第59話 突如の旅立ち

文字数 2,547文字

 お殿様の容態が悪いっていう話なのに。
 だったら余計に、早く阿波にお帰り頂きたいのに。

 目の前の男たちときたら、さほど深刻に構えていないようだった。
「とにかく、もうしばらく江戸で養生させて、阿波の情勢が落ち着いたらご帰国いただくしかあるまい」
 建部がそう言って、市十郎がうなずいてる。一人青ざめている私のことなんて、どうでもいいみたいだった。

「ちょっと、あんたたち」
 私はとても同意できなくて、二人の間に割って入る。
「体調不良の噂が流されているのに、それを放置するっていうの? こういう時は、是が非でもお殿様を阿波までお連れ申し上げるのよ。やっぱり阿波で療養なさった方が良かったんだわ」

 建部がうるさいとばかりに噛みついてくる。
「だから今は殿を動かせないって言ってんだろ。お歩きにもなれんのに、どうやって阿波までお連れ申し上げるんだ」
「船で外海を回ればいいじゃない。菱垣廻船みたいに」
「また無茶なことを」
 市十郎は建部の発言を否定するでもなく、脇でじっと聞いているだけ。

 呑気なものよね。今やあんたたちだって主君派の中心人物と見られているのよ? このままぐずぐずして、悪い噂がもっと広まって、お殿様が失脚でもしたら大変なことになるのに。

 ……まさか。
 私は内心はっとして、二人の顔を盗み見た。
 この人たち、裏切ったりはしないわよね?

 もちろん普通の藩士たちの考えることは分かる。お殿様の失脚後を見据えなくちゃならないとなれば、すぐに以前の、座席衆に取り入る姿に戻るはず。誰だって自分の身は自分で守らなくちゃならないもんね。

 だけどこの二人は、お殿様に目をかけてもらったんだから違うと思ってた。
 買いかぶりだったかもしれない。二人とも、自分の実力でのし上がった、ぐらいに思っているのよ。お殿様への御恩なんて感じていないのよ。

 何てこと。

 私は違うわ。もしもお殿様が江戸で命を落とすようなことになったら、もし二度とお殿様に会いまみえることができなくなったら、私はもう生きてはいられない。後を追って死ぬしかないわ。
 だからこそ、徳島から出られぬ身に、ただその死が知らされるのはあまりに理不尽だった。

 キーンと耳鳴りがして、私は両手で耳を押さえた。
「あたし……あたし、江戸へ行く!」
 思わず涙があふれ出て、私は絞り出すように言ったわ。

 すると建部が呆れたように口を開けた。
「馬鹿な。お前が江戸へ行ってどうする」
「最期に一目お会いしたいの。あんたたちに付き合ってる暇はないわよ」

「無謀だし、面倒なこと、この上ないね」
 いつものことながら、建部は面倒を見きれぬという風に首を振ったわ。
「だいたいそんな勝手な真似が許されると思ってんのかよ」

 何よ、と私は怒鳴り返す。
「お殿様だって、死ぬ前にはきっと、私に会いたいと望んでおられるはずよ。そうよ、他の女じゃない。私でなくちゃいけないのよ。この私が死に水を取らなくちゃ」
 私はもう、誰が何と言おうと江戸に行こうって決めてたわ。旅の過酷さ、怖さもまったく気にならなかった。
 ボロボロの姿で上屋敷に乗り込んで、(つて)姫様に冷たい態度を取られたって構わない。このまま永遠にお殿様に会えなくなるよりはましだもの。

「……仕方ありませんな」
 佐山がため息の末に膝を打ち、ぶっきらぼうに吐き捨てた。
「分かりました。それがしが付き添いますよ。江戸への旅の面倒を見ますよ。それでいいでしょ」

 この男。
 私はちょっと不意を突かれ、言葉を飲み込んだ。
 過去の過ちを気にして、私のわがままを認めてくれるんだ。お殿様に会わせてくれるんだ。

 だけどそんな私に、佐山は冷たい一瞥をくれた。
「だが、道中の宿は別に取らせてもらいますから」

 その念押しに、再び私はむっとした。当たり前よ、そんなの。誰があんたなんかと一緒にお泊りするかっていうの。
 だけど私は世話になる立場だから、一応頭を下げておく。
「お頼み申します」
 建部はひたすら呆れ顔で首を振ってる。佐山の方は、ぷいと顔を背けたわ。
「至急、道中の手形を用意させよう」

 旅の準備が整うと、私はきせたち伊賀者の女を供にして城を出たわ。
 揺れる船中に入っても、私はまったくお殿様のことしか頭になかった。別に楽しい旅ってわけじゃないけど、川岸を離れた時には新鮮な気分だったわ。これから旅の間、毎年お殿様がどんな風景を見てきたのか、なぞることができるんだと思ったから。

 お殿様が何を思い、何を感じてきたのか。城の外に出ねば分からぬこともあるの。だんだん離れて行く徳島ご城下が、いつもとは全く違う景色に見えたわ。

 川に囲まれた大小六つの島に、整然と瓦や板葺の屋根が並んでる。
 古くは渭津(いのつ)と呼ばれたそうだけど、今は優美な弧を描く眉山に抱かれた町として、御山下(ごさんげ)と呼ばれている。
 その古い町が、朝の日の光を帯びて輝いてたわ。

 川畔(かわばた)に櫛比するのは、真っ白の新しい土蔵。藍玉や肥料を貯蔵するこれら蔵の姿が揺らめく水面に映り込み、まだ朝早いというのに多数の舟が行き交ってる。忙しく立ち働く町人たちの醸し出すその活気は、ここ何年もお城に閉じこもっていた私には、まるで知らない土地のたたずまいにも感じられた。

「……阿波なんて、嫌いだった」
 隣には陣笠を被った佐山市十郎がいるけど、私は誰にともなくつぶやいた。
「どうせ私はよそ者、ここは自分の国ではないと思ってた」

 佐山は何も答えない。だけど私はそこで佐山を見たわ。
「でもお殿様に会って変わったの」
 そうよ。お殿様と私はよそ者だけど、あなたはれっきとした阿波人よ。だからこそ、伝えなくちゃならないと思う。
「この国の美しさ、素晴らしさを、お殿様はちゃんと分かってて、私みたいな女にも気づかせてくれたの。阿波の領主として、あのお方以上の人はいない」

 それにひきかえ、と思う。あなたはただ私を傷つけたわよね。
 でも、その言葉は飲み込んだ。
 もうそんなことは、遠い過去になっているから。

 波の上できらめく光がまぶし過ぎて、私はぎゅっと目をつぶる。
「どうしても最期に一目お会いしたいの。間に合うように、少しでも早く歩いて。私が女だからって、合わせることはないわ」

 私は船べりにしがみつくようにしてすすり泣いた。佐山はずっと無言だったわ。

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