第13話 江戸から来た男

文字数 1,613文字

 これって、たぶん江戸言葉よ。建部にも前に言われたの。阿波の人間にとって、お殿様の言葉は理解しにくい。要注意だって。
 そりゃそうよね。主君の発言を家来が聞き返すなんて、まず許されない。

 だけど今日のお殿様は、単に愚痴を吐きたいようだった。
 それを聞くぐらいなら、きっと私にもできるわよね。うかつにはい、なんて返事はできないけれど、私は小さく目でうなずいておいた。

「わしは望まれてやってきた。三顧の礼ってやつじゃ。ぜひとも来て下さい、お願いしますって、繰り返し頼まれ、頭を下げられた。それでこの家に入ったのじゃ」
 はあっとお殿様は嘆息し、小さく首を振った。

「それなのにどうじゃ。家臣どもはわしを馬鹿にして誰も相手にせぬ。わしが阿波弁を解さぬのを良いことに、わざときつい方言でやりとりするのじゃ。でえー、とかしょー、とかいう、あの独特の言い方でさ」

 あら。ますます雲行きが怪しくなってきたわ。
 どんな反応を見せるのが正解なのか分からなくて、私はかすかに首を動かすだけにとどめておいた。

「ちきしょう。あいつら、すっげえムカつく」
 苦し気に、お殿様は頭を掻きむしる。
「御前評定と称して集まっても、わしはいまだに皆が何を話しておるのか分からんのじゃ。頼むから江戸の言葉で話してくれと申したら、阿波の殿様が阿波の言葉を解さぬとは話になりませんな、だってさ」

 そうなんだ、と私はわずかに目を見開いた。
 家臣が主君の失態を引き出し、あざ笑う。ほとんどいじめじゃない。そんなことって本当にあるの?
「わしが途中で話をさえぎって質問をすれば、露骨に嫌な顔をされる。いや、無視されることもある。評定への同席無用と言われたこともあるんだぞ。決定事項を後で報告するから、殿は花押(かおう)だけ入れてくれれば良いと申してな」

 がちゃん、と音をたてて、お殿様は酒器を膳に置いたわ。
「まったく主君など、お飾りに過ぎぬというわけだよな。そんなに物言わぬ人形が好きなら、本当に人形を飾っておればよいのだ」

 重臣会議の場に人形がちんまりと座ってる。
 そんな場面を想像して、私はぷっと小さく噴き出した。

 だけどその時よ。お殿様がさっと私を指さしてきたの。
「あ、笑った! 初めて笑ったな」
 まさにしてやったり、という感じ。うれしそうに満面の笑みをたたえてたわ。

 私は息を呑み、袖で口元を覆ったまま固まった。
 表情には気を付けてたの。これまでも常に微笑を保つように心がけてきたのよ。こんなに簡単に警戒を破られてしまうなんて、伊賀者として失格だった。

 このお殿様は、作り笑いと本物の笑いをちゃんと見分けてるようだった。もしかしたら、簡単に嘘が通る相手ではないのかもしれない。だとしたらこの先、一筋縄ではいかないかもしれない。

 お殿様は挑むように、私の顔を覗き込んできた。
「そちは阿波で生まれ育ったのか?」
 はい、と私は小声で答えながら目を伏せる。

 こうなってくると、視線を合わせられなかった。
 お殿様は、私が伊賀者だとご承知の上で、私をお召しになったのよね。だったら私の父親のことも知ってるかもしれない。この私が刺客であることも、その眼力で見抜いてしまうんじゃないかしら。

 だけどお殿様は、予想に反する行動に出た。おもむろにご自分の顔を指差し、こう言うの。
「みんな、わしが白い顔をしておるのは雪国秋田の出身だからだと思っておるらしいが、実は違うんだ。わしは江戸の下町、浅草という所で生まれ育った。この顔は、生まれつきじゃ」

 私は呆然とその顔を見返したわ。
 あっけらかんとは、きっとこのことね。隠すものなんて何もないとでも言うように、この人はただニコニコしてるのよ。
「ほとんど江戸の町しか知らぬのじゃ。それゆえ、阿波のことをいろいろ教えてもらいたい」

 そんなことを言われても、と私は視線を泳がせる。
 困るわよ。私だってこの国を語るほどのものを持ってない。伊賀者はよそ者の集団なんだから。

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