第64話 娘狩り

文字数 1,701文字

 お殿様の体調は、(かご)での静養を始めてから俄然快方に向かった。
 本人が何を言わずとも、顔色がまるで違うもの。側にいる私には一目瞭然だったわ。背筋もしゃっきりして、声にも張りが出て。

 それ御覧なさい。江戸より国元の方がいいでしょう?
 と言ってやりたいぐらいだけど、お殿様ご自身もすでにそう思ってるんじゃないかしら。

 藻風呂もいいけど、ここで食す新鮮な野菜や魚介類も効いているんだと思う。現地の百姓や漁師たちがあれこれ持ってきてくれて、料理人がその場でさばいて。あえて複雑な調理をせず、素材の味をそのまま頂くんだけど、これがおいしいの。

 そんなわけで健康を取り戻したお殿様は、精力的に動いたわ。
 稲田を徳島城に置いてはいるけれど、事実上、親政というものが始まってる。この別邸から、お殿様は次々と命を発してるわ。
「若年寄の人数を増やす」
「大目付を変える。富田大目付、洲本大目付もじゃ」
「江戸詰藩士の顔ぶれも見直せ。千松丸の後見人を指定する」

 使者は毎日のように徳島との間を往復した。ものものしい空気が海岸を行き交い、網を引く漁師たちが目を細め、走り去る侍たちを見つめている。
 僻地の(かご)という土地が、異様な精気に満ちていくようだったわ。

 だけど一月ほど経つとそれも一段落。
 ようやく激しい行き来がなくなってきた。少なくとも人事のことは落ち着いたのよ。
 久々に主君派が集った別邸はその日、浮かれた空気に満たされていたわ。これまでの苦労がやっと報われるんだって、皆が口々に言っている。

「戦勝祝いじゃ。今宵は無礼講を許す」
 お殿様の一声で、若い藩士たちはわっと歓声を上げた。そうよ、長谷川と賀嶋を葬り去って、ようやくお殿様の時代が来たのよ。そのお祝いがまだだったの。

 林建部が張り切って、宴の準備を始めたわ。
 だけどこの男のすることって、何かおかしいの。馬にまたがり、自分の部下数人を供に出かけたと思ったら、少し後に若い娘をぞろぞろと引き連れて戻ってきた。

 別邸の裏庭を見下ろして、私はぎょっとしたわ。
 そこにぼんやりとした顔で立ちすくんでいるのは、いかにも漁師や百姓の家の娘たちだった。薄汚れた格好で、野良仕事の途中でちょっと立ち寄った、とでもいう感じ。
 こういう娘たちが自分の意思でここへ来るはずがなかった。生気のない青ざめた表情を見れば、彼女たちが無理やり連れて来られたのは明らかだったわ。

 見れば、廊下に先に建部の姿があった。
「ねえ、ちょっと」
 私は掻取(かいどり)を翻して彼を呼び止め、顎で裏庭を指した。
「何なの、あの子たち」

 だけど建部は肩をすくめるのみ。悪びれもしなかったわ。
「しょうがねえだろ。お前が役立たずなんだから」

 私ははっとした。
 要するに現地調達したのよ。「娘狩り」っていう言葉、私も聞いたことがあるけど、建部はそれをやったのよ。

 建部は開き直った態度で語ったわ。少し離れた村まで出かけ、百姓の中から見目良き若い女を選んで連行してきたんですって。
「ま、野猿みたいな女ばかりだが、化粧をさせれば何とか見られるだろ」

 私が絶句していると、建部はニヤリと笑ってささやいてきた。
「お酌をさせるだけだ。余計な心配はいらぬ」

 建部とその仲間たちがどんどん準備を進めていくから、動きの取れない私はとても口をはさめなかったわ。ほんと、腹をさする以外に何もできない自分がもどかしいったら。

 村人たちに酒や料理の準備をさせ、せっせと運び込む藩士たち。
 そんなことをして、あんたたちに侍の矜持はないのって言いたくなるぐらい。お殿様のためと言うけれど、この人たち自分のためにやってるのよ。自分が一番かわいいのよ。
 だってお殿様のご機嫌を取り、こたびの改革には自分が尽力した。だから加増をしてくれって、それを言うための宴だもの。

 やがて座敷の方から、嬌声が漏れ聞こえはじめた。

 イライラする。せっかく静かな土地に来たのに、これじゃ雰囲気が台無しじゃない。
 そうだ、と思い立ったのはその時よ。

 私は部屋を出、一人で別邸の裏手にある海岸に向かったわ。前からそちらに降りる階段があることには気づいてたけど、なかなか行く機会がなかったの。

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