第75話 どいつもこいつも
文字数 1,901文字
何だ。何が起こったんだ?
井伊掃部頭 殿が、おれの胸倉をつかみ上げている。
何を言い返すこともできず、おれはされるがままになっていた。こんな驚きがあるだろうか。人目がないとはいえ、大名同士でこんな事態になるのは普通じゃない。
「おたくの留守居役は何をやっているんだ。そんなだから、お手伝い普請など命じられるんだよ」
掃部頭殿の目には、尋常でない怒りがたぎっていた。
しかし何を怒られているのか、おれにはさっぱり分からない。
「た、田沼どのにご挨拶しておけば、お手伝いを免れるとでも?」
「ふん」
掃部頭どのは答えてくれず、ただ手の力をゆるめ、やがて離した。答えないのは、肯定ということなんだろうか。
そんな馬鹿な。
おれは受け入れがたかった。かの孔子は、聖人君子が為政者となれば世の中が良くなると言っているじゃないか。だからこそ、おれは清廉潔白を旨として頑張ってきたんだ。
必死に抗弁を試みる。
「ただ金をばらまけばいいなんて、そんな話がありますか。ご公儀がそこまで落ちぶれたとは、さすがに思えませぬ」
掃部頭殿は笑わなかった。むしろ拒絶感を強めただけだ。
「……井伊家は蜂須賀家と心中するわけには参らぬ」
掃部頭殿はそうつぶやいた。その声に苦渋が滲み出ているのは、井伊家とて正式に許可が下りた蜂須賀家との縁組を今さら破談にはできないからだろう。
掃部頭どのは再び、血走った目をおれに向けてきた。
「いいか。良く聞け、若造」
貴公子の口の利き方ではない。その凄みの利かせ方たるや、下町のヤクザ者だった。
「いきなり御家断絶にならなかっただけ、ありがたいと思え。普請は粛々とお受けするんだ。他に方法はない」
その途端、おれはがっくりと肩を落とすしかなかった。
「……やっぱり、やるしかないですか」
いつ終わるとも知れぬ難工事だ。気が遠くなる。
しかしそこで掃部頭どのは腕組みをし、これは一つの案なのだが、と前置きしたのである。
「こういう時は、形だけ引き受けておいて後で裏工作をする方法もあるだろう。普請の検査役を抱き込め。堤の手直しだけやって、完了したことにするのだ。さすれば、そう年数がかかることもあるまい」
なるほど、とは思う。いくらかは気持ちが軽くなる。
しかしそれまた金のかかりそうな話だった。田沼の一派とやらは、いくらぐらい金を積めば黙ってくれるんだろう?
何も言い返せず、おれは沈思黙考してしまう。
すると掃部頭どのは突然、顎を上げて言い放った。
「おい。こういうことは普通、家臣が考えてくれるもんだろうが」
返す言葉がなかった。樋口内蔵助も佐山市十郎も、そういうことに頭が回る男ではないのだ。
「……人がおらんのだな」
掃部頭どのの声に、突然同情の色が混じった。
「分かる。分かるよ、その苦労は。当家とて同じだ」
おれは顔を上げた。やはりこの人とは、通じ合う何かがある。
しかし掃部頭殿の声は厳しいままだった。
「だがな。阿波の家中とて無能な者ばかりではなかろう。人をよく見ろ。まわりを寵臣で固めるなど、言語道断だぞ」
あ、と思った。全部、見透かされている。
同じ立場にある者同士だからこそ、ごまかしは通用しなかった。おれがどう主張しようと、手を抜いている部分があるのはお見通しなのだ。
「……ご助言、痛み入ります。仰せの通りにございます」
おれは万感の思いで目を閉じ、この兄貴分に低頭した。やはり彼の言うことは重みがある。
おれの神妙な態度に一応は納得してくれたのか、掃部頭殿はようやく、いつもの親し気な笑みに戻ってくれた。
「しっかりな」
ぽんぽんとおれの肩を叩き、掃部頭どのは去っていく。
下馬先にはもうほとんど人の姿はなく、徳島藩の家中だけがぽつんと残されていた。
それぞれのたたずまいに、心細さが滲み出ている。
おれがふらふらと出てきたのを見、全員が一度立ち上り、すぐに蹲踞した。
誰も声を発しないのは、すぐにでもおれの言葉を聞きたいからだろう。そして何が起こったかを知り、安心したいからだろう。
彼らの思いに応えなければ。
しかしその思いとは裏腹に、おれの体はひとりでにぶるぶる震え出した。拳を握り、おれは乱暴な足取りで彼らに近づいていく。
おればかりが、大変な思いをさせられている。
みんな、心の底ではおれのことを馬鹿にしてるんだろう!
駕籠の一番近くには、佐山市十郎がいる。おれは問答無用で奴の頬をなぐりつけた。
「クソ! どいつもこいつも」
佐山は驚いたようだったが、今日もおれにされるがままの無抵抗だった。樋口内蔵助が後ろから羽交い絞めにし、取り押さえてくれるまで、おれは自分を止められなかった。
井伊
何を言い返すこともできず、おれはされるがままになっていた。こんな驚きがあるだろうか。人目がないとはいえ、大名同士でこんな事態になるのは普通じゃない。
「おたくの留守居役は何をやっているんだ。そんなだから、お手伝い普請など命じられるんだよ」
掃部頭殿の目には、尋常でない怒りがたぎっていた。
しかし何を怒られているのか、おれにはさっぱり分からない。
「た、田沼どのにご挨拶しておけば、お手伝いを免れるとでも?」
「ふん」
掃部頭どのは答えてくれず、ただ手の力をゆるめ、やがて離した。答えないのは、肯定ということなんだろうか。
そんな馬鹿な。
おれは受け入れがたかった。かの孔子は、聖人君子が為政者となれば世の中が良くなると言っているじゃないか。だからこそ、おれは清廉潔白を旨として頑張ってきたんだ。
必死に抗弁を試みる。
「ただ金をばらまけばいいなんて、そんな話がありますか。ご公儀がそこまで落ちぶれたとは、さすがに思えませぬ」
掃部頭殿は笑わなかった。むしろ拒絶感を強めただけだ。
「……井伊家は蜂須賀家と心中するわけには参らぬ」
掃部頭殿はそうつぶやいた。その声に苦渋が滲み出ているのは、井伊家とて正式に許可が下りた蜂須賀家との縁組を今さら破談にはできないからだろう。
掃部頭どのは再び、血走った目をおれに向けてきた。
「いいか。良く聞け、若造」
貴公子の口の利き方ではない。その凄みの利かせ方たるや、下町のヤクザ者だった。
「いきなり御家断絶にならなかっただけ、ありがたいと思え。普請は粛々とお受けするんだ。他に方法はない」
その途端、おれはがっくりと肩を落とすしかなかった。
「……やっぱり、やるしかないですか」
いつ終わるとも知れぬ難工事だ。気が遠くなる。
しかしそこで掃部頭どのは腕組みをし、これは一つの案なのだが、と前置きしたのである。
「こういう時は、形だけ引き受けておいて後で裏工作をする方法もあるだろう。普請の検査役を抱き込め。堤の手直しだけやって、完了したことにするのだ。さすれば、そう年数がかかることもあるまい」
なるほど、とは思う。いくらかは気持ちが軽くなる。
しかしそれまた金のかかりそうな話だった。田沼の一派とやらは、いくらぐらい金を積めば黙ってくれるんだろう?
何も言い返せず、おれは沈思黙考してしまう。
すると掃部頭どのは突然、顎を上げて言い放った。
「おい。こういうことは普通、家臣が考えてくれるもんだろうが」
返す言葉がなかった。樋口内蔵助も佐山市十郎も、そういうことに頭が回る男ではないのだ。
「……人がおらんのだな」
掃部頭どのの声に、突然同情の色が混じった。
「分かる。分かるよ、その苦労は。当家とて同じだ」
おれは顔を上げた。やはりこの人とは、通じ合う何かがある。
しかし掃部頭殿の声は厳しいままだった。
「だがな。阿波の家中とて無能な者ばかりではなかろう。人をよく見ろ。まわりを寵臣で固めるなど、言語道断だぞ」
あ、と思った。全部、見透かされている。
同じ立場にある者同士だからこそ、ごまかしは通用しなかった。おれがどう主張しようと、手を抜いている部分があるのはお見通しなのだ。
「……ご助言、痛み入ります。仰せの通りにございます」
おれは万感の思いで目を閉じ、この兄貴分に低頭した。やはり彼の言うことは重みがある。
おれの神妙な態度に一応は納得してくれたのか、掃部頭殿はようやく、いつもの親し気な笑みに戻ってくれた。
「しっかりな」
ぽんぽんとおれの肩を叩き、掃部頭どのは去っていく。
下馬先にはもうほとんど人の姿はなく、徳島藩の家中だけがぽつんと残されていた。
それぞれのたたずまいに、心細さが滲み出ている。
おれがふらふらと出てきたのを見、全員が一度立ち上り、すぐに蹲踞した。
誰も声を発しないのは、すぐにでもおれの言葉を聞きたいからだろう。そして何が起こったかを知り、安心したいからだろう。
彼らの思いに応えなければ。
しかしその思いとは裏腹に、おれの体はひとりでにぶるぶる震え出した。拳を握り、おれは乱暴な足取りで彼らに近づいていく。
おればかりが、大変な思いをさせられている。
みんな、心の底ではおれのことを馬鹿にしてるんだろう!
駕籠の一番近くには、佐山市十郎がいる。おれは問答無用で奴の頬をなぐりつけた。
「クソ! どいつもこいつも」
佐山は驚いたようだったが、今日もおれにされるがままの無抵抗だった。樋口内蔵助が後ろから羽交い絞めにし、取り押さえてくれるまで、おれは自分を止められなかった。