第61話 お殺しあそばせ

文字数 2,372文字

 せわしない年末。外の物売りの声が、うるさいぐらいに聞こえてて。
 こんな薄暗い旅籠の一室で、私たちは早くことを終えねばならなかった。

 互いに死を覚悟した後の逢瀬だからか、外を吹き抜ける寒風とは真逆の熱さだったわ。抱き合ってからも私はまだ半信半疑。この人は本当に生きているのか、実は幽霊なんじゃないかって思ってしまって。
 私は汗ばんだお殿様の顔を、両手で挟み込んだ。

「……何じゃ。どうしたお楽」
 お殿様は悪戯っぽく笑って胡坐をかき、今度は私の体を持ち上げて、膝の上に乗せる。私はそのまま相手の体にまたがって、座った姿勢でことに及んだわ。
 そしてこれは、しばらく後に分かったんだけど。
 この時にお殿様から、ほとばしる命の一滴を授けられたのよ。

 何かが誕生するとき、その瞬間は湿り気と綾をなしているものかもしれない。襦袢が汗でぐっしょり濡れたのを感じたとき、私はなぜか不思議な予感がしたのよね。
 もう一度何かが始まる。この人はもう一度立ち上がるって。

「もし、わたくしが殿より先に死んだら……」
 私は目の前にあった胸毛を指に巻き付け、軽く引っ張った。
「わたくしの骨を、殿のお墓に入れて下さい。あの世でも殿に抱いて頂けるように」
 言った途端、それは無理だと思ったわ。身の程知らずな頼みよね。悲しいけれど、これだけの身分差だもの。あの世までご一緒するのは許されない。

 お殿様はくつくつと笑い出した。
「お楽が、わしより先に死ぬだって? 殺しても死なぬであろう、そなたは」

 何よそれ。こっちの気も知らないで。
 私は不貞腐れた気分で、寝そべったお殿様にのしかかる。
「そんなことはございませぬ。わたくしだって、普通の女子にございます」
「だってさ、佐山より足が速かったんだろ? 並の男より強いぞ、そなたは」

 自分の腕を枕にしていたお殿様は、そうだ、と思い出したように目を見開いた。
「次の帰国を楽しみに待て。お楽には誰にも負けぬ一流の茶道具を持ち帰ってやるからな」
 またお茶の話か、と思ったけど、少しほっとしたわ。もう二度と阿波に帰ってはくれないかと思ったのに、ちゃんと帰国する心づもりがあるのね。

 急に楽しい気分になってきて、私はお殿様の隣にうつ伏せになり、脚をブラブラと揺らした。
「お茶も結構にございますが、次は藻風呂へ参りましょ!」
「藻風呂?」
「ええ、建部が手配してくれておりますのよ。楽しいところ」

 いざ、お殿様のご帰国後には。
 私は外の薄明りを通す障子をじっと見つめた。
 阿波の方が江戸より良い所だと、絶対に言わせてみせる。

「……殿の御尊顔を拝して、もう気は済みました。おとなしく徳島へ帰ります。だけど」
 言いかけた私は、お殿様の裸の胸にもう一度のしかかった。
「稲田にはくれぐれもご注意なされませ。あの者とて、結局は自分の都合しか考えておりませぬ。もし殿の言うことを聞かぬようなら、さっさとお殺しあそばせ」
 
「……過激なことを申すのう」
 お殿様は両手を頭の後ろに置いたまま苦笑したわ。
「稲田九郎兵衛(くろべえ)は、わしを説得しに参るのじゃぞ。そんな、その場で斬るわけには」
「あの者は殿を立ててくれると約束したのでございます。敵に寝返ったのだとしたら、もはや慈悲はご無用。おのれが殿を説得しようなどと、僭越にございますわ」

「ま、そりゃそうだが……」
 お殿様は気だるそうに起き上がる。
「お楽の申す通り、九郎兵衛はかなり気が若くて野心的だ。それだけに越前らは由良湊を上回る条件を出したのやもしれんぞ? もしそうなら稲田はもうわしに付いて来ぬだろう」

 確かにそうかもしれない、と思う。だけどこっちは離れていく稲田を放置してはならないのよ。そこは絶対、よ。
「ならば稲田が参っても、すぐには対面をお許しになりますな」
 私は考えながら、自分でうなずいた。
「稲田は、自分が来ればすぐにでも殿に会ってもらえるものと思うておりまする。そこを焦らしておけば、後は殿の言いなりにございましょう」

 お殿様は眉根を寄せた。
「そんなにうまく行くかな」
「弱気になっちゃいけません。稲田を取り込む餌は何かございませんか? 例えば、肩書きを一段上にして差し上げるとか、お金のかからぬことで」
洲本(すもと)城代(じょうだい)より上の肩書きなんてあるか! わしの立場を譲るなら別だがな」

 お殿様は吐き捨てるように言った途端、いや待てよ、と真顔になった。
「……あるやもしれぬ。作ってしまえば良いのだ」

「作る?」
「うん。そうじゃ、そうじゃ。そうしよう」
 お殿様は急に気が晴れたかのようにすっくと立ち上がり、身づくろいを始めたわ。
「稲田家に大名格を認めてしまおう。それから阿波の権限も託す。淡路の良政を阿波に持って来させるのじゃ。長谷川の時代は、力づくで終わりにしてやる」

 名残惜しさはひとしおだったけれど、お忙しいお殿様をこれ以上引き留められなかった。仕方なく私も立ち上がり、身支度を始めたわ。
 するとお殿様はそんな私を後ろから抱きしめ、もう一度口づけをした。

「相済まぬが、佐山と伊賀組を置いて行け」
 私に一人で帰れって言うの?
 真意をはかりかねて、私はお殿様を見上げたわ。それは味方をはぎ取られるも同然だった。

 だけどお殿様は、そんな私の顔を笑って覗き込むの。
「心配するな。そなたには他の護衛を付けてやる。稲田が本当にこの後にやってくるのなら、佐山が必要なのだ。とにかく稲田には、これ以上の裏切りは許さぬ」

 不安だったけど、私はお殿様の指示通り、大人しく帰途についたわ。
 そして。

 お殿様は確かにこの後、ご自分の思うようにやり遂げた。

 その一部始終は、佐山からの書状で知らされたわ。長谷川らに仲立ちを頼まれ、のこのこ江戸に出てきた稲田九郎兵衛を、お殿様は見事に言いくるめ、ご自分の味方に取り込まれたのよ。

 山場は、この冬にやってくる。

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