第19話 叩き割ってやりたい

文字数 2,178文字

 不穏さは、遠雷のように鳴り響いてる。
 やがて城山に割れんばかりの蝉の声が響き出しても、私たちはまだ何に脅かされることもなく、同じ生活を続けてた。嫌なことを努めて意識から遠ざけているうち、本当にあの話は消えてなくなったんじゃないかって思うぐらいだった。

 何も考えなければ、幸せだったわ。お殿様が書き物をする時は私が墨をすり、お殿様の額に汗が浮かんでいれば私が拭い取り、横から団扇で風を送って差し上げるの。
 時々目が合うと、お殿様はニコっと笑って下さるのよ。
 私は漢字があまり読めないから、お仕事の内容はよく分からないけど。

 いかにも理知的で、きちんと生活なさっているお殿様を見ると、正直いつも気が引けた。私みたいな、だらしのない女がこのお方の側にいるべきじゃないわよね。誰に言われずとも分かってる。

 でもね。私だって、少しでもいい、お殿様にふさわしい女になりたかった。
 だから私、読み書きの練習を始め、言葉づかいもちょっとずつ改めていったの。
 それから喫煙ね。お殿様が細長い指で煙管を持つそのお姿が恰好良く見えて、私も真似してみたんだけど、これは駄目だった。ごほごほと咳き込んで、涙目で煙草盆をひっくり返して、きせをびっくりさせちゃったわ。

「茶の湯がよろしいかと存じますわ」
 私の意図を知るきせは、苦笑して灰を片付けながら、そう勧めてきた。
「阿波のご家中では、お茶が盛んでございます。男も女も教養の一つとして求められる風土がございます。ちょうど、お茶の先生もご指導にいらっしゃいますし」

 え~、と私は顔をしかめ、髪をかき上げる。
「あれは嫌よ。冗談じゃないわ」
 確かに時おり、裏千家茶道の師匠だっていう爺さんがお城へやってくるのよ。頭巾を被って、お弟子さんに大きな荷物を持たせて。ご家中は有難がってしっかりお出迎えをするものだから、それこそ大名行列みたいなのよ。蜂須賀家お抱えの茶人って、そんなに偉いのかしらね?
 とにかくお師匠様は、お殿様や表御殿のお役人様の相手を終えた後、奥御殿にいらっしゃって今度は女たちに稽古をつけるの。
 
 で、お嬢さん育ちの奥女中たちがきゃあきゃあ言いながら、お師匠様に群がるのよ。
 私もちょっとだけ覗いたことがあるけど、あれは上流婦人の交流会ってやつね。お稽古なんて名ばかりで、みんな形ばかり袱紗(ふくさ)(さば)きなんかを習って、お菓子だけ食べて終わり、みたいな感じ。ほんと馬鹿らしいったらありゃしない。

 だいたい伊賀組出身の私がそこに加わろうとしたって、彼女たちが受け入れてくれないでしょ。ただでさえ素性の卑しい女が側室になったとか何とか、噂を流されてるんだもの。無理に顔を出したところで、いじめられるだけよ。

 だけど、そんな心情を察したのか、きせはずいと膝を進め、私に厳しい目を向けてきた。
「……お殿様を喜ばせるためにございますよ。その程度の我慢ができずに何とします?」

 私ははっとして、唾を飲み込んだ。
 お茶を習ったら、お殿様が喜んで下さる? そんなことってあるのかしら。
 私の疑問をよそに、きせは大きくうなずいた。
「お殿様も、徳島へ参られてから入門なさったそうにございますよ」
 
 じゃ、私が入門したらお殿様と兄妹弟子ってことになるのね。
 その途端、お殿様の御前で立派にお点前(てまえ)をする自分の姿が目に浮かんだわ。お楽よ見事じゃ、と褒めて下さるお殿様のお声が聞こえたわ。

 飢えた狼のような気分になってきた。武者震いさえする。ああ、それが実現したらどんなに素晴らしいか!
 確かに私、もっともっときつい仕事をやらされてきた身だもの。お茶のお稽古ぐらい何でもないわよね。

 そんなわけで、私はきせの言う通りにした。
 例のお爺さん、宗峰先生に入門を願い出、私はその日のうちから茶の湯を学んだわ。女たちの冷たい視線は確かにあったけど、そんなものに付き合ってる暇はなかった。

 先生は熱心な私のことをとても気に入って下さったわ。お殿様もそれを伝え聞いて、私のつたない稽古に真剣に付き合って下さるようになった。
「わしも修行の身じゃ。ともに頑張ろうな、お楽」
 そんなことも言って下さった。もう飛び上がるほどうれしかったわ。

 お殿様と二人きりの時も、お茶の話をするようになった。私の居室に簡単なお稽古道具を持って来させて、二人で練習もしたわ。
 私がうろ覚えのお点前でお茶を出すと、お殿様は喜んでお召し上がりになるの。
「よし。二人とも、もう少し上達したら、ちゃんとしたお茶会をやってみよう」
 お殿様が拳を握ってそうおっしゃるものだから、わーっと二人で盛り上がったりして。

 だけど調子に乗ったお殿様は、こんなことを言い出すの。
「徳島城には、高麗の井戸茶碗があるそうじゃ。伝来の宝物じゃ。わしも見たことはないが、そのうち使わせてもらおう」
 無邪気にそう仰るものだから、私は思わず笑顔を消してしまった。

 そのお茶碗。きっとご養子のお殿様には触らせてもらえないわ。蜂須賀家が大切にしてきた宝物なら、どこかに隠してあるに決まってる。
 ムカムカと、怒りが込み上げてくる。
 なーにが井戸茶碗よ。そんなの叩き割ってやりたいぐらいだわ。

 とにかく、私たち二人は茶道のお陰でもっともっと仲良くなったってわけ。何事も一生懸命にやれば、相手にその思いは伝わるのね。やっぱり入門して良かったわ。

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