第39話 理想の妊娠
文字数 2,234文字
お殿様の肩の上で、ぎゅっと目を閉じる。
「わたくしも参勤にご一緒できたらいいのに」
どうやって私をなだめたものか、困ってるんでしょうね。お殿様はため息まじりに頭を掻いて、わざとらしく首を振ったわ。
「旅は、とにかくきつい。それに江戸の暮らしって最低だぞ」
思い出し笑いをしながら、お殿様は付け加えた。
「向こうはとにかく狭くてさ。先ごろようやく許可が下りて屋敷を増築したが、それでもまだ狭い。知ってるか。大勢が詰め込まれて生活してると、何か人間関係までがギスギスしてくるんだぜ?」
「そんなに狭いのですか? 蜂須賀家の江戸屋敷が?」
大げさに言ってるんじゃないかとは思ったけれど、お殿様はほっとしたようにうなずいたわ。
「ま、一年後にはまた会えるゆえ、そう悲しむな」
一年なんて長すぎる、と思う。だけど確かに、私が江戸へ行ったところで楽しくなんかないでしょうね。ここで待ってるしかないのよ。
私は不本意ながらも小さく頷いた。
「そのときは、お殿様に元気な子をお見せできますように」
「えっ」
お殿様は驚いて、私の顔を覗き込んできたわ。
「……できたのか。お楽」
私はまだうなずくことができなかった。
だって、母親になるっていう実感が沸かないんだもん。もちろん、何やら吐き気がして落ち着かない感じだし、奥医師に診てもらって、間違いありません、おめでとうございますって言われたところだけど。
返事をしないわけにはいかなかった。仕方なく、私は嘆息を漏らす。
「ちゃんと産めるのか、自信がありませぬ」
「馬鹿を申すな。何で早くそれを言わぬのだ」
お殿様はうれしそうに笑い、私の手を握り締めてきた。
「これで次の帰国の楽しみが増えた。次はお楽と、赤ん坊に迎えてもらえるわけだな」
その楽しみは江戸にもあるんでしょう? 若君様がお生まれになったんだもの。
とは言えなかった。これ以上、お殿様を困らせてどうするのよ。
まったく、参勤交代なんていうひどい制度を考え出したのは誰なのかしらね。怒りと悲しみで私は押しつぶされそうよ。
伊賀組の組屋敷で暮らしていた頃、近所の女の子が、父親に江戸土産として買ってきてもらった簪 を自慢してたことがある。
当時の私は、自分にはどうせ縁のない話だと思って聞いてたわ。
「素敵ね」
とだけ言ったものの、正直その簪なんてどうでも良かった。それより彼女に家族がいること自体が妬ましかったし、また参勤に随行する家には独特の華やいだ雰囲気があって、それが私には目を向けられないほどまぶしかった。
でも、当時の私には分かってなかったことが一つだけある。
そうした家には、楽しさ以上に不安と切なさがつきまとっていたはずよ。その父親が旅立つ時、家族はそのたびに、これが今生の別れになるかもしれないっていう覚悟を強いられていたはずよ。
私、お殿様がいない孤独の中で、お産をしなくちゃならないんだなって改めて思う。
それは途方もなく大変なことのように思えるけど、考えてみれば江戸のお姫様がすでになしえたことよ。できない、なんて絶対に言えなかった。
「……となると、お楽の身が心配だな」
お殿様がふいに深刻な表情を見せる。
「わしの子を産むとなれば、誰のどんな思惑に翻弄されるか分からん。伊賀組にはお楽を守るよう、よくよく申し付けておこう」
それから、とお殿様は部屋の中を見回して付け加える。
「佐山にも護衛をさせよう。大丈夫、あいつにも、お楽のことを頼んでおくからな」
「そ、それはご容赦下さりませ」
冗談じゃなかったわ。私は激しく首を振った。
「お殿様がいらっしゃらないのに、男の人が奥御殿に出入りするなんて駄目です。妙な噂が立たぬとも限りませぬ」
だけどお殿様も譲らなかった。
「何も言わせなきゃよいのだ。それに、必ず奥女中か茶坊主に同席させよう。人前で会う分にはおかしなことにはなるまいし、今さら騒ぎ立てる者もおるまい」
「いりませぬ。自分の身は自分で守りまする」
「懐妊中の身では、思うように動けんぞ。それからお楽付きの侍女は全員、伊賀者で固めるが良い。佐山はその辺りの事情も存じておるゆえ、都合が良いであろう」
そこまで言われると、反論のしようもなかったわ。確かにお殿様の周囲には、悪意が渦巻いてる。
「良いか、お楽。食べ物、飲み物はすべて他の者に毒見をさせた上で取るのじゃ。お楽のためではない。赤ん坊のためじゃ。絶対にやれ」
お殿様は真剣な目で、私の両肩をつかんできた。
「佐山にはしかと申しつけておく。わしは阿波を離れねばならぬゆえ、これがせめてもの気持ちなのじゃ。分かってくれ」
お殿様と過ごす最後の夜を惜しむように、外では一晩中、しとしとと春の雨音がしてたわ。
いろいろ考えたわ。参勤は必ずしも悪いものじゃないのかもしれないって。
どうせ私、懐妊中と出産直後は、お褥 に上がることもできないんだもの。面倒だったり見苦しかったりする部分はぜーんぶ、お殿様の留守中に済ませてしまえばいいのよ。
そうよ。最も望ましいのは、出府 の直前に妊娠がわかって、そのおおよそ八月後に出産をすること。そして生後四か月ぐらいの、赤ん坊が一番かわいらしい時期に初お目見えすることじゃないかしら。
そう考えれば、今回の妊娠は理想的かもしれなかった。
よくやったわ、と私は腹をさすってその子に訴える。ついでにあなた、お殿様を満足させるような生まれ方をしなさいよね。
それでようやく納得し、私は満足して眠りについたの。
「わたくしも参勤にご一緒できたらいいのに」
どうやって私をなだめたものか、困ってるんでしょうね。お殿様はため息まじりに頭を掻いて、わざとらしく首を振ったわ。
「旅は、とにかくきつい。それに江戸の暮らしって最低だぞ」
思い出し笑いをしながら、お殿様は付け加えた。
「向こうはとにかく狭くてさ。先ごろようやく許可が下りて屋敷を増築したが、それでもまだ狭い。知ってるか。大勢が詰め込まれて生活してると、何か人間関係までがギスギスしてくるんだぜ?」
「そんなに狭いのですか? 蜂須賀家の江戸屋敷が?」
大げさに言ってるんじゃないかとは思ったけれど、お殿様はほっとしたようにうなずいたわ。
「ま、一年後にはまた会えるゆえ、そう悲しむな」
一年なんて長すぎる、と思う。だけど確かに、私が江戸へ行ったところで楽しくなんかないでしょうね。ここで待ってるしかないのよ。
私は不本意ながらも小さく頷いた。
「そのときは、お殿様に元気な子をお見せできますように」
「えっ」
お殿様は驚いて、私の顔を覗き込んできたわ。
「……できたのか。お楽」
私はまだうなずくことができなかった。
だって、母親になるっていう実感が沸かないんだもん。もちろん、何やら吐き気がして落ち着かない感じだし、奥医師に診てもらって、間違いありません、おめでとうございますって言われたところだけど。
返事をしないわけにはいかなかった。仕方なく、私は嘆息を漏らす。
「ちゃんと産めるのか、自信がありませぬ」
「馬鹿を申すな。何で早くそれを言わぬのだ」
お殿様はうれしそうに笑い、私の手を握り締めてきた。
「これで次の帰国の楽しみが増えた。次はお楽と、赤ん坊に迎えてもらえるわけだな」
その楽しみは江戸にもあるんでしょう? 若君様がお生まれになったんだもの。
とは言えなかった。これ以上、お殿様を困らせてどうするのよ。
まったく、参勤交代なんていうひどい制度を考え出したのは誰なのかしらね。怒りと悲しみで私は押しつぶされそうよ。
伊賀組の組屋敷で暮らしていた頃、近所の女の子が、父親に江戸土産として買ってきてもらった
当時の私は、自分にはどうせ縁のない話だと思って聞いてたわ。
「素敵ね」
とだけ言ったものの、正直その簪なんてどうでも良かった。それより彼女に家族がいること自体が妬ましかったし、また参勤に随行する家には独特の華やいだ雰囲気があって、それが私には目を向けられないほどまぶしかった。
でも、当時の私には分かってなかったことが一つだけある。
そうした家には、楽しさ以上に不安と切なさがつきまとっていたはずよ。その父親が旅立つ時、家族はそのたびに、これが今生の別れになるかもしれないっていう覚悟を強いられていたはずよ。
私、お殿様がいない孤独の中で、お産をしなくちゃならないんだなって改めて思う。
それは途方もなく大変なことのように思えるけど、考えてみれば江戸のお姫様がすでになしえたことよ。できない、なんて絶対に言えなかった。
「……となると、お楽の身が心配だな」
お殿様がふいに深刻な表情を見せる。
「わしの子を産むとなれば、誰のどんな思惑に翻弄されるか分からん。伊賀組にはお楽を守るよう、よくよく申し付けておこう」
それから、とお殿様は部屋の中を見回して付け加える。
「佐山にも護衛をさせよう。大丈夫、あいつにも、お楽のことを頼んでおくからな」
「そ、それはご容赦下さりませ」
冗談じゃなかったわ。私は激しく首を振った。
「お殿様がいらっしゃらないのに、男の人が奥御殿に出入りするなんて駄目です。妙な噂が立たぬとも限りませぬ」
だけどお殿様も譲らなかった。
「何も言わせなきゃよいのだ。それに、必ず奥女中か茶坊主に同席させよう。人前で会う分にはおかしなことにはなるまいし、今さら騒ぎ立てる者もおるまい」
「いりませぬ。自分の身は自分で守りまする」
「懐妊中の身では、思うように動けんぞ。それからお楽付きの侍女は全員、伊賀者で固めるが良い。佐山はその辺りの事情も存じておるゆえ、都合が良いであろう」
そこまで言われると、反論のしようもなかったわ。確かにお殿様の周囲には、悪意が渦巻いてる。
「良いか、お楽。食べ物、飲み物はすべて他の者に毒見をさせた上で取るのじゃ。お楽のためではない。赤ん坊のためじゃ。絶対にやれ」
お殿様は真剣な目で、私の両肩をつかんできた。
「佐山にはしかと申しつけておく。わしは阿波を離れねばならぬゆえ、これがせめてもの気持ちなのじゃ。分かってくれ」
お殿様と過ごす最後の夜を惜しむように、外では一晩中、しとしとと春の雨音がしてたわ。
いろいろ考えたわ。参勤は必ずしも悪いものじゃないのかもしれないって。
どうせ私、懐妊中と出産直後は、お
そうよ。最も望ましいのは、
そう考えれば、今回の妊娠は理想的かもしれなかった。
よくやったわ、と私は腹をさすってその子に訴える。ついでにあなた、お殿様を満足させるような生まれ方をしなさいよね。
それでようやく納得し、私は満足して眠りについたの。