第50話 切腹、そして御家断絶
文字数 2,501文字
謀反の証拠を突きつけられたお殿様は、微動だにしないまま、蒼白になって虚空を見つめてる。
一枚の紙が、はらりとその手から舞い落ちる。その目はもはや怒りを通り越して、抜け殻のようになってたわ。
「……ここまでされては、もはや、かばい切れぬ。織部を厳罰に処すしかあるまい」
呆然としたまま、お殿様はそうつぶやいた。
ついに来たわね、この瞬間が。
私はきせたちと視線を交わし、うなずき合った。やっとここまで来たって感じよ。
提出された歓喜院宛ての書状。文面は、お殿様を呪い殺せっていう内容になってる。しかもそこには、差出人として山田織部の名がしっかりと記されてる。
誰がどうやって手に入れたのかは内緒よ。だけどこれこそ動かぬ証拠。
いったん覚悟を決めてしまえば、お殿様は厳しかった。
当たり前よ。藩主が呪詛調伏という形で殺されかけたんだし、他の藩士への見せしめという意味でも、甘い顔は見せちゃいけない。
ところで今の御目付役は佐山市十郎じゃなくて、別の人に変わっているの。その人たちにはとっくに、織部が怪しげな坊主とよしみを通じているという知らせが入っていたんですって。
だけど彼らは山田家の藩祖以来の格式に遠慮し、おいそれと屋敷に踏み込めずにいた。
お殿様は、そういうのが一番許せないっていう考えだもの。どんなに身分が高かろうと、罪人は罪人。目付役たちをひどくお叱りになったわ。
彼らは藩主直々の怒りに触れて恐懼し、態度を急変させたわ。そしてようやっと、山田家に対し厳しい取り調べを始めたの。
吟味が進むにつれ、急速に織部の一派は孤立していった。
呪詛の依頼状には、自分への同盟を願うという内容で賀嶋上総、備前親子の名も出てきてたんだけど、取り調べの場で、賀嶋親子は知らぬ存ぜぬを通したんですって。
一味のくせに、呆れるほどの冷たい態度ね。賀嶋親子は情勢を見て、これ以上織部についているのはまずいと判断したんでしょう。
一枚岩に見えた座席衆だけど、その結束は大して強くもないみたい。悪い人たちって、いざとなったら、さっさと仲間を見限るのね。
梅雨が明けた夏の初め、吟味の結果が報告された。私も伊賀者の一人をその場に遣わして、その様子を報告させたわ。
織部はすでに覚悟を決めていたようよ。相変わらず不敵な目で、こう言ったんですって。
「確かに、その坊主には会い申した。すべて阿波の国のために、やったことでござる」
公衆の面前で、自分の罪を認めたってわけね。
そして、織部が切腹したのは、彼の自宅。山田家の庭よ。
検死役の目の前で、山田織部は誇り高き阿波武士として作法通りに振舞ったそうよ。堂々と着物の前をくつろげ、三方に載せられた脇差を手に取って。
だけどいざその時がくると、織部の目は血走ってらんらんと光り輝く。
家族のすすり泣く声が、邸内に響く。
織部の震える手が、自らの腹に刃を突き立てる。その瞬間、介錯人の折下 刑馬 は構えていた太刀をすっと振り下ろす。
お殿様はお優しいの。せめて少しでも苦痛のなきように、と折下に秘かに命じていたそうよ。
静けさの中、織部の首は見事に皮一枚を残し、胴体にぶら下がる。高い技術に裏付けられた完璧な介錯に、皆が感心したそうよ。
徳島藩の名門、山田家は断絶となった。
先祖有効、という理由で、お殿様は一族の八右衛門という男を千石で取り立て、織部の家族だけはそこに引き取らせたわ。私は中途半端な温情なんていらないと思ったけど、お殿様はそういうところがお優しいのよね。
とにかくこれまで山田家に仕えてきた者は、大半が住むところをなくしたわ。その日、うつむいて荷車を引く男女の長い行列が、とぼとぼとご城下を出て行った。町人たちの中には泣きながら見送った者もいると聞いたわ。
確かに彼らには罪はない。同情の余地はあるかもしれない。
だけど織部に仕えたのが運の尽きね。あの人たちだって、織部が悪事で儲けた分の余得には預かってきたんだもの。しょうがないってもんよ。
その夜、お殿様の顔色はすぐれなかった。
私がすり寄っても、ご寝所に強くお誘いしても、お殿様は灯明の光に背を向けて、小さく震える自分の両手を見つめるだけ。
「これで……これでいいんだよな。わしは間違っておらんよな?」
ええ、と私はうなずいた。優し過ぎるお殿様に、苛立ちさえ覚えたわ。
「逆臣をそのままにはしておけませんもの。正しき道にございます」
だってまだようやく一つ、片付いただけなのよ? お殿様を名君にするには、こうして立ちはだかる壁を一つ一つ取り除いていかなきゃならないの。長い道よ。
お殿様はなかなか顔を上げてくれなかった。仕方がないから、私が部屋の灯明の火を消して回ったわ。
確かに職を失った一族郎党は気の毒かもしれないけど、それが何だって言うの? 山田一族はこれで、よくよく分かるでしょうよ。自分たちがこれまで、いかに多くの人々を踏みにじってきたか。
さて、不愉快なことは早く忘れるにしかず。
部屋は薄暗くなって、お酒も用意してあるわ。
あとはお楽しみでしょ。
私はお殿様の肩に手を置いた。でもその手を、お殿様はさっと振り払ったの。
「……悪いが、一人にしてくれんか」
あら、がっかりだわ。せっかくその気になったのに、どうやってこの体の熱を冷ませっていうの?
だけどこんなことがあった日だもの。お殿様とて、そういう気分にはなれなかったのかもしれない。
言われた通り、私は辞去したわ。
襖を閉めた時、そこに描かれた水墨画が初めて私の目に飛び込んできた。
これまで気にも留めなかった襖絵だけど、なぜか今、その絵に呼ばれたかのように意識が向かったの。
ニワトリが、地面に落ちた何かをついばんでいる絵。
そのうち一羽がふと顔を上げ、私に向かって奇声を発した。
いや、そんなはずないわよね。
私は何度もまばたきをした。見間違いよ。単なる幻覚よ。
そう思ったけれど、それでも私の全身から血の気が引いたわ。その声は確かに、ある種の不気味なものの誕生を告げてるような気がしたから。
数日後の夜、お殿様は奥御殿の寝所に別の女を召した。
一枚の紙が、はらりとその手から舞い落ちる。その目はもはや怒りを通り越して、抜け殻のようになってたわ。
「……ここまでされては、もはや、かばい切れぬ。織部を厳罰に処すしかあるまい」
呆然としたまま、お殿様はそうつぶやいた。
ついに来たわね、この瞬間が。
私はきせたちと視線を交わし、うなずき合った。やっとここまで来たって感じよ。
提出された歓喜院宛ての書状。文面は、お殿様を呪い殺せっていう内容になってる。しかもそこには、差出人として山田織部の名がしっかりと記されてる。
誰がどうやって手に入れたのかは内緒よ。だけどこれこそ動かぬ証拠。
いったん覚悟を決めてしまえば、お殿様は厳しかった。
当たり前よ。藩主が呪詛調伏という形で殺されかけたんだし、他の藩士への見せしめという意味でも、甘い顔は見せちゃいけない。
ところで今の御目付役は佐山市十郎じゃなくて、別の人に変わっているの。その人たちにはとっくに、織部が怪しげな坊主とよしみを通じているという知らせが入っていたんですって。
だけど彼らは山田家の藩祖以来の格式に遠慮し、おいそれと屋敷に踏み込めずにいた。
お殿様は、そういうのが一番許せないっていう考えだもの。どんなに身分が高かろうと、罪人は罪人。目付役たちをひどくお叱りになったわ。
彼らは藩主直々の怒りに触れて恐懼し、態度を急変させたわ。そしてようやっと、山田家に対し厳しい取り調べを始めたの。
吟味が進むにつれ、急速に織部の一派は孤立していった。
呪詛の依頼状には、自分への同盟を願うという内容で賀嶋上総、備前親子の名も出てきてたんだけど、取り調べの場で、賀嶋親子は知らぬ存ぜぬを通したんですって。
一味のくせに、呆れるほどの冷たい態度ね。賀嶋親子は情勢を見て、これ以上織部についているのはまずいと判断したんでしょう。
一枚岩に見えた座席衆だけど、その結束は大して強くもないみたい。悪い人たちって、いざとなったら、さっさと仲間を見限るのね。
梅雨が明けた夏の初め、吟味の結果が報告された。私も伊賀者の一人をその場に遣わして、その様子を報告させたわ。
織部はすでに覚悟を決めていたようよ。相変わらず不敵な目で、こう言ったんですって。
「確かに、その坊主には会い申した。すべて阿波の国のために、やったことでござる」
公衆の面前で、自分の罪を認めたってわけね。
そして、織部が切腹したのは、彼の自宅。山田家の庭よ。
検死役の目の前で、山田織部は誇り高き阿波武士として作法通りに振舞ったそうよ。堂々と着物の前をくつろげ、三方に載せられた脇差を手に取って。
だけどいざその時がくると、織部の目は血走ってらんらんと光り輝く。
家族のすすり泣く声が、邸内に響く。
織部の震える手が、自らの腹に刃を突き立てる。その瞬間、介錯人の
お殿様はお優しいの。せめて少しでも苦痛のなきように、と折下に秘かに命じていたそうよ。
静けさの中、織部の首は見事に皮一枚を残し、胴体にぶら下がる。高い技術に裏付けられた完璧な介錯に、皆が感心したそうよ。
徳島藩の名門、山田家は断絶となった。
先祖有効、という理由で、お殿様は一族の八右衛門という男を千石で取り立て、織部の家族だけはそこに引き取らせたわ。私は中途半端な温情なんていらないと思ったけど、お殿様はそういうところがお優しいのよね。
とにかくこれまで山田家に仕えてきた者は、大半が住むところをなくしたわ。その日、うつむいて荷車を引く男女の長い行列が、とぼとぼとご城下を出て行った。町人たちの中には泣きながら見送った者もいると聞いたわ。
確かに彼らには罪はない。同情の余地はあるかもしれない。
だけど織部に仕えたのが運の尽きね。あの人たちだって、織部が悪事で儲けた分の余得には預かってきたんだもの。しょうがないってもんよ。
その夜、お殿様の顔色はすぐれなかった。
私がすり寄っても、ご寝所に強くお誘いしても、お殿様は灯明の光に背を向けて、小さく震える自分の両手を見つめるだけ。
「これで……これでいいんだよな。わしは間違っておらんよな?」
ええ、と私はうなずいた。優し過ぎるお殿様に、苛立ちさえ覚えたわ。
「逆臣をそのままにはしておけませんもの。正しき道にございます」
だってまだようやく一つ、片付いただけなのよ? お殿様を名君にするには、こうして立ちはだかる壁を一つ一つ取り除いていかなきゃならないの。長い道よ。
お殿様はなかなか顔を上げてくれなかった。仕方がないから、私が部屋の灯明の火を消して回ったわ。
確かに職を失った一族郎党は気の毒かもしれないけど、それが何だって言うの? 山田一族はこれで、よくよく分かるでしょうよ。自分たちがこれまで、いかに多くの人々を踏みにじってきたか。
さて、不愉快なことは早く忘れるにしかず。
部屋は薄暗くなって、お酒も用意してあるわ。
あとはお楽しみでしょ。
私はお殿様の肩に手を置いた。でもその手を、お殿様はさっと振り払ったの。
「……悪いが、一人にしてくれんか」
あら、がっかりだわ。せっかくその気になったのに、どうやってこの体の熱を冷ませっていうの?
だけどこんなことがあった日だもの。お殿様とて、そういう気分にはなれなかったのかもしれない。
言われた通り、私は辞去したわ。
襖を閉めた時、そこに描かれた水墨画が初めて私の目に飛び込んできた。
これまで気にも留めなかった襖絵だけど、なぜか今、その絵に呼ばれたかのように意識が向かったの。
ニワトリが、地面に落ちた何かをついばんでいる絵。
そのうち一羽がふと顔を上げ、私に向かって奇声を発した。
いや、そんなはずないわよね。
私は何度もまばたきをした。見間違いよ。単なる幻覚よ。
そう思ったけれど、それでも私の全身から血の気が引いたわ。その声は確かに、ある種の不気味なものの誕生を告げてるような気がしたから。
数日後の夜、お殿様は奥御殿の寝所に別の女を召した。