第55話 千松丸

文字数 2,050文字

 早いものだ、とおれは目の前でひれ伏す我が子を見て感慨にふけっている。
 千松丸(せんまつまる)はもう九歳。ずいぶん体が成長し、顔つきも大人びてきたのが分かる。

 だが中身はどうだ? 江戸に到着後、しばらくは対面を許す余裕すらなかったが、十日以上が経過してようやく会ってみるとこの通り。やはりどこか頼りないではないか。

 阿波の太守として恥ずかしくない器が育つかどうか。この子は繊細に過ぎていつもびくびくしており、積極性にも欠けるようだ。心配な点はいくつもある。

 脇にいる傅役(もりやく)の男たちに、おれは黙って視線を送った。ちゃんと見てくれているんだろうか。甘やかし放題では困るだろうが。
 翻って、ひれ伏す千松丸をもう一度見つめる。その細い肩に「(おもて)を上げよ」と声を掛けた時、必要以上に大きな声であったことに我ながら気づいた。

「息災であったか」
 そう問いかけると、頼みの息子は逃げるように目を伏せたまま、はい、と答えを返してきた。まだあどけない子供の声。しかも緊張に震えている。

 こんな時なのに、また胸やけがしてくる。
 いや、そんなことを気にしている場合ではないだろう。唾をごくりと飲み込み、不調などなかったことにして、おれは千松丸に声を掛け続けた。
「本を好きだと聞いたが、良いことじゃ。最近は何を読んだ?」
「……」
「前は論語の素読(そどく)を続けておったであろう? その後、学問の方は進んでおるか。今は何を学んでおる」
「……小学、三体詩(さんたいし)……ええっと、それから、こぶ……こぶんでございます」
 千松丸の目が泳ぐ。最初から小さい声が、さらに小さくなる。

古文真宝(こぶんしんぽう)か」
「はい」
 おれはうなずいた。詩や名文ばかりにこだわり過ぎている気がしないでもないが、まあいいだろう。『古文真宝』は初学者必読の書に違いない。
 ならば次の質問だ。
「では代表的な詩を挙げてみよ」
「……」
 千松丸は今にも泣き出しそうだった。愚か者め。このぐらい、答えられないようでどうする。

 周囲の人々は、おれの機嫌を戦々恐々といった感じで窺っている。
 人々の間で出回る噂を、おれは知っている。殿には体調が良い時と悪い時とがある。悪い時が要注意、うっかり声を掛けない方が良いぞ、などといったもの。
 いや、波があるのは確かだが、おれに言わせれば常に体調は悪いのだ。比較的落ち着いている時に頑張っているだけである。

 精一杯、努力するしかないのだ。自分はいつどうなるとも知れない。千松丸の将来を安泰にしてやれるなら、どんなに厳しくしても足りないと思う。
 だがさらなる言葉を続けようとした時、別の声に遮られた。

「恐れながら、殿」
 傅役の一人である足立(あだち)甚八(じんぱち)だった。たまりかねたように、このおれに食い下がってくる。
「前回ご帰国を前に、殿は千松丸様へ仰せになられました。学問も大切だが、友達を作ってたくさん遊ぶんだぞ。弟たちとも仲良うせい、と。千松丸様はそのお言いつけを守り、最近ではいろいろなことに積極的に挑戦しておられます。弟君たちの面倒もよくみられます。それはもう、涙ぐましいほど健気なお振舞いで……」

「馬鹿者が! そんなのは当たり前だ」
 足立を怒鳴りつけると、周囲の者までがびくっと体を震わせた。
「下々の者を思いやるのは太守の務め。その上で、確実に結果を出さねばならんのだ」

 厳しくするのは千松丸のためを思えばこそだ。この子の頭上に暗雲はもう垂れ込めている。千松丸が排除される前に、こっちは手を打たねばならないのである。まったくこれほどの事態だというのに、誰もその深刻さを理解していないとはどういうことだ。

「良いか。この千松丸こそが、将来蜂須賀家を背負って立つのだ。そのほうら、もはや嫡男ではのうて当主に相対するつもりで扶育に当たれ」
「ははっ」
「心得ましてござりまする」
 傅役たちががばっと、全員ひれ伏した。

 そう。まだ水面下ではあるが、時局は着実に前進している。おれは再び千松丸を見据え、今日真っ先に伝えるはずだった大切な用件を伝える。
「彦根、井伊家より早速、返答が参った。相手は(とし)姫という。そちより二歳年下じゃ。どうじゃ、似合いの夫婦であろう」
 
 千松丸は下を向いたまま、凍り付いている。
 足立が斜め後ろから千松丸に何かを耳打ちし、ほとんど無理矢理といった形で再び平伏すようにうながした。

「……ありがたき幸せにござりまする」
 弱々しい声だが、何とか泣かずに挨拶はできた。千松丸にしては上出来と言っていいだろう。
 少しほっとする。継嗣問題は早く解決するに越したことはないのだ。

「一日も早う、公方様へのお目通りをしたいものじゃな。この父が方々に働きかけておくゆえ、その日を楽しみに待て」
「はい」

 ようやく和やかな雰囲気になったその時、申し上げます、と遠慮がちに声が掛けられた。
 おれはむっとして振り返った。
「何じゃ」
「国元より、仕置家老長谷川様からの使者が参ってございます」
 危うく、ちっと舌打ちするところだった。どうせろくな用件ではあるまい。しかし、無視するわけにもいかなかった。
「……通せ」
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