第18話 そなたも読め

文字数 1,682文字

 もどかしいったらないわ。
 お殿様はこれまでもさんざん身の危険を感じていながら、何の手も打たずに生きてきたみたいなの。

 あんまり能天気なのも、困っちゃうわよね。事実、暗殺計画はあったわけだし、今まで大丈夫だったからといってこの先もそうである保証はない。あの山田家老は私がいつまでも動かないことに気付くだろうし、きせも徳島城から追いやられたことを知ったら、きっと次の手を打ってくるわ。

 私は奥御殿にいる間のお殿様しかお守りできないのだけれど、常にお側を離れないことにした。出される物はすべて、湯茶のたぐいに至るまで本人の目の前でお毒見をしたわ。

 だけどお殿様ったら信じがたいほど呑気で、そんな私をお笑いになるのよ。
「そんな事をしても、何も変わらんぞ。人間、死ぬときは死ぬんだ」
 文机の上で頬杖をついて、ふわあっと欠伸をして。もう少し危機感を持って欲しいのに、こっちがやきもきしちゃうわよ。

 だけど私にとって良かったのは、きせがそれほど間を置かずに徳島城に戻ってきたこと。
 何だか知らないけど、うまいことやったわね。私の方も、うるさい御目付役ではあるんだけど、このおばさんがいてくれるだけで安心感があった。
 しかも彼女、雑用をこなしながら、さりげなく告げてきたの。
「……伊賀組は、お殿様にお味方致しまする」
 
 私は唾を飲み込んだ。
「それ、ほんと?」
 他の女たちに聞かれないよう、私もなるべく自然にささやき返した。

 本当ならもちろんうれしいけど、私はまだ疑いを捨てきれなかったわ。
 だって大きな方針転換だもの、そんなに簡単にいくわけないと思ってた。この女、自分をお城に戻してもらいたいがために嘘をついたんじゃないかしら?
 私はきせに顔を近づけ、まなじりを吊り上げた。
「二度までお殿様を裏切ったら、あたし今度こそ許さないわよ」

「しっ。お声が高うございます」
 きせもまた稲妻が走ったような目を私に返してくる。
「組頭は、まだ様子を見ようと仰っております。ですがご家老衆にも敵は多く、しかるに理はお殿様の方にございます」

 要するに伊賀組は、お殿様の大逆転がありうると考えてるんですって。もちろん今は圧倒的にご家老衆の方が強いから、とても旗幟鮮明にはできないけれど。
 とにかく伊賀組がこちらに付いてくれただけで、私としては大きな安堵を得たわ。

 そんな風にして、表向きは何も変わらない日々が続いた。山田家老は離反しつつある伊賀組について、まだ気づいていないんじゃないかしら。

 お殿様は、夜遅くなる時は中奥でお休みになるけれど、奥御殿にいらっしゃる時も同じ。私を抱いた後だって、それまでと同じ生活を貫いたわ。
 高貴な人ってこうなのかしら。だらしない姿なんて見せないのよね。そりゃもう、勤勉を絵に描いたような暮らし方だった。

 まずは毎朝暗いうちに起床され、お庭で水垢離(みずごり)をなさるの。私は寝ぼけ眼のまま、必死に付いて行く。冷たい水しぶきが私にもかかって、ようやく目が覚めるって感じよ。

 そしてお殿様は、武道場に向かわれる。そこでは小姓に手伝わせ、槍術のお稽古をなさっているそうよ。
 裂帛(れっぱく)の気合の声が、ここまで聞こえてくるわ。

 一通り汗を流した後は、また奥御殿にお戻りになって朝食を取られるから、私はその給仕をする。お殿様はささっと召し上がった後、
「では、行って参る」
 すぐに立ち上がり、表御殿に向かわれる。そこで政務を見られるの。

 だけどお昼過ぎには、また奥御殿に戻ってこられて、今度は膨大な量の書物に目を通す。私がその横でぼうっとしてたら、お殿様に叱られたわ。
「読書は大切じゃ、お楽。貸してやるゆえ、そなたも読め」
 はい、と笑顔で答えておいたけど、そんな難しそうな漢籍、私に読めるわけないじゃない。私はこうして、お殿様のきれいな横顔を見つめてるだけでいいのにな。

 そんなこんなで、平穏な暮らしが続いたわ。いつまでこれがもつのか、私には分からなかったけど。
 でもこうしてお側に置いて頂いて、身の回りのお世話をさせてもらえる日々は幸せだった。これまで経験したことのない、充実した日々だったわ。

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