第38話 鞠を投げ合うように
文字数 1,834文字
春はお別れの季節ね。
お殿様が江戸へ発つ日が迫ってる。そう、参勤よ。
最近のお殿様は、私のところにずっと入り浸ってたものだから、私の部屋には男物の下着やら着替えやらがすっかり増えちゃって。長持の中は、私のよりお殿様の物の方がずっと多いぐらいだった。
中奥の方からは、江戸にそれらを持って行くから荷造りしておくようにって言伝 があった。
私はもちろん、大いに不満だったわ。
だってお殿様の匂いの沁み込んだお着物、お留守の間も手元に置いておきたかったから。道中の着替えぐらい、何だっていうのよ。その程度の買い物もできないぐらい、徳島藩は貧乏だっていうの? まさかご養子のお殿様には買ってやらないっていうこと?
だけど再三にわたって命令されたから、もう逆らえなかった。仕方なく、私は荷造りを始めたわ。
だけど気に入らない。私がこんなにもイライラしながら風呂敷包みを作っているのに、そのすぐ横でお殿様はのんびりと寝そべって、ふわ~っと欠伸までしてるんだから。
「……江戸行きは、楽しみですか」
思わず聞くと、ん? とお殿様は振り返った。
「何じゃ、寂しいのか。お楽」
お殿様ったら、やけににやにやとなさって身を起こしたわ。
「寂しいわ、行かないでって。泣いてみよ、お楽。そちの泣き顔も、さぞ可愛いだろう」
「もうっ」
手にした下帯を投げつけてやったわ。お殿様はうわっと叫んで、顔に巻きついたそれをはがしてる。
「そりゃ、楽しいでしょうよ。こんな田舎と違って、花のお江戸には遊ぶところもいっぱいあるんでしょうから」
「……何じゃ、お楽。何をそんなに怒っておる」
お殿様はご自分の下帯を所在なさげにクルクルと丸めたわ。
「お江戸と言ったって、別にそんなに良い所ではないぞ。ありゃあ、人が多いだけで窮屈な町だ」
ぶつぶつと言い訳をし、お殿様は肩をすくめる。
「お楽とて一度見たら、こんな所に住みたいとは思わんだろう」
そんなことで納得できるわけがなかった。私はもう泣き出しそうよ。
「……存じておりまする。江戸にはすごく大きな遊郭があるんだって」
お殿様はすごく遠い所に行っちゃうんだって、改めてその事実が胸を塞ぐようだった。そう、私のことを置いて、この人はどんどん私の知らない所へ行っちゃうのよ。
だけどお殿様は、ははあ、と曖昧に笑ったわ。
「吉原のことか。昔はいざ知らず、今は大名も勝手が許されんものじゃ。なかなかそういう所へは行けんなあ」
だからと言って、私の気持ちはちっとも晴れなかった。
そもそも江戸は、お殿様にとって故郷と言っても良い所だもの。向こうの方が知り合いも多く、土地勘もあるはず。つまり阿波こそが「行く」所であって、江戸は「帰る」所なのよね。
しかも江戸藩邸には、お殿様にとってかけがえのないお人がいる。
「奥方様によろしく」
絶対に口にしてはならないその一言を、つい言ってしまったわ。
お殿様はようやく真顔になった。
でもそうなのよ。会ったこともないのに、その伝 姫様という人は私の夢に出てくることがある。
桜吹雪の中、彼女は能面をつけて立ってるわ。辺りは薄暗がりなのに、姫様のお姿はいつもぼんやりと光に包まれてる。顔が見えずとも、その神々しいまでの美しさが伝わってくる。
何より彼女は、お殿様の妻の座を手に入れていて、私にはそれがなかった。今さらながら、この現実が女にとっていかに厳しいものであるかを思う。
たまらなくなって、私は両手で顔を押さえた。お殿様は慰めるように、そんな私の頭を抱き寄せる。
「伝 は、まわりが勝手に決めた妻じゃ。お楽の方が愛しいに決まっておるだろうが」
そうは言っても、と私は思う。
その伝姫様が、先ごろまた男子を上げられたという話を聞いたわ。
彼女は、形だけの妻ではないはずなの。お殿様とて、二歳になるご嫡男に引き続き、今回生まれたご次男にお会いなることは、何よりの楽しみでしょう。
これからもずっと、鞠 を投げ合うように、伝姫様と私とはお殿様を交互に共有していくのかしら。
いいえ、きっとそうはならない。しばらく顔を合わせずにいたら、お殿様は私のことを忘れてしまうわよ。男の人って、そんなものよ。正妻のことは忘れようにも許されないけれど、側室なら忘れたって誰にも咎められはしない。
私は何よりそれが怖かった。男女の情愛のことだけ考えたら、今この時に二人が離れてはいけないという気がする。
でも運命には逆らえない。参勤って、何という残酷な制度なのかしら。
お殿様が江戸へ発つ日が迫ってる。そう、参勤よ。
最近のお殿様は、私のところにずっと入り浸ってたものだから、私の部屋には男物の下着やら着替えやらがすっかり増えちゃって。長持の中は、私のよりお殿様の物の方がずっと多いぐらいだった。
中奥の方からは、江戸にそれらを持って行くから荷造りしておくようにって
私はもちろん、大いに不満だったわ。
だってお殿様の匂いの沁み込んだお着物、お留守の間も手元に置いておきたかったから。道中の着替えぐらい、何だっていうのよ。その程度の買い物もできないぐらい、徳島藩は貧乏だっていうの? まさかご養子のお殿様には買ってやらないっていうこと?
だけど再三にわたって命令されたから、もう逆らえなかった。仕方なく、私は荷造りを始めたわ。
だけど気に入らない。私がこんなにもイライラしながら風呂敷包みを作っているのに、そのすぐ横でお殿様はのんびりと寝そべって、ふわ~っと欠伸までしてるんだから。
「……江戸行きは、楽しみですか」
思わず聞くと、ん? とお殿様は振り返った。
「何じゃ、寂しいのか。お楽」
お殿様ったら、やけににやにやとなさって身を起こしたわ。
「寂しいわ、行かないでって。泣いてみよ、お楽。そちの泣き顔も、さぞ可愛いだろう」
「もうっ」
手にした下帯を投げつけてやったわ。お殿様はうわっと叫んで、顔に巻きついたそれをはがしてる。
「そりゃ、楽しいでしょうよ。こんな田舎と違って、花のお江戸には遊ぶところもいっぱいあるんでしょうから」
「……何じゃ、お楽。何をそんなに怒っておる」
お殿様はご自分の下帯を所在なさげにクルクルと丸めたわ。
「お江戸と言ったって、別にそんなに良い所ではないぞ。ありゃあ、人が多いだけで窮屈な町だ」
ぶつぶつと言い訳をし、お殿様は肩をすくめる。
「お楽とて一度見たら、こんな所に住みたいとは思わんだろう」
そんなことで納得できるわけがなかった。私はもう泣き出しそうよ。
「……存じておりまする。江戸にはすごく大きな遊郭があるんだって」
お殿様はすごく遠い所に行っちゃうんだって、改めてその事実が胸を塞ぐようだった。そう、私のことを置いて、この人はどんどん私の知らない所へ行っちゃうのよ。
だけどお殿様は、ははあ、と曖昧に笑ったわ。
「吉原のことか。昔はいざ知らず、今は大名も勝手が許されんものじゃ。なかなかそういう所へは行けんなあ」
だからと言って、私の気持ちはちっとも晴れなかった。
そもそも江戸は、お殿様にとって故郷と言っても良い所だもの。向こうの方が知り合いも多く、土地勘もあるはず。つまり阿波こそが「行く」所であって、江戸は「帰る」所なのよね。
しかも江戸藩邸には、お殿様にとってかけがえのないお人がいる。
「奥方様によろしく」
絶対に口にしてはならないその一言を、つい言ってしまったわ。
お殿様はようやく真顔になった。
でもそうなのよ。会ったこともないのに、その
桜吹雪の中、彼女は能面をつけて立ってるわ。辺りは薄暗がりなのに、姫様のお姿はいつもぼんやりと光に包まれてる。顔が見えずとも、その神々しいまでの美しさが伝わってくる。
何より彼女は、お殿様の妻の座を手に入れていて、私にはそれがなかった。今さらながら、この現実が女にとっていかに厳しいものであるかを思う。
たまらなくなって、私は両手で顔を押さえた。お殿様は慰めるように、そんな私の頭を抱き寄せる。
「
そうは言っても、と私は思う。
その伝姫様が、先ごろまた男子を上げられたという話を聞いたわ。
彼女は、形だけの妻ではないはずなの。お殿様とて、二歳になるご嫡男に引き続き、今回生まれたご次男にお会いなることは、何よりの楽しみでしょう。
これからもずっと、
いいえ、きっとそうはならない。しばらく顔を合わせずにいたら、お殿様は私のことを忘れてしまうわよ。男の人って、そんなものよ。正妻のことは忘れようにも許されないけれど、側室なら忘れたって誰にも咎められはしない。
私は何よりそれが怖かった。男女の情愛のことだけ考えたら、今この時に二人が離れてはいけないという気がする。
でも運命には逆らえない。参勤って、何という残酷な制度なのかしら。