第63話 藻風呂

文字数 3,278文字

 新しい時代が始まった。
 稲田九郎兵衛(くろべえ)時代、ともいうべきかしら。

 淡路島に住んでいた家中が、どっと阿波本土に流れ込んできた。
 唐突といえば唐突よね。辺境に左遷されていた人々が、いきなり中央を牛耳ることになったんだもの。
 今や稲田家は大名と同じ格を認められ、淡路の支配のみならず徳島藩そのものを任されてる。そして稲田九郎兵衛自身が洲本と徳島、二つの城下町を行き来し、阿淡両国の仕置役として政務に当たってる。

 稲田たち淡路衆の扱いは難しかった。本当に実権を握られるところまで行ってはまずいけど、この流れができたお陰で徳島にも主君派というべきものが形成されつつある。やっぱり稲田を動かして正解だったわ。
 私はあの中根玄之丞にだけ注意を払わねばならなかった。付きまとわれたら厄介だけど、あいつは奥御殿に入って来られるわけでもないし、何とかなるでしょ。

 そうやって私は悠々と、ご帰国されたお殿様を出迎えたわ。
 そして待ちに待った(かご)への静養には、この私が同伴した。

 お殿様ご自身は、療養に専念することにしたのよ。お殿様も乗り気でね、江戸にいる間に幕閣へ湯治願を提出してくるほど準備万端だったわ。

 だけど静養地へ向かう支度をする一方で、お殿様は着々とご自分の体制を作り上げていった。

 中老の林建部と、同じく中老の樋口内蔵助(くらのすけ)
 この二人をさっそく家老に登用。禄高を四千石に引き上げたわ。

 また従来の中老に代わり、新たに若年寄の職を設けたの。そこには今回の政変で功のあった柏木忠兵衛を任用し、藩の鉄砲組を預けることとしたそうよ。

 賀嶋、長谷川の両家についてはそれぞれ嫡男への家督相続を許したわ。だけど賀嶋備前については当面、父親を始め近親者との対面は差し止めだそうよ。
 吉原通いに熱心だったあいつ。とうとう罰が当たったわね。

 長谷越前の嫡男は郡之丞っていうんですって。まだ見習い出仕の若者だけど、今までは長谷川家のお坊ちゃんだからって、ちやほやされてきた手合いね。
 こいつは詰所を変えられた。宗門(しゅうもん)御用(ごよう)ですって。キリシタン摘発も最近は流行らないから、お寺の人別帳を確認するだけの閑職ね。

 これでめでたく両家とも、まつりごとの中心から除外された形よ。
 やれやれ、ここまで長かったわ。

 こうした、すさまじい人事異動。
 お殿様はご自身が表立って関与することなく、すべて稲田にやらせたわ。そうやってご自分が批判の矢面に立つことをお避けになったわ。
 でも、そりゃそうよね。阿波では養子の藩主よりも、筋目正しい重臣の方が大事なんでしょ? だったらあんたたち、ちゃんと責任もってやりなさいよ。

 ところで。
 船で篭までやってきて、私はちょっと寂しい所だなと思ったわ。周辺には漁師小屋が点在する程度で、集落らしいものもないんだもの。
 だけどここには口うるさい茶坊主もいないし、少数の護衛を除けば、ほとんどお殿様と二人きり。
 私たちは手をつないで、藻風呂(もぶろ)とやらにやってきたわ。

「え~っ。これが、藻風呂?」
 驚いたのは、それが石を赤土で練り固めた小山だったから。お殿様も興味津々で声を上げたわ。
「ほほう。(いにしえ)の墳墓のような形であるな」

 二人とも、ゆかたびら一枚を羽織っただけの姿よ。
 入口には、垂れ下がった(むしろ)がある。
 私が屈み込み、そっと持ち上げてみたら、いきなり熱い蒸気が顔を刺した。入口の穴だけが四角く黒々と開いてて、中はまったく見えないわ。

 思わず私が躊躇していたら、お殿様が先に四つん這いになって筵をくぐった。慌てて私もそれに続いたわ。
 真っ暗な内部は、むんむんとした熱い蒸気に満ちてて息苦しいったら。しかも手のひらや膝に猛烈な刺激を感じる。

(あつ)っ!」
 これじゃとても、じっとしていられない。火傷(やけど)しちゃうじゃない。
 と私は思ったけど、お殿様は結構平気なご様子で、さっさと部屋の真ん中に陣取ったわ。
「お楽、落ち着け。座ってしまえば意外に大丈夫だぞ」

 確かに姿勢を低くした方が、吸い込む空気がぬるくて呼吸がしやすいようだった。
 私は胡坐をかくお殿様の隣に、ぺたりと腰を下ろした。だんだん暗闇に目が慣れてきたせいか、入り口からわずかに入る光で石積みの内部の壁や、茣蓙の敷かれた床がうっすらと見える。

 意外にも、中の湿度はそれほど高くないようだった。
 さらさらとした汗が流れ、すごく爽快。それに海藻のお陰なのか、磯の良い香りがする。
 お殿様の肩にもたれかかったら、不思議なことに気づいた。二人とも汗だくなのに、着ている浴衣は乾いてるわ。

「気持ちいい」
 私がつぶやくと、お殿様の方もふふ、と笑ったわ。
「来て良かったな」
「はい」

 暗闇の中でつつき合い、抱き合い。
 やがて私は、茣蓙の上にお殿様を押し倒した。
「これ熱い。熱いぞ。お楽、やめろ」
 お殿様がふざけて転げまわって叫び、私はきゃははと笑い声を上げた。自分の声が嘘のように堂内に響き渡った。

 外には護衛の者たちがいるから、声が聞こえちゃうわね。でもそんなこと、構うもんですか。ここで私は、何としてもお殿様をよみがえらせなきゃならないんだから。病に負けてはいられないんだから。

 くらくらするほどの熱気の中で、私はお殿様に脚をからませた。
 そう、焦ってる。どうにかしてお殿様を楽しませなくちゃって、それが自分の使命だって、思い詰めて。苦しくても、他の女たちに負けたくなくて。

 だけど体は言うことを聞いてくれなかった。
 私は何とか抑え込もうとしたけど、その意志に反し、下腹部はぎゅっと収縮を始める。
 いけない。私は腹をかばって倒れ込んだ。

「どうした、お楽」
 異変に気付いたお殿様が、抱き起こそうとしてくれた。だけど私は慌てて首を振る。
「何でもありません」
「具合でも悪いのか」
「大丈夫です。すぐに落ち着きますゆえ」

 せっかくここまで来たのよ。やっぱり帰ろう、なんて話になってはかなわない。
 でも額から汗がどっと吹き出して、私は乱れた姿のまま腹をさすり続けるしかなかった。

 隙間から差し込むわずかな光の中、お殿様の深刻な表情が見えた。
 その時、ようやく観念したの。もう隠せないって。
 私は腹を抱えながらつぶやいた。
「今度こそ、ちゃんと産んでみせますとも」

「……何ということだ」
 お殿様は額に手を当て、すぐに私を怒鳴りつけた。
「この馬鹿者が! なぜそれを出発前に申さなんだ」

 だって、と私は口ごもる。出発前にそれを言えば、私は徳島にとどまるよう言われたでしょう? 代わりに籠への随行を命じられるのは、お時の方だったでしょう?
 そう、お時の方。彼女も長谷川家老が失脚した今、つらい立場になったと思う。でも、だからといって私は譲ってあげられないの。
 叱られるのは覚悟の上よ。私は這ってでも、ここへ来なくちゃならなかったのよ。

 それに、昨年末の江戸行きは内密のものだったんだもの。お殿様の在国の時期とどうにも噛みあわない懐妊は、不信がられるに決まってる。

 また何より、前回の流産を思えば怖かったの。あのときはひどい悪阻だったのに、今回はさほどでもないから。
 またお殿様をぬか喜びさせて、がっかりさせるのも嫌だった。万一流れてしまったら、今度は誰にも言わず、こっそり始末しようと思ってたの。

「帰れ、と。そう仰せになりますか」
 お腹の張りが落ち着いてきたとき、私は恐る恐る聞いた。
 ようやく、誰の目をも気にすることなく、お殿様とともに暮らせると思ってたのに。遠ざけられるのは嫌。代わりにお時の方が呼ばれるなんてもっと嫌。

 そんな私の気持ちを察して下さったのか、お殿様はいや、と首を振ったわ。
「籠にて滞在するのは構わぬ。だがもう無茶はするな。風呂も、しばらくはやめておけ」
 ほっとしたわ。だけどお殿様は快楽三昧の日々を期待してたわけだもの。本心ではどれだけ落胆なさっていることかしら。

 私、けっきょくお殿様を失望させてしまったのね。やっぱり江戸へ帰りたいと思うかしら? やっぱり伝姫様が一番と、お思いになるかしら?

 ささやかな恐怖感は、どこまでも私に沁みついて離れなかった。

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