第52話 稲田に賭ける

文字数 2,546文字

 今日もお殿様に呼ばれなかった。

 私は落ち着きなく煙を吐き出しては、煙管(きせる)雁首(がんくび)を盆の縁にかつんと打ち付ける。

 どうしてこんなにも、人が変わってしまったの?
 今のお殿様は、野獣そのものよ。以前はおどおどしていた目が、今はしっかりと据わり、命令の声には傲慢さが満ちてる。怖くて、誰も逆らえなくなってる。

 たぶん、これは心の問題よ。
 織部の粛清を終えた頃から、お殿様のお酒の量は目に見えて増えていった。そして身近な女中は片っ端からその餌食となっていったわ。
 今じゃ、お殿様が奥御殿に現れると、女たちはみんな青ざめてうつむいてる。当然よね。今日は誰にしようって品定めしているのが分かるんだもの。

 もちろん私、自制を求めて何度もすがりついたわ。だけどお殿様はうんざりした顔をするだけ。何も聞いてくれないどころか、むしろ私は遠ざけられた。

 心配だわ。昨年なんか、江戸のお殿様の体調が思わしくないって噂を耳にしたの。
 私は矢も(たて)もたまらず、江戸へ何度も手紙を出したわ。

 だけどそのお返事は一度もなかった。
 (つて)姫様は、何をしていらっしゃるのかしら? ご自分のお立場を分かってらっしゃるのかしら。江戸ではご正室のあなたが、お殿様のことをお支え申し上げなくちゃいけないでしょうに。

 やれやれだわ。ご帰国の後も、お殿様が良くなられたようには見えないし、むしろ道中で無理をなさって、ご病状は悪くなっていく一方という感じがする。

 長煙管をくわえたまま、私は灰の熾火(おきび)を見つめ続ける。
 分かってる。正妻一人で満足していたお殿様を変えてしまったのは、この私よ。一生眠ったままだったかもしれない野獣の感性を、私はわざわざ呼び覚ましてしまった。
 ここにいるのは名君どころか、誰の手にも負えないただの暴君よ。阿波の国は余計に混乱するばかりだわ。

 だけどね、私、こんなのは一時的なものだという気もしているの。だってあんなに誠実だった人だもの。きっとお殿様は、かつて私と味わった高揚感を求めてさまよっているだけなのよ。

 物思いにふけっていたら、襖がそっと開けられた。
 きせが私に目配せをしてくる。
「おいでになりましたが……」
 やっと来たわね。
 私は腰を上げた。ぐずぐず悩んでいる暇はない。やり方を変えるのよ。

 徳島城には、茶人、上田宗箇(そうこ)の手による桃山様式の庭園がある。
 私はその中に進み出た。雨上がりの水滴を乗せた紫陽花(あじさい)が咲き誇り、またそれが鏡のように池の水面に映り込んでいる。

 私は花と濃淡をなすような紫色の薄絹を腰巻にしてるから、庭の風景に溶け込んでるかもしれない。そのまま目立たぬよう、橋の(たもと)に控えてたわ。
 一行は池に架けられた朱塗りの橋を渡り、こちらへ向かってくる。案内役として人々を先導している林建部と目が合い、軽くうなずき合ったわ。

 人々が橋を渡り終えようとしたところで、私はすっと彼らの正面に出た。
 その途端、浅葱(あさぎ)色の(かみしも)に身を包んだ老人が、ぎょっとしたように足を止めた。この人物が稲田(いなだ)九郎兵衛(くろべえ)よ。
 だけど失礼ね。私のこと、化け物か何かだと思ったのかしら?

 もちろんそんなことはおくびにも出さず、私は満面の笑みで、橋から降りようとする老人に手を差し伸べた。
「まあ、稲田様。ようこそ徳島へ」
 
 細面で神経質そうに見えるけど、このお方は淡路の洲本からやってきた徳島藩の城代家老よ。代々洲本(すもと)仕置(しおき)を任されている稲田家は、御家中でも別格なの。
 ある意味、阿波の座席衆よりも重い存在よ。私たちの派閥に入ってもらうのに、これ以上の人はいないでしょ?

 だけどその途端、稲田の斜め後ろに控えていた護衛の男が、すっと間に入ってきた。
「これ、何だ、おぬしは」
 私の無礼を咎めるのは、背の高い、魁偉な容貌の男だったわ。さすがは稲田、自分の護衛には屈強な男を選び抜いてるようね。

 私は柔らかく笑って受け流した。
「怪しい者じゃございませんことよ。ちょっと稲田様とお話ししたいことが」
 男は私の相手などする気もないらしく、冷淡に手で追い払うような仕草をした。
「ダメダメ。うちの殿はお忙しいのだ。あっちへ行け」
 自分の主人を守る以外に、何の興味もないようだったわ。

 だけど、私がその男の袖を引くのと、建部が稲田を宿所へうまく誘導するのとが同時だった。

「じゃ、あなたでいいわ。私の話、聞いて下さらない?」
 私は男の手を両手にはさみ込む。
 抗いがたい何かに押し流され、男の目が開かれる。息を呑む音まで聞こえるようだった。

 ここまで来れば、あとはとどめを刺すのみよ。建部がさっさと稲田を連れていくのを視界の端で捉えつつ、私は顎を持ち上げ、魔の首筋を目の前の男に見せた。
 でもそこまでよ。あなたにはぼんやりした期待を抱いてもらえばいいの。

 その男、中根(なかね)玄之丞(げんのじょう)は、私たちの手に落ちたわ。

 四半刻後、私と中根は庭の東屋にいた。今、すっかり私に気を許した中根は、徳島の家中に対する怒りをぶちまけてるわ。
「先ほどは長谷川家老に、けんもほろろな扱いを受けた。いやはや、淡路の家中が見下されるのは今に始まったことではないが、これほどとは思い致さなんだ」

「んまあ、ひどいこと!」
 私は中根に合わせて憤慨してみせる。
「稲田様が、おん自らお出ましになったのに。長谷川家老ったら非常識だわ」
 そして、すかさず付け加える。
「心配いりませんわ。ちゃーんと、わたくしからお殿様にお話し申し上げておきますからね」
 中根は目を見開いて、私の顔に見入る。

 あれからこの国では、長谷川越前が新たな仕置家老となった。それこそ領内の立札、城内をめぐる文書のすべての署名が、山田織部から長谷川越前にすり代わったわ。

 だけど、それで何が変わったっていうの? お殿様は相変わらず軽くあしらわれていて影が薄いし、主君派の数が増えない状況はちっとも変わらない。それに長谷川も賀嶋も山田織部と違って慎重なようで、簡単に尻尾を出さないのよね。

「阿波が駄目なら淡路に賭けよう」
 と言い出したのは林建部だった。

 確かに、なかなかおもしろい目の付けどころだったわ。稲田の爺さんは普段阿波にいない分、ともすれば忘れ去られてる。だけどその家格と由緒たるや申し分ないもの。主君派の先頭に立って一同を率いるに値する人物だった。 

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