第77話 押込め?

文字数 3,151文字

 押込(おしこ)め。その言葉を自分で口にしておきながら、私はさっと青ざめた。
 この徳島藩の誰かが、そんな暴力的な手段に訴え出るなんて信じられないけど、絶対にないとまでは言い切れない。

 このところ、お殿様の評判はとても悪かったの。
 お手伝い普請のことがあって、家中にはそんな厄災を呼び寄せる藩主なんて迷惑千万。もう我慢ならぬという声が上がってるようだった。
 かつての山田織部と同じよ。引きずり降ろそうとする輩が出てきてもおかしくはなかった。

 普通なら、家来たちから何を言われようと、黙殺してやればいい。
 私はずっと前から評判の悪い女だったからそう思うの。素性が卑しいこともあって、殿を意のままに操ってるっていう誤解があるんでしょうね。「へびをんな、死ね」みたいな投げ文があったのも一度や二度じゃない。
 あんなの、相手にする必要なし。勝手に言わせておけばいいじゃない。

 とは思うけれど、それが暴力まがいの実害に結びついてしまうなら放置しておけなかった。

「ねえ、きせ。表の人間に片っ端から聞いてみて。ここ数日、殿のお姿をお見かけした者がいるかどうか」
 きせはまだ疑ってかかっていたようで、眠たそうな顔を私に向けたけれど、やがて小さくうなずいたわ。
「心得ました」
 伊賀組の男たち数人が中間として城中で働いているから、彼らをやって調べさせるとのことだった。
 
 刻はかからなかった。間もなく伊賀組の男数人が、直接奥御殿の庭までやってきたわ。私が入側に出ていくと、彼らは手をついて報告を上げてきた。

「……ご帰国の便は、十日前に到着された(よし)
 そうよね、と私はうなずいた。あの日はお城中が大騒ぎだったもの。間違うはずがない。

 報告は淡々と続く。
「その日、お殿様に同道し、表御殿の中まで付き添った藩士の方々が数名おられます。茶坊主たちも、それを目撃しております」
 つまりお殿様がこのお城へ入ったのは確か。
 だけどその後、お殿様に会ったという人物は一人も見つけられなかったそうなの。
「今はどなたにも、面会を許してはおられませぬ」
 お殿様は体調不良を理由に、中奥の座敷に引きこもってる。近習ですら中に入れないんですって。

 中に入れない、と私は入側に立ったまま、つぶやくように繰り返したわ。

「……では、殿のお部屋の前に立って、人を通さぬようにしているのは誰なのです?」
 すると一番端にいた若者が、いかにも伊賀者らしい鋭い視線を投げかけてきた。
「中根玄之丞どのと、その一党のようにございます」
 
 やっぱりあいつか。
 稲田九郎兵衛の護衛をしていた大男だわ。稲田を動かしてくれた男だけど、その後はどうしているのか気にしたこともなかった。

「中根どのは、上意によるものだと主張しておられ、誰も寄せ付けませぬ」
 伊賀者の一人は医師に扮して強硬に立ち入ろうとしたけれど、中根たちに突き飛ばされるようにしてその場を追い出されたんですって。

「どうやら押込めは、間違いないようでございますね」
 きせがため息まじりに言った。

 思い起こしてみると、自ら江戸へ足を運んだこともある稲田は、私とお殿様の前でしきりに千松丸君のことを褒めてたの。
「少々大人しい御子にございますが、学問には熱心で、お世継ぎにふさわしい利発さかと存じます」

 もちろんお殿様は満足気に聞いてたわ。だっていまだに多くの者が、内匠頭(たくみのかみ)の息子、栄吉君のことをちやほやしてるんだもの。私だってその時は、稲田がお殿様への忠誠を改めて誓ったんだという風に捉えたわ。

 だけど今思えば。
 私は自分の手を見て打ち震えた。
 あれは、早く家督相続をさせたいと言っているようにも取れるじゃないの。どうしてこのことにもっと早く気付かなかったのかしら。

 ぎゅっと力を入れて、私は手を握る。
「何という恐ろしい男かしら。稲田はいかにも忠臣という顔をして、お殿様を隠居に追い込む機会を狙ってたのよ」
 きせも伊賀組の男たちも、否定はしなかった。
「あいつ、千松丸君を擁して、自分の独裁を立ち上げるつもりなんだわ」

 お殿様は目端の利く方だから、稲田という男が一つの大きな陥穽であることに、いち早く気付いたかもしれない。それでも病で弱り果て、旅で疲れ果てたそのときを襲われたとしたら、太刀打ちできなくて当然だった。

「お殿様は暗い部屋に閉じ込められて、縛られてるかもしれない」
 そうよ、救出を待って、私の名を呼んでるかもしれない。今この瞬間も、戸板の間から漏れる薄明りをうらめしく見ているかもしれないのよ。

 じっと考え込んでいたきせだったけど、身を乗り出してきた。
「であれば、稲田は幕閣へ隠居願を出そうとしておるやも……こうしてはおれませぬ」
「どうしたらいいの」
 私の戸惑いに答える暇もなく、きせは夜叉のような顔つきになって述べた。
「断じて、稲田の配下の者を江戸へ行かせてはなりませぬ」
 
 稲田の遣わした者が、無断でお殿様の隠居願いを提出してしまう。きせが危惧しているのはそれだった。
「最近、手形の交付を受けた者がおるはず」
 きせは、外でひれ伏す伊賀者に向かって道の方を指差し、怒鳴りつけた。
「ただちに後を終え! 逃がすでないぞ!」
 伊賀者たちははじかれたように走り去り、残された一陣の風が私たちの髪を撫であげるほどだったわ。

 もちろん江戸には、樋口内蔵助や佐山市十郎がいる。稲田が表立って動けば必ず彼らの目に留まり、あいつの野望は打ち砕かれるはずよ。

 だけど稲田のことだもの。何か行動に出るなら周到に準備を重ねて決行に踏み切るでしょう。あの爺さんなら主君派に気づかれないように、事を進められると思う。
 こちらとしてはもう打つ手が残されているかどうかも分からなかった。今さら伊賀者に追わせたところで、間に合わないかもしれない。

「お殿様が他出なさったという話は聞いておりません。城内のどこかに閉じ込められているでしょう」
 きせはそう言いながら、自らも外出用の頭巾を額に巻く。
「ですが、わたくしどもだけでは救出は無理にございます。林家老を呼んで参りますゆえ、お方様はここでお待ちを」

 私はまたも拳を握りしめた。
 ああ、私のバカ。昨日、林建部はここへ来たんだから、引き留めておくべきだった。引き留めて、今すぐお殿様を探し出すよう頼むべきだったのよ。
 佐山市十郎は徳島にいないし、城中にいる味方の人数がとにかく少なかった。もちろん、こちらの留守を見計らって稲田は動いたのかもしれないけれど。

 きせを見送った後、私はふと思い出して手を叩き、別の侍女を呼んだ。
「柏木忠兵衛どのを呼んで来て。登城していなければ、鉄砲組の組屋敷にいらっしゃるはずよ」
 主君派の、末端でもいい。せめて誰か一人でも残っていないかと思ったの。

 だけどその期待を裏切るように、侍女はうつろな顔で戻って来たわ。
「いらっしゃいませんでした」
 この侍女もまた伊賀者だった。気を利かせて、同じ組屋敷内の他の家も回ってみたそうよ。
「どなたかの家に集まっているかと考えたのですが、どの家にも女子供と、お年寄りしか見当たりませんでした。行き先を聞いても、誰も知らぬと」

 柏木殿一人にとどまらず、鉄砲組の全員が見当たらないってどういうこと?

 私は必死に考えた。
 鉄砲組は稲田が押さえてしまったと見るべきかもしれない。稲田は武力をちらつかせるやり方を知ってる。長谷川、賀嶋を追い落としたあの時の手腕は見事だったもの。
 動き出すのが遅かった。こちらは完全に後手に回ってしまったわ。

 私は部屋の奥で一人座り、じりじりときせの帰りを待った。
 この情勢下、大谷御殿のことなんか気にしている場合じゃなかったのよ。馬鹿で呑気な自分に愛想が尽きそうだわ。

 ごろごろと遠くで雷鳴がとどろいたのは、その時だった。

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