第42話 新たな病

文字数 2,789文字

 本来、お殿様のご帰国は、宝暦十年の春に予定されていたの。
 だけど延びに延びて、私は一人ぼっちのまま。季節は早くも夏になってしまった。

 お殿様が間もなくお戻りになる。それを聞いた時、自分の表情が乏しくなっていることに気づいたわ。
 何はともあれ、一年半ぶりの再会だもの。とにかく笑顔でお迎えしなくちゃならない。子供は産めなかったけど、もうそんな悲しみには区切りを付けなくてはね。

 だけどいざお殿様の御尊顔を拝したとき、私は愕然としたの。ご帰国が遅れた理由は知らされなかったけど、お殿様が身にまとう空気から、それはすぐに感じられた。(つて)姫様やお子様方と、どれほど別れがたかったか。

 ぜんぶ見えるような気がしたわ。二人も立派に男子をお産みあそばされたご正室が、お殿様にしなだれかかってる。その前で遊ぶ小さな子供たちは、まさにお二人にとって宝物でしょう。
 お殿様は最愛の妻と、別れ際に約束してきたかもしれない。またすぐに戻るよ、と。

 そうよ、来年四月にはまた出府(しゅっぷ)なさるから、お殿様が国元にいらっしゃるのはわずか八か月ばかり。私と一緒に過ごす時間は多くない。すぐに江戸へ帰ってしまうのよ。

 私はいつまでも心で血を流してる。

 あのとき大量の血とともに流れたのは、男の子のようだった。たぶん、最初に身ごもった時と同じよ。

 いくら記憶を消し去ろうとしても、しつこいほどあの光景は蘇ってくる。畑の隅のあの小山。私がこっそり葬ったあの子が、怨霊となって私を襲う夢を見る。
 手厚く供養をしたかどうかは問題じゃなかった。すでに私の体には、取り返しのつかない傷が刻み込まれてるんじゃないかって、そんな不安が頭にきざして気が狂いそうになる。

 お殿様は少し硬い表情で、そんな私を見下ろしてきた。
「どうした。具合でも悪いのか」
「いえ」
 私は気を取り直し、懸命に笑顔を作ったわ。暗い雰囲気は作りたくなかった。せめて何か謝罪の言葉を口にせねばと思ったけど、お殿様の方がそれをさせなかった。

「次は産めるさ。気にするな」
 涙ぐむ私をよそに、さっぱりとした口調でそうおっしゃっただけ。
 そして何事もなかったかのように、私はお殿様と静かに抱き合った。そこには懐かしい汗の匂いがあったわ。

 いいじゃない、と思った。このままで十分、幸せよ。

 だけど翌年の春も、私は懐妊せぬまま、静かに江戸行きの行列を見送ったの。
 やっぱり寒々としたものを感じたわ。江戸に向かうお殿様は、心なしかうれしそうにも見えたから。

脚気(かっけ)?」
 私は尖った声で、林建部に聞き返した。お殿様がいなくなった奥御殿に、この男はのうのうと顔を出す。
 ひどく苛立ってたわ。その病名は唐突だったし、今目の前にいるこの男があんまり頼りなかったから。

 あんなに偉そうな態度を取ってたくせに、建部は相変わらず同志を募ることに苦労してるみたい。最近では私の方がこの男を叱咤激励することが多くなってるわ。
 良い点を挙げるとすれば、山田織部がずっと謹慎しているために、家中が比較的落ち着いてることぐらいかしら。

 だけど病気の話となると、どうしても気分は重たくなる。建部も柄になく、気弱な感じでうなずいたわ。
「おみ足がしびれると仰ったことがあるだろ? あれがそうなんだ。典型的な症状。なぜか江戸で暮らしていると発症するらしい」

 怒涛のように迫りくる言葉を飲み込んで、代わりに私は煙管に刻みタバコの葉をぎゅうぎゅうと詰め込んだ。
「……だったら江戸になんか行かなければいいのに」
「それができたら、誰も苦労はないって」
 建部は苦笑し、ひらひらと手のひらを振って見せた。
「好きで参勤する大名がどこにおる? うちの殿だって徳島城にずっといられるなら、その方がどんなに良いか知れん」

 とてもそうは思えないわよ。あんたは何も実態を知らないからそう言うだけ。
 ふうっと私は煙を吐き出した。やれやれだわ。胸にくすぶる不快なものも、こうして体の外へ追い出せたらいいのに。
「……殿は、江戸がお好きなはずよ。もしご病気になって、療養が必要になったら、徳島よりも江戸をお選びになるでしょうね」

「そんなことはないだろ。徳島が一番良いと、殿は何かにつけ仰っている」
 建部は大して考える風もなく、そう答えた。この男の意識の中では、藩の本拠地たる国元ありきなのよね。それをお殿様のお気遣いだと思うこともないみたい。
「ただ、徳島には居づらいと感じることがあるんだろ。常に身の危険を案じておらねばならんのだからな。だからこそお楽どのにも、いろいろと護衛をお付けになったわけだし」

 建部の話を聞いていて、お殿様はこいつの前では本音を見せていないんじゃないか、という気がしたわ。少ない味方をつなぎとめておくため、お殿様は藩士それぞれの前で大変な努力をなさっているのよ。

 典型的な徳島藩士の姿として、私はまたあの佐山市十郎のことを思い出してしまった。
 嫌いな男だけど、それだけに私の記憶からいつまでも離れてくれない。理不尽なものだわ。私はむしゃくしゃして、煙草盆の灰落としの縁にかつんと煙管を打ち付けた。
「佐山なんて、最近はろくに顔も見せなくなったわよ。最初は上意と思って従ったけど、やっぱり本音の部分では、あたしに会いたくないんでしょ」

 すると建部は、思い出したようにあっと声を上げた。
「そういえば市十郎のやつ、本〆(もとじめ)役に異動になったぜ? 仕事が忙しいんだろ」

「何ですって」
 私は絶句したわ。あの男は私の護衛だったのに、何も聞いてない。

 栃の木でできた煙草盆の透かし模様に、私は呆然と目を落とす。
 お殿様は、私のことより大事な何かを見つけられたのよ。私の身の安全など、どうでも良くなってしまうほどに。
 これは絶望的な事態だった。お殿様の心がどんどん私から離れていくのに、私にはどうすることもできない。

 佐山市十郎のせいだ、と思った。あいつはきっと、私とお殿様の関係が面白くなくて、余計なことを吹き込んだの。そうに決まってる。
 私はむしゃくしゃして、叫んだわ。
「何なのよ。今まで刀一本で生きてきた人が、算盤(そろばん)のお仕事なんてできるわけないじゃない」

 そうよ。熊のように大きなあの男の、丸まった背中が思い出される。
 だいたい本〆(もとじめ)役は藩の財政を預かる文官の役職で、佐山家のような武官の家筋が就くものじゃない。これまでの佐山市十郎の経歴とだって、まったく重ならないのに。

「いや、市十郎はああ見えて帳簿のことも明るいぜ?」
 建部は何の憂いも感じさせない口調で否定した。
「殿は、あえてそうなさったんだ。市十郎をそこに付けるというのは、御家の財政をこっちが押さえたという点を家中に示す意味があるからな」
 
 建部はそう言ってふと声を潜め、にやりと笑った。
「殿はまた、大鉈(おおなた)をふるうおつもりのようだ。病のことだけはちょっと心配だが、まあ何とかなるだろ」

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