第23話 脱走

文字数 1,662文字

 私は庭に目を向けた。
 城壁をいくつか越えた向こう側は、深い川になってる。

 この徳島城を囲むように、助任(すけとう)川や寺島(てらしま)川が流れてるの。どちらも四国三郎とも呼ばれる暴れ川、吉野川の支流よ。
 そうした川が外堀代わりとなって、このお城を天然の要害としているの。だけど戦のない今の時代は、ただお殿様を町から遠ざける障壁でしかなかった。

 阿波は渇水の多い国。夏は地面が乾燥してひび割れるほどよ。
 だけど逆に、ひとたび雨が降ればそれは湿り気を与えるぐらいでは済まず、たちまち山をも突き崩す大洪水となって城下に押し寄せる。吉野川が運んでくる土石流は、治水の努力もむなしく田畑にも城下町にも毎年甚大な被害をもたらしてる。

 私はそんな大河の爆発を思った。
 お殿様はうずうずしてる。それがどんなに危険か承知の上で、それでもお殿様は濁流の中に飛び込んでみたくてたまらないんだわ。

 同じことじゃないかしら? 私もお殿様も、死ぬことになってたんだもの。

「ならば、行きましょうか」
 振り向いてそう申し上げたら、お殿様は不機嫌そうに寝そべったまま、何、と聞き返してきた。
「盆踊りを見に行ってみますかと、お聞きしたんです」

 むっくりと、お殿様は面倒臭そうに起き上がる。
「どうやって行くのだ」
「こうやって、ですわ」
 私は両手でお殿様の腕を引き、立ち上がらせた。

 身支度を済ませ、二人で庭に面した廊下に出ると、不寝番の女がはっと顔を上げた。
「厠にございますか」

「いや、ちょっと庭の散策じゃ」
 お殿様は沓脱ぎ石に下り、置かれていた雪駄をご自分でお履きになった。いかにものんびりと、こんなのは何ほどのこともないとでも言うように。

 それでも女は慌てて膝立ちになる。
「ただ今、警固の者を呼んで参りますゆえ、しばしお待ちを」
「それには及ばぬ」
 お殿様は片手で制した。
「お楽と一緒に風に当たりたいんだ。部屋は暑うてかなわぬ。邪魔するでないぞ」
 そのまま、私を促してすたすたと歩き出す。もちろん私もすぐにその後に続いたわ。

 表御殿の方角へ歩き、広い桃山様式の庭園の裏を通り抜けた。わずかだけど、月明かりがあって提灯がなくても歩いて行ける。でもお城の門には必ず番士がいるから、そこを通過するわけにはいかなかった。

 掘川沿いの隅櫓(すみやぐら)の近くまで来たとき、酔っ払い達の声が遠巻きに聞こえたわ。櫓の中で、番士たちが宴会をしているようだった。
 祭の匂いを嗅ぎながら闇を歩いているうちに、今夜も私の体内で異変が起こっているのを感じたわ。何か御しがたい力が目覚めようとしているようだった。
 これは何かしら?
 そう思いつつ、私ははっと顔を上げた。

 忍びの血だ、と気づいたの。
 そうよ、私の体の中で、いにしえのご先祖の魂がうずいてるのよ。

 すぐ脇では、鉄砲狭間と矢狭間が交互に並ぶ漆喰の壁がずっと続いている。
 その壁のてっぺんが次第に高くなっていくのを見ると、お殿様は不安そうな顔をなさったわ。

「……この先はどうするのじゃ、お楽」
 私はすっと目を上げた。
 見てて。私のお殿様。
「ご無礼つかまつります」
 着物の裾を思い切りたくし上げ、それを帯に挟むと、私は風を切って走り出した。

 そうよ。祭の夜よ。
 今夜なら、どんな不可能も可能になるような気がする。事実、私が勢いよく地面を蹴り上げたら、体が自然に伸びあがったわ。

 すたっと片膝を付く恰好で、私は城壁の屋根の上に降り立った。
 瓦が少し音を立ててしまったけど、大丈夫。この手の体術を使うのは久しぶりなのに、ちゃんとできる自分がいる。やった、と小さく拳を握ってしまったほどよ。

 もちろんお殿様はびっくりよ。口をあんぐりと開けてこっちを見ていらっしゃる。
「何じゃ……何の真似じゃ、お楽。そんな所に乗って、危ないではないか」
「こちらですわ、殿」
 私は笑って屋根の上から手を差し出した。
「そこの木の枝に、おみ足をお掛け下さいませ。後は引っ張り上げますゆえ」

 お殿様は身軽ではなかったけれど、日頃から槍術の鍛錬を怠ってないもの。どうにか膂力で自分の体を持ち上げたわ。

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