第74話 井伊の殿様とバトル
文字数 1,768文字
おれはふらふらとした足取りで、大広間に戻った。
老中にすっかり打ちのめされ、悪夢を見ているかのようだ。
すでにほとんどの者が帰宅していたが、まだ残っている長袴の群れがあった。
一握りの恵まれた人々だ。親藩、譜代の大名には、幕閣の目を恐れる必要のない者もいる。
おれの目は、その中の顔を一人一人追っていった。おれにとって兄貴分とでもいうべきあの男は、もう帰ってしまっただろうか?
いや、いた。
おれは急いで袴を引きずり、廊下で談笑する近江彦根藩主、井伊掃部頭 直幸 に近づいた。
「掃部頭どの。あの……」
おれより十歳近く年上だが、他家の大名の中では最も目をかけてくれる人だった。蜂須賀家にとって井伊家は重代の縁戚ということもあるが、おれと当代の掃部頭殿とは個人的に気が合うのだ。
実は、二人で吉原に遊んだこともある。こんなに緊張だらけの拝賀の日でも、いつもはおれを見た途端、掃部頭殿の方から「よう」と気さくに声を掛けてくれるものだった。
ところが今日は、どうしたことか。
会話の中断を余儀なくされたのが気に入らなかったのか。掃部頭殿はこのおれに冷ややかな目を向けてきたのである。
「何か」
はっとするほどの、よそよそしさだった。
早くも例の問題を聞いたのかもしれない。ずっと親しみを感じていた井伊家の橘の紋が、急に遠ざかっていくようだった。
だが掃部頭殿とそれまで話していた大名たちの方が、さっと遠慮し、おれに会釈をして下がっていく。こんな時に何なのだが、やっぱりおれは大大名なのだ。
そうなると掃部頭どのの方が後に引けなくなったのか、いかにも仕方がないとでもいった風におれに向き直り、辺りをさっと見回した。
「……こっちへ来い」
小声で言って、性急におれの袖を引っ張って人気のない場所に連れ込んだ。
むろん、ここは江戸城であって自分の城ではない。どこで誰が聞き耳をたてているか、掃部頭殿にも分からないだろう。
「川普請の件にござろう?」
単刀直入に言われ、おれは相手につかみかかりそうになった。
「ご存じだったんですか……!」
「いや、わしもさっき聞いたばかりだ」
小声ながら掃部頭どのの声は苛立っていた。ただそれは幕府に対するよりも、おれに対する怒りであるらしい。
はあっとあからさまに、掃部頭どのはため息を漏らす。
「だから、もっと慎重にされよと申したのに。これは恫喝ですぞ。阿波公、そのほうへの」
「わたしへの?」
「そう。ここ数年、おたくは他家との交際を極端に控えるようになりましたな」
何のことを言っているんだ?
おれは首を傾ける。交際を控えるとはいっても、こうして井伊家との付き合いはずっと続けてきたじゃないか。もちろん蜂須賀家にとってどうでも良い「その他大勢」を見極め、大胆に振り捨てたのは事実だけれども。
「いや、その……どうしても倹約せねばならぬ事情がございまして」
「台所が苦しいのはどこも同じでござろう。しかし、他をどう削ろうともご勝手だが、ご公儀向きの物まで削るのはいけませんな」
余計にわけが分からない。徳島藩は、幕府への音物 だけは旧来通り死守してきたのだ。
だが掃部頭殿の言い方には、ケチくさくなった蜂須賀家への批判が感じられた。おれは嫡子千松丸を跡継ぎにすべく、この井伊直幸の娘、俊 姫を千松丸にもらい受けることにした。縁談をまとめる際にこちらの挨拶の金品が不足していたかもしれないが、そのことへの不満なんだろうか。
それにしても、今日の掃部頭殿の態度は冷たいではないか。いつも鷹揚な人だったのだ。大名としてあるべき姿をおれはいつも掃部頭殿から学んできた。
自分は側室を十人以上抱えている、と自慢したのもこの人だ。
「別に、そのぐらい普通だろ?」
平然と笑って言う彼が、当時のおれには大物で格好良く見えたのに。
ぽかんと口を開けて突っ立ってるおれを見て、掃部頭殿は質問を変えてきた。
「御側用人 の田沼意次 という男をご存じか」
おれは何度か瞬きをする。
「田沼どの? さあ、お名前を聞いたことはありますが、あまりお話ししたことは……」
正直に答えたのに、その態度が掃部頭どのには許せないようだった。彼は自分よりも背の高いおれの胸倉を平気でつかみあげ、怒鳴りつけてきたのである。
「ふざけんな。だからお前は甘ちゃんだっつってんだよ!」
老中にすっかり打ちのめされ、悪夢を見ているかのようだ。
すでにほとんどの者が帰宅していたが、まだ残っている長袴の群れがあった。
一握りの恵まれた人々だ。親藩、譜代の大名には、幕閣の目を恐れる必要のない者もいる。
おれの目は、その中の顔を一人一人追っていった。おれにとって兄貴分とでもいうべきあの男は、もう帰ってしまっただろうか?
いや、いた。
おれは急いで袴を引きずり、廊下で談笑する近江彦根藩主、井伊
「掃部頭どの。あの……」
おれより十歳近く年上だが、他家の大名の中では最も目をかけてくれる人だった。蜂須賀家にとって井伊家は重代の縁戚ということもあるが、おれと当代の掃部頭殿とは個人的に気が合うのだ。
実は、二人で吉原に遊んだこともある。こんなに緊張だらけの拝賀の日でも、いつもはおれを見た途端、掃部頭殿の方から「よう」と気さくに声を掛けてくれるものだった。
ところが今日は、どうしたことか。
会話の中断を余儀なくされたのが気に入らなかったのか。掃部頭殿はこのおれに冷ややかな目を向けてきたのである。
「何か」
はっとするほどの、よそよそしさだった。
早くも例の問題を聞いたのかもしれない。ずっと親しみを感じていた井伊家の橘の紋が、急に遠ざかっていくようだった。
だが掃部頭殿とそれまで話していた大名たちの方が、さっと遠慮し、おれに会釈をして下がっていく。こんな時に何なのだが、やっぱりおれは大大名なのだ。
そうなると掃部頭どのの方が後に引けなくなったのか、いかにも仕方がないとでもいった風におれに向き直り、辺りをさっと見回した。
「……こっちへ来い」
小声で言って、性急におれの袖を引っ張って人気のない場所に連れ込んだ。
むろん、ここは江戸城であって自分の城ではない。どこで誰が聞き耳をたてているか、掃部頭殿にも分からないだろう。
「川普請の件にござろう?」
単刀直入に言われ、おれは相手につかみかかりそうになった。
「ご存じだったんですか……!」
「いや、わしもさっき聞いたばかりだ」
小声ながら掃部頭どのの声は苛立っていた。ただそれは幕府に対するよりも、おれに対する怒りであるらしい。
はあっとあからさまに、掃部頭どのはため息を漏らす。
「だから、もっと慎重にされよと申したのに。これは恫喝ですぞ。阿波公、そのほうへの」
「わたしへの?」
「そう。ここ数年、おたくは他家との交際を極端に控えるようになりましたな」
何のことを言っているんだ?
おれは首を傾ける。交際を控えるとはいっても、こうして井伊家との付き合いはずっと続けてきたじゃないか。もちろん蜂須賀家にとってどうでも良い「その他大勢」を見極め、大胆に振り捨てたのは事実だけれども。
「いや、その……どうしても倹約せねばならぬ事情がございまして」
「台所が苦しいのはどこも同じでござろう。しかし、他をどう削ろうともご勝手だが、ご公儀向きの物まで削るのはいけませんな」
余計にわけが分からない。徳島藩は、幕府への
だが掃部頭殿の言い方には、ケチくさくなった蜂須賀家への批判が感じられた。おれは嫡子千松丸を跡継ぎにすべく、この井伊直幸の娘、
それにしても、今日の掃部頭殿の態度は冷たいではないか。いつも鷹揚な人だったのだ。大名としてあるべき姿をおれはいつも掃部頭殿から学んできた。
自分は側室を十人以上抱えている、と自慢したのもこの人だ。
「別に、そのぐらい普通だろ?」
平然と笑って言う彼が、当時のおれには大物で格好良く見えたのに。
ぽかんと口を開けて突っ立ってるおれを見て、掃部頭殿は質問を変えてきた。
「
おれは何度か瞬きをする。
「田沼どの? さあ、お名前を聞いたことはありますが、あまりお話ししたことは……」
正直に答えたのに、その態度が掃部頭どのには許せないようだった。彼は自分よりも背の高いおれの胸倉を平気でつかみあげ、怒鳴りつけてきたのである。
「ふざけんな。だからお前は甘ちゃんだっつってんだよ!」