第57話 匂い立つ何か

文字数 3,047文字

「なあ」
 と、中根玄之丞が私にすり寄ってくる。
「うちの殿を動かしたら、報いてくれるって話だったよな」

 城内の中庭。
 前にも会った、池の橋のたもとだった。いつもは誰かしら人が行き来しているのに、今日に限って誰もいないようだった。水の中の錦鯉さえも、音を立てずに去っていく。
 こんな所で中根に捕まってしまうとは思わなかった。私としたことが油断したわ。

 私は慎重に後ずさった。相手から視線を反らさぬまま、話題だけを転換する。
「……由良の港、着々とご普請が進んでいるようで、結構でございますこと」
「そのことじゃなくてさ」
 中根は一歩踏み出し、無造作に距離を詰めてくる。
「言うことを聞いたら、一晩付き合ってくれるって言っただろ?」

 私は返答に詰まった。
 そこまではっきりと誘惑したわけじゃない。この男が勝手にそう解釈したのよ。

 分かってるのかしら。主君の側室に手を付けたら、あんた打ち首よ? だいたいこの私が、お殿様以外の男に肌を許すわけないじゃない。稲田の爺さんさえ動かせば、あんたは用済みなんだから。

 とは思ったけど、今の段階では、この男を突き放すのは早かった。
 現状ではまだはっきりと主君派というものができていなかったから。

 徳島藩の家老の中でも、特別な地位にある稲田の影響力は計り知れなかった。稲田に付き従ってなだれ込んできた淡路のご家中もそれなりに人数がいる。彼らには過去のしがらみがないものだから、そのまま主君、蜂須賀重喜に従っているという風に見られている。
 この「見られている」というところが重要だった。彼らがここで去っていくのは困る。そして彼らをまとめているのがこの中根なのだった。

「前にも言った通り」
 私は気を取り直し、中根に秋波を送る。
「お殿様は、まだまだ阿波の座席衆に苦しめられてる。稲田様が頼りなのよ。あともう一息よ。横暴な長谷川家老を牽制して下さいって、あなたから申し上げて」
 私の首筋から熱を帯びて、ふわりと匂い立つ何か。それは意志を持った羽のように、目の前の男をかどわかしてどこかへ連れ去っていく。

「……も、もちろん、ご家老は誠心誠意、取り組んでおられる」
 中根の視線が泳いだ。
「我々は、お殿様の肝煎りという形にして、港の普請を始めた。あんたの要求は十分に呑んだ。これ以上、何をどうせよと申すのだ」
「まだよ。まだ足りないのよ。長谷川たちが威張ってるじゃない」

 いつもは声を掛けながら、私がちょっと肩を揺らすだけで十分だった。
 だけど今日は違った。普請のことで疲れ切った男の中で、歯車がほんの少しずれたのかもしれない。中根の目の奥に何かが揺らぐのを、私は見逃さなかった。

 ほとんど反射的に、私は彼の袖を引いた。
「うまく事が運んだ暁には、またお会いしましょ。ね?」
 ほっとしたことに、呆気ないほど、中根はまた私の匂いに上気した。
「本当ですか。お楽様。またお目通り願えますか」
 すかさず私は中根にそっと身を寄せ、耳打ちする。
「もちろん。ここで会いましょ。二人きりで」

 だけど私がその場を立ち去る時も、中根の粘っこい視線が背中にまとわりついて離れないような気がした。あの男、もう半信半疑になってる。
 まずい。早く何とかしないとまずい。
 二人きりでと言ったけど、念のため次に会う時は林建部を同席させよう。それと、今日みたいにふいに捕まらないように、表御殿の庭には近づかないようにしよう。

 私は頭を左右に振って、不快感を追い払った。
 何よ。こっちはあんな男を相手にしてる暇はないわよ。阿波から離れてしまったお殿様のお気持ちを、何とか引き戻さなくちゃ。でなければ、いくら人を集めたって主君派の形成なんてできないんだから。
 まったく、と舌打ちしたくなった。林建部や佐山市十郎がもう少し頼れる男たちだったら、はなから稲田の爺さんにすがる必要はないのに。

 その建部が妙なことを言い出したのは、その数日後のことだった。
(かご)藻風呂(もぶろ)はいかがにござろうか」
 稲田の爺さんの話をしていたのに、急に話題を変えるものだから、訳が分からない。私は気だるい気分のまま脇息にもたれかかり、煙草盆の灰を掻き回した。
「もぶろ? 何それ」 

「藻風呂とは、まあ、風呂の一種だ」
 建部は真面目腐った顔で言葉を継ぐ。
「国元におくつろぎになれる場があれば、殿もあれほど江戸、江戸と騒がれまい。この徳島城は、お世辞にも居心地が良いとは申せぬゆえのう」

 (かご)とは勝浦川河口の小さな港の名。風光明媚な土地だそうよ。でも徳島からはいくつもの川で隔たっており、舟で海伝いに行く所だった。
「篭には昔から、蜂須賀家の清遊地が置かれておってのう」
 藩主専用の別邸があって、その中に藻風呂と呼ばれる施設があるんですって。

 建部は顔をしかめ、後頭部を掻いた。
「誰も殿に知らせてやらないせいだろう。殿ご自身も、篭の存在をご存じないようだ」
 何かというと、お殿様がご養子であるという事実が立ちはだかる。お殿様に蜂須賀家伝来の施設を使う資格はないと考える者が多いんでしょう。

「殿をお連れすれば、こころよく思わぬ者はいるだろうが、あそこはいい」
 建部は声を潜めた。
「先日、現地を見てきたんだ。しばらく使われていないようだが、風呂と、付属の(いおり)を少し手直しすれば、十分に滞在できる。殿のご療養という観点でも、人でごったがえしている江戸より、国元の方がよほどいいんじゃないか?」

 まあ、と私はそこでようやく脇息から身を起こした。
「そんなに良い所があるなら、あんただって早く言ってくれれば良かったのに」
「仕方ないだろ。みんな忘れていたぐらいなんだから」

 建部の話によると、藻風呂っていうのは一種の蒸気浴のことのようだった。
石室(いしむろ)の中で火を焚いて、熱くなったら消すのだ」
 海藻の一種「ほんだわら」と海水に浸した(むしろ)を敷いて、内部を蒸気でいっぱいにする。そこに古い着物を着たまま入る。
 汗だくになったら、外の水風呂で体を冷ます。それを何度か繰り返す。そんな話だった。
「これが、すこぶる健康に良いそうだ。篭の百姓は野良作業を終えた後、疲れを取るために好んで入るらしい。殿もお気に召すのではないか?」
 
「……そうかもね」
 説明が終わったら急に興味を失って、私は煙管(きせる)の火皿に刻みたばこを詰めた。
「で、私にどうしろと?」
 建部はニヤリと口角を上げる。
「馬鹿め。お前が殿を風呂に連れ込まんでどうする」
 
 吸い口をくわえようとして、私ははっとした。
 そうよね。そういうお役目は、絶対に他の女に取られたくないわ。匂い立つ魔性の何かを、こういう時に使わなくてどうするの。

 だけど建部はすぐに笑いを引っ込め、それよりも、とまた声を低くした。
「あそこは、人目に付かぬのだ。いくらでも話し合いができる」
 聞いていて、なるほど、と思ったわ。まだまだ少数派の主君派にとって、秘密の会合を持てる場所はあまりないと言って良かったから。

 何しろここでは女たちの目がある。いいえ、城内はどこでも、敵の目をあざむくことなんかできなかった。
 城下の誰かの屋敷でも同じこと。同じ面々がいつも集っていればやはり目立ってしまう。さっきの中根を始め、淡路の家中を呼び出したいと思っても、なかなかできないのはそんなわけよ。

 そのとき、きせが襖をそっと開けた。
「佐山市十郎様が、お見えになりました」
「お、ちょうど良かった。あいつを呼ぼうと思ったところだ」
 ここは私の部屋なのに、建部は我が物顔で、顎をしゃくった。
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