第44話 お友達がいない

文字数 2,174文字

 何だろう。
 速水は国元の御前評定のいきさつを聞き知っているだけに、不安を覚えたのだろうか? 江戸表で喧嘩などされてはかなわぬと言いたいのだろうか?

 だとしたら、その不安を取り除いてやるべきだろう。おれは努めて温和な顔を作り、うんうんとうなずいて見せた。

「大丈夫じゃ。備前と喧嘩はせぬ」
 嘘じゃない。賀嶋備前が頑なな態度を崩さぬようなら、無理強いするつもりはなかった。
「江戸で騒ぎを起こして、そちに迷惑をかけるようなことはせぬと約束しよう」

 速水はまだ口ごもっている。
「いや、しかしその……」
 おれは重ねて覚悟のほどを声にこめた。
「あの男にいかに馬鹿にされようとも、わしは構わん。今はあいつが江戸仕置じゃ。とにかく腹を割って話し合うてみよう」

 佐山の書状を元通りに畳みかけ、しかしおれは手を止めた。
 速水も他の家臣も、気まずそうに顔を見合わせるだけで立ち上がろうとしないのだ。

「何じゃ、いかがした」
「恐れながら」
 と、別の若い家臣が膝を進めてきた。速水が制止しようと片手を出したが、彼は振り切るように無視している。しかもその顔には朱が差し、ただならぬ怒りを滲ませていた。

「賀嶋様におかれましては、ただいま吉原へお出かけにございます」
「な、何……吉原?」
 仰天し、おれはあんぐりと口を開ける。視界の隅では、速水が参ったという感じで頭を抱え、こうつぶやいた。
「……あ~言っちゃった……」
 何がどうなっているのやら、訳が分からない。

 若手の藩士はここぞとばかり、おれの前に両手を付いた。
「実はここ連日、そのような次第なのでございます。あのお方に仕置役が適任であるかどうか、殿におかれましては、どうか、今一度お考えのほどを」

 ぎゅっと、おれは脇息の上で拳を握る。
 怒りを覚えたのは、若手藩士たちとまったく同じだ。きっと備前は、他の者の苦言になど耳を貸さず、さあ江戸に着いた、遊びに行こうと張り切って出かけたのだろう。

 だが喧嘩をしないと誓った手前、感情を露わにすべきではなかった。
 おれは努めて苛立ちを抑え、藩主らしい威厳をもって彼らの話をうながした。
「遠慮はいらぬ。そのほうらの知るところを話すが良い」

 速水を除いた若手の藩士たちが、さっと進み出る。そして待ってましたとばかり、口々に訴え出した。
「幕閣の接待、ということになっておるのでございます」
「接待を口実に、ご自分が豪遊なさっているのでございます」
 実際に備前の外出のほとんどは、旗本の誰かを誘い出しての食事会になっているという。だから備前の遊ぶ費用は、すべて蜂須賀家の負担である。

 その話の間も、速水は心配そうにこちらを見ていた。おれが怒りを爆発させるかどうか、この男なりにハラハラして見守っているのだろう。
 そう、怒っちゃいけないよな。目の前の人々は何も悪くないんだから。

 だがおれのそんな意志とは裏腹に、抑えに抑えた怒りの種は外ににじみ出てきてしまうものらしかった。手の中にある借入れ先商人一覧の紙が、震えてガサガサと音を立てる。
「江戸仕置が、藩費をもって遊んでおるとはの……」

 もう限界だ。がん、とおれは手のひらで脇息を叩いた。
「皆の怒りはもっともだ。備前には何か罰を与える。でなければ、真面目に働く藩士の手前、示しがつかぬであろう」

 速水が慌てて膝を進め、他の藩士たちを手で制した。
「いやいや、殿。賀嶋様に罰を与えるなどとは、穏やかではございませぬ」
「何じゃ、速水」
 速水にまで歯を剥いてしまう自分を止められなかった。
「お前まで備前の味方をする気か?」
「いえ。そういうわけではござりませぬが……」
 
 一瞬しどろもどろになった速水だったが、すぐにいつもの鋭い舌鋒を取り戻す。
「他家との交際は決して遊びではなく、何よりこの御家のためにございます。それが証拠に、賀嶋様の外出は昼間の短い時間だけ。接待を終えられたら、すぐに屋敷へお戻りになられているのでございます」

「そちにしては、苦しまぎれな、かばい方じゃな」
 おれは脇息にもたれかかって速水を睨む。
「備前がそんなに怖いか? そちには、この江戸で家中をまとめ上げてきた実績があるではないか。あんな奴に気後れすることなどないわ」

 速水ほどの老臣が、備前のような若造に遠慮する。家柄にそこまでこだわるのか。これが阿波を覆う病根ではないのか。

 速水はうなだれているが、おれは追及を再開した。
「行き先は吉原だろ? 泊まっておらねば良いというものではない。だいたい、わしは昼間の外出の許可さえ出した覚えはないぞ」

 速水は先ほどの勢いは失ったものの、まだ反論を試みる。
「……賀嶋様のお立場ともなれば、江戸表で重代のお付き合いもございますから」
「それも本来はおかしいだろ? 家臣が主君の頭越しに、他の大名旗本と交際するなんてさ」

 まさに自分こそが正論という確信が、おれにはあった。しかし速水は悲しげに首を振るのだ。

「……恐れながら、殿に申し上げます」
 その様子があまりに悲壮感に満ちていて、おれは身構えた。今度は何が出てくるのか。

 果たして、速水は述べた。
「殿には幕閣のお歴々の中に、お友達と呼べるお方がいらっしゃいますか? 恐れずに何でも相談できて、こちらの事情を汲み取ってもらい、良きように取り計らって下さるような、そういうお仲間がいらっしゃいますか?」

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