入学日1日目(教室内で)
文字数 6,670文字
今、入学式を終えたばかりの隼人は教室の自分の席で入学式のことを思いだして反すうしていた。これから1年間お世話になる1年B組の教室は校舎の4階で、校庭側のガラス窓から入る明るい日差しで教室内はいっぱいだ。まだ担任も来ていないこともあって、まわりでは雑談や自己紹介が始まっていた。
入学式は今朝のドタバタな一件のことを帳消しにするくらい素晴らしいものだった。校長や学校関係者の長いお話はお約束のとおりだったが、初めて生演奏で聞いた聖歌隊(部活動らしい)の合唱や講堂に設置してあるパイプオルガン(こんなもの自体があることにビックリ!)の演奏には本当に感動した。まだ学校生活はスタートしていないが、これだけでもこの学校に来てよかった、と隼人は思った。クラブ勧誘とかは後日あるとのことだが、なんとなく楽しみだ。
そんなニヤついている隼人に横から話しかけて来る女子がいた。
「ねえ、君、どこから通っているか教えてくれない?」
“これがいわゆる『逆ナン』か?”
隼人は声のする方を見るとフチ付きのメガネをかけた快活そうな女子が自分の方に体を乗り出してきていた。
「突然でごめんね。私はエマっていうんだけど、最近君の家の近くで何かヤバい事件がなかった? この地区内でいろんなヤバい事件が起こっているらしいんだけど、警察も動かないし、報道も全然されていないんだってウワサなのよ」
“ちょっと変わった子だな… まだ初めだから差し触りないようにしとくか…”
少し考えながら隼人は答えた。
「オレは基町に住んでいるんだけど、そんな話は~ 聞いたことがないかな~ 実は、オレは最近コッチに引っ越してきたから、まだコッチのことよくわからないんだ」
隼人が答え終わるか終らないうちに担任が教室に入ってきた。それを見てエマはあわてて自分の席に戻った。担任は、年の頃がお姉さんって感じのすっぴんでもかなりきれいな落ち着いたシスターだった。シスターを見るのは初めてではない隼人だったが、学校の先生をしている人がいるとは思ってもみなかった。
「はい皆さん、静かにしてください、って言う必要もないわね」
担任はクラス全員の顔を眺めながら優しさの中にも厳しさを感じさせる声で話始めた。
「さすが、この聖エルモ学園に入学してくるだけあってマナーは申し分ないわね。皆さんは、この地区では恵まれたご家庭出身の方がそろっていらっしゃるものね。だから、細かいことは言いません。今日から卒業するまで、自分が何をすべきかを毎日考えて生活してください。そして、自分の行動には責任が伴うことをお忘れなく」
クラスの中の空気がピンっと張りつめたので、担任はわざとリラックスして表情をくずした。
「じきに慣れてくるでしょうから、そんなに緊張しないでください。 あ、いけない! 忘れていました! 私の名前は神鳴響子です。担当は社会科の倫理で、本校の卒業生です。昔は男女別々のクラスだったのに今は同じ教室で勉強できるなんてうらやましいな! 私の頃もそうだったなら、私もきっと恋に勉強に高校生活を謳歌できたのに…」
響子先生は胸の前で手を合わせて天を向いたまま夢見心地でしゃべり続けていたが、沈黙している生徒全員の視線を感じて、小さく握ったこぶしを口にあてて小さくセキをした。
「それでは皆さん、今日は簡単に自己紹介をしてもらって、その後に学級委員を決めたいと思います」
「ビッテ、フロイライン カミナリ。さっきの式典も疑問だったのですけど、自己紹介、学級委員っていったい何ですか? 学校は学ぶことが目的の場所ですよね?」
教室の後ろの方からはっきりとした女子の声が響き渡った。教室中の目が一斉に声の主に集まり、外国人であることにどよめきが起こった。声の主は呼びかけ方が間違ったと思ったようだった。
「日本ではシスター カミナリがいいのかな?」
五十音順のため席が前から2番目だった隼人は、振り向いた瞬間、朝の外国人の女子生徒であることに一目で気がついて、ソッコーで顔を机に伏せた。
「前の方に座っていたから全然気づかなかったけど、朝のあの女の子と同じクラスだったのか…」
「呼び方はどちらでもいいわよ、ミス カトリーナ。あのね日本ではね、式典で公式な場所でのマナーを、自己紹介でクラス全員に自分のことをアピールすることを学んでもらっています。学級委員は、クラスの生徒の代表をみんなで選んで決めます。日本ではどれも学校で学んだり経験する必要があることです。分かりましたか? このまま、あなたを皆さんに紹介しちゃうわね。ハイ、皆さん前を向いて!」
響子先生はカトリーナを教壇の方へ呼んだ。隼人は顔を見られないように机に伏せたままでいた。
「この人はカトリーナ クラインといいます。スイスからの留学生で、日本の文化の体験と研究のために日本にいらっしゃいました。ミス カトリーナ、自己紹介をして」
カトリーナはピンッと背筋を伸ばして朗々とした流ちょうな日本語でしゃべり始めた。
「ワタシはカトリーナ クラインです。ドイツ系のスイス人です。スイスはドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語を話す人たちがいる自治州が集まるの連邦国家で、みんな自分たちの文化に誇りを持っています。ワタシはカトリック教徒ですので、日本のカトリック系の学校で勉強できることを楽しみにしています。カトリと呼んでもらえればうれしいです」
「カトリ、でいいのね。どうもありがとう。それじゃ、あとはサクッと行きましょう。
校庭側の列の一番前の人からお願いします」
隼人の前に座る男子が起立すると要領よく自己紹介を始めた。
“困ったな… オレ、こういうの得意じゃねーんだよ”
隼人の前の席の男子が立ち上がった。隼人は自分のことで何を話そうかと考えるのに夢中で一番目の男子がしゃべっていることは耳に入ってこなかった。
「はい、次の人どうぞ!」
響子先生が呼びかけるが、隼人は何をしゃべっていいか頭の中での整理が全然できていなかった。
「赤城君?」
さらに響子先生に促されて、やっと隼人は盛大にイスを引きずる音をたてながら立ち上がった。
「オレ、いや僕は赤城隼人です。最近基町に引っ越してきました。皆さん、よろしくお願いします」
“あの人あかぎっていうんだ… なんか気になる…”
一気に早口でしゃべり終えた隼人は直ぐにイスに座り、また盛大に音をたててイスを戻した。思っていたとおり、うまく自己紹介できなかったことに自己嫌悪した隼人には、そのことだけが思い出され後の生徒の自己紹介は全く聞こえてこなかった。
「… 皆さん、自己紹介ありがとうござました。さて、みんなそれぞれのプロフィールも分かったでしょうから、学級委員長と副委員長の2人を決めたいと思います。それでは立候補する人はいますか?」
全員の自己紹介が終わってから響子先生は教室中を見回すようにしながら、大きな声で生徒たちに問いかけた。
これに対して生徒たちは教室内の“気”の流れを読み合っていた。
ほとんどの生徒は出身中学では当然のように学級委員をつとめたことがあった。ただ、入学1日目という自分以外の生徒の実力を計りかねる時点で、目立った動きとることにはちゅうちょをせざるを得なかった。
つまり、立候補した場合、学級委員のつとめをうまく果たして当然で、失敗した場合には身の程知らずの烙印をクラス中から押されてしまうからであった。
「あれ、誰も立候補する人がいないんですね。今までこんなことは余りなかったんですけど…」
響子先生は少し困ったように首をかしげながら一人一人の顔を見たが、生徒は誰も目を合わそうとしなかった。
「皆さん、どうでしょうかね?」
「すみません、先生、発言しても良いでしょうか?」
長めのストレートの髪型の艶っぽい口元のした女子が手を上げて甘えるような声で質問した。
「どうぞ、えーと東条さん?」
「はい、東条志織です、先生。私はちょっと自分が委員長に立候補する自信はないのですが、委員長にふさわしいと思う人を推薦することならできるのですが」
「え? それではどなたを推薦してくださるのですか?」
「それは、赤城隼人さんです」
“なるほど、これは名案だ!”
隼人と外国人のカトリを除いた生徒全員がテレパシーで連絡し合ったように話し合うこともなく意思統一を一瞬で成し遂げた。誰でもいいから一人を委員長にしてしまえば自分は批評する側になれるからだ。
「それで、推薦の理由を教えていただけますか? 東条さん?」
「ぼくも赤城君がふさわしいと思います」
「私も赤城さんがいいと思います」
響子先生の質問に東条志織が答えないうちに教室のあちこちから隼人を推薦する者たちが全開にしたシャワーのようにあふれて来た。
「赤城君がふさわしいと思う人は拍手してください」
誰ともなく呼びかけをすると教室中が拍手でいっぱいになった。
「皆さん、これでは多数決の形を借りて、自分の身代わりの『いけにえの山羊』を差し出しているようなものです」
響子先生は教壇に両手をついて怒りで震えつつ毅然とした態度で教室中に告げた。
「ただ、このような状況ではいつまでも学級委員の選出は出来ないでしょう… 今回は私から赤城君に委員長になって頂くようお願いをします… 赤城君、たいへん申し訳ありませんが、学級委員長になってください」
響子先生は隼人に向かって深々とお辞儀をした。
訳が分からないうちに自分の名が急にあちこちから出て来て、気がつくと今の状況に至っていた隼人は熱気に包まれ呆然自失の状態にあった。
「ハイ。ワカリマシタ」
催眠にでもかかったようになって隼人はカタコトで返事をしていた。
「本当にありがとうございます。赤城君」
響子先生は丁寧に再度お辞儀を隼人にしてから、他の生徒たちの方を向いて静かに告げた。
「皆さんは、自分たちの行為が原因となっていかなる結果を招いたかをよく考えてください。そして、自分たちの決定の責任をこれから必ず取ってください。私はしっかり見ています」
「ビッテ、フロイライン キョウコ、副委員長にはワタシがなります!」
教室の奥から朗々とした声が響いてきた。
「ワタシ、カトリーナはアカギハヤトと一緒に学級委員になります」
“エッ、なに? 信じられないし?!”
次の瞬間、教室内は男子生徒たちの低い声のどよめきに包まれた。
“カトリと一緒に学級委員ができるのだったら、自分が委員長になったのに”
男子生徒たちの心ではドス黒い怨みと嘆きの声が渦巻いていた。
「カトリさん、本当に副委員長に立候補するのですね… これがどういうことか分かっていますよね?」
不安そうな声で響子先生はカトリに確認した。
「ハイ、ワタシは副委員長になりたいのです。何か問題がありますか?」
留学生のカトリがいきなり学級委員になることには、響子先生としては正直なところ少なからずの不安があった。
「先生は私たちに先ほど自分の決定には責任を持つように、お話しされました。カトリさんは自分で立候補したのだから、その気持ちを大切にすべきだと思います」
志織が響子先生の気持ちを見透かしたかのように発言した。響子先生の顔には苦虫をかみつぶした表情がちょっとだけ表に出てしまった。
「では、副委員長にはカトリさんの立候補がありましたが、他に立候補される方や適任の人を推薦される方はいますか?」
クラスを見回して響子先生は生徒たちに確認をした。
「いないようですので、カトリさんが副委員長になることに賛成の人は手を上げてください」
クラスの過半数を占める女子が全員手を上げたので、男子が手を上げなくてもカトリの副委員長は決定した。
「それでは、赤城隼人さんとカトリーナ クラインさんに
「先生、この決定方法には手続き上の問題点があります」
落ち着いた男子生徒の声に響子先生の宣言がさえぎられた。
「私の名は竜崎剛介です。委員長の決定方法には明らかに問題がありました」
この発言者はいかにも鍛錬していると思われ体格が周囲の生徒たちと比べても一回り以上大きく、髪はきれいに整えられている。
「あの竜崎グループの御曹司がこの学校に来ていたのか」
「ここらでは派手に展開してしている竜崎グループのか」
教室のあちこちでヒソヒソ話が湧いていた。
「あなたは今さら何を言っているのですか?! 委員長の決定のときに、あなたたち全員が拍手をしました。自分たちの決定には責任を持って頂きます」
響子先生は怒りを隠さずに竜崎剛介に言い放った。
「先生、どうか落ち着いてください。深呼吸でもなされてはいかがですか」
剛介は悠然として話を続けた。
「あの拍手のせいで、私は立候補することができなくなりました。つまり、クラス中の拍手によって私の立候補の表明が残念ながらかき消されてしまっていたのです」
剛介は目をつむって頭を大げさに左右に振った。が。すぐに目をカッと見開いた。
「さらに付け加えるならば、私の方がこのクラスの学級委員にふさわしいかと」
「竜崎君、あなたはカトリさんが副委員長になったから、急に立候補しようと言い出しているのでしょう!」
「先生の方こそ、おたわむれを。委員長には委員長にふさわしい者がなることが、このクラスのためになります。その候補者になる機会を私は失ってしまったのです」
剛介は立ち上がるとあたりを見下ろした。教壇まで進むと振り返って教室中の生徒たちに向かって言い放った。
「クラスの諸君、もう一度、私に立候補のチャンスを与えてはくれないか? 私が委員長になることは、君たちにも決して悪いことではないと思うが、どうかな? さあ、私の立候補に賛成してくれる人は手を上げてくれないか?」
響子先生はかたずを飲んでクラス中の生徒たちの行動を見守った。
しばらくしても、誰ひとりとして手をあげる者はいなかったので、響子先生は胸をなでおろした。
結果を見ても剛介は悠然としていて、再びクラス中に話しかけた。
「質問の方法が良くなかったようだったかな? それでは、もう一度だけ質問させて頂こう。私が立候補することに反対の人は手をあげてもらおう」
今度は、カトリを除いては誰ひとりとして、手をあげる者はいなかった。
「先生、ご覧のとおりです。私はクラスの諸君から立候補するチャンスを与えられました。赤城君と私とで委員長選挙をやりましょう」
「クラスでこんな脅迫まがいのことをして、あなたは恥ずかしくないの! 私は絶対に認めません!」
響子先生は剛介の目から鋭い視線を外さない。
「みんなが決めるなら、それに従うわ。それが多数決ですものね」
カトリの口調は冷静だった。剛介は満足そうにうなずき、響子先生は驚きながらカトリを見つめた。
「アカギクン… 悪いけど… ワタシ… 副委員長を辞退する。良かったら、あなたも委員長を辞退しちゃいなさいよ。リュウザキクンがせっかく立候補してくれているんですもの」
カトリが話し終わるか終らないうちに剛介に明らかににうろたえ始めていた。
「リュウザキクンは、委員長に立候補したかったんだよね? せっかくだから、委員長をお願いしてもかまわないよね?」
“結局なんなの、コレ?!”
「私は、赤城君とカトリさんが学級委員をすべきだと思います」
志織がヤレヤレといった表情をして、あきれた口調で発言した。
「もう一度決まっていることだし、これ以上このことに時間をかけることは無駄だと思います。みなさんもそう思いませんか?」
教室のあちらこちらから志織に同調する声があがった。剛介も助かったという顔をしていた。
「皆さん、本当に赤城隼人さんとカトリーナ クラインさんに学級委員をお任せすることで良いですね」
内心胸をなでおろした響子先生が生徒たちに呼びかけると、緩慢な拍手が教室中から起こった。
「二人には、新入生オリエンテーション合宿の班決めやレクリエーションをお願いします。皆さんも協力してあげてください」
それからいくつかの事務的な連絡の後、響子先生は少しやつれた雰囲気を漂わせて教室を出ていった。
「さっき、どうして東条さんは赤城君を推薦したり、竜崎君を助けたりしたんだろう? ちょっと気になるわね…」
エマはけだるい空気に包まれた教室の片隅でそんなことを考えていた。
入学式は今朝のドタバタな一件のことを帳消しにするくらい素晴らしいものだった。校長や学校関係者の長いお話はお約束のとおりだったが、初めて生演奏で聞いた聖歌隊(部活動らしい)の合唱や講堂に設置してあるパイプオルガン(こんなもの自体があることにビックリ!)の演奏には本当に感動した。まだ学校生活はスタートしていないが、これだけでもこの学校に来てよかった、と隼人は思った。クラブ勧誘とかは後日あるとのことだが、なんとなく楽しみだ。
そんなニヤついている隼人に横から話しかけて来る女子がいた。
「ねえ、君、どこから通っているか教えてくれない?」
“これがいわゆる『逆ナン』か?”
隼人は声のする方を見るとフチ付きのメガネをかけた快活そうな女子が自分の方に体を乗り出してきていた。
「突然でごめんね。私はエマっていうんだけど、最近君の家の近くで何かヤバい事件がなかった? この地区内でいろんなヤバい事件が起こっているらしいんだけど、警察も動かないし、報道も全然されていないんだってウワサなのよ」
“ちょっと変わった子だな… まだ初めだから差し触りないようにしとくか…”
少し考えながら隼人は答えた。
「オレは基町に住んでいるんだけど、そんな話は~ 聞いたことがないかな~ 実は、オレは最近コッチに引っ越してきたから、まだコッチのことよくわからないんだ」
隼人が答え終わるか終らないうちに担任が教室に入ってきた。それを見てエマはあわてて自分の席に戻った。担任は、年の頃がお姉さんって感じのすっぴんでもかなりきれいな落ち着いたシスターだった。シスターを見るのは初めてではない隼人だったが、学校の先生をしている人がいるとは思ってもみなかった。
「はい皆さん、静かにしてください、って言う必要もないわね」
担任はクラス全員の顔を眺めながら優しさの中にも厳しさを感じさせる声で話始めた。
「さすが、この聖エルモ学園に入学してくるだけあってマナーは申し分ないわね。皆さんは、この地区では恵まれたご家庭出身の方がそろっていらっしゃるものね。だから、細かいことは言いません。今日から卒業するまで、自分が何をすべきかを毎日考えて生活してください。そして、自分の行動には責任が伴うことをお忘れなく」
クラスの中の空気がピンっと張りつめたので、担任はわざとリラックスして表情をくずした。
「じきに慣れてくるでしょうから、そんなに緊張しないでください。 あ、いけない! 忘れていました! 私の名前は神鳴響子です。担当は社会科の倫理で、本校の卒業生です。昔は男女別々のクラスだったのに今は同じ教室で勉強できるなんてうらやましいな! 私の頃もそうだったなら、私もきっと恋に勉強に高校生活を謳歌できたのに…」
響子先生は胸の前で手を合わせて天を向いたまま夢見心地でしゃべり続けていたが、沈黙している生徒全員の視線を感じて、小さく握ったこぶしを口にあてて小さくセキをした。
「それでは皆さん、今日は簡単に自己紹介をしてもらって、その後に学級委員を決めたいと思います」
「ビッテ、フロイライン カミナリ。さっきの式典も疑問だったのですけど、自己紹介、学級委員っていったい何ですか? 学校は学ぶことが目的の場所ですよね?」
教室の後ろの方からはっきりとした女子の声が響き渡った。教室中の目が一斉に声の主に集まり、外国人であることにどよめきが起こった。声の主は呼びかけ方が間違ったと思ったようだった。
「日本ではシスター カミナリがいいのかな?」
五十音順のため席が前から2番目だった隼人は、振り向いた瞬間、朝の外国人の女子生徒であることに一目で気がついて、ソッコーで顔を机に伏せた。
「前の方に座っていたから全然気づかなかったけど、朝のあの女の子と同じクラスだったのか…」
「呼び方はどちらでもいいわよ、ミス カトリーナ。あのね日本ではね、式典で公式な場所でのマナーを、自己紹介でクラス全員に自分のことをアピールすることを学んでもらっています。学級委員は、クラスの生徒の代表をみんなで選んで決めます。日本ではどれも学校で学んだり経験する必要があることです。分かりましたか? このまま、あなたを皆さんに紹介しちゃうわね。ハイ、皆さん前を向いて!」
響子先生はカトリーナを教壇の方へ呼んだ。隼人は顔を見られないように机に伏せたままでいた。
「この人はカトリーナ クラインといいます。スイスからの留学生で、日本の文化の体験と研究のために日本にいらっしゃいました。ミス カトリーナ、自己紹介をして」
カトリーナはピンッと背筋を伸ばして朗々とした流ちょうな日本語でしゃべり始めた。
「ワタシはカトリーナ クラインです。ドイツ系のスイス人です。スイスはドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語を話す人たちがいる自治州が集まるの連邦国家で、みんな自分たちの文化に誇りを持っています。ワタシはカトリック教徒ですので、日本のカトリック系の学校で勉強できることを楽しみにしています。カトリと呼んでもらえればうれしいです」
「カトリ、でいいのね。どうもありがとう。それじゃ、あとはサクッと行きましょう。
校庭側の列の一番前の人からお願いします」
隼人の前に座る男子が起立すると要領よく自己紹介を始めた。
“困ったな… オレ、こういうの得意じゃねーんだよ”
隼人の前の席の男子が立ち上がった。隼人は自分のことで何を話そうかと考えるのに夢中で一番目の男子がしゃべっていることは耳に入ってこなかった。
「はい、次の人どうぞ!」
響子先生が呼びかけるが、隼人は何をしゃべっていいか頭の中での整理が全然できていなかった。
「赤城君?」
さらに響子先生に促されて、やっと隼人は盛大にイスを引きずる音をたてながら立ち上がった。
「オレ、いや僕は赤城隼人です。最近基町に引っ越してきました。皆さん、よろしくお願いします」
“あの人あかぎっていうんだ… なんか気になる…”
一気に早口でしゃべり終えた隼人は直ぐにイスに座り、また盛大に音をたててイスを戻した。思っていたとおり、うまく自己紹介できなかったことに自己嫌悪した隼人には、そのことだけが思い出され後の生徒の自己紹介は全く聞こえてこなかった。
「… 皆さん、自己紹介ありがとうござました。さて、みんなそれぞれのプロフィールも分かったでしょうから、学級委員長と副委員長の2人を決めたいと思います。それでは立候補する人はいますか?」
全員の自己紹介が終わってから響子先生は教室中を見回すようにしながら、大きな声で生徒たちに問いかけた。
これに対して生徒たちは教室内の“気”の流れを読み合っていた。
ほとんどの生徒は出身中学では当然のように学級委員をつとめたことがあった。ただ、入学1日目という自分以外の生徒の実力を計りかねる時点で、目立った動きとることにはちゅうちょをせざるを得なかった。
つまり、立候補した場合、学級委員のつとめをうまく果たして当然で、失敗した場合には身の程知らずの烙印をクラス中から押されてしまうからであった。
「あれ、誰も立候補する人がいないんですね。今までこんなことは余りなかったんですけど…」
響子先生は少し困ったように首をかしげながら一人一人の顔を見たが、生徒は誰も目を合わそうとしなかった。
「皆さん、どうでしょうかね?」
「すみません、先生、発言しても良いでしょうか?」
長めのストレートの髪型の艶っぽい口元のした女子が手を上げて甘えるような声で質問した。
「どうぞ、えーと東条さん?」
「はい、東条志織です、先生。私はちょっと自分が委員長に立候補する自信はないのですが、委員長にふさわしいと思う人を推薦することならできるのですが」
「え? それではどなたを推薦してくださるのですか?」
「それは、赤城隼人さんです」
“なるほど、これは名案だ!”
隼人と外国人のカトリを除いた生徒全員がテレパシーで連絡し合ったように話し合うこともなく意思統一を一瞬で成し遂げた。誰でもいいから一人を委員長にしてしまえば自分は批評する側になれるからだ。
「それで、推薦の理由を教えていただけますか? 東条さん?」
「ぼくも赤城君がふさわしいと思います」
「私も赤城さんがいいと思います」
響子先生の質問に東条志織が答えないうちに教室のあちこちから隼人を推薦する者たちが全開にしたシャワーのようにあふれて来た。
「赤城君がふさわしいと思う人は拍手してください」
誰ともなく呼びかけをすると教室中が拍手でいっぱいになった。
「皆さん、これでは多数決の形を借りて、自分の身代わりの『いけにえの山羊』を差し出しているようなものです」
響子先生は教壇に両手をついて怒りで震えつつ毅然とした態度で教室中に告げた。
「ただ、このような状況ではいつまでも学級委員の選出は出来ないでしょう… 今回は私から赤城君に委員長になって頂くようお願いをします… 赤城君、たいへん申し訳ありませんが、学級委員長になってください」
響子先生は隼人に向かって深々とお辞儀をした。
訳が分からないうちに自分の名が急にあちこちから出て来て、気がつくと今の状況に至っていた隼人は熱気に包まれ呆然自失の状態にあった。
「ハイ。ワカリマシタ」
催眠にでもかかったようになって隼人はカタコトで返事をしていた。
「本当にありがとうございます。赤城君」
響子先生は丁寧に再度お辞儀を隼人にしてから、他の生徒たちの方を向いて静かに告げた。
「皆さんは、自分たちの行為が原因となっていかなる結果を招いたかをよく考えてください。そして、自分たちの決定の責任をこれから必ず取ってください。私はしっかり見ています」
「ビッテ、フロイライン キョウコ、副委員長にはワタシがなります!」
教室の奥から朗々とした声が響いてきた。
「ワタシ、カトリーナはアカギハヤトと一緒に学級委員になります」
“エッ、なに? 信じられないし?!”
次の瞬間、教室内は男子生徒たちの低い声のどよめきに包まれた。
“カトリと一緒に学級委員ができるのだったら、自分が委員長になったのに”
男子生徒たちの心ではドス黒い怨みと嘆きの声が渦巻いていた。
「カトリさん、本当に副委員長に立候補するのですね… これがどういうことか分かっていますよね?」
不安そうな声で響子先生はカトリに確認した。
「ハイ、ワタシは副委員長になりたいのです。何か問題がありますか?」
留学生のカトリがいきなり学級委員になることには、響子先生としては正直なところ少なからずの不安があった。
「先生は私たちに先ほど自分の決定には責任を持つように、お話しされました。カトリさんは自分で立候補したのだから、その気持ちを大切にすべきだと思います」
志織が響子先生の気持ちを見透かしたかのように発言した。響子先生の顔には苦虫をかみつぶした表情がちょっとだけ表に出てしまった。
「では、副委員長にはカトリさんの立候補がありましたが、他に立候補される方や適任の人を推薦される方はいますか?」
クラスを見回して響子先生は生徒たちに確認をした。
「いないようですので、カトリさんが副委員長になることに賛成の人は手を上げてください」
クラスの過半数を占める女子が全員手を上げたので、男子が手を上げなくてもカトリの副委員長は決定した。
「それでは、赤城隼人さんとカトリーナ クラインさんに
「先生、この決定方法には手続き上の問題点があります」
落ち着いた男子生徒の声に響子先生の宣言がさえぎられた。
「私の名は竜崎剛介です。委員長の決定方法には明らかに問題がありました」
この発言者はいかにも鍛錬していると思われ体格が周囲の生徒たちと比べても一回り以上大きく、髪はきれいに整えられている。
「あの竜崎グループの御曹司がこの学校に来ていたのか」
「ここらでは派手に展開してしている竜崎グループのか」
教室のあちこちでヒソヒソ話が湧いていた。
「あなたは今さら何を言っているのですか?! 委員長の決定のときに、あなたたち全員が拍手をしました。自分たちの決定には責任を持って頂きます」
響子先生は怒りを隠さずに竜崎剛介に言い放った。
「先生、どうか落ち着いてください。深呼吸でもなされてはいかがですか」
剛介は悠然として話を続けた。
「あの拍手のせいで、私は立候補することができなくなりました。つまり、クラス中の拍手によって私の立候補の表明が残念ながらかき消されてしまっていたのです」
剛介は目をつむって頭を大げさに左右に振った。が。すぐに目をカッと見開いた。
「さらに付け加えるならば、私の方がこのクラスの学級委員にふさわしいかと」
「竜崎君、あなたはカトリさんが副委員長になったから、急に立候補しようと言い出しているのでしょう!」
「先生の方こそ、おたわむれを。委員長には委員長にふさわしい者がなることが、このクラスのためになります。その候補者になる機会を私は失ってしまったのです」
剛介は立ち上がるとあたりを見下ろした。教壇まで進むと振り返って教室中の生徒たちに向かって言い放った。
「クラスの諸君、もう一度、私に立候補のチャンスを与えてはくれないか? 私が委員長になることは、君たちにも決して悪いことではないと思うが、どうかな? さあ、私の立候補に賛成してくれる人は手を上げてくれないか?」
響子先生はかたずを飲んでクラス中の生徒たちの行動を見守った。
しばらくしても、誰ひとりとして手をあげる者はいなかったので、響子先生は胸をなでおろした。
結果を見ても剛介は悠然としていて、再びクラス中に話しかけた。
「質問の方法が良くなかったようだったかな? それでは、もう一度だけ質問させて頂こう。私が立候補することに反対の人は手をあげてもらおう」
今度は、カトリを除いては誰ひとりとして、手をあげる者はいなかった。
「先生、ご覧のとおりです。私はクラスの諸君から立候補するチャンスを与えられました。赤城君と私とで委員長選挙をやりましょう」
「クラスでこんな脅迫まがいのことをして、あなたは恥ずかしくないの! 私は絶対に認めません!」
響子先生は剛介の目から鋭い視線を外さない。
「みんなが決めるなら、それに従うわ。それが多数決ですものね」
カトリの口調は冷静だった。剛介は満足そうにうなずき、響子先生は驚きながらカトリを見つめた。
「アカギクン… 悪いけど… ワタシ… 副委員長を辞退する。良かったら、あなたも委員長を辞退しちゃいなさいよ。リュウザキクンがせっかく立候補してくれているんですもの」
カトリが話し終わるか終らないうちに剛介に明らかににうろたえ始めていた。
「リュウザキクンは、委員長に立候補したかったんだよね? せっかくだから、委員長をお願いしてもかまわないよね?」
“結局なんなの、コレ?!”
「私は、赤城君とカトリさんが学級委員をすべきだと思います」
志織がヤレヤレといった表情をして、あきれた口調で発言した。
「もう一度決まっていることだし、これ以上このことに時間をかけることは無駄だと思います。みなさんもそう思いませんか?」
教室のあちらこちらから志織に同調する声があがった。剛介も助かったという顔をしていた。
「皆さん、本当に赤城隼人さんとカトリーナ クラインさんに学級委員をお任せすることで良いですね」
内心胸をなでおろした響子先生が生徒たちに呼びかけると、緩慢な拍手が教室中から起こった。
「二人には、新入生オリエンテーション合宿の班決めやレクリエーションをお願いします。皆さんも協力してあげてください」
それからいくつかの事務的な連絡の後、響子先生は少しやつれた雰囲気を漂わせて教室を出ていった。
「さっき、どうして東条さんは赤城君を推薦したり、竜崎君を助けたりしたんだろう? ちょっと気になるわね…」
エマはけだるい空気に包まれた教室の片隅でそんなことを考えていた。