第62話 正月の政変

文字数 1,637文字

 年が明け、徳島の町はまだ正月気分が抜け切らない気怠さの中にある。
 今日この時に、誰が政変を予想しているだろう。

「市十郎、準備は?」
 背後で建部の声がしたが、おれは前を見たままうなずいた。振り向くまでもない。
「とっくにできておる。鉄砲組はずらり、この城を囲んで待っておるぞ」

 稲田九郎兵衛(くろべえ)は今、表御殿の上座敷で、上意として沙汰書を読み上げているところである。長谷川、賀嶋ら座席衆は、ひたすら蒼白になってひれ伏している。

 建部以外の中老たちは次の間に居並び、一部始終を見守っている。
 で、おれは打ち合わせ通り、帳台構えの近くに控えているところだ。
 殿の恫喝が効いたのだろう。おれが江戸から連れ帰る道中、稲田家老の意気消沈ぶりは激しかった。この老人なりに、長谷川たちとの板挟みに苦しんだと思われる。

 だが今日の稲田は、覚悟が決まったのだろう、なかなか堂々としたものだった。
 年齢を感じさせない、張りのある声である。
「……長谷川越前、賀嶋上総の両名、おのおの勤方よろしからず(そうろう)。本来切腹申し付けるところ、格別の(おぼ)し召しをもって隠居および閉門にて許しつかわし(そうろう)

 これまでも「洲本(すもと)城代」として十分に破格の扱いを受けてきた稲田家だが、今後は「大名格淡路城代」の肩書きが許されることになっている。まだ内示の段階で、ほとんどの者がそのことを知らないが、稲田自身は殿の念書を手に入れたそうだ。

 稲田が上意の書付を裏返して一同に見せる。低頭した二人のうち、長谷川越前が震える声を発した。
「……ありがたき幸せにござりまする」

 ですが、と長谷川は脂汗を浮かべたまま面長の顔を上げた。その目に強い猜疑心と憎悪が燃え上がっている。
「それがし隠居の後は、どなたが阿波の仕置を任されるのでござりましょうや」
 
 稲田はもはや相手にしなかった。冷ややかな目のまま、書付を側近の中根に手渡している。
「それは、上意として近いうちに発表されるであろう」
「まさか、稲田どのではありますまいな?」
 隣にいる賀嶋上総も、長谷川を援護するように食って掛かった。

 が、稲田はこれも淡々とやり過ごす。
「その職にどなたが就かれようとも、殿のご意思に他なりませぬ」
 もはやどうにも動かぬということだ。だがその声には一種の硬さが滲み出ていて、稲田が強引に押し切ろうとしているのが透けて見えるようだった。

 もちろん、事はそう簡単に運ばない。二人はしてやられた、とばかりに苦々しい表情をしたものの、まだまだ引き下がる気はないようだった。どうやってこの場を切り返そうかと、闘争心丸出しで目配せを交わしている。

 これを想定の上、こちらも準備をしている。
 稲田が振り向き、部屋の最も奥まったところに控えるおれに目で合図してきた。
 おれは無言で立ち上がる。

 長谷川と賀嶋は御殿に入る際、外にいる鉄砲組の存在を妙に思ったことだろう。そして今、脅迫されている自分たちの立場を理解したことだろう。
 だが、これが単なる脅しに過ぎないことも分かっているはずだ。鉄砲組は柏木(かしわぎ)忠兵衛(ちゅうべえ)という、徳島藩随一の鉄砲の名手が率いてはいるが、火薬の匂いがしないのだ。これではすぐに撃てるものではない。

 二人とも追い詰められてはいるが、動かせる藩士の数は多かった。
 しかも目の前にいるのは小柄な老人である稲田のみで、藩主、蜂須賀重喜の姿はない。長谷川たちが今、窮鼠猫を噛むの思いで稲田に斬りかかったら、正直おれもかばい切れるかどうか自信がなかった。
 だが、そうであればこそ、事前に手を打っておいたのだ。

 見よ。
 おれはそう念じながら、背後のふすまをさっと開けた。
 手狭な納戸部屋は、武者(むしゃ)隠しだ。そこに伊賀者十名がぎっしりと控え、殺気を放っている。

 長谷川と賀嶋の両家老は凍りついたようにその集団を見つめた。
 二人から、にわかに闘争心が消えていく。

 それぞれ、家の将来を考えれば、もう逆襲を企むことはないだろう。
 おれは小さくうなずいた。
 明和三年(1766年)の春である。
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