第76話 逃亡1

文字数 1,523文字

 病院の屋上。青空の中に、一つの小さな雲が申し訳なさそうに漂っていた。僕と椿は、屋上に相対して置いてあるベンチに座った。その横で光に見守ってもらった。
 椿に事情を話した。ニッポンから出る事、もう戻って来られない事を言ったら、椿が「連れて行って」と言ったので、「そうなったら、君も、家族も危ない」と言った。

 顔をグーで殴られた僕は、ベンチごと後ろに倒れた。椿が大きな足音を立てて近づいてきたので、僕は立ち上がった。

「連れて行きなさいよ!」
「でも……」

頭を叩かれた。いい音がした。僕は二、三歩後ろに下がった。

「連れて行きなさいよ!」
「椿、だか……」

胸を蹴られた僕は、尻餅をついてしまった。重い衝撃に、思わず声が漏れ出た。それを見ていた光が言った。

「おぅおぅ、優しい彼女だな」

彼の言う優しい彼女とは、みぞおちをわざと外して、胸に跳び蹴りをくらわせた椿の事だ。

「ふざけんじゃないわよ!私も行くんだから!」
「でも……」

 椿は僕の胸ぐらを掴んで、「ちょっと来て」と言って僕を引っ張った。僕は抵抗出来ず、彼女の指示に従った。光は唖然とした顔で僕たちを見ていた。
 行き着いた場所は、椿の父親がいる診察室。そこにはタイミングよく患者はおらず、先生がカルテに何やら書き込んでいた。

「お父さん!私、ここを出るわ!」

先生の右手が止まった。診察室の隣から、お盆でも落としたのか、金属音が鳴り響いた。

「急にどうした?」
「あ、あの、先生……」

僕は声を小さくして、事情を先生に話した。先生の目は丸くなっていた。

「だから、明日の朝、ここを出るわ」

 すると先生は、爽やかな顔をこっちに向けて、「いいんじゃないか」と言った。

「お前の人生だ。好きにしなさい」
「いいの?」
「もちろん!こんな、暴れ馬みたいな娘と一緒になってくれるなら、お父さんとお母さんは大喜びだぞ!なぁ巽!ハハハ」
「でも、ここも危険に……」
「心配ご無用。それよりも、娘がここより安全な所へ行けるのなら、お父さんとお母さんは安心だ。それに……」

 先生はカルテに顔を向け直し、また何やら書きだした。

「どんな暴れ馬みたいな娘でも、幸せになって欲しいと思うのは親として普通の事。だから、娘の決断を信じるのは当然だな」

 先生が「仕事の邪魔だ」と言ったので、僕たちは診察室を出た。
診察室の外では、光が壁にもたれて腕を組んでいた。
 少し光と話をして、僕は病院を出た。そして、この間の花屋で花束を買い、小高い山の上に向かった。
バイクがないから歩いて向かったんだけど、思いのほか時間がかかった。着いた頃には、日が西に傾き始めていた。

 常磐木の下に花束を置いて、手を合わせた。少しそこから景色を見渡した。もうこの景色を見ることは無いのかと思うと、胸からこみ上げる物があったが、僕はそれを胸の内に押し込んだ。

 また歩いて家に戻った。玄関の前で椿が待っていた。スキニージーンズに黒のタートルネック、その上から深緑色のジャケットを羽織った、カジュアルな服装だった。その近くに、見知らぬジープが止まっているのが目に入ったが、あまり気にしなかった。
 家の中に入った。廊下を渡って奥に行くと、リビングのソファの所に誰かが横になっていた。

 見たことがない女性だった。

僕たちの物音で、彼女は目を開け、起き上がった。

「御門さん!遅い!」

僕が「誰ですか」と聞くと、彼女は「そんなことより、早く行きましょう」と言った。椿の顔を横目で見たら、明らかに怒った目つきで僕を見ていた。

「大佐が殺されました。敵は御門さんを追っています」
「え……」
「荷物はもういりませんから、ここを出ましょう!あ、沖田はどこです?早く行きましょう」

 僕と椿は、背中を押されながら家から出た。
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