出会いの日 出会いのとき
文字数 4,358文字
保健室内にある相談室では白衣を着た美しい女が、長い黒髪を指でクルクル巻きながらスマホを無表情で見ていた。保健室の入口には不在と表示してある。
「記憶転移… 臓器移植手術で臓器のドナー(提供者)の記憶や、人格、具体的には性格や嗜好や性癖がレシピエント(臓器の提供を受ける者)に転移すること。肉食を好む者が菜食主義者となったり、クラシック音楽の愛好者がヘビーメタルのコアなファンになったり、男性のしぐさが女性のようになったりする事例が報告されている。ただ、そのような性格の変化を感じない者もあり、臓器移植が人格変化を引き起こす科学的根拠はないという説もある…」
本当にこんなことがあり得るのかしら? と、女は首をかしげ疑い深そうな目で画面を斜め読みしていた。
これより約5時間ほど前のこと…
4月初旬、まだ少し通勤・通学時間までに時間のある早い住宅街には人通りはほとんどなかったが、うららかな日差しがこれから一日の天気の良さを十分に予想させる。
桜の花びらがまるで蝶が遊ぶかのように舞っているなか、昔からこの地区でも一目置かれるキリスト教系の共学高校、聖エルモ学園の入学式に向かう赤城隼人はあまり乗り気ではなかった。
「オレは病気の手術と治療で1年間入院してたのと、手術後の通院のせいで引っ越しもしたから学校に顔を知ってるヤツが一人もいねーから、ホーント新しい学校行く気にならねーし」
制服もおろし立てのせいか違和感だらけ、ため息をつく隼人には自分のまわりに降るきれいな花びらの舞いも全く目に入らない。
「これから高校でうまくやっていけんのかな… 自信がねえな…」
隼人は空を見上げてから、ポケットに手をつっこみ何とか重い足取りで駅へ向かう。
「うだうだ言っててもしょうがねーし… とりあえず駅にでも行きますか…」
駅までの行くには二つの経路がある。一つは民家の間を縫うように通る最短コースだ。ほとんどの地元民はそっちを使うが、途中で私有地である駐車場内をショートカットして通り抜けなければならない。
もう一つは車通りが比較的多い車道沿いの真っ直ぐな歩道を主に使うコースだ。平気な顔して私有地を通り抜けることができない隼人は、時間がかかってもこちらのコースを通る。人通りも少なくて歩きやすいところも気に入っている。
一直線の歩道の半分ほど来たところで、隼人の前方の視界の中に人影が入ってきた。
「アレもしかして… ウチの学校の女子の制服じゃなかったけ? 今日こんな時間にいるってことは、もしかしてオレと同じ新入生?」
生気のない隼人の目が少しだけ輝いた。二人の間隔が短くなるにつれて女子生徒の後姿がだんだんはっきりしてきた。さっきまでは前へ進んで行こうとしていなかった隼人の両足が、知らないうちにテンポを速めていた。
「あ、あの子、き、金髪じゃねーの?!」
隼人の口から思わず賛美ともため息ともつかない声がもれた。春の柔らかな日差しが女の子のショートカットの美しい金色の髪を一層映えさせていた。
「!」
姿がはっきりと見えるころになって、やっと隼人は知らず知らずに彼女のフェロモンに自分が思っている以上に吸い寄せられていることに気が付いた。
「まじヤバかった! あんまり近づき過ぎるとリアル不審者でしょ」
正気に戻った隼人は、着かず離れずのベストポジションをキープして彼女の後ろ向きの姿をスキャンしていた。背丈は日本人の女子よりは高いが、男子より高いというわけではなかった。体つきは引き締まったアスリートのようだ。
「ん?」
前を行く彼女の後姿をいく度となくスキャンしていた隼人の目は背中に気になる物体を発見した。しかし、通常ではその場所にはあり得るはずのない物体であった。我が目を疑った隼人はもう一度丁寧に『ソレ』を見直した。
「いや、確かにある。オレの見間違いじゃない」
隼人から自分に言い聞かせるようなひとり言がもれ出ていた。
その網膜にはしっかりと純白のブラジャーが映っていた。『ソレ』は彼女が気づかないまま、歩行のリズムに合わせて上下、左右に揺れていた。
しばらく小刻みに跳ね回るブラジャーに目を奪われていた隼人だが、ここでとても大切なことに気がついた。
“もし、このまま彼女にブラジャーが背中に付いていることを伝えなかったらどうなる?”
そんなことは考えるまでもなく隼人にだって分かった。
“彼女は入学式の日に、ここから学校まで自分の背中にブラジャーをぶら下げたまま気付くこともなく歩き回ることになる。もちろん、駅前や駅の中、電車の車内、学校までの間に多くの人たちの目にさらされることになる… 本人が気づいていないだけに痛々しいだろうな… 外国人だし、今日中に学校だけでなくこのあたりで一番の有名人になっちまう…”
周囲を見たが人通りのない歩道には隼人の他に誰もいない。
“ここで今すぐ、オレが彼女に伝えればいい、ってことだよな…”
隼人の表情は曇っていった。
“ただそうすれば、オレは彼女に大きな恥をかかせることになって絶対に嫌われるに違いない。そして彼女はオレの姿を見るたびに今日のことを必ずフラッシュバックするだろう… となると、彼女とこれからの高校3年間ずっと顔を合わせたり話をすることもなくなるに違いない…”
さらに重大な問題が無意識に隼人の口をついてでた。
「オレには英語がサッパリ分かんネーときてる… こんな状況をどう彼女に伝えりゃいいんだ…」
何も知らず先を行く彼女はまっすぐ駅近くの人通りの多いエリアに向かっている。なすすべもなく、その後ろをついて歩く隼人の頭の中ではジレンマがループする。
“彼女が大きな恥をかくのをオレ一人で終わらせるのか、それとも大勢の人たちに拡散することになるのを黙って放っておくのか… ああ、オレは自ら進んで彼女の嫌われ者になれるのか…”
すでに彼女は人通りの多いエリアに差し掛かり、もう隼人に迷っている時間はない。決断の時が来た。
“オレは嫌われてもいいから、今ここで彼女に伝えなきゃいけない! オレのことなんかより彼女のことを一番に考えなきゃいけないに決まってんだろ! 言葉の壁だってなんとかしてやる!”
「す、すみません!」
「………」
彼女は無反応だった。勇気をふり絞って出した隼人の声が彼女には届いていない。彼女は隼人の呼びかけに全く気がついていないようだが、よく見るとイヤホンをしている。何事もなかったように彼女はそのまま進んで行く。
“チキショー! こうなったら、体にさわっててでも絶対に話かけてやる!”
隼人は急いで追いかけて彼女の肩をたたこうとした。が、とにかくあわてていたのと切羽詰まっていたせいで、勢いの余りつんのめってしまい彼女の肩を強く引っぱってしまった。
隼人の方を振り向いた彼女の顔は驚いていても本当にきれいだった。大きく見開かれた青い目は澄んでいて、小ぶりな鼻と口元は知性を、引き締まったあごは強い意志を感じさせた。耳から外れたイヤホンからは小さな音が漏れ出ていた。
しばらく彼女に見とれてしまった隼人であったが、なんとか彼女にピンチを伝えるために頭をフル回転させ始めた。
“英語でブラジャーをぶら下げているって何て言うんだ? 外すっていうのはどう言うんだ? 日本の英語教育は肝心な時に役立たねーし!”
今ここで自分の不勉強をいくら棚にあげても彼女にかける言葉は隼人の頭に思い浮かぶはずもなかった。彼女の方も見知らぬ男子に突然後から肩を引っ張られて呆然としていた。
二人とも無言で見つめ合う静寂の時間をとても長く感じていた。彼女の方は我に返ると隼人に何か言いたそうであったが、着崩れした制服の上着を正すとイヤホンを手に取って再び歩きだそうとした。この時、隼人はとにかく何かを言わなければならない気持ちでマジ必死だった。
「あなたのブラジャー、えーと、ユーアー ブラジャーで、 付いている、ウィズユー、分かる? アンダスタンド?」
彼女の顔が激怒の表情に変化するとともに溶けた鉄のように真っ赤になっていくことに、自分がしゃべることに夢中の隼人は全く気付いていない。そしてさらに言葉を続ける…
「ア、アンド、取る、テイク…オフだったかな、オーケー?」
次の瞬間、彼女のビンタが隼人の頬にさく裂した。そのビンタを張る姿は背筋がピンッとして、とても気高さを感じさせるものだった。タイヤがパンクしたような、そのときの大きな音で近くの家で吠えていた犬がビックリして鳴き止むほどであった。
“いきなり後から肩を引っぱっておいてナニゴトかと思ったら、どうしてワタシがブラジャーで、ワタシにこのオトコが付きまとってきて、おまけにワタシが服を脱がなきゃいけないの?!”
彼女は胸の中でリアルにゲキオコの真っただ中だった。
一方、この一撃をまともに受けた隼人は腰が砕けて片膝を地面についていた。
「今まで父親にも殴られたことがないのに」
不意にビンタをくらって隼人も怒っていたが、向きを変えて去ろうとする彼女へ視線を移すとまだ彼女の背中ではブラジャーがヒラヒラと舞っている。もうろうとする意識の中でなんとか彼女を救いたい気持ちが何度も打ち寄せる。
“何とかブラジャーを取ってあげなきゃ、オレが早く取ってあげなきゃ”
その場をサッサと去ろうとする彼女の腕に隼人は必死に追いすがる。
“シツコイわね”
嫌悪する表情を隠そうともせずに彼女が再び手を振り上げて勢いよく振り返る。と、隼人は自分の顔を左腕でかばいつつ右腕で彼女の背中の方を何回も指でさした。
何か意味があるのかと彼女が隼人の指をさす方向を振り向てもその先には何も見えない。隼人は彼女の物を探す動作と同調する背中のブラジャーの動きを見てどうしたらいいのか分からなくなった。
“そうだ!”
ひらめいた隼人はスマホを取り出して左右に体をひねる彼女のことを撮り始めた。
断りもなくスマホを向けて動画を撮り始めた隼人に対して、彼女は怒りの極致にある人がとる、感情とは真逆の冷静そうで丁寧そうな態度でもって近づいて来た。
彼女は隼人の目の前に立ち止まると隼人が必死に差し出すスマホの画面を冷酷な目で見つめた。心の内には何かあったら絶対に許さないという強い意志が秘められていることは明らかであった。
隼人のスマホの動画を見た彼女の表情は見る見るうちに激怒から羞恥へと変っていく。それと同時に無理な姿勢で自分の上着の背中を覗き込み、引っかかるブラジャーのホックを何とか取り外した。そのまま無造作にそれをカバンに押し込むと目をしっかりとつむったまま隼人に何度も何度もお辞儀をして走って去って行った。
「記憶転移… 臓器移植手術で臓器のドナー(提供者)の記憶や、人格、具体的には性格や嗜好や性癖がレシピエント(臓器の提供を受ける者)に転移すること。肉食を好む者が菜食主義者となったり、クラシック音楽の愛好者がヘビーメタルのコアなファンになったり、男性のしぐさが女性のようになったりする事例が報告されている。ただ、そのような性格の変化を感じない者もあり、臓器移植が人格変化を引き起こす科学的根拠はないという説もある…」
本当にこんなことがあり得るのかしら? と、女は首をかしげ疑い深そうな目で画面を斜め読みしていた。
これより約5時間ほど前のこと…
4月初旬、まだ少し通勤・通学時間までに時間のある早い住宅街には人通りはほとんどなかったが、うららかな日差しがこれから一日の天気の良さを十分に予想させる。
桜の花びらがまるで蝶が遊ぶかのように舞っているなか、昔からこの地区でも一目置かれるキリスト教系の共学高校、聖エルモ学園の入学式に向かう赤城隼人はあまり乗り気ではなかった。
「オレは病気の手術と治療で1年間入院してたのと、手術後の通院のせいで引っ越しもしたから学校に顔を知ってるヤツが一人もいねーから、ホーント新しい学校行く気にならねーし」
制服もおろし立てのせいか違和感だらけ、ため息をつく隼人には自分のまわりに降るきれいな花びらの舞いも全く目に入らない。
「これから高校でうまくやっていけんのかな… 自信がねえな…」
隼人は空を見上げてから、ポケットに手をつっこみ何とか重い足取りで駅へ向かう。
「うだうだ言っててもしょうがねーし… とりあえず駅にでも行きますか…」
駅までの行くには二つの経路がある。一つは民家の間を縫うように通る最短コースだ。ほとんどの地元民はそっちを使うが、途中で私有地である駐車場内をショートカットして通り抜けなければならない。
もう一つは車通りが比較的多い車道沿いの真っ直ぐな歩道を主に使うコースだ。平気な顔して私有地を通り抜けることができない隼人は、時間がかかってもこちらのコースを通る。人通りも少なくて歩きやすいところも気に入っている。
一直線の歩道の半分ほど来たところで、隼人の前方の視界の中に人影が入ってきた。
「アレもしかして… ウチの学校の女子の制服じゃなかったけ? 今日こんな時間にいるってことは、もしかしてオレと同じ新入生?」
生気のない隼人の目が少しだけ輝いた。二人の間隔が短くなるにつれて女子生徒の後姿がだんだんはっきりしてきた。さっきまでは前へ進んで行こうとしていなかった隼人の両足が、知らないうちにテンポを速めていた。
「あ、あの子、き、金髪じゃねーの?!」
隼人の口から思わず賛美ともため息ともつかない声がもれた。春の柔らかな日差しが女の子のショートカットの美しい金色の髪を一層映えさせていた。
「!」
姿がはっきりと見えるころになって、やっと隼人は知らず知らずに彼女のフェロモンに自分が思っている以上に吸い寄せられていることに気が付いた。
「まじヤバかった! あんまり近づき過ぎるとリアル不審者でしょ」
正気に戻った隼人は、着かず離れずのベストポジションをキープして彼女の後ろ向きの姿をスキャンしていた。背丈は日本人の女子よりは高いが、男子より高いというわけではなかった。体つきは引き締まったアスリートのようだ。
「ん?」
前を行く彼女の後姿をいく度となくスキャンしていた隼人の目は背中に気になる物体を発見した。しかし、通常ではその場所にはあり得るはずのない物体であった。我が目を疑った隼人はもう一度丁寧に『ソレ』を見直した。
「いや、確かにある。オレの見間違いじゃない」
隼人から自分に言い聞かせるようなひとり言がもれ出ていた。
その網膜にはしっかりと純白のブラジャーが映っていた。『ソレ』は彼女が気づかないまま、歩行のリズムに合わせて上下、左右に揺れていた。
しばらく小刻みに跳ね回るブラジャーに目を奪われていた隼人だが、ここでとても大切なことに気がついた。
“もし、このまま彼女にブラジャーが背中に付いていることを伝えなかったらどうなる?”
そんなことは考えるまでもなく隼人にだって分かった。
“彼女は入学式の日に、ここから学校まで自分の背中にブラジャーをぶら下げたまま気付くこともなく歩き回ることになる。もちろん、駅前や駅の中、電車の車内、学校までの間に多くの人たちの目にさらされることになる… 本人が気づいていないだけに痛々しいだろうな… 外国人だし、今日中に学校だけでなくこのあたりで一番の有名人になっちまう…”
周囲を見たが人通りのない歩道には隼人の他に誰もいない。
“ここで今すぐ、オレが彼女に伝えればいい、ってことだよな…”
隼人の表情は曇っていった。
“ただそうすれば、オレは彼女に大きな恥をかかせることになって絶対に嫌われるに違いない。そして彼女はオレの姿を見るたびに今日のことを必ずフラッシュバックするだろう… となると、彼女とこれからの高校3年間ずっと顔を合わせたり話をすることもなくなるに違いない…”
さらに重大な問題が無意識に隼人の口をついてでた。
「オレには英語がサッパリ分かんネーときてる… こんな状況をどう彼女に伝えりゃいいんだ…」
何も知らず先を行く彼女はまっすぐ駅近くの人通りの多いエリアに向かっている。なすすべもなく、その後ろをついて歩く隼人の頭の中ではジレンマがループする。
“彼女が大きな恥をかくのをオレ一人で終わらせるのか、それとも大勢の人たちに拡散することになるのを黙って放っておくのか… ああ、オレは自ら進んで彼女の嫌われ者になれるのか…”
すでに彼女は人通りの多いエリアに差し掛かり、もう隼人に迷っている時間はない。決断の時が来た。
“オレは嫌われてもいいから、今ここで彼女に伝えなきゃいけない! オレのことなんかより彼女のことを一番に考えなきゃいけないに決まってんだろ! 言葉の壁だってなんとかしてやる!”
「す、すみません!」
「………」
彼女は無反応だった。勇気をふり絞って出した隼人の声が彼女には届いていない。彼女は隼人の呼びかけに全く気がついていないようだが、よく見るとイヤホンをしている。何事もなかったように彼女はそのまま進んで行く。
“チキショー! こうなったら、体にさわっててでも絶対に話かけてやる!”
隼人は急いで追いかけて彼女の肩をたたこうとした。が、とにかくあわてていたのと切羽詰まっていたせいで、勢いの余りつんのめってしまい彼女の肩を強く引っぱってしまった。
隼人の方を振り向いた彼女の顔は驚いていても本当にきれいだった。大きく見開かれた青い目は澄んでいて、小ぶりな鼻と口元は知性を、引き締まったあごは強い意志を感じさせた。耳から外れたイヤホンからは小さな音が漏れ出ていた。
しばらく彼女に見とれてしまった隼人であったが、なんとか彼女にピンチを伝えるために頭をフル回転させ始めた。
“英語でブラジャーをぶら下げているって何て言うんだ? 外すっていうのはどう言うんだ? 日本の英語教育は肝心な時に役立たねーし!”
今ここで自分の不勉強をいくら棚にあげても彼女にかける言葉は隼人の頭に思い浮かぶはずもなかった。彼女の方も見知らぬ男子に突然後から肩を引っ張られて呆然としていた。
二人とも無言で見つめ合う静寂の時間をとても長く感じていた。彼女の方は我に返ると隼人に何か言いたそうであったが、着崩れした制服の上着を正すとイヤホンを手に取って再び歩きだそうとした。この時、隼人はとにかく何かを言わなければならない気持ちでマジ必死だった。
「あなたのブラジャー、えーと、ユーアー ブラジャーで、 付いている、ウィズユー、分かる? アンダスタンド?」
彼女の顔が激怒の表情に変化するとともに溶けた鉄のように真っ赤になっていくことに、自分がしゃべることに夢中の隼人は全く気付いていない。そしてさらに言葉を続ける…
「ア、アンド、取る、テイク…オフだったかな、オーケー?」
次の瞬間、彼女のビンタが隼人の頬にさく裂した。そのビンタを張る姿は背筋がピンッとして、とても気高さを感じさせるものだった。タイヤがパンクしたような、そのときの大きな音で近くの家で吠えていた犬がビックリして鳴き止むほどであった。
“いきなり後から肩を引っぱっておいてナニゴトかと思ったら、どうしてワタシがブラジャーで、ワタシにこのオトコが付きまとってきて、おまけにワタシが服を脱がなきゃいけないの?!”
彼女は胸の中でリアルにゲキオコの真っただ中だった。
一方、この一撃をまともに受けた隼人は腰が砕けて片膝を地面についていた。
「今まで父親にも殴られたことがないのに」
不意にビンタをくらって隼人も怒っていたが、向きを変えて去ろうとする彼女へ視線を移すとまだ彼女の背中ではブラジャーがヒラヒラと舞っている。もうろうとする意識の中でなんとか彼女を救いたい気持ちが何度も打ち寄せる。
“何とかブラジャーを取ってあげなきゃ、オレが早く取ってあげなきゃ”
その場をサッサと去ろうとする彼女の腕に隼人は必死に追いすがる。
“シツコイわね”
嫌悪する表情を隠そうともせずに彼女が再び手を振り上げて勢いよく振り返る。と、隼人は自分の顔を左腕でかばいつつ右腕で彼女の背中の方を何回も指でさした。
何か意味があるのかと彼女が隼人の指をさす方向を振り向てもその先には何も見えない。隼人は彼女の物を探す動作と同調する背中のブラジャーの動きを見てどうしたらいいのか分からなくなった。
“そうだ!”
ひらめいた隼人はスマホを取り出して左右に体をひねる彼女のことを撮り始めた。
断りもなくスマホを向けて動画を撮り始めた隼人に対して、彼女は怒りの極致にある人がとる、感情とは真逆の冷静そうで丁寧そうな態度でもって近づいて来た。
彼女は隼人の目の前に立ち止まると隼人が必死に差し出すスマホの画面を冷酷な目で見つめた。心の内には何かあったら絶対に許さないという強い意志が秘められていることは明らかであった。
隼人のスマホの動画を見た彼女の表情は見る見るうちに激怒から羞恥へと変っていく。それと同時に無理な姿勢で自分の上着の背中を覗き込み、引っかかるブラジャーのホックを何とか取り外した。そのまま無造作にそれをカバンに押し込むと目をしっかりとつむったまま隼人に何度も何度もお辞儀をして走って去って行った。