第73話 老中とバトル

文字数 3,063文字

 大事なのは、この後である。
 先ほど坊主たちの会話を盗み聞きした限りでは、松平武元(たけちか)はこの近くにいるはずだった。

 長袴が邪魔でしょうがない。ご老中様の白髪頭を必死に探しながら、おれは裾を持ち上げ、すっすっと蹴り出しながら歩き続けた。

 いない。どこにもいない。

 ちょうど目の前を廊下を、一人の茶坊主が通りかかる。
 おれは追いかけて行って、その肩をつかんだ。
「おい、ご老中は今、(たまり)の間におられるか。お目通りできるか」

 すると坊主はまず、おれの胸にある蜂須賀家の卍紋に目を向け、次いで値踏みするような視線をおれの顔にぶつけてきた。
「これはこれは、阿波守(あわのかみ)様。わたくしめのご案内でよろしゅうございますか?」

 いるともいないとも言わない。意味深な笑みを見せるだけで、何とも不敵なものだった。
 要するにこの坊主は、普段はおれとの付き合いがないから、心付けを要求しているのである。江戸城の茶坊主といえばこんなものだが、露骨なものだった。

 とはいえ、ここは引き下がって良いものではなかった。少々の出費は致し方ない。
「頼む。相すまんが、今は持ち合わせがないゆえ、明日にでも我が屋敷へ取りに来られよ」
 一応は懐を確認するふりをしてそう答えると、坊主はおれが仏像か何かでもあるように、うやうやしく両手を合わせた。
「ご丁寧にありがとうございます。これが阿波守様との新しいご縁になりますように」

 こりゃ相当にせびられそうだなと思ったが、彼らの機嫌次第で取り次いでももらえないのである。仕方がないだろう。

 幕府の中枢たる溜の間。
 ここには、さすがに活気があった。

 そっと覗き込むと、老中に若年寄の面々。当たり前だが、普通に声を出して話し合っている。しかし見たところ御用向きの話はもう済んでいて、今は雑談に興じているようだった。

 坊主が先に中へ入って行き、首座の武元(たけちか)に何か耳打ちした。
 武元はじろりと意地悪な目を畳の上へ走らせたが、そこにおれが立っているのに気付くと慌てて笑顔を作った。
「おお、阿波公、ちょうど良かった。今そこもとの話をしていたところにござる」
 おれのいない所で、徳島藩に押し付けると決まったお手伝い普請の話題で盛り上がっていたのだろう。
 
 武元はおれを招き入れ、部屋の隅に座らせようとした。
 しかしここでは他の老中や坊主たちにも話が聞こえてしまう。おれは小声で拒絶する。

「お忙しいところ恐縮ですが、ちょっと別の部屋に移動して頂けませんか」
「ここではいけませんかな」
 武元はもったいぶって言う。それも周囲に聞こえる声だった。

 ちらっと他の人々がおれに目を走らせる。確かに忙しい老中を私用で呼び出すなど、普通は許されない話だろう。

 とはいえおれの場合、この老中とは特別な付き合いをしてきた。阿波の太守であるこのおれが相手であれば、この男は邪険にはできないはずなのである。急に扱いを変えられるのは困る。
 じっと睨みつけていると、武元も仕方がないと思ったらしい。不承不承ながら、以前にもおれと密談したことのある部屋へと通してくれた。

 だがすぐに本題へと入らせてはくれなかった。武元はわざとじらすのである。
「公よ。御加減は、その後いかがですかな?」
 それを最初に聞くか? 親切なふりをして、何という狸親父だ。

 もちろん脚気は完治したわけではないし、何度も養生願を出してしまった手前、こっちは応じないわけにはいかなかった。
 恐れ入り奉ります、とおれは両手をつく。

「お陰さまでだいぶ快方に向かっておりまする」
「それはようござった。お国の藻風呂とやらは大変によろしいそうにございますな」
「……はあ」
 なぜ藻風呂のことを知っているのだろうと思ったが、言葉が出てこなかった。

 武元の方が飄々と言葉を継ぐ。
「風呂は良いものです。それがしも在国中は伊香保へ湯治に行くのが楽しみでござってな。何せこの通り、もう年ですから」
 武元はははっと笑い、両袖を振って見せたが、おれの方は相槌すら打てなかった。

 だがいつまでも関係のない話題に興じていられるほど、老中は暇ではない。結局、武元の方が真顔に戻っておれを促した。

「で、話とは?」
「はい、あの」
 おれは慌てて居住まいを正した。が、武元がすぐに言う。
「川普請の件にござろう」

 もったいぶりやがって、と思いながも、おれは素直に低頭した。
「昨日は我が家中に温かいお言葉を頂戴し、恐悦至極に存じ上げ奉ります」
「まさか、公方様の思し召しをお断り申し上げる気ではなかろうな」
 もう決まったことのように言う武元に、おれは頭を下げたままむっとした。てめえ、あくまで打診と言ったじゃねえか!

「いや、それが、その……」
 身を起こしたおれは、ひきつったまま笑顔を作る。
「阿波の国も河川が多く、例年の水害に悩まされております。しかし、情けないながら技術者がおりませんで、なかなか治水はままなりませぬ。御公儀のお手伝いは光栄ですが、とてもとても、我らには力不足かと存じます」

「ほう。蜂須賀家にはできぬ、と仰いますかな?」
 武元の口調は、ほとんど拒絶に他ならなかった。
「阿波公は淡路島に立派な港を造られたではありませんか。ご家中や抱えの職人に、優秀な技術者がおられるのでしょう。いやはや、うらやましゅうござる」

 え、と声が出そうになった。
 誰にも港の自慢などしたことはないし、幕閣を招いて現地を見せたわけでもない。

 もちろん、幕府も大名も当たり前のように各地に密偵を放っている。おれだって隣国の土佐や讃岐には伊賀者をやって、あれこれ調査をさせている。互いにやり合っているのは半ば公然の秘密である。
 しかし今、武元はそれを堂々と口にしていた。要するにおれのことなど怖くはない、ということだ。

 それに由良港のことも、だ。完成して大船を誘致できたのは良かったが、初期投資があまりに多額だったため、回収には時間がかかりそうだ。
 徳島藩の借金は、余計に増えてしまった。
 これ以上商人に頭を下げようにも、下げる先がない。とにかく金がない、の一言に尽きるのである。

 以前の武元なら、おれの言い分に耳を傾けるぐらいのことはしてくれたものだ。
 消え入りそうになりながら、おれは相手にすがりつこうと試みる。
「お褒めの言葉、痛み入りまする。ですが、恥ずかしながら、技術面ではなく資金面でその……」
「蔵があんなに立ち並んで、藍商人たちの豪勢さは目を見張るばかりですな。それに阿波公は立派な御殿をお(こしら)えになって、大変羽振りがよろしいように見受けられるが」
 ぎくりとした。やはり原因はそこ、というか、全部ではないか。
「め、滅相もございません。当家の屋敷はいずれも質素なつくりにて」

 必死に言い訳をしつつも、このころには完全に血の気を失っていた。
 もう断れないのだ。もう話し合いの余地はないのだ。徳島藩との旧交に免じて、早めに知らせてくれたのがせめてもの温情というところだったのだろう。

 武元は老中首座であるとはいえ、大名としてはたった五万石の館林城主である。こっちは阿波と淡路合わせて二十五万国。心のどこかで優越感を持っていなかったかと問われれば、否定し切れない。
 それが甘かったのか。そんなだから、この男にそんなことを言われねばならない身となってしまったのか。

 武元はおれに勝ったとみると、少しは気が和らいだのか、ようやくいつもの親切そうな口調に戻って述べた。
「まあ、普請の九割がたは、すでに薩摩がやったのです。阿波公には残りの片付けをお願いするのみにて、そうご心配なさらず」

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