第69話 光の昔話
文字数 1,967文字
気がついた時、僕はベッドで横になっていた。薄暗くなった見慣れた天井。日が暮れたくらいの時間だということは分かった。手足が痺れていた。首の後ろに鈍い痛みが走っていた。
どうも起きる気がしなかった。ずっとベッドの中で目を閉じようと思った。でも、それを遮る音がした。隣の部屋から、ガシャンと割れるような音、隣の壁から大きな音がした。誰かが倒れたのか、壁を叩いたのか、何が割れたのか分からない。
やがて何も聞こえなくなった。そのかわりに僕の部屋の扉が開く音がした。
ぼんやりとした天井を見つめていた僕だけど、その中に、光の顔が入ってきた。
「……起きてる、のか?」
僕は目で返事をした。光は僕の視界からいなくなった。でも、僕のベッドの端に座ったのは分かった。小さなため息、しゃくりあげるような声と、ルーの『私の主 はどこ?』と言わんばかりの忙しない足音ーー。
ーーそうか、彼は死んだのかーー。
悲しかった。言葉にできないくらい、何に例えればいいのか分からない。ただひとつ言えたことは、思いのほか心が静かだったということだった。
「巽?」
という光の声に、僕は返事をしなかった。もう少しの間、あの夏の夜に感じた川の底みたいな静かな場所で眠りたかった。
何も見たくないーー。
何も聞きたくないーー。
何も嗅ぎたくないーー。
何も喋りたくないーー。
何も考えたくないーー。
何も感じたくないーー。
僕を見ないでーー。
僕に触らないでーー。
暗闇の中に沈みたい。息を止めて、全ての記憶を消して、『無』にして欲しい。
僕の頭は『消えたい』と言った。でも僕の心と体は『消えたくない』と抵抗して、僕の言うことを聞いてくれなかった。
その時、急に顔に電気が通った。悠也が僕の頬を叩いた。
「悠也やめろ!」
光が悠也を止めてくれた。ぬるい雫が、僕の顔に落ちてきた。
「嫌いだ!皆俺を置き去りにして逝くんだ!皆、大嫌いだ!」
「落ち着け……」
「何も知らないくせに、俺のことなんて何も分かんないくせに……俺に指図するな!」
「ふざけんな!てめぇも俺のこと何も知らねぇだろうが!」
僕の横で騒がしくしてる二人を、僕は首を動かして眺めた。
ほとぼりが少し冷めたところで、僕は悠也を呼んだ。
「光は、君と同じだよ」
「違う!俺とこいつは違う!」
「この子も、元は少年兵だ」
悠也の動きが止まった。
「薬物中毒で、何度も飛び降りた。自分の手首を切って安心してた子だ。今でも夜中にうなされてる」
光が「巽」と言ったので僕は黙った。光はその場で胡坐をかいて、悠也に座るように言った。悠也は黙って言うことを聞いた。
「……誰にも言うなよ。……あのな、……俺は政権軍の兵士だった。十二歳の時に知らない大人にさらわれて、頭にチップを埋め込まれて、銃を持たされて戦わされた。
敵をたくさん殺したが、仲間もたくさん死んだ。命令に従わなかったからチップが爆発して死んだやつ、戦場で後ろに一歩下がったら後ろから頭を撃ち抜かれて死んだやつ、敵に殺されたやつ……、たくさん……、たくさんだ」
僕も静かに光の声に耳を傾けた。
「十八歳でここに連れて来られて巽と出会った。中毒だったからな、いつもイライラして気が狂いそうになって、苦しいから死のうって思って何度も屋上から飛び降りた。でも、どこで監視してたのか、いつも巽が助けた。ある日な、また窓際に立って死のうとしたときがあった。そしたらこのバカは『付き合うよ』って言って、俺と一緒に飛び降りたんだ。俺は無傷、巽は俺を庇ったせいで肋骨と足を折って、頭蓋骨にヒビが入った。
それで飛び降りるのをやめた。それでも苦しかったから手首を切った。どこからかハサミやらナイフやらを盗ってきて、部屋で手首を切って、自分の血が流れるのを見て安心してた。手首を切れば心が落ち着いた。でも、それも巽にバレて、どうしたと思う?」
「……知らない」
「巽も一緒に手首を切ったんだ。『君はリストカットをすることで何かを訴えてるんだよね?それって会話だよね?だから僕も手首を切るよ。だから、声に出さなくていいから、声を聞かせて』って、アホみたいなこと言い出したんだ。俺がハサミで手首を切ると、巽が俺の使ったハサミを拭いて手首を切って、それをまた拭いて俺に返して……それの繰り返し。
今でも苦しい時はそうする。巽にいつもバレるけど、そのときは一緒に付き合ってくれる。
巽の腕、見たことないだろ?見てみろよ、傷だらけでデコボコしてて、もう治らない」
悠也は僕の左腕の袖をまくった。冷たい空気が当たるのが分かった。
「巽は体張って、命をかけて俺を助けた。今でも助けてくれる。
だから、俺の恩人を傷つけるなら、俺はお前を殺す。いいな?」
光は立ち上がって部屋を出た。ルーは露わになった僕の腕を優しく舐めてくれた。悠也は、部屋の隅で小さく丸まってしまった。
どうも起きる気がしなかった。ずっとベッドの中で目を閉じようと思った。でも、それを遮る音がした。隣の部屋から、ガシャンと割れるような音、隣の壁から大きな音がした。誰かが倒れたのか、壁を叩いたのか、何が割れたのか分からない。
やがて何も聞こえなくなった。そのかわりに僕の部屋の扉が開く音がした。
ぼんやりとした天井を見つめていた僕だけど、その中に、光の顔が入ってきた。
「……起きてる、のか?」
僕は目で返事をした。光は僕の視界からいなくなった。でも、僕のベッドの端に座ったのは分かった。小さなため息、しゃくりあげるような声と、ルーの『私の
ーーそうか、彼は死んだのかーー。
悲しかった。言葉にできないくらい、何に例えればいいのか分からない。ただひとつ言えたことは、思いのほか心が静かだったということだった。
「巽?」
という光の声に、僕は返事をしなかった。もう少しの間、あの夏の夜に感じた川の底みたいな静かな場所で眠りたかった。
何も見たくないーー。
何も聞きたくないーー。
何も嗅ぎたくないーー。
何も喋りたくないーー。
何も考えたくないーー。
何も感じたくないーー。
僕を見ないでーー。
僕に触らないでーー。
暗闇の中に沈みたい。息を止めて、全ての記憶を消して、『無』にして欲しい。
僕の頭は『消えたい』と言った。でも僕の心と体は『消えたくない』と抵抗して、僕の言うことを聞いてくれなかった。
その時、急に顔に電気が通った。悠也が僕の頬を叩いた。
「悠也やめろ!」
光が悠也を止めてくれた。ぬるい雫が、僕の顔に落ちてきた。
「嫌いだ!皆俺を置き去りにして逝くんだ!皆、大嫌いだ!」
「落ち着け……」
「何も知らないくせに、俺のことなんて何も分かんないくせに……俺に指図するな!」
「ふざけんな!てめぇも俺のこと何も知らねぇだろうが!」
僕の横で騒がしくしてる二人を、僕は首を動かして眺めた。
ほとぼりが少し冷めたところで、僕は悠也を呼んだ。
「光は、君と同じだよ」
「違う!俺とこいつは違う!」
「この子も、元は少年兵だ」
悠也の動きが止まった。
「薬物中毒で、何度も飛び降りた。自分の手首を切って安心してた子だ。今でも夜中にうなされてる」
光が「巽」と言ったので僕は黙った。光はその場で胡坐をかいて、悠也に座るように言った。悠也は黙って言うことを聞いた。
「……誰にも言うなよ。……あのな、……俺は政権軍の兵士だった。十二歳の時に知らない大人にさらわれて、頭にチップを埋め込まれて、銃を持たされて戦わされた。
敵をたくさん殺したが、仲間もたくさん死んだ。命令に従わなかったからチップが爆発して死んだやつ、戦場で後ろに一歩下がったら後ろから頭を撃ち抜かれて死んだやつ、敵に殺されたやつ……、たくさん……、たくさんだ」
僕も静かに光の声に耳を傾けた。
「十八歳でここに連れて来られて巽と出会った。中毒だったからな、いつもイライラして気が狂いそうになって、苦しいから死のうって思って何度も屋上から飛び降りた。でも、どこで監視してたのか、いつも巽が助けた。ある日な、また窓際に立って死のうとしたときがあった。そしたらこのバカは『付き合うよ』って言って、俺と一緒に飛び降りたんだ。俺は無傷、巽は俺を庇ったせいで肋骨と足を折って、頭蓋骨にヒビが入った。
それで飛び降りるのをやめた。それでも苦しかったから手首を切った。どこからかハサミやらナイフやらを盗ってきて、部屋で手首を切って、自分の血が流れるのを見て安心してた。手首を切れば心が落ち着いた。でも、それも巽にバレて、どうしたと思う?」
「……知らない」
「巽も一緒に手首を切ったんだ。『君はリストカットをすることで何かを訴えてるんだよね?それって会話だよね?だから僕も手首を切るよ。だから、声に出さなくていいから、声を聞かせて』って、アホみたいなこと言い出したんだ。俺がハサミで手首を切ると、巽が俺の使ったハサミを拭いて手首を切って、それをまた拭いて俺に返して……それの繰り返し。
今でも苦しい時はそうする。巽にいつもバレるけど、そのときは一緒に付き合ってくれる。
巽の腕、見たことないだろ?見てみろよ、傷だらけでデコボコしてて、もう治らない」
悠也は僕の左腕の袖をまくった。冷たい空気が当たるのが分かった。
「巽は体張って、命をかけて俺を助けた。今でも助けてくれる。
だから、俺の恩人を傷つけるなら、俺はお前を殺す。いいな?」
光は立ち上がって部屋を出た。ルーは露わになった僕の腕を優しく舐めてくれた。悠也は、部屋の隅で小さく丸まってしまった。