になってしまう。カラスが電線の上から僕を見下ろし、僕はうつむく。学校の坂を上り、校門をくぐる。ひとの視線を感じる。誰も気にしてなんかしていない。そう、言い聞かせる。
 昇降口の靴箱に手をかけると、その腕の手首をつかまれる。強い力がこもっていた。
「滝見沢くん」
「おい、豚まんゴリラ。昨日のあれは、ないんじゃないか」
「昨日の?」
「警報機のことだ」
 僕は黙った。
「殺すぞ」
 滝見沢くんは腕を振ってつかんだ僕の手首を離す。僕の腕が勢いよく、振りほどかれた。つかまれた手首が、赤く痕をつくった。
 振りほどかれて体勢を崩した僕は、転ばないように、足に力を入れて、態勢を整えようとする。少しふらついてしまい靴箱に手を置いた。振りほどかれ体勢を崩したからだけじゃなく、きっと眩暈のせいもある。頭に血がうまくまわっていないみたいだ。
 滝見沢くんが一発、僕の左頬を殴ると、僕は靴箱に背中からぶつかって、その場で倒れ、へたりこんだ。
 起き上がれない。起き上がりたくもなかった。
 滝見沢くんは去っていく。教室に向かうのだろう。
 ほかの生徒たちが倒れたままの僕を見下ろしている。誰も声をかけない。冷笑しているひともいる。
 しばらくすると昇降口には誰もいなくなって、予鈴が鳴る。
「クラスにも馴染めたはずなのに……」
 僕は起き上がると、靴から上履きに履き替えて、教室へ、ゆっくりと歩きだす。
 クラスではホームルームが始まっていた。
 誰もなにも言わず、こっちを見ている。僕が席に着くと、みんなの視線は壇上の担任教師に向かう。担任も、僕に注意をすることをしない。
 僕は机に伏せて顔を隠し、教師の話し声をうわの空で聞く。
 休み時間になるとやっぱり悪口を言われているような気持ちが再発する。
「……黙ろう」
 机に突っ伏して、その日は半日を過ごした。
 誰も僕に声をかけない。
 昼休み。給食の前に、僕はカバンを持って学園の外に出た。
 こんな日にクラスみんなでご飯を食べるなんて、気持ち悪かった。

          六

「恥を知れ! 恥を!」
 外に出たら教師に捕まった。学園に戻された僕は担任に怒鳴られた。
「僕には居場所がない」
 体育館の準備室。ここにはほかに誰もいない。だから、ここで説教を受けることになったのだろう。
「立派な家に住んでご両親も健在じゃないか! クラスには友達もいるだろう? いったいなにが不満だというのだ!」
 担任は、生徒指導の教師でもある。
「不満だらけですよ!」
 僕も叫び返してしまった。
「おまえは駄々をこねているだけだ」
「世の中には不幸なひとがいっぱいいる、って言うのでしょう。僕の問題なんてちっぽけだって。そんな考え方じゃ大人になって社会に出ることなんてできないって!」
「おいおい。そんなこと一言もおれは言ってないぞ」
「じゃあ、なんだって言うのですか」
「授業には出ろ。それすらわからないのか」
「……わからない。僕にはわからない」
「なんだと?」
「わからないって言っているんですよ!」
 僕の成績は低い。どんどんみんなに追い付かなくなっていく。
 中等部の勉強過程自体に、ついていけなくなってきているようだった。

「僕にはわからないっ!」

 視界が赤と黒色に染まる。動物の内臓の中のような景色が広がる。
 そのなかで担任は骸骨になって、あご骨をがくがく上下させている。笑っているのだろう。
 骸骨には眼球だけがついていて、僕に視線を合わせてきて、それがこのうえなく気持ち悪い。
「現実はグロテスクだ。外面も、中身も。その魂さえもが!」
 僕が叫ぶと、臓物の景色が脈打つように揺らいだ。
 あひゃひゃひゃひゃひゃ。
 骸骨は笑う。骸骨は僕に、
「笑うな」
と喋り、自分では笑いながら腹を抱える。
 僕は笑ってなんかいない。
 笑っているのはこいつだ。
 だが、僕が笑っている、と主張する。逃げている、と笑う。
 揺らいだ景色に、陽炎のようなモヤモヤが立ち現れて、それが滝見沢くんの骸骨のかたちを形成する。
「ゴリラ。おまえはゴリラだ。鎖につながれて、格子の嵌ったあのふすまの奥にいるのはお前だ。言いふらそう、言いふらそう。みんなに教えてやる。頭の悪いお前には最大限の罰を。すべてはお前がバカなのが悪いのだ。みんなが勉強を必死に頑張っているのに、お前は自分に甘えて、〈なにか〉のせいにする。そう、あのふすまの奥の。今にわかるぞ。お前は社会には出られない人間になる。年齢だけ大人になって、身動き取れずに死んでいくだろう。ざまぁみろ」
「やめろ! それ以上言うな!」
「やめないよ。これは〈事実〉だ!」
 哄笑。哄笑。
 笑い声が臓物の部屋に響く。臓物である壁面も地面も、ぐにゃぐにゃと気持ち悪い音を立てて蠕動する。
 僕は走って逃げだした。悲鳴を上げていたかもしれない。
 逃げても逃げても、それは地獄のような場で、僕は餓鬼のような有様で。

 自分の家らしきところに着いて、カギを開けて中に入る。
 台所で蛇口をひねると血の色をした水が出る。僕はそれをコップで一気に飲み干してから自分の部屋に戻って、ベッドに潜った。

 ……僕の心象風景は、乱れ切っている。

          七

 嵌った格子の錠前を開けて、一歩踏み込む。
 兄用のトイレを横切り、ふすまの前に立つ。

「話があるんだ、兄さん」
 僕はふすまを開ける。
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