第81話 きらきら御殿

文字数 3,038文字

 稲田九郎兵衛の行先が、加賀の和倉温泉に決まったわ。

 あれほどの目に遭わされたら、当然その場で殺すべきだと思うのに、お殿様ったら相変わらずのお人よしよ。稲田に死を賜らなかった。
 どころか、この上ない温情をもってその処分を決定したわ。
「ご老体には温泉加療が一番であろう」

 もちろんこれは追放刑に他ならないわ。阿波国内にも温泉はあるのにわざわざ遠国へ追いやるのが、何よりの証拠よ。
 稲田は自分の屋敷でずっと謹慎してるそうだけど、見張りがいるため逃げ出すこともできない。親族との面会もままならない。
 準備が整い次第、寂しく加賀へ旅立つことでしょう。

 政治の表舞台から、とうとう稲田も姿を消したわ。
 従来の座席衆五家のうち、これで四家が葬り去られたことになる。残る池田家は五家の中で最も家格、石高とも低いし、当主の(のぼる)とかいう男はこっちの言いなりよ。
 すでにお殿様に忠誠を誓ってるし、林建部や樋口内蔵助といった新参家老とも協力する態度だった。ま、あの男は周囲に流されるだけ。問題を起こそうにも起こせないでしょうよ。

 つまり、お殿様の直仕置(じきしおき)はこれで完成したと言って良かった。

 そして明和六年の四月、大谷御殿がおおかた出来上がったと知らせが届いたわ。
 私ははやる胸を抑え、とびきりのあでやかな小袖をまとって駕籠に乗った。

 ときおり工事の進捗を聞いてはいたけれど、現地を見るのは初めてだった。
 小窓の格子越しに、巨大な朱塗りの門が見え始めた。凝った装飾が、黄金色と極彩色に輝いてる。
 思わず息を呑んだわ。入口だけで十分に豪華だったから。
 御殿はどれほどすごいのかしら? 何だかドキドキしてきた。

 門前に、人が大勢いるようだった。きせが駕籠の外からささやいてくる。
「御殿完成のお祝いのため、ご家中が馳せ参じたのでございます」

 私が着物の裾を整えつつ駕籠を降りると、小さなどよめきが上がった。
「大谷どのだ……」
「あれが大谷どのか」
 どんなに小声でも、人々が私を指さし言い合っているのが分かる。好奇と嫉妬の目が、戦場の鑓のように私に浴びせかけられる。

 身元も確かではない、怪しげな側室に対し、お殿様は破格の待遇を与えて下さった。事情を知らない多くの家中にしてみれば、なぜって思うでしょうね。

 だけど私、人々の羨望や嫉妬のまなざしはもう気にならなかった。私たち二人は、そんなところはとっくに飛び越えてしまってるもの。

 お殿様が一足先に御殿にお入りになり、今日は私の到着を待っててくださってるの。私は案内に出た近習の若者の後につき、掻取(かいどり)の裾を引きずらないよう帯に挟んで、石段を踏みしめたわ。

 息を切らせて上り切ると、庭はまだ作事の真っ最中だった。巨石は隅にまとめて置かれ、植木職人が慌ただしく行き来してる。

 その奥に、御殿はひっそりと建っていた。
 あらっと思うほど、予想とは違ってたわ。桧皮(ひわだ)葺きの屋根が白く輝く小ぶりのお屋敷。辺りにはヒノキと藺草のすがすがしい匂いが満ちてるわ。
 紅葉の若い青葉がその上に風でなびくさまは、質素ながら気品にあふれたものだった。これこそがお殿様の理想だったんだと、私の胸にすとんと落ちていく。

「お楽。こっちだ、こっち」
 お殿様の声が響く。すぐに機嫌が良さそうだと分かったわ。

 手招きしてるお殿様が、きらきらと輝いて見える。
 私が近づいていくと、お殿様はもう待ちきれないといった様子で、主座敷の中をあれこれと示すの。
「ほら見ろ。床柱(とこばしら)に、欄間(らんま)に、引き出しの取っ手。すべてわしが見立てた。細かいところまで意匠が凝らされてる。一見地味だが、見る者が見れば分かる」

 庭の奥に、総髪に中折れ帽をかぶった男が立っている。
 お殿様は鷹揚に手を上げ、彼を呼び寄せた。
「紹介しよう。裏千家九代、不見斎(ふけんさい)石翁(せきおう)じゃ」
 まだ三十代ぐらいと見える若きお家元だった。深々と真の立礼を、私に寄越したわ。

 ああそうか、と思った。阿波は茶の湯がさかんな国だもの。門前に押しかけてきていた藩士たちは新しい御殿よりも、天下の宗匠を一目拝みたくてやってきたのね。

「宗匠は昨日、京の都より到着したばかりだ。茶室と庭の造作に意見をもらおうと思うてな」
 お殿様は不見斎を促し、濡れ縁に腰を下ろしたわ。
 二人して、家臣の一人に差し出させた図面に見入っている。どうやら二人はすでにいろいろと話をして、すっかり打ち解けてるようだった。

 私はちょっぴり気後れして、距離を置いて立っていたけれど、お殿様はしびれを切らしたように立ち上がり、私を呼び寄せた。
「ほら、お楽の茶室じゃ。遠慮せず、不見斎に何でも希望を申すが良い」

 私は小さく首を振る。
「お殿様のお見立てなら、何も申し上げることはございませぬ」
「またそんなことを申して。お楽に似合う茶室を作らねば、意味がないではないか」
 お殿様が懸命にそう仰るものだから、私は噴き出しちゃったわ。

「これまで、さんざん立派なお道具を頂きながら、使いこなせませんでしたわ。そんなわたくしに、今度は宗匠のお茶室をくれると仰いますの?」
「それで良い。お楽はお楽で良いのじゃ。これが、お楽に対するわしの精一杯の気持ちである。受け取れ!」
 お殿様は空に向かって大手を広げたわ。

「この女子はんが使われるんどすか? そんなら……」
 不見斎はさっぱりした声で言い、もう一度図面に目を落としたわ。
「中の壁は、白う塗り固めましょう。明かり取りの窓も、思い切って大きゅうに。丸窓も良いやもしれませぬな」

 小姓が差し出した筆を取り、不見斎はさらさらと図面に指示を書き足した。周囲の植栽まで背の低い物に替え、視界をさえぎるものをことごとく無くしてしまったようだった。

「ずいぶん明るくなってしまうではないか。茶室の、枯淡の味わいが消えてしまう」
 お殿様は懸念を口になさったけど、不見斎は自信を失っていないようだった。
「構しまへん。御亭主はんが光で映えますよって」

 あ、と思った。
 ひょろりとした体つきの茶人が、急に神々しく見えたわ。
 この宗匠には、いかがわしい女への軽侮の念は少しも感じられなかった。おそらく不見斎は、お殿様の陰となって生きる私のすべてを見透かしたのよ。もう苦しむのはやめなさいって言ってくれたのよ。

 風の通り抜けるこの御殿のそこここに、春の日差しがほとばしってる。
 私は日向でぬくもることを許されていた。光の中で生きよと、それがこの宗匠から私への激励だった。

 翌月、私は祝祭の只中にいた。
 隣にはお殿様がいて、多くの人々が笑いさざめいてる。庭園に特設した舞台の上で三味線の音がはじけ、三都(さんと)より呼び寄せた芸者衆がそれぞれに踊り唄い、妍を競ったわ。お殿様はこの日のために、脚気を理由にして参勤を日延べまでしてくれたのよ。

 徳島城ではお時の方が男子を産んだそうだけど、もうそんなものは気にならなかった。お殿様の隣で、笑っていることを許されたのはこの私だもの。

「ほら、お楽。御殿の築造にあたった職人どもじゃ。褒美をくれてやるが良い」
 お殿様が指し示す先に、多くの人々が土下座していた。
 大工や左官屋、表具屋、瓦職人に彫刻師まで。これがお殿様自慢の、阿波の職人集団ね。

 お殿様は箱に入った小粒銀を無造作につかむと、彼らの上に振りまいた。低頭したままの彼らの頭や体に、銀の輝きが舞い降りる。

 私も袖を抑えながら、お殿様に握らされた分を同じようにばらまいたわ。小さな銀の塊は、きらきらと光を受けて土の上に落ちて行った。

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