第33話 よくも言ってくれたな
文字数 1,775文字
そのとき、中老の列の真ん中あたりにいる林建部が、わずかに顔を上げた。
その悲しそうな目といったらなかった。本音を口にできぬまま、水の底に沈められた苦しさを訴えているかのようだ。
もしや、織部に脅されたか。
わずかな憐憫の情に流されかけた、まさにその時だ。おれの後ろから織部の太い声が響いたのは。
「よそ者の分際で、阿波のしきたりを変えようとなさるのは、やめにして頂きたい。我ら一同、迷惑にござる」
殺してやりたいぐらいの思いで、おれは振り返った。
「わしが迷惑か。よくも言ってくれたな、山田織部!」
怒鳴りつけた途端、賀嶋 上総 がさっと膝立ちになり、両手を上げて制してきた。
「まあまあまあまあ、殿も織部どのも、落ち着かれよ」
家中一同の手前、上層部が喧嘩などしていては示しがつかなかった。上総は事態を抑えようと必死である。
「織部どの。殿はご養子に入られた時と違い、今や良い大人ですぞ。殿もひとまず、お席に戻られませ。せっかく一同がこうして集ったのです。ここは納得の行くまで冷静に話し合いをしようではありませんか。皆もそう思うであろう? のう?」
自分の息子と池田にも呼びかけ、上総はこんなのは何でもないとでも言うように笑顔を振りまいた。
さすがに年の功というか、年長の上総がそう言えば、張り詰めたその場の空気が一気に弛緩していくようだった。
「さあさあ、殿。まずはこちらへ」
上総が執拗に手招きをする。
素直に従う気にはなれなかったが、いつまでも感情を引きずっているのも大人げないだろう。今日は話し合うために来たのだと思い直し、おれは結局上総の言に従った。
「では皆の者、その、ご新法について今一度考えてみようではないか」
いつしか織部に代わって上総が発言するようになっている。この二人、悪者っぷりではどっちもどっちというところだが、上総の方がやんわりとしゃべる分、まだましだろう。
おれは呼吸を整え、一同を見渡した。
「……良かろう。財源のことでも何でも、おのおの考えを申してみるが良い」
誰が発言しようと、ちゃんと話し合いが成立するなら良いのだ。こっちは反対意見にだって耳を傾ける準備がある。
しかし新たに賀嶋家老が中心となって進めたこの藩政会議、この後も建設的な意見は出なかったのである。
「困りましたな」
とか何とか言い合うばかりで、結論の出ない会議がダラダラと続いた。評定は朝から始まったのに、昼食をはさみ、日は落ち、気づけば小姓たちがたくさんの燭台を運び込み、火をともすまでになっていた。
誰かの腹がぐうと鳴った。
「では、そろそろ解散しましょうか、殿」
上総が疲れ切った表情に、いかにも作り物といった笑みを加えて言う。
「ここまで話し合えばもう十分にござる。続きは後日あらためて」
あっと声を上げそうになった。
これが狙いだったのか。こいつらはきちんと問題に向き合っているフリはするものの、最初からおれの意見など取り上げる気もなかったのだ。
そうはさせてたまるか。おれは腕組みをし、じろりと上総に目をやった。
「まだ結論が出ておらぬではないか。解散はせぬ」
すぐに座がうんざりした気分に包まれたのが分かったが、おれには譲歩する気はなかった。
「そなたら、さっきから旧格を守ることばかり申し立て、新法のあら探しをしてばかりではないか。他に考えることはないのか。それが阿波の国のために働く者の態度とは到底思えん」
上総が軽くため息をついたのが分かった。
この男、実はおれを藩主に迎えた中心人物の一人である。それゆえ、国元の重臣の中では比較的温和な態度でいてくれたのだが、今や心を閉ざしつつあるようだった。おれがあまりに頑固だからだ。
こうしてどんどん嫌われていく自分を思う。この不器用さに一因があることは分かっている。上総のような男を、もっと早い段階で味方につけなくてはならなかったのに。
だが嫌われるのを恐れていては、これまでと何も変わらぬとも思うのだ。誰より藩主たる者が、勇気を出して言わねばならぬこともあるのではないか?
おれはばん、と自分の膝を叩いた。
「これでは、ろくに話し合いになっておらんではないか。新法についても、頭から否定しようとするのではなく、どうしたら可能であるかを考えるべきだ。そういうやる気のある者は、この家中に一人もおらんのか!」
その悲しそうな目といったらなかった。本音を口にできぬまま、水の底に沈められた苦しさを訴えているかのようだ。
もしや、織部に脅されたか。
わずかな憐憫の情に流されかけた、まさにその時だ。おれの後ろから織部の太い声が響いたのは。
「よそ者の分際で、阿波のしきたりを変えようとなさるのは、やめにして頂きたい。我ら一同、迷惑にござる」
殺してやりたいぐらいの思いで、おれは振り返った。
「わしが迷惑か。よくも言ってくれたな、山田織部!」
怒鳴りつけた途端、
「まあまあまあまあ、殿も織部どのも、落ち着かれよ」
家中一同の手前、上層部が喧嘩などしていては示しがつかなかった。上総は事態を抑えようと必死である。
「織部どの。殿はご養子に入られた時と違い、今や良い大人ですぞ。殿もひとまず、お席に戻られませ。せっかく一同がこうして集ったのです。ここは納得の行くまで冷静に話し合いをしようではありませんか。皆もそう思うであろう? のう?」
自分の息子と池田にも呼びかけ、上総はこんなのは何でもないとでも言うように笑顔を振りまいた。
さすがに年の功というか、年長の上総がそう言えば、張り詰めたその場の空気が一気に弛緩していくようだった。
「さあさあ、殿。まずはこちらへ」
上総が執拗に手招きをする。
素直に従う気にはなれなかったが、いつまでも感情を引きずっているのも大人げないだろう。今日は話し合うために来たのだと思い直し、おれは結局上総の言に従った。
「では皆の者、その、ご新法について今一度考えてみようではないか」
いつしか織部に代わって上総が発言するようになっている。この二人、悪者っぷりではどっちもどっちというところだが、上総の方がやんわりとしゃべる分、まだましだろう。
おれは呼吸を整え、一同を見渡した。
「……良かろう。財源のことでも何でも、おのおの考えを申してみるが良い」
誰が発言しようと、ちゃんと話し合いが成立するなら良いのだ。こっちは反対意見にだって耳を傾ける準備がある。
しかし新たに賀嶋家老が中心となって進めたこの藩政会議、この後も建設的な意見は出なかったのである。
「困りましたな」
とか何とか言い合うばかりで、結論の出ない会議がダラダラと続いた。評定は朝から始まったのに、昼食をはさみ、日は落ち、気づけば小姓たちがたくさんの燭台を運び込み、火をともすまでになっていた。
誰かの腹がぐうと鳴った。
「では、そろそろ解散しましょうか、殿」
上総が疲れ切った表情に、いかにも作り物といった笑みを加えて言う。
「ここまで話し合えばもう十分にござる。続きは後日あらためて」
あっと声を上げそうになった。
これが狙いだったのか。こいつらはきちんと問題に向き合っているフリはするものの、最初からおれの意見など取り上げる気もなかったのだ。
そうはさせてたまるか。おれは腕組みをし、じろりと上総に目をやった。
「まだ結論が出ておらぬではないか。解散はせぬ」
すぐに座がうんざりした気分に包まれたのが分かったが、おれには譲歩する気はなかった。
「そなたら、さっきから旧格を守ることばかり申し立て、新法のあら探しをしてばかりではないか。他に考えることはないのか。それが阿波の国のために働く者の態度とは到底思えん」
上総が軽くため息をついたのが分かった。
この男、実はおれを藩主に迎えた中心人物の一人である。それゆえ、国元の重臣の中では比較的温和な態度でいてくれたのだが、今や心を閉ざしつつあるようだった。おれがあまりに頑固だからだ。
こうしてどんどん嫌われていく自分を思う。この不器用さに一因があることは分かっている。上総のような男を、もっと早い段階で味方につけなくてはならなかったのに。
だが嫌われるのを恐れていては、これまでと何も変わらぬとも思うのだ。誰より藩主たる者が、勇気を出して言わねばならぬこともあるのではないか?
おれはばん、と自分の膝を叩いた。
「これでは、ろくに話し合いになっておらんではないか。新法についても、頭から否定しようとするのではなく、どうしたら可能であるかを考えるべきだ。そういうやる気のある者は、この家中に一人もおらんのか!」