第21話 義憤
文字数 1,959文字
お殿様はひたすら書物を読み、何かを研究していらっしゃるわ。すごく熱心なのは見ていて分かる。
だけどこの人、ふいに怒りに満ちた顔を上げると、私に向かって語り出すのよね。それも拳を握って、感情を露わにして。
「阿波のまつりごとは苛斂 誅求 を極め、百姓は何度も騒擾 に及んでおる。わしとしては、何としてもこの阿波を良き国に導きたい。そのために、どんな労をも惜しまぬつもりじゃ」
「……はい」
私は半分も話に付いていけないんだけど、この人は私の恋人である前に、この国の主君なのよ。とにかく必死に耳を傾けなくちゃならない。
そして、何でもいいから「はい」ってうなずかなくちゃいけない。
「まさに厳しい状況じゃ。もともと米の取れない土地であるゆえ藍作に転じたというに、その藍畑が荒廃しておる。阿淡両国は温暖で豊かだと聞いておったのに、領民の顔を見ると一様に暗いではないか。ここは思い切った改革が必要である。のう?」
お殿様は時折、思い出したようにそう聞いてくる。ぼんやりしていた私が慌ててうなずくと、お殿様もまたうなずくのよ。
「にも関わらず、藩政を牛耳っている家老どもに言わせると、この国の仕置に何ら問題はないそうじゃ。やつらの専横について不満は多い。庶民だけではないぞ、家中でさえもじゃ。しかし公の場でそれを申す者は一人もおらぬ。後難を恐れているのであろう」
よほど普段から不満がたまってるんでしょうね、語ってるお殿様の顔は次第に赤く火照り出し、口調はさらに早くなっていく。
「わしが問題を指摘しても、連中は迷惑そうな顔をするだけ。どころか、わしに何も把握させぬよう隠すのじゃ。だいたい、二十五万石の主な配分さえ、わしには明かされぬ。座席衆の稲田や賀嶋、山田といった連中の知行高を、わしは知らんのだ」
「ええっ」
さすがにその話は分かったわ。私、思わず手で口をふさいじゃった。
珍しく私がはっきりした反応を示したものだから、お殿様がきらりと目を輝かせた。
仕方なく、私は改めて聞き返す。
「……お殿様が、家臣の禄高をご存じないということですか」
「うん。そうなんだ。そうなんだよ。お楽もおかしいと思うだろ?」
お殿様は話が通じてうれしいらしく、私の両手を包み込んでぶんぶんと振り回した。
こっちはちょっと引きつっちゃったわよ。確かにおかしいけど、家臣にそこまでやられてるとなると、ちょっと情けないような気もする。
お殿様は、なおも一生懸命に語るわ。
「奉公人を抱えるのに、その請け人から質を取るなど、官僚の腐敗は著しい。家中の風儀はかように乱れておる。問題を目にするたび、ああ、わしが変えねばならぬと思うんだ。わしがやらねば誰がやるんだ、とな」
この人はただでさえ早口よ。ついていく方は大変だなあって、私は内心嘆息する。
「わしはな、お楽。かの有徳院様のように、ご改革をしたいと思うておるのだ」
ユウトクイン様? それって誰だっけ。
「この旧態依然の地を、わしがきっと変えてみせる。しからばわしは必ずや民衆に慕われ、名君として後の世に語り継がれよう」
自分の言葉に満足したのか、お殿様はニコニコしてる。
私の方は、もう一度うなずきかけて絶句した。
名君になりたい、ですって?
そこでやっと行き着いたわ。有徳院様ってたぶん、享保のご改革を成し遂げた八代将軍、徳川吉宗公のことよ。あんな風になりたいって、この人は言ってるのよ。
私は改めて、目の前のわが主君を眺めたわ。
育ちの良いお坊ちゃん。自分の無力を思い知らされたことのないこの無邪気さ。たぶん、適切に導いてあげるような側近もいないのよ。
私にはおぼろげながら、才気走ってるけど地に足がついていないこの人の姿が見えてる。危なっかしくて、思わず大丈夫ですかって駆け寄りたくなるような感じよ。
「考えてみたら、一番失うものがないのはこのわしなのじゃ。それに、志を同じくする者は家中にきっとおるゆえのう」
なおも熱っぽく語るお殿様の横顔を、私は改めて見つめたわ。
この人の中にある激しい義憤。それが不思議だった。
私は貧しく虐げられた者だけがこういう感情を有するものかと思ってたの。だけど身分の高いお方も同じ感覚を持ってる。
強く感じたのは、この人もまた弱者の一人なのであって、なおかつ他の弱者に配慮するだけの優しさを持ってるってこと。
この人は、不安定で世間知らずかもしれない。だけど厚い壁を突き崩して改革の先頭に立つ覚悟はあるのよ。自分が傷つくことを恐れてないのよ。
その勢いは、小さな欠点など吹き飛ばしてしまうかもしれない。
阿波の国は、こういうお殿様を欲していたんじゃないかしら?
この人の改革、成功して欲しいなって思った。そして支える者が本当にいないなら、私がやろうって、この時に思ったのよね。
だけどこの人、ふいに怒りに満ちた顔を上げると、私に向かって語り出すのよね。それも拳を握って、感情を露わにして。
「阿波のまつりごとは
「……はい」
私は半分も話に付いていけないんだけど、この人は私の恋人である前に、この国の主君なのよ。とにかく必死に耳を傾けなくちゃならない。
そして、何でもいいから「はい」ってうなずかなくちゃいけない。
「まさに厳しい状況じゃ。もともと米の取れない土地であるゆえ藍作に転じたというに、その藍畑が荒廃しておる。阿淡両国は温暖で豊かだと聞いておったのに、領民の顔を見ると一様に暗いではないか。ここは思い切った改革が必要である。のう?」
お殿様は時折、思い出したようにそう聞いてくる。ぼんやりしていた私が慌ててうなずくと、お殿様もまたうなずくのよ。
「にも関わらず、藩政を牛耳っている家老どもに言わせると、この国の仕置に何ら問題はないそうじゃ。やつらの専横について不満は多い。庶民だけではないぞ、家中でさえもじゃ。しかし公の場でそれを申す者は一人もおらぬ。後難を恐れているのであろう」
よほど普段から不満がたまってるんでしょうね、語ってるお殿様の顔は次第に赤く火照り出し、口調はさらに早くなっていく。
「わしが問題を指摘しても、連中は迷惑そうな顔をするだけ。どころか、わしに何も把握させぬよう隠すのじゃ。だいたい、二十五万石の主な配分さえ、わしには明かされぬ。座席衆の稲田や賀嶋、山田といった連中の知行高を、わしは知らんのだ」
「ええっ」
さすがにその話は分かったわ。私、思わず手で口をふさいじゃった。
珍しく私がはっきりした反応を示したものだから、お殿様がきらりと目を輝かせた。
仕方なく、私は改めて聞き返す。
「……お殿様が、家臣の禄高をご存じないということですか」
「うん。そうなんだ。そうなんだよ。お楽もおかしいと思うだろ?」
お殿様は話が通じてうれしいらしく、私の両手を包み込んでぶんぶんと振り回した。
こっちはちょっと引きつっちゃったわよ。確かにおかしいけど、家臣にそこまでやられてるとなると、ちょっと情けないような気もする。
お殿様は、なおも一生懸命に語るわ。
「奉公人を抱えるのに、その請け人から質を取るなど、官僚の腐敗は著しい。家中の風儀はかように乱れておる。問題を目にするたび、ああ、わしが変えねばならぬと思うんだ。わしがやらねば誰がやるんだ、とな」
この人はただでさえ早口よ。ついていく方は大変だなあって、私は内心嘆息する。
「わしはな、お楽。かの有徳院様のように、ご改革をしたいと思うておるのだ」
ユウトクイン様? それって誰だっけ。
「この旧態依然の地を、わしがきっと変えてみせる。しからばわしは必ずや民衆に慕われ、名君として後の世に語り継がれよう」
自分の言葉に満足したのか、お殿様はニコニコしてる。
私の方は、もう一度うなずきかけて絶句した。
名君になりたい、ですって?
そこでやっと行き着いたわ。有徳院様ってたぶん、享保のご改革を成し遂げた八代将軍、徳川吉宗公のことよ。あんな風になりたいって、この人は言ってるのよ。
私は改めて、目の前のわが主君を眺めたわ。
育ちの良いお坊ちゃん。自分の無力を思い知らされたことのないこの無邪気さ。たぶん、適切に導いてあげるような側近もいないのよ。
私にはおぼろげながら、才気走ってるけど地に足がついていないこの人の姿が見えてる。危なっかしくて、思わず大丈夫ですかって駆け寄りたくなるような感じよ。
「考えてみたら、一番失うものがないのはこのわしなのじゃ。それに、志を同じくする者は家中にきっとおるゆえのう」
なおも熱っぽく語るお殿様の横顔を、私は改めて見つめたわ。
この人の中にある激しい義憤。それが不思議だった。
私は貧しく虐げられた者だけがこういう感情を有するものかと思ってたの。だけど身分の高いお方も同じ感覚を持ってる。
強く感じたのは、この人もまた弱者の一人なのであって、なおかつ他の弱者に配慮するだけの優しさを持ってるってこと。
この人は、不安定で世間知らずかもしれない。だけど厚い壁を突き崩して改革の先頭に立つ覚悟はあるのよ。自分が傷つくことを恐れてないのよ。
その勢いは、小さな欠点など吹き飛ばしてしまうかもしれない。
阿波の国は、こういうお殿様を欲していたんじゃないかしら?
この人の改革、成功して欲しいなって思った。そして支える者が本当にいないなら、私がやろうって、この時に思ったのよね。